■『日本語を味わう名詩入門1 宮沢賢治』(あすなろ書房)
萩原昌好/編 唐仁原教久/絵
図書館巡りで見つけた1冊。
童話はけっこう読んだけど、詩についてはあまり知らない賢治。
そもそも「詩」というだけで、「なにか高尚すぎて分からないからいいです」と嫌煙されがち。
それを敢えて、子どもにも、大人にも、その味わい深さを知ってもらいたいという試みはステキ。
そして、その最初の1巻目が私の大好きな宮沢賢治
もう1篇1篇読むたびに涙がぼろぼろとこぼれて仕方なかった。
賢治の詩こそ、声に出して読むとより心に沁みると書いてあって、やってみたが、
途中で胸がつまって声にならなくなる。
でも、ユニークな詩もあるし、賢治が愛した岩手の自然の風景が見えるようで
分かりにくい科学用語や、方言などには、すぐ下に説明書きもあるし、
改めて、賢治の詩の世界をもっと読んでみたいと思わせる1冊。
賢治の詩で好きなのは、擬声語の楽しさ、方言の素朴さ、旧漢字のオシャレな使い方などなど。
【内容抜粋メモ】
詩とは
日本の詩の原点と言われるのは、和歌や俳句。
「五七五」「五七五七七」は、日本語の中でもっともリズム感の高い音数とされている。
例:サトウハチローの『むかしの家の垣根には』
「定型詩」決められた音数でつくる
「口語自由詩」音数にとらわれずにつくる
文字を目で追うだけでなく音読することで、その詩に込められた言葉のリズムを体感できる。
「屈折率」(もうコレから泣ける/涙
何が本当の幸せなのかを考えつづけた詩人の心を思いうかべられると、良さが分かるのではないか。
「くらかけの雪」
「鞍掛山」は岩手山(岩手県の最高峰。岩手富士とも呼ばれる)の脇にある小さな山。賢治はとりわけこの山を愛した。
山に向かって祈るのは、自然に対して、心底感動したとき。
「日輪と太市」
日輪=太陽
「恋と病熱」
疾む=病む
(結核のため床にふし、毎日今ごろになると、ちょうど発熱してしまう妹のことを
「つめたい青銅(ブロンズ)の病室で 透明薔薇の火に燃される」って美しい表現だなあ!
「春と修羅」
mental sketch modified=修飾された心象スケッチ
(この「心象スケッチ」という言葉がとてもステキだと思い、自分のブログにも使わせてもらっています/礼
賢治とってこの時の「春」は怒りの季節だったのでしょう。
そういう自分と、目にうつる世界を「修羅」と表した。
この世界が、賢治の理想とあまりにも隔たっているための怒りかもしれません。
「ZYPRESSEN(ツィプレッセン)」とは、ドイツ語で「イトスギ」。
花巻には絲杉はない。しかしこの時、賢治には普通の杉並木も、ゴッホが好んで描いた絲杉に見えたのかもしれません。
「雲の信号」
賢治は愛する岩手県を、エスペラント語で「イーハトーブ」と名付けた。
人間も、自然も、生きている時間に違いはあっても、同じように呼吸して、共に生きている、という思いが伝わります。
「報告」
賢治は、生きとし生けるものはもとより、あらゆるものに生命があると考え、それぞれを慈しみました。
雨、雲、岩、山も同じです。
「岩手山」
岩手山は大変に美しく雄大な山で、賢治はとても愛し、何十回も登りました。
「高原」
岩手県には、こんな高原がいくつかあります。外山、種山が原など。
「原体剣舞連」
「師父(しふ)」=賢治は、経験の深い農民のことを敬愛の情を持ってこう呼んだ。
東北地方の厳しい風土に根ざす農村は、多くの農民の苦労と知恵で支えられてきました。
「永訣の朝」
(この妹が言う「あめゆじゅとてちてけんじゃ」は、いつ読んでも涙が出る。
「うまれでくるたて こんどはこたにわりゃのごとばかりで くるしまなえよにうまれてくる」
(今度生まれてくる時は、こんなに自分のことばかりで苦しまないように生まれてきます)
妹トシは1922年111月27日に結核のために亡くなりました。賢治にとって、トシはよき理解者でした。
自分ではなく、他人のために苦しめるように生まれ変わりたいという意味でしょう。
ちなみに、この詩は、高村光太郎の妻・智恵子の死をうたった「レモン哀歌」に影響を与えたと言われています。
「山火」
「山焼き」は、前年の草や木々についた害虫などを焼き殺して、よい草がとれるようにしたり、
灰がそのまま肥料になるため、山を焼くこと。賢治の下書き原稿に「北上山地四月恒例の山火です」とある。
「曠原淑女(こうげんしゅくじょ)」
「馬」(これも泣いた
馬や牛は、当時、家族と同様、大切に扱われていました。
「薤露青 (かいろせい) 」
「あゝ いとしくおもうものが
そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが
なんといういゝことだろう・・・」
トシさんは、人ではなく別の形で、あらゆる自然や生きとし生けるものすべての中に存在するのだ、と賢治は考えたのです。
「母に言う」(これは笑ってしまった
賢治の母イチさんは、いつも微笑みを絶やしたことがなく、物静かな人でした。
賢治は、この母のお陰でどんなに救われたか分かりません。
「春」
1926年、賢治はそれまで勤務した花巻農学校を退職し、下根子桜という所で自給自足の生活を始めました。
当時の農民の物質的な貧しさもさることながら、精神的にまで貧しくなってはならない、
そして、農村の生活自体が芸術となるようにと『農民芸術概論』で説いています。
「政治家」(これは共感
あっちもこっちも、何か利権に絡んだことを種にひと騒ぎ起こしては、何食わぬ顔をしている連中への怒りの言葉です。
皆の幸せを求めて共に歩もうとしても、目先のことしか考えず、一円でも余計に儲けようと目の色を変えて飛び回る人たち。
〔あすこの田はねえ〕
この詩に出てくる少年は実在の人です。
賢治はかなり「肥料設計図」を書いたのですが、現在あまり多く残っていません。
田の土質はそれぞれ違います。だから肥料の配合比率も、土壌を考えて1枚1枚書き分けねばなりません。
「泣きながら からだに刻んでいく勉強が 新しい学問のはじまりなんだ」
本当の教師とは、子どもたちに身をもって教えられる人のことをいうのではないでしょうか。
〔もうはたらくな〕
1927年の7月に書かれた前の詩では天候は良好だったようですが、8月、たった1カ月ですっかり絶望してしまいます。
原因は、半月にもわたる曇天と、今朝の激しい雷雨のためです。
稲を育てるのは本当に難しいことです。
苗の頃は十分に水が必要なので雨が降らねばならず、花が咲いて、実を熟成させるためには高温、十分な太陽光が必要です。
東北地方は夏の高温が得られないために、何度も飢饉に襲われました。
「病床」
ここからの3篇は、賢治の最晩年の頃の詩です。
この詩がつくられたのは、最初に病で倒れた1928年の頃かと思われます。
「眼にて言う」
声に出して言うことができないので、眼で語るということです。
賢治は、あまりにも身体と酷使しすぎたと思います。
皆が同じように幸せになることが賢治の理想でした。そのためには、自分の身体などどうでもよかったのです。
死を前にしても、爽やかに自分を見つめている賢治の澄んだ心根に学ぶべきものは多いでしょう。
〔雨ニモマケズ〕
宮沢賢治という詩人であり、作家、そして科学者であった人物の特色が一応に見通せる詩です。
彼の生涯においていきついた1つの精神を表しているといってもよいと思います。
賢治は1933年9月21日に結核で亡くなりました。
【詩人のプロフィール】
盛岡高等農林学校を首席で入学し、この頃から文学にも惹かれ、級友と同人誌『アザリア』を発行し、短歌などを掲載しています。
ここで学んだ土壌学、地質学、化学のほか、『漢和対照妙法蓮華経』に接したことも重要でしょう。
1921年、花巻農学校の教員になった頃が賢治にとって最も満ち足りた日々だったようで、
創作も活発に行い、盛んに童話や詩を発表しています。
『春と修羅』は、今でこそ有名ですが、当時はさっぱりわけのわかない詩集として、ほとんど売れず、不評だったようです。
1926年、花巻農学校の教員を辞めて、「羅須地人協会」を作り、農民のための活動を始めます。
しかし、その過労がたたり、1928年、結核を患い、1933年に亡くなりました。
「雨ニモマケズ」はこの頃に手帳に書かれ、亡くなった後に発見されました。
数少ない理解者の詩人・草野心平、哲学者・谷川徹三などによって、その真価が次第に認められ今日に至っています。
【詩の理解を深めるために】
この巻の多くは、『春と修羅』第一集から採ってあります。『春と修羅』は第三集まであります。
なにより重要なのは、賢治が詩人、童話作家としてだけでなく、当時の花巻を中心とする農民の生活向上を目指し、
さらに世界全体の幸福を希い、精力的に活動していたことです。
賢治は、科学と宗教と文学、そして芸術全体を統合した理想世界を求めていました。
(ここが共感し、感動する理由だな
時に難解だと言われますが、丁寧に読むとそれほど難解なものは多くありません。
その時々に、彼の心に映った自然や人間の世界をありのままに写しとったと考えると納得できます。
こうした自分の執筆のあり方を「心象スケッチ」と呼んでいます。
賢治は、机の前でじっと瞑想するタイプではありませんでした。
絶えず歩き、自然の種々の存在と語り合いながら作品を創り続けたのです。
詩の形にするには、もちろん何度も推敲していますが、
本質的な原体験、最初に出会った驚き、喜び、恐れ、悲しみが作品の生命の根元となっているといっても過言ではないでしょう。
分かりにくさの大部分はここにあります。
賢治の詩の魅力を最大限に引き出すには、なによりも声に出して何度も何度も読むことです。
賢治は自作の詩を友人や知人に読みあげたということです。
次に詩の独自の手法、例えば会話体のものや、()でくくられた表現、
行ごとに2字、3字ずつ下がったりする詩の形式に注意して読むことが大切でしょう。
詩の形式は、叙述と心象の表れ方の相違や、心の高まりと深く関わっているようです。
【父母と教師のみなさんへ】
近頃の子どもは本を読まないといわれます。しかし、本当にそうでしょうか? 問題はその種類や内容です。
心を育成するものより、興味本位のものを読んでいると思います。
詩は子どもたちの心に直接的に訴えるには最も適切です。
最初は難しいかもしれません。でも、その難しさを越えて、まずホンモノを与えるべきだというほうを選択しました。
萩原昌好/編 唐仁原教久/絵
図書館巡りで見つけた1冊。
童話はけっこう読んだけど、詩についてはあまり知らない賢治。
そもそも「詩」というだけで、「なにか高尚すぎて分からないからいいです」と嫌煙されがち。
それを敢えて、子どもにも、大人にも、その味わい深さを知ってもらいたいという試みはステキ。
そして、その最初の1巻目が私の大好きな宮沢賢治
もう1篇1篇読むたびに涙がぼろぼろとこぼれて仕方なかった。
賢治の詩こそ、声に出して読むとより心に沁みると書いてあって、やってみたが、
途中で胸がつまって声にならなくなる。
でも、ユニークな詩もあるし、賢治が愛した岩手の自然の風景が見えるようで
分かりにくい科学用語や、方言などには、すぐ下に説明書きもあるし、
改めて、賢治の詩の世界をもっと読んでみたいと思わせる1冊。
賢治の詩で好きなのは、擬声語の楽しさ、方言の素朴さ、旧漢字のオシャレな使い方などなど。
【内容抜粋メモ】
詩とは
日本の詩の原点と言われるのは、和歌や俳句。
「五七五」「五七五七七」は、日本語の中でもっともリズム感の高い音数とされている。
例:サトウハチローの『むかしの家の垣根には』
「定型詩」決められた音数でつくる
「口語自由詩」音数にとらわれずにつくる
文字を目で追うだけでなく音読することで、その詩に込められた言葉のリズムを体感できる。
「屈折率」(もうコレから泣ける/涙
何が本当の幸せなのかを考えつづけた詩人の心を思いうかべられると、良さが分かるのではないか。
「くらかけの雪」
「鞍掛山」は岩手山(岩手県の最高峰。岩手富士とも呼ばれる)の脇にある小さな山。賢治はとりわけこの山を愛した。
山に向かって祈るのは、自然に対して、心底感動したとき。
「日輪と太市」
日輪=太陽
「恋と病熱」
疾む=病む
(結核のため床にふし、毎日今ごろになると、ちょうど発熱してしまう妹のことを
「つめたい青銅(ブロンズ)の病室で 透明薔薇の火に燃される」って美しい表現だなあ!
「春と修羅」
mental sketch modified=修飾された心象スケッチ
(この「心象スケッチ」という言葉がとてもステキだと思い、自分のブログにも使わせてもらっています/礼
賢治とってこの時の「春」は怒りの季節だったのでしょう。
そういう自分と、目にうつる世界を「修羅」と表した。
この世界が、賢治の理想とあまりにも隔たっているための怒りかもしれません。
「ZYPRESSEN(ツィプレッセン)」とは、ドイツ語で「イトスギ」。
花巻には絲杉はない。しかしこの時、賢治には普通の杉並木も、ゴッホが好んで描いた絲杉に見えたのかもしれません。
「雲の信号」
賢治は愛する岩手県を、エスペラント語で「イーハトーブ」と名付けた。
人間も、自然も、生きている時間に違いはあっても、同じように呼吸して、共に生きている、という思いが伝わります。
「報告」
賢治は、生きとし生けるものはもとより、あらゆるものに生命があると考え、それぞれを慈しみました。
雨、雲、岩、山も同じです。
「岩手山」
岩手山は大変に美しく雄大な山で、賢治はとても愛し、何十回も登りました。
「高原」
岩手県には、こんな高原がいくつかあります。外山、種山が原など。
「原体剣舞連」
「師父(しふ)」=賢治は、経験の深い農民のことを敬愛の情を持ってこう呼んだ。
東北地方の厳しい風土に根ざす農村は、多くの農民の苦労と知恵で支えられてきました。
「永訣の朝」
(この妹が言う「あめゆじゅとてちてけんじゃ」は、いつ読んでも涙が出る。
「うまれでくるたて こんどはこたにわりゃのごとばかりで くるしまなえよにうまれてくる」
(今度生まれてくる時は、こんなに自分のことばかりで苦しまないように生まれてきます)
妹トシは1922年111月27日に結核のために亡くなりました。賢治にとって、トシはよき理解者でした。
自分ではなく、他人のために苦しめるように生まれ変わりたいという意味でしょう。
ちなみに、この詩は、高村光太郎の妻・智恵子の死をうたった「レモン哀歌」に影響を与えたと言われています。
「山火」
「山焼き」は、前年の草や木々についた害虫などを焼き殺して、よい草がとれるようにしたり、
灰がそのまま肥料になるため、山を焼くこと。賢治の下書き原稿に「北上山地四月恒例の山火です」とある。
「曠原淑女(こうげんしゅくじょ)」
「馬」(これも泣いた
馬や牛は、当時、家族と同様、大切に扱われていました。
「薤露青 (かいろせい) 」
「あゝ いとしくおもうものが
そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが
なんといういゝことだろう・・・」
トシさんは、人ではなく別の形で、あらゆる自然や生きとし生けるものすべての中に存在するのだ、と賢治は考えたのです。
「母に言う」(これは笑ってしまった
賢治の母イチさんは、いつも微笑みを絶やしたことがなく、物静かな人でした。
賢治は、この母のお陰でどんなに救われたか分かりません。
「春」
1926年、賢治はそれまで勤務した花巻農学校を退職し、下根子桜という所で自給自足の生活を始めました。
当時の農民の物質的な貧しさもさることながら、精神的にまで貧しくなってはならない、
そして、農村の生活自体が芸術となるようにと『農民芸術概論』で説いています。
「政治家」(これは共感
あっちもこっちも、何か利権に絡んだことを種にひと騒ぎ起こしては、何食わぬ顔をしている連中への怒りの言葉です。
皆の幸せを求めて共に歩もうとしても、目先のことしか考えず、一円でも余計に儲けようと目の色を変えて飛び回る人たち。
〔あすこの田はねえ〕
この詩に出てくる少年は実在の人です。
賢治はかなり「肥料設計図」を書いたのですが、現在あまり多く残っていません。
田の土質はそれぞれ違います。だから肥料の配合比率も、土壌を考えて1枚1枚書き分けねばなりません。
「泣きながら からだに刻んでいく勉強が 新しい学問のはじまりなんだ」
本当の教師とは、子どもたちに身をもって教えられる人のことをいうのではないでしょうか。
〔もうはたらくな〕
1927年の7月に書かれた前の詩では天候は良好だったようですが、8月、たった1カ月ですっかり絶望してしまいます。
原因は、半月にもわたる曇天と、今朝の激しい雷雨のためです。
稲を育てるのは本当に難しいことです。
苗の頃は十分に水が必要なので雨が降らねばならず、花が咲いて、実を熟成させるためには高温、十分な太陽光が必要です。
東北地方は夏の高温が得られないために、何度も飢饉に襲われました。
「病床」
ここからの3篇は、賢治の最晩年の頃の詩です。
この詩がつくられたのは、最初に病で倒れた1928年の頃かと思われます。
「眼にて言う」
声に出して言うことができないので、眼で語るということです。
賢治は、あまりにも身体と酷使しすぎたと思います。
皆が同じように幸せになることが賢治の理想でした。そのためには、自分の身体などどうでもよかったのです。
死を前にしても、爽やかに自分を見つめている賢治の澄んだ心根に学ぶべきものは多いでしょう。
〔雨ニモマケズ〕
宮沢賢治という詩人であり、作家、そして科学者であった人物の特色が一応に見通せる詩です。
彼の生涯においていきついた1つの精神を表しているといってもよいと思います。
賢治は1933年9月21日に結核で亡くなりました。
【詩人のプロフィール】
盛岡高等農林学校を首席で入学し、この頃から文学にも惹かれ、級友と同人誌『アザリア』を発行し、短歌などを掲載しています。
ここで学んだ土壌学、地質学、化学のほか、『漢和対照妙法蓮華経』に接したことも重要でしょう。
1921年、花巻農学校の教員になった頃が賢治にとって最も満ち足りた日々だったようで、
創作も活発に行い、盛んに童話や詩を発表しています。
『春と修羅』は、今でこそ有名ですが、当時はさっぱりわけのわかない詩集として、ほとんど売れず、不評だったようです。
1926年、花巻農学校の教員を辞めて、「羅須地人協会」を作り、農民のための活動を始めます。
しかし、その過労がたたり、1928年、結核を患い、1933年に亡くなりました。
「雨ニモマケズ」はこの頃に手帳に書かれ、亡くなった後に発見されました。
数少ない理解者の詩人・草野心平、哲学者・谷川徹三などによって、その真価が次第に認められ今日に至っています。
【詩の理解を深めるために】
この巻の多くは、『春と修羅』第一集から採ってあります。『春と修羅』は第三集まであります。
なにより重要なのは、賢治が詩人、童話作家としてだけでなく、当時の花巻を中心とする農民の生活向上を目指し、
さらに世界全体の幸福を希い、精力的に活動していたことです。
賢治は、科学と宗教と文学、そして芸術全体を統合した理想世界を求めていました。
(ここが共感し、感動する理由だな
時に難解だと言われますが、丁寧に読むとそれほど難解なものは多くありません。
その時々に、彼の心に映った自然や人間の世界をありのままに写しとったと考えると納得できます。
こうした自分の執筆のあり方を「心象スケッチ」と呼んでいます。
賢治は、机の前でじっと瞑想するタイプではありませんでした。
絶えず歩き、自然の種々の存在と語り合いながら作品を創り続けたのです。
詩の形にするには、もちろん何度も推敲していますが、
本質的な原体験、最初に出会った驚き、喜び、恐れ、悲しみが作品の生命の根元となっているといっても過言ではないでしょう。
分かりにくさの大部分はここにあります。
賢治の詩の魅力を最大限に引き出すには、なによりも声に出して何度も何度も読むことです。
賢治は自作の詩を友人や知人に読みあげたということです。
次に詩の独自の手法、例えば会話体のものや、()でくくられた表現、
行ごとに2字、3字ずつ下がったりする詩の形式に注意して読むことが大切でしょう。
詩の形式は、叙述と心象の表れ方の相違や、心の高まりと深く関わっているようです。
【父母と教師のみなさんへ】
近頃の子どもは本を読まないといわれます。しかし、本当にそうでしょうか? 問題はその種類や内容です。
心を育成するものより、興味本位のものを読んでいると思います。
詩は子どもたちの心に直接的に訴えるには最も適切です。
最初は難しいかもしれません。でも、その難しさを越えて、まずホンモノを与えるべきだというほうを選択しました。