■『蒼い炎』(扶桑社)
羽生結弦/著
ウィキを見ていた時だったか、ふと「あれ、本も出してるんだ~」と知って、思わず借りてしまいましたw
2012/04/10発行。2014年2月28日第9版。
“本書の印税はすべて、被災したアイスリンク仙台へ寄付いたします 羽生結弦”とあるので、かなり貢献しているのではと思われる。
「初の自叙伝」と銘打ってあるけど、あとづけにある通り
“本書は下記に掲載された初出原稿を元に追加取材を加え、再構成したものです。”
『日本男子フィギュアスケートファンブック Cutting Edge』
『男子フィギュアスケート~2007-2008メモリアルブック~』
『フィギュアスケート2010-2011シーズン オフィシャルガイドブック』
『フィギュアスケートファン』
『スポーツナビ ウィンタースポーツコラム』
つまり、その時々の試合の前後に語られたインタビュー記事をまとめて書籍化した感じ。
たくさんの試合、オフショット写真も入ってる。
てか、こんなにフィギュアスケート関連の雑誌やらが売られていたことを今ごろ知ってビックリ。
私がフィギュアスケートで感動した最初は、伊藤みどりさんのトリプルアクセルで、
その後はテニスばかり見ていたから、本格的にテレビ放送で応援し出したのは、真央ちゃんの活躍の影響だな。
その頃の大ちゃんが、まさにアイドル風だったのが、今は羽生くんってわけか。
なんといっても、オリンピック金メダリストだし。9版のプロフには追加されているけど、本書の取材時期は、その前。
でも、この頃からソチを目指して、「ピョンチャンで金メダルとるのが目標」ってハッキリゆってるのがスゴイ。
それを、ソチでもうとっちゃったんだもんね/驚
すごい選手だとは思っていたけど、これほど最年少記録を更新してきた天才少年だったとは知らなかった!
でも、「メダルをとって引退する」ってゆってるのが気になった
4歳から始めて、それからずぅーーーーっと突っ走り続けてるんだから、「第2の人生」も早いのは当然か。
どのスポーツも低年齢化が進んでいる。それでなくても、子どもが子どもらしくいられる時間はとても短いのに、
大人の都合で、「国の宝だ」と英才教育を受けて、友だちと自由に遊ぶ時間も一切削られ、練習、練習の日々。
その上、今では高学歴も当たり前だから、大学進学の勉強も強いられるって、考えさせられてしまった。
それにしても、この強気、もっと言えば楽天的とも言える明るさ、向上心は射手座ゆえか?
「どんな状況でも、試合は勝って、成績を残さなきゃ意味がない」と言い切り、たとえ優勝しても出来が悪ければ本気で悔しがる。
そのパワーの裏側には、本人も認める「負けず嫌い」「試合の緊張感も楽しい」「みんなに見てもらえるとヤル気が出る」っていう性格。
これは、アスリートとして絶対的な強味になっているわけだ。
震災の影響を大きく受けたことを今でも紹介されるけど、本書を読んで、
当時の恐怖感、PTSD、スケート人生の進退ほかさまざまなことを考えことも正直に語られていて、
想像を絶する状況だったことに、改めて衝撃を受けた。
【内容抜粋メモ】(ウィキを見れば、経歴やらはほぼ書いてあるけど
世界選手権で初の銅メダル獲得
17歳と3ヶ月。この若さで日本男子選手が世界選手権に出場したのは、98年の本田武史選手以来14年ぶり。
男子シングル世界最強豪国で、たった3つしかない権利をしとめたのが高校2年生。
「今年は、世界で6人しか出られないGPファイナルに進出できました」
フィギュアスケートとの出合いは1999年
4つ上の姉が短期教室に入っていて、4歳の春、ついて行ったのがきっかけ。
「お客さんがいっぱい見てくれる試合は大好きでした」
初めて作ってもらったプログラムは・・・
「ウルトラマンで作ってください!てw 大好きだったんですよ『ウルトラマンガイア』!
内容は覚えてないけど 次のプログラムからは、全部覚えています」
「6歳でダイエーカップで優勝した時、前歯がなかった。
でも先生に『笑え』って言われて笑ってる。今見ると超面白いんです!」
「その頃から、プルシェンコさんが大好きでした」
「毎日、学校からランドセルのままリンクに行って、練習して、土日も朝練があって、
試合はともかく練習が嫌で嫌で、“野球をやりたい”なんて言うようになった
父の影響でもともと大好きだったんです。どっちにしようか迷っていた時期もあった」
小学校4年で、初出場の「全日本ノービス」で金メダルをとる
2004年 ホームリンクが経営難で閉鎖
スケートを始めて6年目。通っていた仙台市のコナミスポーツクラブ泉(現アイスリンク仙台)が潰れてしまった。
ノービス優勝直後だった。
「僕は一度も国体に出たことがない。少年男子に僕しかいなくて、宮城のチームが組めないから!
その頃、嫌いだった練習が大事だって思い始めた」
2007年、トリノ五輪の盛り上がりで、営業再開。
同年、「全日本ノービス」で3年ぶりの優勝、特別出場した「全日本ジュニア選手権」で3位。
2000年の安藤美姫以来7年ぶり、男子では史上初の快挙だった。
2010年 15歳のジュニアチャンピオン
バンクーバー五輪の余韻の残る2010年、村上佳菜子とそろって、「世界ジュニア選手権」で優勝。
「アクセルは、とくに好きなジャンプ。跳べるようになったのは、アルトゥール・ガチンスキー(ロシア)や、
デニス・テン(カザフスタン)が、僕と1歳しか違わないのに跳んでいるのを見て。本当にいいライバルだと思います」
阿部奈々美さんが指導、振り付け
「僕がここまで来れたのも、阿部奈々美先生のおかげです。
試合で緊張した時も“緊張しても仕方ないでしょ、もうここまで来ちゃったんだからさ!”て」
「世界ジュニアの優勝は、五輪代表の3人(高橋、小塚、織田)に続いてなんですね」
3人は高校生時代だが、羽生は日本男子初、中学生での世界ジュニア制覇。
1プログラムにトリプルアクセルを2回入れる、ジュニアとして最も高度な構成だった。
トリプルが5種類跳べるようになり、次の課題は4回転
「男子は4回転を跳んだほうが上という気持ちはあるが、バンクーバーを見ていたら、あの結果に納得できた。
バンクーバーでは、それほど評価されなかった、と言えるかもしれません。
でも、ソチではきっと違う。4回転プラス演技でも加点をもらわないと勝てない。
町田樹選手らと一緒に練習していると、僕の4回転の調子もよくなるんです」
シニアへの挑戦と洗礼
男子は制限年齢ギリギリの大学1年くらいまではジュニアに残ることが多いため、高校1年でのシニア参戦は異例の早さ
GPシリーズ初参戦のNHK杯では4位。2戦目のロシアではガチンスキーにも敗れてしまった。
「もーう、悔しい! 練習したい! フリーを死ぬほど滑りたい!」
「ジュニアの気持ちのままじゃもう戦えないとは分かっていたけど、どこかに甘さが残っていた。
周りにパトリック・チャンらレベルの高い選手が揃っていたので、公式練習では周りを見すぎた。
彼の滑りをずうっと見ていたら、ちょっと真似できるようになった」
2011年 「四大陸選手権」で2位。初のシニア国際大会の表彰台
「NHK杯では誰とも喋らずアップをしてたら調子がよかったから、そのジンクスで一人で、ずっと音楽を聴いていて
6分間練習では大ちゃんへの声援が大きくて、負けてたまるか!って。この頃からよく話しかけてもらえるようになった」
「この試合、4位だった小塚選手は、世界選手権に向けた調整だった。僕は行けないから、これがシーズン最後。状況は全然違う」
「奈々美先生が作った鬼プログラム『ツィゴイネルワイゼン』。ジュニアでフリーは4分だけど、“休憩パート”があった。
でもシニアは30秒長いのに、休憩がまったくない! もっと上に行くための課題の1つは、体力」
「GPシリーズでは、他の選手を見て、技術の学習をしていたようだった」
デビューシーズンが幕を閉じて3週間後に起きた「東日本大震災」
「今でも目をつむると、全部鮮明に浮かんできてしまう。ホームリンクでは、小さい頃も何度か大きな地震を経験した。
地震で家族がいなくなっちゃうことへの恐怖が、ずっと心のどこかにあるんです」
「本当に恐かったです。揺れてる音が尋常じゃなくて。『いやいやいや』って、本気で泣いてしまいました。
逃げる時はもう四つん這いです。半そでの練習着のまま出て、雪まで降ってきた。
リンクの天井裏を走っている水道管とかが割れて、建物中が水浸し。
コーチの先生方が荷物をとってきてくれて、なんとか助かった気がしました」
「父は仕事から帰ってこられず、姉と母と3人で、2畳くらいのスペースで一晩過ごした。すごく寒かった・・・。
避難所で4日間、何もすることがないから天井を見ながら、いろんなことを考えた。
『もう、スケートなんてやってる場合じゃない』『なんでこんなスケート人生なんだろう?』
1000年に1度なんて災害に、なんで当たっちゃうんだろう?」
地震から10日後、東神奈川のリンクで練習再開
「僕は練習を休むと痩せちゃう人。太ももの裏の筋肉がまったくなくなってしまった」
「普段から『イメージすること』を大事にしているため、調子がいい時は、360度、視界が見える。
だから、地震の光景も見えてしまって、全部覚えてしまった」
「震災後に見た、モスクワの世界選手権でのガチンスキー選手の大活躍。あの結果は悔しかった。
強くなるためのバネは、負けた悔しさ。そのバネがそのまま足のバネになって、ジャンプが跳べると嬉しいんだけどw」
「都築先生がついてくださるだけで、今は安心感がある。
パトリック・チャンも“年輩の先生は指導らしいことはしないけど、いてくれればいい”と言っていた」
(鈴木明子さんを「あっこちゃん」、荒川静香さんを「しーちゃん」て呼んでるんだね
「リンクを再開するために頑張ってくれている方々、僕の現状を伝えてくれるメディアの人たちもいる」
「音楽にも支えられた。バンプ、ハイファイなど避難所で聴いて涙が止まらなくて・・・」
「もうここまで来ると、ライバルとか、地震とか、練習環境とか、
何かに負ける、負けない、そんな問題じゃない。自分自身との闘い」
アイスショーを練習の場に
「羽生は地震のせいで成績が落ちた、なんて言われたくない。そんな時にチャリティショーの話がきた」
5月からシーズンインの10月まで、合計60公演に出演し、新シーズンのプログラムを滑った。
出演する海外スターや4回転ジャンパーたちに指導を仰いだ。
「全国を転々としながらホテル暮らし。東神奈川にいる時はビジネスホテル暮らし。
最初に出た神戸の『チャリティ演技会』では、涙が出そうになった。
『白鳥の湖』には羽ばたくという印象があって決めた。
震災があったから完成できた。それ以前の滑りとは、想いが全然違う」
「自分はアーティストか、アスリートかなら、絶対アーティストになりたかった。
アスリートの技術は当然で、さらにアーティストになる。トリノで金メダルをとった時の荒川静香さんみたいに」
荒川さんのわんこを撫でているところ
「その後も『プリンスアイスワールド』などに出た。『ザ・アイス』などグループナンバーのショーに出るのも楽しかった。
毎回出ている『ファンタジー・オン・アイス』で、ジョニー・ウィアー選手が歌いながら化粧してたりして」
(こんなにオフシーズンにアイスショーってあるんだ!驚
「ショーの暗い照明の中、6分間練習もなく、4回転などもたくさん跳べた。
本当に限界までしっかり滑りとおして、本当に大きな経験になった」
「きっとテレビなどでは、被災した選手などと紹介されると思います。
でも、僕が強化選手に選ばれたのは、震災の中でも頑張っているからじゃなくて、自分が今までやってきたことが評価されたから。
そんな自信をもって、日本代表としてやっていきたい」
結果を出すことが大事
「モスクワの世界選手権で安藤美姫選手の優勝を見て、すごく感じました。今一番やるべきことは、結果を残すこと」
GPシリーズ
ホームリンクが営業再開。2011-2012のシーズンに入る。まだ一度も表彰台に立ったことのないGPシリーズ。
「自分の演技で、大ちゃん、祟ちゃん、信成くんにも勝たないといけない」(なんで織田くんだけ君づけ?
シーズン初戦は「ネーベルホルン杯」
国際BシリーズというGPシリーズに次ぐ位置づけの国際大会で強豪をおさえてシニアの国際大会初優勝(いろいろ格付けがあるのね
第1戦の「中国杯」でフリー4位、総合4位として注目を浴びる
「今回のように試合の緊張感でミスっても、引きずらないよう練習することを意識した」
「GPファイナルに行くには、次は優勝しかないというのならば、優勝すればいい! そう思ったら逆に気が楽になった。
勝てないと思っていた選手にも勝てるんだと」
ロシア杯でGPシリーズ初優勝、6人目のファイナリストに
「出場選手は、本当のトップスケーターばかり。盗めるものを盗みたいし、ワクワクしています!」
高校生として、日本男子史上初のグランプリファイナリスト。結果は4位(この時の『ロミオとジュリエット』は伝説プログラムだな
「きれいな着氷ですーっと流れていると、その間、身体を休めることができるんです」
全日本選手権
ショート4位スタートから、フリー1位で、総合3位。初めての表彰台。17歳で初めての世界選手権代表選出。
「すごく残念だったのは、信成選手がケガで欠場したこと」
「サルコウが抜けた時、会場から『頑張れ!』て声が聞こえて、『あ、頑張んなきゃ!』と思い直した」(なんて素直!
「世界選手権に向けて強化したいのは、プログラムコンポーネンツ(演技構成点)」
羽生結弦が考える理想のスケートとは?
「まず僕たちは楽しくスケートをしている。または、試合で勝ちたくて頑張っている。
どちらにしろ自分のために滑っている。でも、そんな演技をお客さんが見て、何かを感じてくれる。
フィギュアスケートって、そんな不思議なところがあると思う。すごくいいところだなって」
「アスリートとしての技術と、バレエのような芸術性も賞賛してもらえる。
見て、嬉しくなったり、切なくなったり、いろんな感情が生まれる。
そんな反応が大きいと、僕たちだって、嬉しくてしょうがないんですよ!」
「僕は小さい頃、一番好きだったのはスピン。でも今は、あまり好きじゃない。
速く回るためには、力を入れて、どれだけ呼吸を止められるか。
プログラム中で、一番全身に力を入れなければいけないエレメンツがスピンです(そーなんだ/驚
昔は身体が柔らかかったけど、今はスピンが一番しんどい」
「やはりエレメンツで稼ぐことも必要。それだけの体力を、今のうちにつけないと。
日本では本田さんが練習で4回転ルッツを成功させているから、そこまで追いつきたい」
(本田さんてそんなにスゴイ人だって知らなかった・・・
「でも、ジャンプでそこまで必要だろうか? 4回転はトゥーループだけでもいいから、
スケーティングやプログラムを完成させたほうがいいのでは。ジャンプがすべてじゃない。
ジャンプもただ跳ぶだけじゃない。パトリックのジャンプはきれいに横に跳んでいく」
「スケーティングが今の僕が磨いていきたいもの。小さな頃のほうがずっと深いスケーティングをしている。身体が柔らかかったから。
今はジャンプもずっと難しいし、スピンのレベルをとるのも大変で、プログラムに休みがないから。
だから、今年はほとんどのジャンプを、ステップから入っている。チョクトウ、カウンター、ロッカーターンを入れたりしている」
「でも僕の“本当のスタイル”は、スケーティングやスピンの強さだと思う。3分、4分半の流れをとぎらせず、1つの作品として見てもらいたい」
「この曲で滑りたいという希望はいつもほとんど出しません。この曲好きだなと思うものは多い。
例えば、ジョニーの『秋に寄せて』。でも好きな曲が僕のキャラに合ってるか、見極めるのはずっと客観的に見てきた阿部奈々美先生」
「『ロミオ~』の現代版映画を、シーズンに入ってから観たんです。音楽が物語のどの場面を表してるか、すごくよく分かった」
(ストーリーを知らずにずっと滑ってたの!?
「試合ほど楽しみなものはない」
試合の前に必ずやること
「ホテルの部屋をきれいにすることを心がけています。部屋がきれいだと運も寄ってくるかなと思うし。
そして試合本番。とくに意識して平常心を保とうとはしない。人間なら誰でもプレッシャーを感じる。
ガチガチになりながら、いかに自分の力を出しきれるかが面白い。試合前、『力、入りすぎ!』なんてよく言われるし」
「やっぱりフリーが好き。ショートは前からあまり得意じゃなかった。ショートのほうが疲れる。
フリー以上に完璧に跳ばなきゃと思うとしんどい」
「試合でうまくいかなくても、あまり落ち込まないのが僕の特長。負けず嫌いだってこと、もうだいぶバレてますねw
僕みたいにハッキリ言う選手は珍しい? いやトップ選手はみんな同じはず。
ただ、僕はみんなみたいに大人じゃないから、率直に自分の気持ちを言ってしまうだけ。言わないと息が詰まっちゃうような気がする」
「でも、気持ちが弱くなる時は、とことん弱くなる。ジュニア1年目、世界ジュニアで12位の時なんて精神的にもボロボロだった・・・
でも、まだまだだから嬉しい。もっと練習できるぞ、もっと強くなれるぞ。
それはきっと、オリンピックで金メダルを取れるまで、ずっと続く気持ちだと思います」(もう取っちゃったもんね。今度は追われる身
「あとは体力。心肺機能を高めるためにマスクをつけたまま練習する。これはもう、、、本当に大変です。
後半のアクセルでしくじったらダッシュでリンクを3周するというペナルティを自分にかけたりしている。
そこまでやらないと、僕は弱いんですよ。1試合終われば、もう死にそうに疲れている」
ライバル、仲間、憧れの選手たち
「ここまで頑張れるのは、自分が勝ちたいから。勝ちたいと思えるのは、いいライバルがいてくれるから。
憧れはプルシェンコさんと、J.ウィアーさん。ヤグディン派かプルシェンコ派かといえば断然、プルシェンコ派。
2010年頃から時々話しかけてくれるようになって、4回転のアドバイスをしてくれたり。
ビールマンスピンのコツを教えてくれて、奥さんに怒られたから、最近は、奥さんのいないところで教えてくれるw
会うたびに『俺に勝て!』って言うんですよ。かっこ良すぎます! 『次に試合で会う時は、敵だからね』て。
僕はどんなに上のレベルに行っても、強い選手がいてくれると燃えるから、少しでも近づきたい」
「ジョニーには彼だけの世界があって、完全に究めている」
「高橋選手は、まだまだ『憧れのお兄さん』。大ちゃんは、人間としてもすごく尊敬できる」
「パトリックは・・・やっぱりすごい。できれば一緒に滑りたくないのが本音w
フリーではナン・ソン(中国)、ジェイソン・ブラウン、ハン・ヤンも強い。実は彼のことは、よく知ってるんですよ。
ノービスの1年目に『アジアンノービス』という試合に最年少で出て、そこで戦った。
彼は生涯最初のライバル。負けて悔しいと初めて思った選手。とにかくハン・ヤンとは、早く戦いたい」
「田中刑事は、本当にスロースターター。実力はあるのに、『自信がない』なんて、いつも言う」
「僕は恵まれている。国内の同世代に強い選手たちがいて。
日本国内は男子のレベルが高くて、ジュニアからシニアでも一緒に戦わせてもらった」
(こうして見ると、今まさに一緒に戦っている選手ばかりだね。選手同士で分かるんだなあ!
17歳で初の世界選手権
「絶対、最終の6人に入って、最強のメンバーと滑りたい。17歳という年齢なんて、もう関係ない。
今まで、僕には何の色もなく、とにかくなんでも、シニア選手たちから吸収してきた。
でも今は、自分の目指したいスケートが少し分かりつつある。他の選手と比べて僕にあるものは、若い勢い。
すべて全力でやる、勢いで押していく、そんなイメージは強いと思う」
「最近は、4回転に入る前はめいっぱい集中するけど、降りれば感情を引き出すことができる。
滑りに感情を入れながら、次のジャンプのことも考える余裕が生まれてきた」
ソチオリンピック
「正直、まだまだ想像できません。一番大きな期待のかかる試合だと思うけど、なんだか楽しみ!
やっぱりみんなに見てもらうことが大好きでスケートを続けてきたから。
大きな目標は、オリンピックで金メダルをとって、そして引退(え!?
もちろんソチではない。ソチではまだ19歳だから。男子で10代の金メダルは難しい」(いや取っちゃったし
「まずは世界チャンピオン。そこからは、勝ち続けたい。
僕がプルシェンコを英雄として尊敬しているのは、彼が勝ち続けているから」
「やっぱり一番かっこいいのは、全員がパーフェクトで、その中で勝つこと。『本当の1位』の味を知りたい。
上に立つ選手がいれば、追う選手は『絶対超えてやろう』と思う。そこで停滞しようものなら、次の年には100%超えられてしまう。
優勝したなら、その次は優勝した自分を越えなきゃいけない。そんな戦いを続けることが、僕の理想。
勝ったら終わりじゃない。その次がある。そう思うのは、やっぱりプルシェンコを見てきたからかな」
「やっぱりオリンピックという舞台だけは、絶対味わいたい。どれだけ緊張して、不安だらけになるか分からないけど、それすら楽しんでみたい」
【あとがきにかえて】
「東日本大震災から始まった今シーズン。『まだ16年しか生きていないのに』と思いました。
『人生、短かったな・・・』そんな気持ちを一度は持ちました。
でも、今はこうしてまたスケートを滑ることができています。今はとにかく、1日1日を大事にしたい。
何気ない日常、アイスショーの日々、練習の日々、試合の日々をすべて大切にしたい。
そんなことを、あの日を境により強く感じるようになりました」
「『あって当然のもの』なんてない。本当に偶然、幸運に恵まれて存在しているということ。
価値観を大きく変えられてしまう。東日本大震災は、そんな出来事でした。
ただ、スケートと被災は、あまりつなげたくはない。試合中は震災のことを考えたりしません」
「勇気が出るような演技で、しっかりと結果を残すこと。その両方で何かを感じてもらえる。
それが僕の選んだスポーツ、フィギュアギュアスケートの醍醐味」
【初版後の追加】
2012-2013シーズンから ブライアン・オーサーに師事し、全日本選手権で初優勝。
2013年、GPファイナルで初優勝、全日本選手権で2連覇。
2014年、ソチオリンピック男子シングル金メダリスト。
思ってた以上に、子どもの頃からスゴい記録を塗り替えてきたんだなあ。
そういう使命を持って生まれてきたんだ。だからこそ試練も大きい。
これからは追われる身だけど、この真直ぐな強気、謙虚さを忘れずに、勝ち続けていって、
願わくば、プルシェンコみたいに、1日でも長く現役スケーターで活躍してほしい!
羽生結弦/著
ウィキを見ていた時だったか、ふと「あれ、本も出してるんだ~」と知って、思わず借りてしまいましたw
2012/04/10発行。2014年2月28日第9版。
“本書の印税はすべて、被災したアイスリンク仙台へ寄付いたします 羽生結弦”とあるので、かなり貢献しているのではと思われる。
「初の自叙伝」と銘打ってあるけど、あとづけにある通り
“本書は下記に掲載された初出原稿を元に追加取材を加え、再構成したものです。”
『日本男子フィギュアスケートファンブック Cutting Edge』
『男子フィギュアスケート~2007-2008メモリアルブック~』
『フィギュアスケート2010-2011シーズン オフィシャルガイドブック』
『フィギュアスケートファン』
『スポーツナビ ウィンタースポーツコラム』
つまり、その時々の試合の前後に語られたインタビュー記事をまとめて書籍化した感じ。
たくさんの試合、オフショット写真も入ってる。
てか、こんなにフィギュアスケート関連の雑誌やらが売られていたことを今ごろ知ってビックリ。
私がフィギュアスケートで感動した最初は、伊藤みどりさんのトリプルアクセルで、
その後はテニスばかり見ていたから、本格的にテレビ放送で応援し出したのは、真央ちゃんの活躍の影響だな。
その頃の大ちゃんが、まさにアイドル風だったのが、今は羽生くんってわけか。
なんといっても、オリンピック金メダリストだし。9版のプロフには追加されているけど、本書の取材時期は、その前。
でも、この頃からソチを目指して、「ピョンチャンで金メダルとるのが目標」ってハッキリゆってるのがスゴイ。
それを、ソチでもうとっちゃったんだもんね/驚
すごい選手だとは思っていたけど、これほど最年少記録を更新してきた天才少年だったとは知らなかった!
でも、「メダルをとって引退する」ってゆってるのが気になった
4歳から始めて、それからずぅーーーーっと突っ走り続けてるんだから、「第2の人生」も早いのは当然か。
どのスポーツも低年齢化が進んでいる。それでなくても、子どもが子どもらしくいられる時間はとても短いのに、
大人の都合で、「国の宝だ」と英才教育を受けて、友だちと自由に遊ぶ時間も一切削られ、練習、練習の日々。
その上、今では高学歴も当たり前だから、大学進学の勉強も強いられるって、考えさせられてしまった。
それにしても、この強気、もっと言えば楽天的とも言える明るさ、向上心は射手座ゆえか?
「どんな状況でも、試合は勝って、成績を残さなきゃ意味がない」と言い切り、たとえ優勝しても出来が悪ければ本気で悔しがる。
そのパワーの裏側には、本人も認める「負けず嫌い」「試合の緊張感も楽しい」「みんなに見てもらえるとヤル気が出る」っていう性格。
これは、アスリートとして絶対的な強味になっているわけだ。
震災の影響を大きく受けたことを今でも紹介されるけど、本書を読んで、
当時の恐怖感、PTSD、スケート人生の進退ほかさまざまなことを考えことも正直に語られていて、
想像を絶する状況だったことに、改めて衝撃を受けた。
【内容抜粋メモ】(ウィキを見れば、経歴やらはほぼ書いてあるけど
世界選手権で初の銅メダル獲得
17歳と3ヶ月。この若さで日本男子選手が世界選手権に出場したのは、98年の本田武史選手以来14年ぶり。
男子シングル世界最強豪国で、たった3つしかない権利をしとめたのが高校2年生。
「今年は、世界で6人しか出られないGPファイナルに進出できました」
フィギュアスケートとの出合いは1999年
4つ上の姉が短期教室に入っていて、4歳の春、ついて行ったのがきっかけ。
「お客さんがいっぱい見てくれる試合は大好きでした」
初めて作ってもらったプログラムは・・・
「ウルトラマンで作ってください!てw 大好きだったんですよ『ウルトラマンガイア』!
内容は覚えてないけど 次のプログラムからは、全部覚えています」
「6歳でダイエーカップで優勝した時、前歯がなかった。
でも先生に『笑え』って言われて笑ってる。今見ると超面白いんです!」
「その頃から、プルシェンコさんが大好きでした」
「毎日、学校からランドセルのままリンクに行って、練習して、土日も朝練があって、
試合はともかく練習が嫌で嫌で、“野球をやりたい”なんて言うようになった
父の影響でもともと大好きだったんです。どっちにしようか迷っていた時期もあった」
小学校4年で、初出場の「全日本ノービス」で金メダルをとる
2004年 ホームリンクが経営難で閉鎖
スケートを始めて6年目。通っていた仙台市のコナミスポーツクラブ泉(現アイスリンク仙台)が潰れてしまった。
ノービス優勝直後だった。
「僕は一度も国体に出たことがない。少年男子に僕しかいなくて、宮城のチームが組めないから!
その頃、嫌いだった練習が大事だって思い始めた」
2007年、トリノ五輪の盛り上がりで、営業再開。
同年、「全日本ノービス」で3年ぶりの優勝、特別出場した「全日本ジュニア選手権」で3位。
2000年の安藤美姫以来7年ぶり、男子では史上初の快挙だった。
2010年 15歳のジュニアチャンピオン
バンクーバー五輪の余韻の残る2010年、村上佳菜子とそろって、「世界ジュニア選手権」で優勝。
「アクセルは、とくに好きなジャンプ。跳べるようになったのは、アルトゥール・ガチンスキー(ロシア)や、
デニス・テン(カザフスタン)が、僕と1歳しか違わないのに跳んでいるのを見て。本当にいいライバルだと思います」
阿部奈々美さんが指導、振り付け
「僕がここまで来れたのも、阿部奈々美先生のおかげです。
試合で緊張した時も“緊張しても仕方ないでしょ、もうここまで来ちゃったんだからさ!”て」
「世界ジュニアの優勝は、五輪代表の3人(高橋、小塚、織田)に続いてなんですね」
3人は高校生時代だが、羽生は日本男子初、中学生での世界ジュニア制覇。
1プログラムにトリプルアクセルを2回入れる、ジュニアとして最も高度な構成だった。
トリプルが5種類跳べるようになり、次の課題は4回転
「男子は4回転を跳んだほうが上という気持ちはあるが、バンクーバーを見ていたら、あの結果に納得できた。
バンクーバーでは、それほど評価されなかった、と言えるかもしれません。
でも、ソチではきっと違う。4回転プラス演技でも加点をもらわないと勝てない。
町田樹選手らと一緒に練習していると、僕の4回転の調子もよくなるんです」
シニアへの挑戦と洗礼
男子は制限年齢ギリギリの大学1年くらいまではジュニアに残ることが多いため、高校1年でのシニア参戦は異例の早さ
GPシリーズ初参戦のNHK杯では4位。2戦目のロシアではガチンスキーにも敗れてしまった。
「もーう、悔しい! 練習したい! フリーを死ぬほど滑りたい!」
「ジュニアの気持ちのままじゃもう戦えないとは分かっていたけど、どこかに甘さが残っていた。
周りにパトリック・チャンらレベルの高い選手が揃っていたので、公式練習では周りを見すぎた。
彼の滑りをずうっと見ていたら、ちょっと真似できるようになった」
2011年 「四大陸選手権」で2位。初のシニア国際大会の表彰台
「NHK杯では誰とも喋らずアップをしてたら調子がよかったから、そのジンクスで一人で、ずっと音楽を聴いていて
6分間練習では大ちゃんへの声援が大きくて、負けてたまるか!って。この頃からよく話しかけてもらえるようになった」
「この試合、4位だった小塚選手は、世界選手権に向けた調整だった。僕は行けないから、これがシーズン最後。状況は全然違う」
「奈々美先生が作った鬼プログラム『ツィゴイネルワイゼン』。ジュニアでフリーは4分だけど、“休憩パート”があった。
でもシニアは30秒長いのに、休憩がまったくない! もっと上に行くための課題の1つは、体力」
「GPシリーズでは、他の選手を見て、技術の学習をしていたようだった」
デビューシーズンが幕を閉じて3週間後に起きた「東日本大震災」
「今でも目をつむると、全部鮮明に浮かんできてしまう。ホームリンクでは、小さい頃も何度か大きな地震を経験した。
地震で家族がいなくなっちゃうことへの恐怖が、ずっと心のどこかにあるんです」
「本当に恐かったです。揺れてる音が尋常じゃなくて。『いやいやいや』って、本気で泣いてしまいました。
逃げる時はもう四つん這いです。半そでの練習着のまま出て、雪まで降ってきた。
リンクの天井裏を走っている水道管とかが割れて、建物中が水浸し。
コーチの先生方が荷物をとってきてくれて、なんとか助かった気がしました」
「父は仕事から帰ってこられず、姉と母と3人で、2畳くらいのスペースで一晩過ごした。すごく寒かった・・・。
避難所で4日間、何もすることがないから天井を見ながら、いろんなことを考えた。
『もう、スケートなんてやってる場合じゃない』『なんでこんなスケート人生なんだろう?』
1000年に1度なんて災害に、なんで当たっちゃうんだろう?」
地震から10日後、東神奈川のリンクで練習再開
「僕は練習を休むと痩せちゃう人。太ももの裏の筋肉がまったくなくなってしまった」
「普段から『イメージすること』を大事にしているため、調子がいい時は、360度、視界が見える。
だから、地震の光景も見えてしまって、全部覚えてしまった」
「震災後に見た、モスクワの世界選手権でのガチンスキー選手の大活躍。あの結果は悔しかった。
強くなるためのバネは、負けた悔しさ。そのバネがそのまま足のバネになって、ジャンプが跳べると嬉しいんだけどw」
「都築先生がついてくださるだけで、今は安心感がある。
パトリック・チャンも“年輩の先生は指導らしいことはしないけど、いてくれればいい”と言っていた」
(鈴木明子さんを「あっこちゃん」、荒川静香さんを「しーちゃん」て呼んでるんだね
「リンクを再開するために頑張ってくれている方々、僕の現状を伝えてくれるメディアの人たちもいる」
「音楽にも支えられた。バンプ、ハイファイなど避難所で聴いて涙が止まらなくて・・・」
「もうここまで来ると、ライバルとか、地震とか、練習環境とか、
何かに負ける、負けない、そんな問題じゃない。自分自身との闘い」
アイスショーを練習の場に
「羽生は地震のせいで成績が落ちた、なんて言われたくない。そんな時にチャリティショーの話がきた」
5月からシーズンインの10月まで、合計60公演に出演し、新シーズンのプログラムを滑った。
出演する海外スターや4回転ジャンパーたちに指導を仰いだ。
「全国を転々としながらホテル暮らし。東神奈川にいる時はビジネスホテル暮らし。
最初に出た神戸の『チャリティ演技会』では、涙が出そうになった。
『白鳥の湖』には羽ばたくという印象があって決めた。
震災があったから完成できた。それ以前の滑りとは、想いが全然違う」
「自分はアーティストか、アスリートかなら、絶対アーティストになりたかった。
アスリートの技術は当然で、さらにアーティストになる。トリノで金メダルをとった時の荒川静香さんみたいに」
荒川さんのわんこを撫でているところ
「その後も『プリンスアイスワールド』などに出た。『ザ・アイス』などグループナンバーのショーに出るのも楽しかった。
毎回出ている『ファンタジー・オン・アイス』で、ジョニー・ウィアー選手が歌いながら化粧してたりして」
(こんなにオフシーズンにアイスショーってあるんだ!驚
「ショーの暗い照明の中、6分間練習もなく、4回転などもたくさん跳べた。
本当に限界までしっかり滑りとおして、本当に大きな経験になった」
「きっとテレビなどでは、被災した選手などと紹介されると思います。
でも、僕が強化選手に選ばれたのは、震災の中でも頑張っているからじゃなくて、自分が今までやってきたことが評価されたから。
そんな自信をもって、日本代表としてやっていきたい」
結果を出すことが大事
「モスクワの世界選手権で安藤美姫選手の優勝を見て、すごく感じました。今一番やるべきことは、結果を残すこと」
GPシリーズ
ホームリンクが営業再開。2011-2012のシーズンに入る。まだ一度も表彰台に立ったことのないGPシリーズ。
「自分の演技で、大ちゃん、祟ちゃん、信成くんにも勝たないといけない」(なんで織田くんだけ君づけ?
シーズン初戦は「ネーベルホルン杯」
国際BシリーズというGPシリーズに次ぐ位置づけの国際大会で強豪をおさえてシニアの国際大会初優勝(いろいろ格付けがあるのね
第1戦の「中国杯」でフリー4位、総合4位として注目を浴びる
「今回のように試合の緊張感でミスっても、引きずらないよう練習することを意識した」
「GPファイナルに行くには、次は優勝しかないというのならば、優勝すればいい! そう思ったら逆に気が楽になった。
勝てないと思っていた選手にも勝てるんだと」
ロシア杯でGPシリーズ初優勝、6人目のファイナリストに
「出場選手は、本当のトップスケーターばかり。盗めるものを盗みたいし、ワクワクしています!」
高校生として、日本男子史上初のグランプリファイナリスト。結果は4位(この時の『ロミオとジュリエット』は伝説プログラムだな
「きれいな着氷ですーっと流れていると、その間、身体を休めることができるんです」
全日本選手権
ショート4位スタートから、フリー1位で、総合3位。初めての表彰台。17歳で初めての世界選手権代表選出。
「すごく残念だったのは、信成選手がケガで欠場したこと」
「サルコウが抜けた時、会場から『頑張れ!』て声が聞こえて、『あ、頑張んなきゃ!』と思い直した」(なんて素直!
「世界選手権に向けて強化したいのは、プログラムコンポーネンツ(演技構成点)」
羽生結弦が考える理想のスケートとは?
「まず僕たちは楽しくスケートをしている。または、試合で勝ちたくて頑張っている。
どちらにしろ自分のために滑っている。でも、そんな演技をお客さんが見て、何かを感じてくれる。
フィギュアスケートって、そんな不思議なところがあると思う。すごくいいところだなって」
「アスリートとしての技術と、バレエのような芸術性も賞賛してもらえる。
見て、嬉しくなったり、切なくなったり、いろんな感情が生まれる。
そんな反応が大きいと、僕たちだって、嬉しくてしょうがないんですよ!」
「僕は小さい頃、一番好きだったのはスピン。でも今は、あまり好きじゃない。
速く回るためには、力を入れて、どれだけ呼吸を止められるか。
プログラム中で、一番全身に力を入れなければいけないエレメンツがスピンです(そーなんだ/驚
昔は身体が柔らかかったけど、今はスピンが一番しんどい」
「やはりエレメンツで稼ぐことも必要。それだけの体力を、今のうちにつけないと。
日本では本田さんが練習で4回転ルッツを成功させているから、そこまで追いつきたい」
(本田さんてそんなにスゴイ人だって知らなかった・・・
「でも、ジャンプでそこまで必要だろうか? 4回転はトゥーループだけでもいいから、
スケーティングやプログラムを完成させたほうがいいのでは。ジャンプがすべてじゃない。
ジャンプもただ跳ぶだけじゃない。パトリックのジャンプはきれいに横に跳んでいく」
「スケーティングが今の僕が磨いていきたいもの。小さな頃のほうがずっと深いスケーティングをしている。身体が柔らかかったから。
今はジャンプもずっと難しいし、スピンのレベルをとるのも大変で、プログラムに休みがないから。
だから、今年はほとんどのジャンプを、ステップから入っている。チョクトウ、カウンター、ロッカーターンを入れたりしている」
「でも僕の“本当のスタイル”は、スケーティングやスピンの強さだと思う。3分、4分半の流れをとぎらせず、1つの作品として見てもらいたい」
「この曲で滑りたいという希望はいつもほとんど出しません。この曲好きだなと思うものは多い。
例えば、ジョニーの『秋に寄せて』。でも好きな曲が僕のキャラに合ってるか、見極めるのはずっと客観的に見てきた阿部奈々美先生」
「『ロミオ~』の現代版映画を、シーズンに入ってから観たんです。音楽が物語のどの場面を表してるか、すごくよく分かった」
(ストーリーを知らずにずっと滑ってたの!?
「試合ほど楽しみなものはない」
試合の前に必ずやること
「ホテルの部屋をきれいにすることを心がけています。部屋がきれいだと運も寄ってくるかなと思うし。
そして試合本番。とくに意識して平常心を保とうとはしない。人間なら誰でもプレッシャーを感じる。
ガチガチになりながら、いかに自分の力を出しきれるかが面白い。試合前、『力、入りすぎ!』なんてよく言われるし」
「やっぱりフリーが好き。ショートは前からあまり得意じゃなかった。ショートのほうが疲れる。
フリー以上に完璧に跳ばなきゃと思うとしんどい」
「試合でうまくいかなくても、あまり落ち込まないのが僕の特長。負けず嫌いだってこと、もうだいぶバレてますねw
僕みたいにハッキリ言う選手は珍しい? いやトップ選手はみんな同じはず。
ただ、僕はみんなみたいに大人じゃないから、率直に自分の気持ちを言ってしまうだけ。言わないと息が詰まっちゃうような気がする」
「でも、気持ちが弱くなる時は、とことん弱くなる。ジュニア1年目、世界ジュニアで12位の時なんて精神的にもボロボロだった・・・
でも、まだまだだから嬉しい。もっと練習できるぞ、もっと強くなれるぞ。
それはきっと、オリンピックで金メダルを取れるまで、ずっと続く気持ちだと思います」(もう取っちゃったもんね。今度は追われる身
「あとは体力。心肺機能を高めるためにマスクをつけたまま練習する。これはもう、、、本当に大変です。
後半のアクセルでしくじったらダッシュでリンクを3周するというペナルティを自分にかけたりしている。
そこまでやらないと、僕は弱いんですよ。1試合終われば、もう死にそうに疲れている」
ライバル、仲間、憧れの選手たち
「ここまで頑張れるのは、自分が勝ちたいから。勝ちたいと思えるのは、いいライバルがいてくれるから。
憧れはプルシェンコさんと、J.ウィアーさん。ヤグディン派かプルシェンコ派かといえば断然、プルシェンコ派。
2010年頃から時々話しかけてくれるようになって、4回転のアドバイスをしてくれたり。
ビールマンスピンのコツを教えてくれて、奥さんに怒られたから、最近は、奥さんのいないところで教えてくれるw
会うたびに『俺に勝て!』って言うんですよ。かっこ良すぎます! 『次に試合で会う時は、敵だからね』て。
僕はどんなに上のレベルに行っても、強い選手がいてくれると燃えるから、少しでも近づきたい」
「ジョニーには彼だけの世界があって、完全に究めている」
「高橋選手は、まだまだ『憧れのお兄さん』。大ちゃんは、人間としてもすごく尊敬できる」
「パトリックは・・・やっぱりすごい。できれば一緒に滑りたくないのが本音w
フリーではナン・ソン(中国)、ジェイソン・ブラウン、ハン・ヤンも強い。実は彼のことは、よく知ってるんですよ。
ノービスの1年目に『アジアンノービス』という試合に最年少で出て、そこで戦った。
彼は生涯最初のライバル。負けて悔しいと初めて思った選手。とにかくハン・ヤンとは、早く戦いたい」
「田中刑事は、本当にスロースターター。実力はあるのに、『自信がない』なんて、いつも言う」
「僕は恵まれている。国内の同世代に強い選手たちがいて。
日本国内は男子のレベルが高くて、ジュニアからシニアでも一緒に戦わせてもらった」
(こうして見ると、今まさに一緒に戦っている選手ばかりだね。選手同士で分かるんだなあ!
17歳で初の世界選手権
「絶対、最終の6人に入って、最強のメンバーと滑りたい。17歳という年齢なんて、もう関係ない。
今まで、僕には何の色もなく、とにかくなんでも、シニア選手たちから吸収してきた。
でも今は、自分の目指したいスケートが少し分かりつつある。他の選手と比べて僕にあるものは、若い勢い。
すべて全力でやる、勢いで押していく、そんなイメージは強いと思う」
「最近は、4回転に入る前はめいっぱい集中するけど、降りれば感情を引き出すことができる。
滑りに感情を入れながら、次のジャンプのことも考える余裕が生まれてきた」
ソチオリンピック
「正直、まだまだ想像できません。一番大きな期待のかかる試合だと思うけど、なんだか楽しみ!
やっぱりみんなに見てもらうことが大好きでスケートを続けてきたから。
大きな目標は、オリンピックで金メダルをとって、そして引退(え!?
もちろんソチではない。ソチではまだ19歳だから。男子で10代の金メダルは難しい」(いや取っちゃったし
「まずは世界チャンピオン。そこからは、勝ち続けたい。
僕がプルシェンコを英雄として尊敬しているのは、彼が勝ち続けているから」
「やっぱり一番かっこいいのは、全員がパーフェクトで、その中で勝つこと。『本当の1位』の味を知りたい。
上に立つ選手がいれば、追う選手は『絶対超えてやろう』と思う。そこで停滞しようものなら、次の年には100%超えられてしまう。
優勝したなら、その次は優勝した自分を越えなきゃいけない。そんな戦いを続けることが、僕の理想。
勝ったら終わりじゃない。その次がある。そう思うのは、やっぱりプルシェンコを見てきたからかな」
「やっぱりオリンピックという舞台だけは、絶対味わいたい。どれだけ緊張して、不安だらけになるか分からないけど、それすら楽しんでみたい」
【あとがきにかえて】
「東日本大震災から始まった今シーズン。『まだ16年しか生きていないのに』と思いました。
『人生、短かったな・・・』そんな気持ちを一度は持ちました。
でも、今はこうしてまたスケートを滑ることができています。今はとにかく、1日1日を大事にしたい。
何気ない日常、アイスショーの日々、練習の日々、試合の日々をすべて大切にしたい。
そんなことを、あの日を境により強く感じるようになりました」
「『あって当然のもの』なんてない。本当に偶然、幸運に恵まれて存在しているということ。
価値観を大きく変えられてしまう。東日本大震災は、そんな出来事でした。
ただ、スケートと被災は、あまりつなげたくはない。試合中は震災のことを考えたりしません」
「勇気が出るような演技で、しっかりと結果を残すこと。その両方で何かを感じてもらえる。
それが僕の選んだスポーツ、フィギュアギュアスケートの醍醐味」
【初版後の追加】
2012-2013シーズンから ブライアン・オーサーに師事し、全日本選手権で初優勝。
2013年、GPファイナルで初優勝、全日本選手権で2連覇。
2014年、ソチオリンピック男子シングル金メダリスト。
思ってた以上に、子どもの頃からスゴい記録を塗り替えてきたんだなあ。
そういう使命を持って生まれてきたんだ。だからこそ試練も大きい。
これからは追われる身だけど、この真直ぐな強気、謙虚さを忘れずに、勝ち続けていって、
願わくば、プルシェンコみたいに、1日でも長く現役スケーターで活躍してほしい!