■オラたちの関ケ原 ~天下分け目の合戦VS.農民~@歴史秘話ヒストリア
出演:石井正則(アリtoキリギリス)
番組でもゆってた通り、「関ヶ原」というと、何もない広い原っぱを想像させるけれども、
そこには村があり、しかも季節は、これからたわわに実った稲穂を刈り入れようという矢先。
大河ドラマや時代劇では、勇壮に戦う様子ばかりがダイナミックに描かれるけれども、
実際は、その土地土地に住む農民たちの暮らしを一変させ、家も焼かれ、田畑を踏み潰され、
さらには妻子までさらわれる、まさに戦場、戦争とはそういうものなんだ。
関ヶ原の合戦を農民側からみた視点が興味深かった。
【内容抜粋メモ】(ネタバレ注意
この地図は、地元の有志が検地帳を元に当時の関ヶ原を調査して作成。
慶長5年当時、関ヶ原には8つの村に約2000人が住んでいた。
米だけでは足りないため、麦も育てて暮らしていた。
ある日、石田三成ら西軍が進軍し、大垣城に入る。
大垣城は、当時珍しい天守と濠をもつ城で、難攻不落と言われていた。
領主は西軍として出陣中で留守。農民らは命令されるまま無休で土地の案内、土木作業をさせられた
農民は、お金を払って禁制を出してもらった。また、兵に乱暴されぬよう女房、子どもを山奥に逃がした。
・兵農分離
村は稲の刈り入れ前。戦国時代ですら秋に合戦はあり得ないことだった。
以前は、農民は戦になると狩り出されたが、収穫期は兵役を断って農業を続けることができた。
「兵農分離」となってからは、兵士の命令に従わざるを得なくなった。
そこで、米が熟す前に稲を刈ることにする。「青田刈り」
家康は、大垣での決戦を避けて大坂へ向かうと言い出す。東軍も関ヶ原へ軍を進めた
9月15日早朝。農民らはなにかあった時に避難する裏山に逃げ、戦の様子を見守る
当時、野上村には54戸、212人ほどの村人が住んでいた。
戦闘開始。領主・竹中は西軍から東軍に寝返っていた。
家康は本陣を進めたことで、三成は総攻撃の合図ののろしを上げる。
松尾山にいた西軍の小早川秀秋が家康側に寝返ったことで西軍は敗走。
合戦の犠牲者は1万2千人といわれる。
家康は、庄屋で数人とこっそりと勝ち鬨をあげ、石を天下に見立ててペタペタ踏み、上機嫌だったというw
家康は後始末を竹中に命じ、迷惑料として米千石を渡した。
家康軍は関ヶ原を離れるも、落ち武者が怖くて多くの村人が村に戻らなかった。
全滅にされた田畑にすぐに麦を蒔かなければ、村の存亡がかかった一大事となると相談し、
家康を追って「禁制」を出すよう直談判。これは命懸けの賭けだったが家康は承諾。「自力救済」
落ち武者狩りは行われず、村人が墓を作って弔った
遺族がこっそり故郷の石を運んで作った塔
出演:石井正則(アリtoキリギリス)
番組でもゆってた通り、「関ヶ原」というと、何もない広い原っぱを想像させるけれども、
そこには村があり、しかも季節は、これからたわわに実った稲穂を刈り入れようという矢先。
大河ドラマや時代劇では、勇壮に戦う様子ばかりがダイナミックに描かれるけれども、
実際は、その土地土地に住む農民たちの暮らしを一変させ、家も焼かれ、田畑を踏み潰され、
さらには妻子までさらわれる、まさに戦場、戦争とはそういうものなんだ。
関ヶ原の合戦を農民側からみた視点が興味深かった。
【内容抜粋メモ】(ネタバレ注意
この地図は、地元の有志が検地帳を元に当時の関ヶ原を調査して作成。
慶長5年当時、関ヶ原には8つの村に約2000人が住んでいた。
米だけでは足りないため、麦も育てて暮らしていた。
ある日、石田三成ら西軍が進軍し、大垣城に入る。
大垣城は、当時珍しい天守と濠をもつ城で、難攻不落と言われていた。
領主は西軍として出陣中で留守。農民らは命令されるまま無休で土地の案内、土木作業をさせられた
農民は、お金を払って禁制を出してもらった。また、兵に乱暴されぬよう女房、子どもを山奥に逃がした。
・兵農分離
村は稲の刈り入れ前。戦国時代ですら秋に合戦はあり得ないことだった。
以前は、農民は戦になると狩り出されたが、収穫期は兵役を断って農業を続けることができた。
「兵農分離」となってからは、兵士の命令に従わざるを得なくなった。
そこで、米が熟す前に稲を刈ることにする。「青田刈り」
家康は、大垣での決戦を避けて大坂へ向かうと言い出す。東軍も関ヶ原へ軍を進めた
9月15日早朝。農民らはなにかあった時に避難する裏山に逃げ、戦の様子を見守る
当時、野上村には54戸、212人ほどの村人が住んでいた。
戦闘開始。領主・竹中は西軍から東軍に寝返っていた。
家康は本陣を進めたことで、三成は総攻撃の合図ののろしを上げる。
松尾山にいた西軍の小早川秀秋が家康側に寝返ったことで西軍は敗走。
合戦の犠牲者は1万2千人といわれる。
家康は、庄屋で数人とこっそりと勝ち鬨をあげ、石を天下に見立ててペタペタ踏み、上機嫌だったというw
家康は後始末を竹中に命じ、迷惑料として米千石を渡した。
家康軍は関ヶ原を離れるも、落ち武者が怖くて多くの村人が村に戻らなかった。
全滅にされた田畑にすぐに麦を蒔かなければ、村の存亡がかかった一大事となると相談し、
家康を追って「禁制」を出すよう直談判。これは命懸けの賭けだったが家康は承諾。「自力救済」
落ち武者狩りは行われず、村人が墓を作って弔った
遺族がこっそり故郷の石を運んで作った塔