■『アークティック・オデッセイ 遙かなる極北の記憶』(新潮社)
星野道夫/写真・著
星野道夫、生前最後の写真集。
なぜか、以前は図書館で見つけられなかった1冊(それともなにかの理由で後回しにしたのか?
もしかしたら、「生前最後」ということで最後に残したかったのかもしれない。
32×22cmという横に長い大型本の写真集で、星野さんの撮った写真の数々を観ると、
そこに確実に彼がいて、長い行程を経てそこにたどり着き(飛行機を乗り継ぎ、ボートを漕いで)、
この1枚のために何日~もしかしたら数ヶ月かけてねばって撮った、
その費やした時間、行程、膨大なフィルムの数、交流した人々の顔までもが浮かんでくるようだ。
それぞれの四季の移り変わりを写すのも星野さんの特徴。
2ページ分にカリブーの移動の様子が撮られた写真は、
自分も苦労してそこにたどり着き、奇跡の瞬間に立ち会えたという錯覚さえ起こす。
冷たく澄みきった空気、静かに流れる悠久の時間、動物たちの吐く白い息までが凝縮されている。
もう1つの特徴は、晩年、星野さんがたどり着いたライフワークである、
村のお年寄りから集めた、口伝によって語られる伝説、神話、詩が載せられていること。
その物語の中には、まるで天国のように、ヒトと生きとし生けるものすべてが完璧なバランスで共存していた時代があったことを想像させる。
心を交し合い、互いに敬い、魂は輪廻し、四季は移り変わって、生命は生死を繰り返しながらも受け継がれてる。
自然の中に謙虚に溶け込んでいたヒトの姿が、1つの詩の中に見えて、深い深い感動を与えてくれる。
今、世界でこれほど魂のこもった写真と文を、次世代に残せる人物が果しているかどうか。
そして、同じ四季、同じ場所に、同じように動物たちが生き生きと、それぞれの命を謳歌しているかどうか。
ヒトは確実に変わってしまった。
極北の小さな村にも欧米の消費文化がなだれ込み、一度知った便利さから逃れることはできないだろう。
そんな無常の中でも、失ってしまったもの、失われつつあるものを守り、復元する力もヒトは持っている。
争わず、分け合うココロは残っているはずだと信じたい。
そんな希望も、星野さんの作品から受け取ることができる。
その最後の分かれ道に立った私たちは、一体どちらの道を選ぶだろうか?
2月からはじまって、1月で終わる、長い長い旅だった。
そして、その旅がひと巡りすると、また最初から同じ旅が静かにはじまる。
氷は解け、生きものは目覚め、河は流れ、豊かな恵みをたたえて、
短い太陽の光とともに命がもえあがり、躍動する。
今、こうしてエアコンで暖められ、テレビに興じている間にも、
かれらは地球のあらゆるところで、その命をつないでいるんだ。
【内容抜粋メモ】
●星野道夫
『SINRA』『GEO JAPAN』等、日本の雑誌はもとより、
『ナショナル・ジオグラフィック』『オーデュポン』等の海外の著名雑誌にも写真を発表。
1993年10月から3ヶ月間、日本人写真家として初めて、アメリカのピッツバーグにあるカーネギー自然科学博物館にて写真展を開催。
本書は、フェアバンクスに居を構える著者が、原野を旅しながら、アラスカとカナダ北極圏の12カ月の自然を撮影したものである。
●「魔法のことば」
「遥かなる極北の記憶」
エスキモーはあらゆる自然現象さえ、人間と同じように生きていると考えていた。
これらすべてのものは、それぞれの所有者、イヌア(inua)をもっていた。
それらは人間の姿をしていると信じられていたのである。
エスキモーは、霊魂の観念をもっていた。
名前さえも魂で、人が死ぬと、同じ名が嬰児に命名されるまで、魂はその人間の死体にとどまった。
カリブーを仕留めると、頭部を切り落として残す。
カリブーは次の季節に毛皮を着て、肉をつけて戻ってくると信じていたからである。
エスキモーは、人間を超えた存在、神秘的な力を信じていた。
これはシラ(sila)といわれるもので、最高神に近いものらしい。
異常な自然現象、予期しない出来事はシラに帰するのである。
このイヌア、魂、シラが、エスキモーの宗教世界における根本概念だった。
それは、いわゆる「アニミズム」と呼ばれる思想である。
しかし、アラスカ先住民の世界を旅しながら、近代化の洗礼がいかに人々の暮らし、精神世界を変えていったのかもまた見続けてきた。
それはそのまま、鏡に写しだされた私たち自身の姿でもあった。
科学の知はなぜか私たちと世界とのつながりを語ってはくれない。
それどころか、世界は自己から切り離され、対象化され、精神的な豊かさからどんどんと遠ざかってゆく。
狩人たちは、クジラを引き上げ、解体が終わると、巨大な頭骨を海に落とした。
“また戻って来いよ”と、誰も叫んでいた。
自然と人間は一体化し、人々はクジラを通して、自分を世界の中に位置づけていたのである。
******************************
クイーンシャーロットに、長い間想い続けてきた、歳月に風化したトーテムポールを見つけた。
人々の夢、喜び、悲しみ、怒りを時の流れの中に押し包んだまま、シーンとした浜辺に今なお立ち続けている。
人間の歴史は、ブレーキのないまま、ゴールの見えない霧の中を走り始めている。
しかし、ホモサピエンスの物語りにまだ時間が残されているならば、もう1度、そして命がけで、
私たちの新しい神話をつくらなければならない時が来るのかもしれない。
******************************
「Peksok(ペクソク 2月)吹雪の日々」
はるかな昔、1羽のワタリガラスが舞い降りた。
“わたしは、そこにあるエンドウの鞘から生まれました”
ワタリガラスは、地上をあらゆる生きものたちですこしずつ満たしていった。
“おまえはたった1人で淋しいだろう”
ワタリガラスが翼をはばたかせると、1人の美しい女が現れた。
そしてワタリガラスはふと考えた。
人間が恐れをもつ何かを造らねば、この地上にこしらえたすべてのものを、いつか滅ぼしてしまうにちがいない。
ワタリガラスは1頭のクマを形づくり、そこに命を吹き込んだ・・・(エスキモーの創世神話より)
「Netchualoot(ネチアルート 3月)ネチェックアザラシの誕生」
「おれはカヤックで沖に出ていた~」からはじまるエスキモーの歌『魔法としての言葉』金関寿夫著より
「Terriglullioot(テリグルリュート 4月)雪どけの大地」
老婆の語る民話は、すべてが海を越えたシベリアエスキモーの物語だった。
極北の草原にライオンがさまよい、マンモスの群れが通り過ぎてゆく。
私は、時空を超えた、老婆の不思議な語りに引き込まれていった。
海に沈んだ壮大な草原「ベーリンジア」がゆっくりと浮かびあがってきた。
「Upernark(ウペルナーク 5月)早春の森」
ずっと昔、弓矢と槍しかなかった頃、狩りの上手な者は、いつも獲物を皆と分けた。
分け合うということは大切なことだった。
狩りに行って、ワタリガラスに出合うと、人々はこう話しかけた。
“おじいさん、私に獲物を落としてください”
「Oopungakshuk(ウープニャクシュク 6月)夏の光」
おれは 夢を見ていた
カリブーの古い足あとや 頭骨のある
ヌプスィック谷の あったかい 夏の草むらで
おれは いつのまにか 眠っちまったらしい
気がつくと
あたりは 見わたすかぎりのカリブーで
おれのまわりを 音もたてずに 通りすぎてゆくじゃないか
あの秋の日 おれが殺した
美しい片角のカリブーがいる
村一番の狩人だった 死んだ
パニアックじいさんが
カリブーと一緒に 旅をしている
おれは 夢を見ていた
ヌプスィックの谷の あったかい 夏の草むらで
「Mittiadlut(ミティアドルト 7月)豊かな海流」
クジラが大きな口を開けて、澄み切った空の空気をほしいままに吸っていた。
するとワタリガラスが突然クジラの大きな口の中に飛び込んだ。
呑気なワタリガラスは、クジラの腹の中で唄をうたっていた。
通りかかった村人が、クジラの腹からワタリガラスが出てきて驚き、
村の長になってくれぬかと願い、ワタリガラスは人となって、この村をおさめた。
「Ukiak(ウキアック 8月)秋の日々」
エスキモーの老婆がふと立ち止まり、土を掘りおこすと、小さなエスキモーポテトのかたまりが見つかった。
いじらしいほどきれいに積まれたそのかたまりに、冬を越そうとするジネズミのたしかな意志があった。
老婆は、その半分だけとって、もってきたドライフィッシュを代わりに入れ、ふたたび穴を土で覆った。
世界がただそうであった時の、古い物語の風が吹いていた。
「Ookuikshak(ウークィクシャク 9月)美しい角」
生きものがいなくなってしまったら 私たちはこの土地に生きてゆくことはできない
だからこそ動物たちを敬わなければならないんだ
オオカミやクズリをワナで捕えたとき
私はいつだってムースの脂肪を鼻に塗ってあげる
こいつらの魂に食べさせてあげるのさ
「Ookiak(ウーキアック 10月)冬の匂い」
1人の若者が山へクマを狩りに出かけた。
巣穴を見つけてクマを殺し、凍えそうな若者は巣穴で一夜を明かすことにした。
やっと目を覚ますと、もう春だった。
冬の間、ずっと若者を捜していた人々は驚き、1人の村人が言った。
“クマの巣穴で寝てはいけないと、おまえの父親は教えなかったのか?”
「Khianguliut(キアングリュート 11月)雪の言葉」
アニュイ(降りしきる雪)
プカック(雪崩を引き起こす雪)
スィクォクトアック(太陽にあたためられた雪)、、、
たくさんの たくさんの おれたちの雪の言葉
「Siko(シコ 12月)極光」
そう みんな おまえの知らないこと
だから すこし 話しておきたいんだ
子どもだった頃 私が見たことを
「Akjuku(アクジュク 1月)満ちてゆく時間」
この物語は みんな ずっとずっと昔に起きたことだ
それは 見知らぬ人々が まだこの土地にやって来る前のことだった
大地がまだきれいな時のことだった
世界がまだわたしたちだけに属している時のことだった
『星野道夫の仕事』
星野道夫/写真・著
星野道夫、生前最後の写真集。
なぜか、以前は図書館で見つけられなかった1冊(それともなにかの理由で後回しにしたのか?
もしかしたら、「生前最後」ということで最後に残したかったのかもしれない。
32×22cmという横に長い大型本の写真集で、星野さんの撮った写真の数々を観ると、
そこに確実に彼がいて、長い行程を経てそこにたどり着き(飛行機を乗り継ぎ、ボートを漕いで)、
この1枚のために何日~もしかしたら数ヶ月かけてねばって撮った、
その費やした時間、行程、膨大なフィルムの数、交流した人々の顔までもが浮かんでくるようだ。
それぞれの四季の移り変わりを写すのも星野さんの特徴。
2ページ分にカリブーの移動の様子が撮られた写真は、
自分も苦労してそこにたどり着き、奇跡の瞬間に立ち会えたという錯覚さえ起こす。
冷たく澄みきった空気、静かに流れる悠久の時間、動物たちの吐く白い息までが凝縮されている。
もう1つの特徴は、晩年、星野さんがたどり着いたライフワークである、
村のお年寄りから集めた、口伝によって語られる伝説、神話、詩が載せられていること。
その物語の中には、まるで天国のように、ヒトと生きとし生けるものすべてが完璧なバランスで共存していた時代があったことを想像させる。
心を交し合い、互いに敬い、魂は輪廻し、四季は移り変わって、生命は生死を繰り返しながらも受け継がれてる。
自然の中に謙虚に溶け込んでいたヒトの姿が、1つの詩の中に見えて、深い深い感動を与えてくれる。
今、世界でこれほど魂のこもった写真と文を、次世代に残せる人物が果しているかどうか。
そして、同じ四季、同じ場所に、同じように動物たちが生き生きと、それぞれの命を謳歌しているかどうか。
ヒトは確実に変わってしまった。
極北の小さな村にも欧米の消費文化がなだれ込み、一度知った便利さから逃れることはできないだろう。
そんな無常の中でも、失ってしまったもの、失われつつあるものを守り、復元する力もヒトは持っている。
争わず、分け合うココロは残っているはずだと信じたい。
そんな希望も、星野さんの作品から受け取ることができる。
その最後の分かれ道に立った私たちは、一体どちらの道を選ぶだろうか?
2月からはじまって、1月で終わる、長い長い旅だった。
そして、その旅がひと巡りすると、また最初から同じ旅が静かにはじまる。
氷は解け、生きものは目覚め、河は流れ、豊かな恵みをたたえて、
短い太陽の光とともに命がもえあがり、躍動する。
今、こうしてエアコンで暖められ、テレビに興じている間にも、
かれらは地球のあらゆるところで、その命をつないでいるんだ。
【内容抜粋メモ】
●星野道夫
『SINRA』『GEO JAPAN』等、日本の雑誌はもとより、
『ナショナル・ジオグラフィック』『オーデュポン』等の海外の著名雑誌にも写真を発表。
1993年10月から3ヶ月間、日本人写真家として初めて、アメリカのピッツバーグにあるカーネギー自然科学博物館にて写真展を開催。
本書は、フェアバンクスに居を構える著者が、原野を旅しながら、アラスカとカナダ北極圏の12カ月の自然を撮影したものである。
●「魔法のことば」
「遥かなる極北の記憶」
エスキモーはあらゆる自然現象さえ、人間と同じように生きていると考えていた。
これらすべてのものは、それぞれの所有者、イヌア(inua)をもっていた。
それらは人間の姿をしていると信じられていたのである。
エスキモーは、霊魂の観念をもっていた。
名前さえも魂で、人が死ぬと、同じ名が嬰児に命名されるまで、魂はその人間の死体にとどまった。
カリブーを仕留めると、頭部を切り落として残す。
カリブーは次の季節に毛皮を着て、肉をつけて戻ってくると信じていたからである。
エスキモーは、人間を超えた存在、神秘的な力を信じていた。
これはシラ(sila)といわれるもので、最高神に近いものらしい。
異常な自然現象、予期しない出来事はシラに帰するのである。
このイヌア、魂、シラが、エスキモーの宗教世界における根本概念だった。
それは、いわゆる「アニミズム」と呼ばれる思想である。
しかし、アラスカ先住民の世界を旅しながら、近代化の洗礼がいかに人々の暮らし、精神世界を変えていったのかもまた見続けてきた。
それはそのまま、鏡に写しだされた私たち自身の姿でもあった。
科学の知はなぜか私たちと世界とのつながりを語ってはくれない。
それどころか、世界は自己から切り離され、対象化され、精神的な豊かさからどんどんと遠ざかってゆく。
狩人たちは、クジラを引き上げ、解体が終わると、巨大な頭骨を海に落とした。
“また戻って来いよ”と、誰も叫んでいた。
自然と人間は一体化し、人々はクジラを通して、自分を世界の中に位置づけていたのである。
******************************
クイーンシャーロットに、長い間想い続けてきた、歳月に風化したトーテムポールを見つけた。
人々の夢、喜び、悲しみ、怒りを時の流れの中に押し包んだまま、シーンとした浜辺に今なお立ち続けている。
人間の歴史は、ブレーキのないまま、ゴールの見えない霧の中を走り始めている。
しかし、ホモサピエンスの物語りにまだ時間が残されているならば、もう1度、そして命がけで、
私たちの新しい神話をつくらなければならない時が来るのかもしれない。
******************************
「Peksok(ペクソク 2月)吹雪の日々」
はるかな昔、1羽のワタリガラスが舞い降りた。
“わたしは、そこにあるエンドウの鞘から生まれました”
ワタリガラスは、地上をあらゆる生きものたちですこしずつ満たしていった。
“おまえはたった1人で淋しいだろう”
ワタリガラスが翼をはばたかせると、1人の美しい女が現れた。
そしてワタリガラスはふと考えた。
人間が恐れをもつ何かを造らねば、この地上にこしらえたすべてのものを、いつか滅ぼしてしまうにちがいない。
ワタリガラスは1頭のクマを形づくり、そこに命を吹き込んだ・・・(エスキモーの創世神話より)
「Netchualoot(ネチアルート 3月)ネチェックアザラシの誕生」
「おれはカヤックで沖に出ていた~」からはじまるエスキモーの歌『魔法としての言葉』金関寿夫著より
「Terriglullioot(テリグルリュート 4月)雪どけの大地」
老婆の語る民話は、すべてが海を越えたシベリアエスキモーの物語だった。
極北の草原にライオンがさまよい、マンモスの群れが通り過ぎてゆく。
私は、時空を超えた、老婆の不思議な語りに引き込まれていった。
海に沈んだ壮大な草原「ベーリンジア」がゆっくりと浮かびあがってきた。
「Upernark(ウペルナーク 5月)早春の森」
ずっと昔、弓矢と槍しかなかった頃、狩りの上手な者は、いつも獲物を皆と分けた。
分け合うということは大切なことだった。
狩りに行って、ワタリガラスに出合うと、人々はこう話しかけた。
“おじいさん、私に獲物を落としてください”
「Oopungakshuk(ウープニャクシュク 6月)夏の光」
おれは 夢を見ていた
カリブーの古い足あとや 頭骨のある
ヌプスィック谷の あったかい 夏の草むらで
おれは いつのまにか 眠っちまったらしい
気がつくと
あたりは 見わたすかぎりのカリブーで
おれのまわりを 音もたてずに 通りすぎてゆくじゃないか
あの秋の日 おれが殺した
美しい片角のカリブーがいる
村一番の狩人だった 死んだ
パニアックじいさんが
カリブーと一緒に 旅をしている
おれは 夢を見ていた
ヌプスィックの谷の あったかい 夏の草むらで
「Mittiadlut(ミティアドルト 7月)豊かな海流」
クジラが大きな口を開けて、澄み切った空の空気をほしいままに吸っていた。
するとワタリガラスが突然クジラの大きな口の中に飛び込んだ。
呑気なワタリガラスは、クジラの腹の中で唄をうたっていた。
通りかかった村人が、クジラの腹からワタリガラスが出てきて驚き、
村の長になってくれぬかと願い、ワタリガラスは人となって、この村をおさめた。
「Ukiak(ウキアック 8月)秋の日々」
エスキモーの老婆がふと立ち止まり、土を掘りおこすと、小さなエスキモーポテトのかたまりが見つかった。
いじらしいほどきれいに積まれたそのかたまりに、冬を越そうとするジネズミのたしかな意志があった。
老婆は、その半分だけとって、もってきたドライフィッシュを代わりに入れ、ふたたび穴を土で覆った。
世界がただそうであった時の、古い物語の風が吹いていた。
「Ookuikshak(ウークィクシャク 9月)美しい角」
生きものがいなくなってしまったら 私たちはこの土地に生きてゆくことはできない
だからこそ動物たちを敬わなければならないんだ
オオカミやクズリをワナで捕えたとき
私はいつだってムースの脂肪を鼻に塗ってあげる
こいつらの魂に食べさせてあげるのさ
「Ookiak(ウーキアック 10月)冬の匂い」
1人の若者が山へクマを狩りに出かけた。
巣穴を見つけてクマを殺し、凍えそうな若者は巣穴で一夜を明かすことにした。
やっと目を覚ますと、もう春だった。
冬の間、ずっと若者を捜していた人々は驚き、1人の村人が言った。
“クマの巣穴で寝てはいけないと、おまえの父親は教えなかったのか?”
「Khianguliut(キアングリュート 11月)雪の言葉」
アニュイ(降りしきる雪)
プカック(雪崩を引き起こす雪)
スィクォクトアック(太陽にあたためられた雪)、、、
たくさんの たくさんの おれたちの雪の言葉
「Siko(シコ 12月)極光」
そう みんな おまえの知らないこと
だから すこし 話しておきたいんだ
子どもだった頃 私が見たことを
「Akjuku(アクジュク 1月)満ちてゆく時間」
この物語は みんな ずっとずっと昔に起きたことだ
それは 見知らぬ人々が まだこの土地にやって来る前のことだった
大地がまだきれいな時のことだった
世界がまだわたしたちだけに属している時のことだった
『星野道夫の仕事』