■『NHKテレビテキスト 知楽遊学シリーズ 植村直己』
日本放送出版協会/編集
8月は植村直己さん、9月は星野道夫さんを特集している。
【内容抜粋メモ】
【9月 星野道夫 生命(いのち)へのまさざし】
著者:今森光彦、湯川豊、星野直子、池澤夏樹
16歳でブラジル移民船「あるぜんちな丸」に乗ってロサンゼルスへ。約2ヶ月のヒッチハイク旅行だった
●「生きていることの不思議」今森光彦(同じ写真家で、友人、よきライバルでもあった)
動物写真家と昆虫写真家
星野さんは2つ年上のほぼ同世代、写真家デビューも同じ頃。
撮影対象は、僕は昆虫で、彼はアラスカの野生動物。
当時「ネイチャーフォト」というジャンルが確立しておらず、
動物写真、植物写真、風景写真などとカテゴリーごとに分けられていた。
自然雑誌『アニマ』は、2人とも大変お世話になった。
動物写真にとても貢献していて、質の高い作品を世に広め、数多くの写真家を輩出した。
1973年に創刊、1993年に休刊、この20年は「動物写真の黄金時代」と呼べる。
創刊当時「動物行動学の母」コンラート・ローレンツが1973年、ノーベル生理学・医学賞を受賞。
「動物行動学」という学問も確立された。
『アニマ』は、写真家と学者を組ませて、動物の生態を観察するという編集方針を確立し、二人三脚の現場が増えた。
これは生き物の真実の姿を探るにはいいかもしれないが、写真の芸術性が希薄になる。
海外ではすでにマクロな視点で動物も風景も同じように撮ることが許されていた。
しかし当時僕たちが要求された写真は、動物単独の写真。
そこに住んでいる人、植物、大地に生きるすべての命と関わりを持っていることなどには、あまり関心が寄せられなかった。
僕も昆虫を撮りながら、すでに「里山」というフィールドをテーマに据えていたから、やはり違和感を覚えていた。
「里山」
自然破壊や、農村の過疎化により荒廃している。
独特な被写体との距離
よく「処女作に作家のすべてがある」と言うが、『グリズリー』には星野さんのエッセンスがすべて入っている。
撮影対象との距離の取り方がその1つ。
写真家は、被写体をとらえると近づきたくなる。
被写体と離れるほど、カメラと被写体との間には空気の層があるから迫力がなくなる。望遠レンズがあっても同じ。
けれども、星野さんは、ある一定の距離以上は被写体に近づかない。近づこうとしない。
おそらくゆっくり時間をかけて被写体をとらえて撮ったのでしょう。こういう背景の入れ方は当時あまりなかった。
その魔法を言葉に表するのは難しいが「優しさ」「謙虚さ」が加味された写真。
動物から人の営みへ
翌年出した『Alaska 風のような物語』は衝撃的だった。
写真は技術ではなく、自分が何を考えているかを表現するための手段にすぎない。
これは前2作と違い、星野さんが作りたいように作らせてもらえた。
最後の転換点になったのは『森と氷河と鯨』。
ネイチャーフォトで人物を入れるのはとても難しい。ヒトは存在感が強いから、途端にドキュメンタリー風になることが多い。
しかし、この中の人々は見事に自然写真になっている。
自然への憧れ
星野さんと話していて「この人は、いわゆるカメラ小僧ではないな。僕と同じ根っから自然が好きな人だ」と感じた。
自然を知るということ
僕と星野さんは、日本とアラスカという、まったく正反対の場所を拠点にしているが、
「環境」に視点を置いているのは共通項。その思いの底にあるのは「生態系としての自然」。
しかし、自然を撮るには、旅行者にはない、定住者の眼、低い視線が必要。
そこで彼は、アラスカに住む決心をする。
自然に潜り込むことは、自分が生態系の網の目の点になること。
写真家は図々しいもので、被写体に向かってズカズカと入り「もう二度と来るな!」と怒鳴られることもある。
でも彼は違う。いつも現地の人に迎えられて、愛される、そして、運命共同体の一員になる。
客観視できる位置に自分を置いておかないと写真が撮れない。それは写真の宿命。
彼にもすでにそういう葛藤があったのではないか。
「ムース」
世界最大のシカ。インディアンの言葉で「木を食うもの」の意味。一般家庭では、1頭で4~5人の1年分の肉がまかなえる。
●「循環する生命」湯川豊(エッセイスト)
魅力的な文章の世界
星野さんは、写真展を開けば1日に1万人以上動員するほど。
けれども彼には『星野道夫著作集』という、文筆家という2つの面を持っていた。
彼の文章は極めて魅力に富み、読む人を動かす力がある。
これは日本文学の世界でもなかった種類のもので、非常に独特な場所を占めるもの。
読書家だった星野の愛読書
星野さんは、州立大学に入った時すでにアラスカのあらゆる所に行きたいという希望があり、
そのためには小型飛行機をハイヤーのように使うためのお金が必要で、
大学が休みになると帰国して、僕が勤めていた文藝春秋で1~2ヶ月ほどバイトをしてアラスカに帰っていた。
いつも彼は「なにか面白い本はありませんか?」と尋ねるので、
池澤夏樹さんの『夏の朝の成層圏』など、いかにも好きそうだと薦めた覚えがある。
彼は、アラスカでキャンプをする時、必ず本をリュックに入れる習慣があった。
『エンデュアランス号漂流』の英語原本を読んだことは『アラスカ 光と風』にも書かれている。
『デルスウ・ウザーラ~沿海州探検行』も記憶に残っている。
彼はゴリド人のデルスウに100%の共感を持っていた。
ゴリド人は、文明から最も遠いところに生きている狩猟採集民。
これは『イニュニック』以後のエスキモーや極北インディアンへの共感と非常に近い。
金関寿夫の『魔法としての言葉』は、何度も話した。
そして『雪原の足あと』を書いた北海道の絵描きで開拓者の坂本直行さんに対する尊敬は、本当に大きかった。
彼の家族に会うエッセイが『旅をする木』にあります。
アラスカ定住を決めてから深まった思想
すごい文章力だと衝撃を受けたのは『イニュニック』。
アラスカの先住狩猟民の世界観と、星野自身の感受性が実に鮮やかに重なっている。
つまり星野が先住民の思想、死生観を理解し、血肉化していた。
インディアンやエスキモーへの共感、アメリカの他州から来て、新しい生き方を求めた白人への共感の2つがある。
『イニュニック』以降の特徴を1つ挙げると、星野は同じ話題を繰り返し何度も書くようになっている。
一般的に言えば、文学の世界では「自己模倣」と呼ばれて避けるべきことだと言われている。
しかし、読み比べると、同じ話題ながら、同じ文章ではない。
少しずつ、1つの体験が文章の中で深まっているのが分かった。
「ポトラッチ」
人類学では「贈与の応酬の儀式」として有名。
星野にとって書くことは、体験の報告ではなく、体験を頭に留めておいて、いつでも引き出せるようにして、
その意味にふと思い当たったり、別の体験時に前の体験が共鳴することで、体験の真の意味を知る。
話題が重なっていると非難するのは簡単だが、これはとても新しいことだと思う。
生命の循環の中で個の生命をとらえる
人間が生きていくということは、他の生きものを殺して、その肉や血を自分の体内に入れること。
「僕はムースになる」とは、ムースという生命体に等しくなると言っている。
1つの生命は独立しているのではなく、動物とヒトには「相互交換性」が存在しているという思想。
これは星野が到達したとても大事な考え方です。
ひとりのヒトの生命は、大きな生命の循環の中では、ほんの数十年というわずかなもの。
それを受け入れることによって、生命の流れに自分の命も参入していると考える。
すると奇妙な安心に似た境地が見えてくる。
医学の発達で平均寿命が延びたけれど、われわれ文明人は常に死を恐れ、脅え続けています。
死の受容より、健康維持、寿命を延ばすことだけ考えている。
しかし、インディアンは、死は必ず来るもので、大きな生命の循環の1つと受け入れている。
『イニュニック』にはこうある。
「自分の分身が一列に並んだら、2000年前の弥生時代の分身はわずか70~80人先。
振り返って、少し目をこらせばその顔をかすかに読み取ることもできる。
僕たち人間の歴史とは、それほどついこの間の出来事なのだ」
そうかと僕は虚をつかれた。
われわれの歴史認識では、人類の2000年は、原始時代~高度文明社会に発展した軌跡としてとらえる。
いわゆる近代の文明社会がいちばん偉いということになる。
しかし、親、その親と考えると、1つの教室におさまるくらいの時間感覚にしかならない。
人間の生命はそんなものなのだと、勇気づけられるような感じをもった。
先住狩猟民の思想を日本語で伝えてくれる
『旅をする木』は、僕が編集者としてつくった本。
もとは生物学者ビル・プルーイット著『極北の動物誌』の章タイトルで、1本のトウヒの果てしない物語。
朽ち果てたように見えても、それは次の生命を維持するために一定の役割をしているのだと、
自然科学的な根拠と、想像力を駆使して書いている。
滅びゆくアラスカ先住狩猟民の感受性、生き方、死生観を、今の日本語で伝えてくれるのは一種の奇跡。
文明が発達し、現在の社会を作り上げるために切り落としてきたことがそこに多くある。
星野はまとめて原稿を書くことができなかったので、手紙好きの星野に書簡形式で原稿を書くことを提案した
(なるほど、だからこんなに親しみやすく、季節の移り変わりから始まって、身近にいるような感覚だったんだ
星野が愛したアラスカ
モンゴロイドの北上
紀元前1万8000年頃にはアメリカ・インディアン、紀元前8000年頃にはエスキモーの先祖となるモンゴロイドが
かつては地続きだったベーリング海峡を渡ってシベリアから北米大陸にやって来た。
一方、ハイダ族など海洋インディアンの祖先は、海から渡来したのではないかと星野は考えていた
●「もうひとつの時間」星野直子(夫人。今は長男とともに日本とアラスカを行き来して、事務所にて作品の管理を務める)
少年のような目をした夫との出会い
出会いは、夫の姉の紹介。17歳年上だとは聞いていたが、第一印象は、とても目がきれいな人だということ。
夫は毎年12月~2月にかけて、日本でまとめて仕事をするため帰国していた。
初めて会って2、3度目に「あなたの夢は何ですか?」と聞かれ、
「フラワーアレンジメントに興味があるけど、踏み出せないでいる」と言うと、
「本当に好きならできるから大丈夫だよ」と言われ、2ヶ月後には退職し、フラワーデザインの学校に入学した。
プロポーズに返事をしたのは1992年。
「いろんなことは考えないでいいから、一度遊びに来てごらん」と言われ、
姉の家族、私の母とともにアラスカに行き、帰ってきてからのことだった。
フェアバンクスの空港に降り立った時、初めて来たのに懐かしい感じがして、とても安心した。
撮影から始まった新婚生活
1993年5月に結婚、6月には日本を離れた。アラスカに着く前に、カナダ領クイーン・シャーロット諸島へトーテムポールの撮影に行った。
「クイーン・シャーロット諸島」
19Cにヨーロッパ人が天然痘を持ち込み、大勢が亡くなって、先住民のハイダ族は村を捨てて、島の反対側に集落をつくった。
一度、フィールドでクマと遭遇したことがある。「ベアスプレー(クマ撃退用)」(そんなのがあるんだ/驚)も近くになく、
私が驚いて「あっ」と声をあげたら、その声にびっくりして行ってしまった。
クマに出会ったらどうしたらいいか夫からとくに言われたことはない。
私たちはここにいるんだよと知らせるために大声で話しながら森を歩くとか、
食料はテントに持ち込まないよう気をつける、ことぐらい。
フィールドにいる時間そのものを楽しむ
夫はまず、撮影の時、目的地に着いたらベースキャンプを作ってから移動した。
移動中にカリブーがいたら撮影することもあった。
いろいろ考えながら歩いているようで、気になったっ場所では立ち止まってファインダーをのぞいたりしていた。
中でも記憶に残っている光景は、カリブーを撮影しに行った秋の北極圏。
北極圏の360度ツンドラが広がっている光景に圧倒された。
フィールドでの光景は、年月が経っても心の中にしっかり残っている。
そして迷ったり、悩んでいる時に、その光景を思い出すと励まされる。
アラスカの寒さと広さが人を温め、近づける
夫は手紙のやりとりを大切にしていた。撮影から戻ると、お風呂に入って、たまった手紙を読むのを楽しみにしていた。
持ち歩くザックにはたいてい手紙が入っていて、ちょっとした時間を見つけては読み、
返事を書けるよう便せん、封筒、切手も入っていた。
夫はおしゃべりではないが、無口でもなかった。
誰に対しても分け隔てなく、同じ態度で接する人だった。
アラスカの友人たちの温かさは、「こうしてあげる」「ああしてあげる」と言葉で言うのではなく、
普段は見守ってくれて、いざという困った時には本当に親身になってくれる、という温かさ。
フェアバンクスの家の土地を買った時、家の周りは土地が痩せていて岩がゴロゴロした粘土質なので、
トラックでいい土を運び、ワイルドフラワーの花の種を蒔いたそうです。
でも蒔きすぎて、近所の人が見に来るくらいたくさんの花が咲いた
息子の誕生、そして星野道夫の遺したもの
今は春と夏にアラスカに行っています。気持ちはフェアバンクスに住みたいのですが、
日本での仕事があり、息子は日本の学校に通っているので、そうもいかない。
“息子には日本の心や、日本的なものを理解できる人になってほしい、過ごした環境で人間は形成されるから、
息子が小さい時期に日本で過ごす時間を持てるようにしたい”という気持ちが夫に強くありました。
家にいる時は毎晩お風呂に入れたり、離乳食をあげたり、オムツを替えてくれたり、息子が生まれてからは長期の撮影が少なくなった気がする。
子どもを背負えるザックを買って、デナリ国立公園にも行ったし、歩けるようになったら、一緒にフィールドに行きたいという思いが強くあったと思う。
アラスカで事故の知らせを聞いても、それまでも留守番が多かったので、また撮影からひょっこり戻ってくるのでは、
という気がしている時期がずいぶん長く続いた。
夫は声高に「自然保護」や「開発反対」を叫ぶ人ではなかったが、自分の写真や文章から、いろんなことを感じてほしいという思いはあったと思う。
撮影日誌をこまめにつけていた/2人の写真
●「長い旅の途上」池澤夏樹(作家)
死をどう受け入れるか
星野は「テレビ番組を一緒に作りませんか」と僕に言った。
1年がかりで、僕がアラスカに何度も通って、アラスカの1年間をドキュメンタリーで構成する話。
彼の死で僕は奮い立った。彼の仕事は凄いものだったけれど、まだ広く世間に認知されていない。
残された我々にできるのは、彼の仕事の真価を世間に知らしめることだと。
彼にはもう新作はない。残ったものを見せていくしかない。
彼はなんといってもクマが好きだった。
それらを含めて、みんな迷いながら、彼の死をどう受け入れるか考えた。ある意味では、まだ解決していないのです。
自分が文筆生活をしている途中で、彼の足跡とクロスすることが何度かあった。
星野をなぞる
たとえばビル・リード(ハイダ族の血をひく母をもつ。カナダの20ドル紙幣にも作品が印刷されている)の彫刻。
ワシントンのカナダ大使館にある彫刻は観る機会はまずないのに、ヴァンクーヴァーで空港のターミナルを歩いていたら、目の前にあった。
大英博物館の所蔵品から好きなものを見つけて、それが作られた場所へ行く『パレオマニア』という仕事では、
1階から3階まで貫いているトーテムポールがあって、それがクイーン・シャーロット諸島のものだった。
「しめた」と思って諸島に行き、星野が書いているニンスティンツのトーテムポールを見た。
気まぐれで行ったフィンランドで太陽が3つに見える「幻日」も星野に報告したかった。
札幌にいた時、すでに星野は「温暖化」に絡むことを書いていたことを思い出した。
「気温が高くなるとカリブーが飢える」雪の表面がカチカチに凍り、餌が食べられなくなる。
北海道の然別湖で1997年、星野の写真展を開き、地元の人たちが氷でブロックを作った。
零度を超えなければ、氷はとてもいい建材なのです。エスキモーのイグルーと同じ原理。
僕はフランスのフォンテーヌブローという町に住んでいる。近くに絵画で有名なバルビゾンという小さな村がある。
カフェがあって、その主がネイチャーフォトの写真家だった。
「君は日本人か? ホシノを知ってるか?」「友だちだった」というと仰天して「神さまのように思っている」と言う。
そういう思いを抱いている人は、たぶん世界中にいる。あれだけの写真は誰にも撮れるものじゃないし、
あんな風にネイチャーの中に入って行く足取りも真似できない、そういう思いが重なった崇拝なのです。
自然とのつながりで自分の命をとらえる
誰にとっても死ぬのは一大事で恐ろしく、なんとか回避しようとして生きている。
命の原理には2つある。自分を生かしめる。それから子孫を残す。動物の場合ははっきり分かりやすい。
できる限り長生きして、できる限りたくさんの子孫を残そうとして、最後には死ぬ。それは大抵、老衰ではない。
ヒトは増えすぎたものだから、世界中のあちこちでストレスがたまって、相互に衝突している
「人は人に対してオオカミである(ホモ・ホミニ・ルプス)」という諺がある。
ひどくはびこって、なにかひどく歪んでしまった。死なないことが、生きていることだと信じてムキになっている。
動物は1頭の犠牲によって他の仲間は生き逃れられる。
オオカミも捕まえやすい弱そうなのを狙うから、ある意味、淘汰にもなる。
全体として見れば、その1頭の死はムダでもなく、悪でもない。
星野の写真や文章から、死んでもいいんだ、固体が死ぬこと自体悪ではない。
死は生とセットになっていると気がついた。
アラスカの死生観に学ぶ
星野がいちばんそれをうまく伝えたのは『旅をする木』。
彼はアラスカの雪原の中にたった一人でいても、仲間の一人であり、日本人の一人であり、
一人の人間だと深く意識しているから、まったく孤独ではない。
死を含めて自然は放っておけばうまくいくもの。よくないことをするのは大体人間。
自然を傷つけると、その結果は人間に返ってくる。
生と死について星野が考えていたのは、精神の安寧のため、静かに生きて満ち足りて、貪らないで生きるための大事な知恵だったのではないか。
自然の前でいかに自分が小さな存在かという認識。
インディアンやエスキモーの暮らした跡が何も残らない悠久の時間を前にすると、比べるのがバカバカしくなる。
北極星をめざして
彼は自然に入っていって、その意味を読み解いて、生命とは何かという重大なメッセージを得て、非常に劇的な死に方で逝ってまった。
残った者は一所懸命解釈する。まるでキリストと使徒たちの関係のように。
直子さんも星野の死後は散々苦労したし、みんなが泣いた。
けれども彼は、ああいう形において成就した。あれで完成したんだと、僕は敢えて言ってしまう。
いつでも死は中断だけれども、同時に、完成であるような死に方をしたいと思う。
リアリティのない代替物に取り巻かれた我々の暮らし方。どんどん変なほうに進んでいく時に、
彼は羅針盤であり、北極星なんですよ
僕が生まれて間もないカリブーの子で、オオカミに食われた時、
そこに人間の尊厳を持ち出すよりは、自然一般における生命の尊厳を前提にするほうが僕は好きなんです。
自然の中に戻る
星野は、人がいない場所にすごく魅かれていた。
食べることと、子を育てること、歳をとったら死ぬこと、ほかのことは全部二次的なことだ。
生命がいつも互いに重なり合っている。「トーテミズム」というのは、ある意味そうでしょう。
ヒトはやはり生きることに意味づけしたい。
けれど、自然と切り離された別の存在だから自分たちは値打ちがあるんだ、ではなく、
どうすれば自然の中にもういっぺん自分を組み込むことができるか、なのです。
「トーテームポール」は各家系の物語を刻んだもの。
日本放送出版協会/編集
8月は植村直己さん、9月は星野道夫さんを特集している。
【内容抜粋メモ】
【9月 星野道夫 生命(いのち)へのまさざし】
著者:今森光彦、湯川豊、星野直子、池澤夏樹
16歳でブラジル移民船「あるぜんちな丸」に乗ってロサンゼルスへ。約2ヶ月のヒッチハイク旅行だった
●「生きていることの不思議」今森光彦(同じ写真家で、友人、よきライバルでもあった)
動物写真家と昆虫写真家
星野さんは2つ年上のほぼ同世代、写真家デビューも同じ頃。
撮影対象は、僕は昆虫で、彼はアラスカの野生動物。
当時「ネイチャーフォト」というジャンルが確立しておらず、
動物写真、植物写真、風景写真などとカテゴリーごとに分けられていた。
自然雑誌『アニマ』は、2人とも大変お世話になった。
動物写真にとても貢献していて、質の高い作品を世に広め、数多くの写真家を輩出した。
1973年に創刊、1993年に休刊、この20年は「動物写真の黄金時代」と呼べる。
創刊当時「動物行動学の母」コンラート・ローレンツが1973年、ノーベル生理学・医学賞を受賞。
「動物行動学」という学問も確立された。
『アニマ』は、写真家と学者を組ませて、動物の生態を観察するという編集方針を確立し、二人三脚の現場が増えた。
これは生き物の真実の姿を探るにはいいかもしれないが、写真の芸術性が希薄になる。
海外ではすでにマクロな視点で動物も風景も同じように撮ることが許されていた。
しかし当時僕たちが要求された写真は、動物単独の写真。
そこに住んでいる人、植物、大地に生きるすべての命と関わりを持っていることなどには、あまり関心が寄せられなかった。
僕も昆虫を撮りながら、すでに「里山」というフィールドをテーマに据えていたから、やはり違和感を覚えていた。
「里山」
自然破壊や、農村の過疎化により荒廃している。
独特な被写体との距離
よく「処女作に作家のすべてがある」と言うが、『グリズリー』には星野さんのエッセンスがすべて入っている。
撮影対象との距離の取り方がその1つ。
写真家は、被写体をとらえると近づきたくなる。
被写体と離れるほど、カメラと被写体との間には空気の層があるから迫力がなくなる。望遠レンズがあっても同じ。
けれども、星野さんは、ある一定の距離以上は被写体に近づかない。近づこうとしない。
おそらくゆっくり時間をかけて被写体をとらえて撮ったのでしょう。こういう背景の入れ方は当時あまりなかった。
その魔法を言葉に表するのは難しいが「優しさ」「謙虚さ」が加味された写真。
動物から人の営みへ
翌年出した『Alaska 風のような物語』は衝撃的だった。
写真は技術ではなく、自分が何を考えているかを表現するための手段にすぎない。
これは前2作と違い、星野さんが作りたいように作らせてもらえた。
最後の転換点になったのは『森と氷河と鯨』。
ネイチャーフォトで人物を入れるのはとても難しい。ヒトは存在感が強いから、途端にドキュメンタリー風になることが多い。
しかし、この中の人々は見事に自然写真になっている。
自然への憧れ
星野さんと話していて「この人は、いわゆるカメラ小僧ではないな。僕と同じ根っから自然が好きな人だ」と感じた。
自然を知るということ
僕と星野さんは、日本とアラスカという、まったく正反対の場所を拠点にしているが、
「環境」に視点を置いているのは共通項。その思いの底にあるのは「生態系としての自然」。
しかし、自然を撮るには、旅行者にはない、定住者の眼、低い視線が必要。
そこで彼は、アラスカに住む決心をする。
自然に潜り込むことは、自分が生態系の網の目の点になること。
写真家は図々しいもので、被写体に向かってズカズカと入り「もう二度と来るな!」と怒鳴られることもある。
でも彼は違う。いつも現地の人に迎えられて、愛される、そして、運命共同体の一員になる。
客観視できる位置に自分を置いておかないと写真が撮れない。それは写真の宿命。
彼にもすでにそういう葛藤があったのではないか。
「ムース」
世界最大のシカ。インディアンの言葉で「木を食うもの」の意味。一般家庭では、1頭で4~5人の1年分の肉がまかなえる。
●「循環する生命」湯川豊(エッセイスト)
魅力的な文章の世界
星野さんは、写真展を開けば1日に1万人以上動員するほど。
けれども彼には『星野道夫著作集』という、文筆家という2つの面を持っていた。
彼の文章は極めて魅力に富み、読む人を動かす力がある。
これは日本文学の世界でもなかった種類のもので、非常に独特な場所を占めるもの。
読書家だった星野の愛読書
星野さんは、州立大学に入った時すでにアラスカのあらゆる所に行きたいという希望があり、
そのためには小型飛行機をハイヤーのように使うためのお金が必要で、
大学が休みになると帰国して、僕が勤めていた文藝春秋で1~2ヶ月ほどバイトをしてアラスカに帰っていた。
いつも彼は「なにか面白い本はありませんか?」と尋ねるので、
池澤夏樹さんの『夏の朝の成層圏』など、いかにも好きそうだと薦めた覚えがある。
彼は、アラスカでキャンプをする時、必ず本をリュックに入れる習慣があった。
『エンデュアランス号漂流』の英語原本を読んだことは『アラスカ 光と風』にも書かれている。
『デルスウ・ウザーラ~沿海州探検行』も記憶に残っている。
彼はゴリド人のデルスウに100%の共感を持っていた。
ゴリド人は、文明から最も遠いところに生きている狩猟採集民。
これは『イニュニック』以後のエスキモーや極北インディアンへの共感と非常に近い。
金関寿夫の『魔法としての言葉』は、何度も話した。
そして『雪原の足あと』を書いた北海道の絵描きで開拓者の坂本直行さんに対する尊敬は、本当に大きかった。
彼の家族に会うエッセイが『旅をする木』にあります。
アラスカ定住を決めてから深まった思想
すごい文章力だと衝撃を受けたのは『イニュニック』。
アラスカの先住狩猟民の世界観と、星野自身の感受性が実に鮮やかに重なっている。
つまり星野が先住民の思想、死生観を理解し、血肉化していた。
インディアンやエスキモーへの共感、アメリカの他州から来て、新しい生き方を求めた白人への共感の2つがある。
『イニュニック』以降の特徴を1つ挙げると、星野は同じ話題を繰り返し何度も書くようになっている。
一般的に言えば、文学の世界では「自己模倣」と呼ばれて避けるべきことだと言われている。
しかし、読み比べると、同じ話題ながら、同じ文章ではない。
少しずつ、1つの体験が文章の中で深まっているのが分かった。
「ポトラッチ」
人類学では「贈与の応酬の儀式」として有名。
星野にとって書くことは、体験の報告ではなく、体験を頭に留めておいて、いつでも引き出せるようにして、
その意味にふと思い当たったり、別の体験時に前の体験が共鳴することで、体験の真の意味を知る。
話題が重なっていると非難するのは簡単だが、これはとても新しいことだと思う。
生命の循環の中で個の生命をとらえる
人間が生きていくということは、他の生きものを殺して、その肉や血を自分の体内に入れること。
「僕はムースになる」とは、ムースという生命体に等しくなると言っている。
1つの生命は独立しているのではなく、動物とヒトには「相互交換性」が存在しているという思想。
これは星野が到達したとても大事な考え方です。
ひとりのヒトの生命は、大きな生命の循環の中では、ほんの数十年というわずかなもの。
それを受け入れることによって、生命の流れに自分の命も参入していると考える。
すると奇妙な安心に似た境地が見えてくる。
医学の発達で平均寿命が延びたけれど、われわれ文明人は常に死を恐れ、脅え続けています。
死の受容より、健康維持、寿命を延ばすことだけ考えている。
しかし、インディアンは、死は必ず来るもので、大きな生命の循環の1つと受け入れている。
『イニュニック』にはこうある。
「自分の分身が一列に並んだら、2000年前の弥生時代の分身はわずか70~80人先。
振り返って、少し目をこらせばその顔をかすかに読み取ることもできる。
僕たち人間の歴史とは、それほどついこの間の出来事なのだ」
そうかと僕は虚をつかれた。
われわれの歴史認識では、人類の2000年は、原始時代~高度文明社会に発展した軌跡としてとらえる。
いわゆる近代の文明社会がいちばん偉いということになる。
しかし、親、その親と考えると、1つの教室におさまるくらいの時間感覚にしかならない。
人間の生命はそんなものなのだと、勇気づけられるような感じをもった。
先住狩猟民の思想を日本語で伝えてくれる
『旅をする木』は、僕が編集者としてつくった本。
もとは生物学者ビル・プルーイット著『極北の動物誌』の章タイトルで、1本のトウヒの果てしない物語。
朽ち果てたように見えても、それは次の生命を維持するために一定の役割をしているのだと、
自然科学的な根拠と、想像力を駆使して書いている。
滅びゆくアラスカ先住狩猟民の感受性、生き方、死生観を、今の日本語で伝えてくれるのは一種の奇跡。
文明が発達し、現在の社会を作り上げるために切り落としてきたことがそこに多くある。
星野はまとめて原稿を書くことができなかったので、手紙好きの星野に書簡形式で原稿を書くことを提案した
(なるほど、だからこんなに親しみやすく、季節の移り変わりから始まって、身近にいるような感覚だったんだ
星野が愛したアラスカ
モンゴロイドの北上
紀元前1万8000年頃にはアメリカ・インディアン、紀元前8000年頃にはエスキモーの先祖となるモンゴロイドが
かつては地続きだったベーリング海峡を渡ってシベリアから北米大陸にやって来た。
一方、ハイダ族など海洋インディアンの祖先は、海から渡来したのではないかと星野は考えていた
●「もうひとつの時間」星野直子(夫人。今は長男とともに日本とアラスカを行き来して、事務所にて作品の管理を務める)
少年のような目をした夫との出会い
出会いは、夫の姉の紹介。17歳年上だとは聞いていたが、第一印象は、とても目がきれいな人だということ。
夫は毎年12月~2月にかけて、日本でまとめて仕事をするため帰国していた。
初めて会って2、3度目に「あなたの夢は何ですか?」と聞かれ、
「フラワーアレンジメントに興味があるけど、踏み出せないでいる」と言うと、
「本当に好きならできるから大丈夫だよ」と言われ、2ヶ月後には退職し、フラワーデザインの学校に入学した。
プロポーズに返事をしたのは1992年。
「いろんなことは考えないでいいから、一度遊びに来てごらん」と言われ、
姉の家族、私の母とともにアラスカに行き、帰ってきてからのことだった。
フェアバンクスの空港に降り立った時、初めて来たのに懐かしい感じがして、とても安心した。
撮影から始まった新婚生活
1993年5月に結婚、6月には日本を離れた。アラスカに着く前に、カナダ領クイーン・シャーロット諸島へトーテムポールの撮影に行った。
「クイーン・シャーロット諸島」
19Cにヨーロッパ人が天然痘を持ち込み、大勢が亡くなって、先住民のハイダ族は村を捨てて、島の反対側に集落をつくった。
一度、フィールドでクマと遭遇したことがある。「ベアスプレー(クマ撃退用)」(そんなのがあるんだ/驚)も近くになく、
私が驚いて「あっ」と声をあげたら、その声にびっくりして行ってしまった。
クマに出会ったらどうしたらいいか夫からとくに言われたことはない。
私たちはここにいるんだよと知らせるために大声で話しながら森を歩くとか、
食料はテントに持ち込まないよう気をつける、ことぐらい。
フィールドにいる時間そのものを楽しむ
夫はまず、撮影の時、目的地に着いたらベースキャンプを作ってから移動した。
移動中にカリブーがいたら撮影することもあった。
いろいろ考えながら歩いているようで、気になったっ場所では立ち止まってファインダーをのぞいたりしていた。
中でも記憶に残っている光景は、カリブーを撮影しに行った秋の北極圏。
北極圏の360度ツンドラが広がっている光景に圧倒された。
フィールドでの光景は、年月が経っても心の中にしっかり残っている。
そして迷ったり、悩んでいる時に、その光景を思い出すと励まされる。
アラスカの寒さと広さが人を温め、近づける
夫は手紙のやりとりを大切にしていた。撮影から戻ると、お風呂に入って、たまった手紙を読むのを楽しみにしていた。
持ち歩くザックにはたいてい手紙が入っていて、ちょっとした時間を見つけては読み、
返事を書けるよう便せん、封筒、切手も入っていた。
夫はおしゃべりではないが、無口でもなかった。
誰に対しても分け隔てなく、同じ態度で接する人だった。
アラスカの友人たちの温かさは、「こうしてあげる」「ああしてあげる」と言葉で言うのではなく、
普段は見守ってくれて、いざという困った時には本当に親身になってくれる、という温かさ。
フェアバンクスの家の土地を買った時、家の周りは土地が痩せていて岩がゴロゴロした粘土質なので、
トラックでいい土を運び、ワイルドフラワーの花の種を蒔いたそうです。
でも蒔きすぎて、近所の人が見に来るくらいたくさんの花が咲いた
息子の誕生、そして星野道夫の遺したもの
今は春と夏にアラスカに行っています。気持ちはフェアバンクスに住みたいのですが、
日本での仕事があり、息子は日本の学校に通っているので、そうもいかない。
“息子には日本の心や、日本的なものを理解できる人になってほしい、過ごした環境で人間は形成されるから、
息子が小さい時期に日本で過ごす時間を持てるようにしたい”という気持ちが夫に強くありました。
家にいる時は毎晩お風呂に入れたり、離乳食をあげたり、オムツを替えてくれたり、息子が生まれてからは長期の撮影が少なくなった気がする。
子どもを背負えるザックを買って、デナリ国立公園にも行ったし、歩けるようになったら、一緒にフィールドに行きたいという思いが強くあったと思う。
アラスカで事故の知らせを聞いても、それまでも留守番が多かったので、また撮影からひょっこり戻ってくるのでは、
という気がしている時期がずいぶん長く続いた。
夫は声高に「自然保護」や「開発反対」を叫ぶ人ではなかったが、自分の写真や文章から、いろんなことを感じてほしいという思いはあったと思う。
撮影日誌をこまめにつけていた/2人の写真
●「長い旅の途上」池澤夏樹(作家)
死をどう受け入れるか
星野は「テレビ番組を一緒に作りませんか」と僕に言った。
1年がかりで、僕がアラスカに何度も通って、アラスカの1年間をドキュメンタリーで構成する話。
彼の死で僕は奮い立った。彼の仕事は凄いものだったけれど、まだ広く世間に認知されていない。
残された我々にできるのは、彼の仕事の真価を世間に知らしめることだと。
彼にはもう新作はない。残ったものを見せていくしかない。
彼はなんといってもクマが好きだった。
それらを含めて、みんな迷いながら、彼の死をどう受け入れるか考えた。ある意味では、まだ解決していないのです。
自分が文筆生活をしている途中で、彼の足跡とクロスすることが何度かあった。
星野をなぞる
たとえばビル・リード(ハイダ族の血をひく母をもつ。カナダの20ドル紙幣にも作品が印刷されている)の彫刻。
ワシントンのカナダ大使館にある彫刻は観る機会はまずないのに、ヴァンクーヴァーで空港のターミナルを歩いていたら、目の前にあった。
大英博物館の所蔵品から好きなものを見つけて、それが作られた場所へ行く『パレオマニア』という仕事では、
1階から3階まで貫いているトーテムポールがあって、それがクイーン・シャーロット諸島のものだった。
「しめた」と思って諸島に行き、星野が書いているニンスティンツのトーテムポールを見た。
気まぐれで行ったフィンランドで太陽が3つに見える「幻日」も星野に報告したかった。
札幌にいた時、すでに星野は「温暖化」に絡むことを書いていたことを思い出した。
「気温が高くなるとカリブーが飢える」雪の表面がカチカチに凍り、餌が食べられなくなる。
北海道の然別湖で1997年、星野の写真展を開き、地元の人たちが氷でブロックを作った。
零度を超えなければ、氷はとてもいい建材なのです。エスキモーのイグルーと同じ原理。
僕はフランスのフォンテーヌブローという町に住んでいる。近くに絵画で有名なバルビゾンという小さな村がある。
カフェがあって、その主がネイチャーフォトの写真家だった。
「君は日本人か? ホシノを知ってるか?」「友だちだった」というと仰天して「神さまのように思っている」と言う。
そういう思いを抱いている人は、たぶん世界中にいる。あれだけの写真は誰にも撮れるものじゃないし、
あんな風にネイチャーの中に入って行く足取りも真似できない、そういう思いが重なった崇拝なのです。
自然とのつながりで自分の命をとらえる
誰にとっても死ぬのは一大事で恐ろしく、なんとか回避しようとして生きている。
命の原理には2つある。自分を生かしめる。それから子孫を残す。動物の場合ははっきり分かりやすい。
できる限り長生きして、できる限りたくさんの子孫を残そうとして、最後には死ぬ。それは大抵、老衰ではない。
ヒトは増えすぎたものだから、世界中のあちこちでストレスがたまって、相互に衝突している
「人は人に対してオオカミである(ホモ・ホミニ・ルプス)」という諺がある。
ひどくはびこって、なにかひどく歪んでしまった。死なないことが、生きていることだと信じてムキになっている。
動物は1頭の犠牲によって他の仲間は生き逃れられる。
オオカミも捕まえやすい弱そうなのを狙うから、ある意味、淘汰にもなる。
全体として見れば、その1頭の死はムダでもなく、悪でもない。
星野の写真や文章から、死んでもいいんだ、固体が死ぬこと自体悪ではない。
死は生とセットになっていると気がついた。
アラスカの死生観に学ぶ
星野がいちばんそれをうまく伝えたのは『旅をする木』。
彼はアラスカの雪原の中にたった一人でいても、仲間の一人であり、日本人の一人であり、
一人の人間だと深く意識しているから、まったく孤独ではない。
死を含めて自然は放っておけばうまくいくもの。よくないことをするのは大体人間。
自然を傷つけると、その結果は人間に返ってくる。
生と死について星野が考えていたのは、精神の安寧のため、静かに生きて満ち足りて、貪らないで生きるための大事な知恵だったのではないか。
自然の前でいかに自分が小さな存在かという認識。
インディアンやエスキモーの暮らした跡が何も残らない悠久の時間を前にすると、比べるのがバカバカしくなる。
北極星をめざして
彼は自然に入っていって、その意味を読み解いて、生命とは何かという重大なメッセージを得て、非常に劇的な死に方で逝ってまった。
残った者は一所懸命解釈する。まるでキリストと使徒たちの関係のように。
直子さんも星野の死後は散々苦労したし、みんなが泣いた。
けれども彼は、ああいう形において成就した。あれで完成したんだと、僕は敢えて言ってしまう。
いつでも死は中断だけれども、同時に、完成であるような死に方をしたいと思う。
リアリティのない代替物に取り巻かれた我々の暮らし方。どんどん変なほうに進んでいく時に、
彼は羅針盤であり、北極星なんですよ
僕が生まれて間もないカリブーの子で、オオカミに食われた時、
そこに人間の尊厳を持ち出すよりは、自然一般における生命の尊厳を前提にするほうが僕は好きなんです。
自然の中に戻る
星野は、人がいない場所にすごく魅かれていた。
食べることと、子を育てること、歳をとったら死ぬこと、ほかのことは全部二次的なことだ。
生命がいつも互いに重なり合っている。「トーテミズム」というのは、ある意味そうでしょう。
ヒトはやはり生きることに意味づけしたい。
けれど、自然と切り離された別の存在だから自分たちは値打ちがあるんだ、ではなく、
どうすれば自然の中にもういっぺん自分を組み込むことができるか、なのです。
「トーテームポール」は各家系の物語を刻んだもの。