■『車輪の下』ヘルマン・ヘッセ著(偕成社文庫)
秋山英夫/訳
(以下は読んだ当時のメモの転記。ネタバレ注意
名作児童文学シリーズ。
今回、この作品をとりあげた理由は、短いが、センスの効いたタイトルにある。
実は、最初はD.ボウイほか、たくさんのアーティストに影響を与えたビート小説『路上』と間違えたのがきっかけ
ヘッセも有名だけど、その作品はまったく知らなかった。
心身の髄まで平凡な労働者の父と、病気ばかりして亡くなった母から生まれた利発なハンス少年の物語。
ドイツの小さな町では、珍しく勉強が出来て、金持ちではない子どもが選べる最高の道、
神学校の試験に見事2番という成績で入学。
その後、寮生活が始まるが、詩人であり、理解を超える言動と、自身の考えを持つハイルナーとの出会いから
「つめこみ教育」から生まれる誤った価値観すべてが突き崩されて、少年は次第に人間性を取り戻すと同時に、
その反動として未来を見失い、自己を見失い、とうとう神経衰弱に陥り、休暇をもらって実家に帰ってくる。
一度は自殺も考えるが、リンゴ搾りで出会った娘エンマに始めて淡く激しい恋の感情を覚え、
一時は人生に明るい光を見出すが、彼女は去り、すべてはちょっとした戯れだったことを知って絶望を味わう。
やがて、父の勧めで近くの工場に職人の弟子として働きに出るが、
幾日も経たないある日、友人とのどんちゃん騒ぎで泥酔して川で溺れ、
利発な青年ハンスは、あっけなく命を落としてしまう。
******************************
これはヘッセの自伝的作品でもある。
ドイツの小さな町に生まれ、牧師の父、学者の娘の母の教育方針により神学校に入学するが、途中で脱走。
その後もたびたび神経症に悩まされながら職工に就き、
作家として波乱に満ちた八十余年の生涯を送ったとのこと。
詩人だけあって、1行1行どこを読んでも簡潔で分かりやすく、洗練された表現。
自然の移り変わり、少年の心情等、目の前にイメージが浮かんでくる。
ドイツと言えば、日本やアメリカに劣らぬ「猛教育国」で知られている。
スパルタ的な教育としつけで、その水準は高く、無数の著名な学者、発明が生まれている。
その教育のあり方を、本書は鋭く、見事に著わして批判している。
「彼ら少年にはなにかがある。野生的で、無鉄砲で、野蛮なものが。
これをまず打ち砕く必要がある。危険な炎というべきもの。
これをまず消し去り、踏みにじる必要がある。
自然が造ったままの人間は、はかることのできないあるもの、なにか見通しのつきかねる不逞なものだ。
それは、未知の山から流れ落ちてくる奔流であり、道も秩序もない原始林だ。
原始林が切り開かれ、整理され、力ずくで制限されなければならないように、
学校ももまた、自然のままの人間を打ち砕き、打ちのめし、力ずくで制限しなければならない。
学校の使命は、そういう人間を、国家が“よし”と認めた原則に従って、
もろもろの特性をもった有用な社会の一員に仕上げることである。
そして、その人間は、やがて兵営の用意周到な訓練によって、最後の仕上げを受けるのである」
ヘッセは、また後にこうも言っている。
「人々の心を潤す考えや、芸術を作るものは、必ず教師から疎んじられ、
学校からドロップアウトした者たちであり、彼らが亡くなると、
それらの作品は、敬われ、手本となって教科書に載せられる」
これらは、日本の現代の行き過ぎた教育にも十分共通し、耳を傾ける価値をもつものばかり。
本書のタイトルは、神学校の校長がハンスに言ったセリフからとられている。
「へばっちゃいかんよ。でないと車輪の下敷きになるからね」
車輪の下敷きになるとは、具体的にどうなることの暗喩だろうか?
そこには奥深い意味があるはずだけど、ドイツの古い格言か? よく分からない。
絶えず頭痛を抱え、好きだったウサギを飼うことや、釣りを楽しむこと、
森の中を歩き、植物の名前を覚えることを1つずつしなくなり、少年から脱皮したものの、
そんな自然と一体だった何気ない思い出ばかりがハッキリと蘇ってくる。
それは、私たちにも一度ならず経験があり、全員が通る通過儀礼でもある。
私は読みながら、この繊細な少年が、彼の母親のように、いつか死んでしまうのではと、そればかり不安になった。
けれども、まさか、こんな結末になるなんて。。。
父親がやけに憤慨した箇所を読んで一瞬のうちに悟ったんだ。
「ああ、この少年は逝ってしまったのだ!」と。
がんじがらめの勉強、利己的な目標、皆をいつか見下してやろうという俗物な理想から逃れて
自由になり、仲間といっしょに汗水流して働き、人生を楽しむことを知り始めた、まだほんの矢先だったというのに!
最後に職工の親方がまるで全てを見通していたかのように、ハンスの父親に囁きかける。
「あの子のことで、私たちは、いろいろ手抜かりがあったかもしれませんよ、そうじゃないですか?」
すっかり先を見失ったハンスが、実家で何気なく歌を口ずさんでいる場面がある。
「ああ、おれはひどく疲れた
ああ、おれはひどくへばった
財布の中に金はない
袋の中にも何もない」
現代に生きる子どもも、小学校や幼稚園児が、よく「疲れた」と言うようになった。
これは偶然の一致か、それともなにか重大なきざしではないだろうか?
同時に、本作は、新しい知識を見につけることの素晴らしさを謳歌していることも大きな特徴だ。
神学校が舞台とあって、そこに出てくる引用などは、私たちにはほとんど馴染みのない聖書のことばかりで、
その多くはあまりピンこないものばかりだけれども、ギリシア語、ラテン語、
それも、時代や地方によって全然学び方や、感触の異なる言語によって書かれている
数々の神や、その使徒についての話、それらを学び、それぞれの物語の中に入りこみ、
さらに奥へ奥へと文学・芸術の深淵に突き進んでいくことへの興奮、
限りのない知識欲、好奇心などが情熱的に書かれているのが印象的。
私も新しい知識を学ぶことは好きだから、これには同感できた。
しかし、学生の頃から、これらの科目のうち、実社会に役立つものなどいくつもないことを皆知っている。
学校でほんとうに重要なのは、もっと本質的なもの、知識より、団体行動や、人間関係など。
それさえ、本書を読むと、国家が都合のいい労働者、兵隊を作るための策略のように思えてくる。
こんな難い主張抜きにしても、本作は物語として十分味わえる。
登場人物にそれぞれ魅力があり、とてもリアル。
一行一句になにかしら大切な示唆がある。
たとえば、生徒が死んだ時だけ、特別に敬いの態度をとる校長や教師たち。
学問は身につけていても、神への忠誠心、無償の愛情に欠ける町の牧師。
中でも私が一番惹かれたのは、ハイルナーとハンスの微妙なシチュエーションでのキス。
「人生には必ず償おうとしても償えない罪への後悔がある」という言葉。
ハンスの神経症が、もしかしたら恋わずらいではないのではないかと思った。
ハイルナーの気遣い、エンマに初恋をする少年の初々しい感情が熱っぽく語られるあたりは
作品中でもちょっと変わった趣を添えている。
彼女のうなじとかは鮮明に思い浮かべることができるのに、どうしても顔だけは思い出せなかった、という件は、
とても正直で、また的確に、分かり易い表現で描かれていて、詩人の感性の鋭さ、表現力の確かさが窺える。
読んでいる最中の、あの惹きこまれる深い深い魅惑的な興奮は、
まるでヘッセがこの作品中に書いている聖書の世界へのめりこんでいく感じによく似ている。
それは読んでいる時にしか分かりようがない。
こんな感想メモにはとてもじゃないけど書き表せないものだ。
最後に、本作を読んでいて終始思い起こされたのは、私の一番好きな作家サリンジャーのホールデン・コールフィールドのことだった。
若くして白髪で真っ白な彼もまた、訳ありで学校をドロップアウトし、家路に帰ろうとする状況だった記憶がある。
『ライ麦畑でつかまえて』のほうがより現代的に描かれていて、とにかくあの妹がいてくれたお陰で、
なんとか自分に戻りつつ終わっているから、読者はひとまずホッとさせられたけれど。
ハンスは、小さな希望を見出しかけたところで、酔いでボヤけた意識で、
もう2度と何にも強制されることなく、苦悩のない、頭痛もない、天上へ旅立てたことを考えれば、
この気の重いエンディングにもかすかな慰めを見つけられるかもしれない。
秋山英夫/訳
(以下は読んだ当時のメモの転記。ネタバレ注意
名作児童文学シリーズ。
今回、この作品をとりあげた理由は、短いが、センスの効いたタイトルにある。
実は、最初はD.ボウイほか、たくさんのアーティストに影響を与えたビート小説『路上』と間違えたのがきっかけ
ヘッセも有名だけど、その作品はまったく知らなかった。
心身の髄まで平凡な労働者の父と、病気ばかりして亡くなった母から生まれた利発なハンス少年の物語。
ドイツの小さな町では、珍しく勉強が出来て、金持ちではない子どもが選べる最高の道、
神学校の試験に見事2番という成績で入学。
その後、寮生活が始まるが、詩人であり、理解を超える言動と、自身の考えを持つハイルナーとの出会いから
「つめこみ教育」から生まれる誤った価値観すべてが突き崩されて、少年は次第に人間性を取り戻すと同時に、
その反動として未来を見失い、自己を見失い、とうとう神経衰弱に陥り、休暇をもらって実家に帰ってくる。
一度は自殺も考えるが、リンゴ搾りで出会った娘エンマに始めて淡く激しい恋の感情を覚え、
一時は人生に明るい光を見出すが、彼女は去り、すべてはちょっとした戯れだったことを知って絶望を味わう。
やがて、父の勧めで近くの工場に職人の弟子として働きに出るが、
幾日も経たないある日、友人とのどんちゃん騒ぎで泥酔して川で溺れ、
利発な青年ハンスは、あっけなく命を落としてしまう。
******************************
これはヘッセの自伝的作品でもある。
ドイツの小さな町に生まれ、牧師の父、学者の娘の母の教育方針により神学校に入学するが、途中で脱走。
その後もたびたび神経症に悩まされながら職工に就き、
作家として波乱に満ちた八十余年の生涯を送ったとのこと。
詩人だけあって、1行1行どこを読んでも簡潔で分かりやすく、洗練された表現。
自然の移り変わり、少年の心情等、目の前にイメージが浮かんでくる。
ドイツと言えば、日本やアメリカに劣らぬ「猛教育国」で知られている。
スパルタ的な教育としつけで、その水準は高く、無数の著名な学者、発明が生まれている。
その教育のあり方を、本書は鋭く、見事に著わして批判している。
「彼ら少年にはなにかがある。野生的で、無鉄砲で、野蛮なものが。
これをまず打ち砕く必要がある。危険な炎というべきもの。
これをまず消し去り、踏みにじる必要がある。
自然が造ったままの人間は、はかることのできないあるもの、なにか見通しのつきかねる不逞なものだ。
それは、未知の山から流れ落ちてくる奔流であり、道も秩序もない原始林だ。
原始林が切り開かれ、整理され、力ずくで制限されなければならないように、
学校ももまた、自然のままの人間を打ち砕き、打ちのめし、力ずくで制限しなければならない。
学校の使命は、そういう人間を、国家が“よし”と認めた原則に従って、
もろもろの特性をもった有用な社会の一員に仕上げることである。
そして、その人間は、やがて兵営の用意周到な訓練によって、最後の仕上げを受けるのである」
ヘッセは、また後にこうも言っている。
「人々の心を潤す考えや、芸術を作るものは、必ず教師から疎んじられ、
学校からドロップアウトした者たちであり、彼らが亡くなると、
それらの作品は、敬われ、手本となって教科書に載せられる」
これらは、日本の現代の行き過ぎた教育にも十分共通し、耳を傾ける価値をもつものばかり。
本書のタイトルは、神学校の校長がハンスに言ったセリフからとられている。
「へばっちゃいかんよ。でないと車輪の下敷きになるからね」
車輪の下敷きになるとは、具体的にどうなることの暗喩だろうか?
そこには奥深い意味があるはずだけど、ドイツの古い格言か? よく分からない。
絶えず頭痛を抱え、好きだったウサギを飼うことや、釣りを楽しむこと、
森の中を歩き、植物の名前を覚えることを1つずつしなくなり、少年から脱皮したものの、
そんな自然と一体だった何気ない思い出ばかりがハッキリと蘇ってくる。
それは、私たちにも一度ならず経験があり、全員が通る通過儀礼でもある。
私は読みながら、この繊細な少年が、彼の母親のように、いつか死んでしまうのではと、そればかり不安になった。
けれども、まさか、こんな結末になるなんて。。。
父親がやけに憤慨した箇所を読んで一瞬のうちに悟ったんだ。
「ああ、この少年は逝ってしまったのだ!」と。
がんじがらめの勉強、利己的な目標、皆をいつか見下してやろうという俗物な理想から逃れて
自由になり、仲間といっしょに汗水流して働き、人生を楽しむことを知り始めた、まだほんの矢先だったというのに!
最後に職工の親方がまるで全てを見通していたかのように、ハンスの父親に囁きかける。
「あの子のことで、私たちは、いろいろ手抜かりがあったかもしれませんよ、そうじゃないですか?」
すっかり先を見失ったハンスが、実家で何気なく歌を口ずさんでいる場面がある。
「ああ、おれはひどく疲れた
ああ、おれはひどくへばった
財布の中に金はない
袋の中にも何もない」
現代に生きる子どもも、小学校や幼稚園児が、よく「疲れた」と言うようになった。
これは偶然の一致か、それともなにか重大なきざしではないだろうか?
同時に、本作は、新しい知識を見につけることの素晴らしさを謳歌していることも大きな特徴だ。
神学校が舞台とあって、そこに出てくる引用などは、私たちにはほとんど馴染みのない聖書のことばかりで、
その多くはあまりピンこないものばかりだけれども、ギリシア語、ラテン語、
それも、時代や地方によって全然学び方や、感触の異なる言語によって書かれている
数々の神や、その使徒についての話、それらを学び、それぞれの物語の中に入りこみ、
さらに奥へ奥へと文学・芸術の深淵に突き進んでいくことへの興奮、
限りのない知識欲、好奇心などが情熱的に書かれているのが印象的。
私も新しい知識を学ぶことは好きだから、これには同感できた。
しかし、学生の頃から、これらの科目のうち、実社会に役立つものなどいくつもないことを皆知っている。
学校でほんとうに重要なのは、もっと本質的なもの、知識より、団体行動や、人間関係など。
それさえ、本書を読むと、国家が都合のいい労働者、兵隊を作るための策略のように思えてくる。
こんな難い主張抜きにしても、本作は物語として十分味わえる。
登場人物にそれぞれ魅力があり、とてもリアル。
一行一句になにかしら大切な示唆がある。
たとえば、生徒が死んだ時だけ、特別に敬いの態度をとる校長や教師たち。
学問は身につけていても、神への忠誠心、無償の愛情に欠ける町の牧師。
中でも私が一番惹かれたのは、ハイルナーとハンスの微妙なシチュエーションでのキス。
「人生には必ず償おうとしても償えない罪への後悔がある」という言葉。
ハンスの神経症が、もしかしたら恋わずらいではないのではないかと思った。
ハイルナーの気遣い、エンマに初恋をする少年の初々しい感情が熱っぽく語られるあたりは
作品中でもちょっと変わった趣を添えている。
彼女のうなじとかは鮮明に思い浮かべることができるのに、どうしても顔だけは思い出せなかった、という件は、
とても正直で、また的確に、分かり易い表現で描かれていて、詩人の感性の鋭さ、表現力の確かさが窺える。
読んでいる最中の、あの惹きこまれる深い深い魅惑的な興奮は、
まるでヘッセがこの作品中に書いている聖書の世界へのめりこんでいく感じによく似ている。
それは読んでいる時にしか分かりようがない。
こんな感想メモにはとてもじゃないけど書き表せないものだ。
最後に、本作を読んでいて終始思い起こされたのは、私の一番好きな作家サリンジャーのホールデン・コールフィールドのことだった。
若くして白髪で真っ白な彼もまた、訳ありで学校をドロップアウトし、家路に帰ろうとする状況だった記憶がある。
『ライ麦畑でつかまえて』のほうがより現代的に描かれていて、とにかくあの妹がいてくれたお陰で、
なんとか自分に戻りつつ終わっているから、読者はひとまずホッとさせられたけれど。
ハンスは、小さな希望を見出しかけたところで、酔いでボヤけた意識で、
もう2度と何にも強制されることなく、苦悩のない、頭痛もない、天上へ旅立てたことを考えれば、
この気の重いエンディングにもかすかな慰めを見つけられるかもしれない。