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シリーズ戦争遺跡5『歩いてみよう身近な戦争遺跡』(汐文社)

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シリーズ戦争遺跡5『歩いてみよう身近な戦争遺跡』(汐文社)
磯崎三郎/編

終戦70年目を迎えた今年。特別番組もちらほら見かけるが、
戦争体験者が高齢化し、ますます生の声が聞けなくなる中、
全国のさまざまな場所にたくさんの戦争遺跡があることに気づかされる1冊。

ひとたび戦争になれば、田畑も、財産も奪われて軍事関連に変わり、生活が一変することが分かった。
植民地だった朝鮮から大勢人を集めて、危険で過酷な労働を課していたこともショック。

戦争遺跡の中には、自衛隊などが今でも使っている施設が多いのも怖い。
実際、足を運べば、より一層身近に感じられるかもしれない。

注意:本書は、2010年初版のため、その後、内容に変更がある部分もあるかと思いますがご了承ください。


【内容抜粋メモ】

●戦争は普通の街をまるごと軍隊一色に変える

「師団」
・戦場の第一線で戦う歩兵
・馬に乗って機動力を発揮する騎兵
・道路や塹壕などの建設を行う工兵
・師団司令部や兵器等を貯蔵する兵器支廠
・兵隊が訓練する練兵場、射撃場
・負傷した兵士を治療する衛戍病院 など

1888  政府は6つの師団を設置
1937~ 日中戦争以降、急速に増加
1941  太平洋戦争開戦時は51師団


1師団は平時で約1万人、戦時は約2万5000人。

※朝鮮は、1910~1945まで日本の植民地だった。


「陸軍第16師団(伏見深草)」

1904~1905 日露戦争に常設。広大な土地が奪われることに農民は大反対したが、半強制的に土地を買収「軍都伏見」となった。

旧陸軍第16師団司令部の赤れんが建築(現聖母学院本館)

「師団街道」「第一軍道」
1907 軍用道路として建設された。今でも道路標識がある。

「師団橋」
琵琶湖疏水にかかる橋。陸軍のマーク☆が残る。

「陸軍衛戍病院(国立国際医療センター)」

「行啓記念碑」
敗戦直後、病院の負傷兵らは、間違った戦争だったと気づき、碑に縄をかけて倒し、土に埋めた。
8年後、改築工事に見つかり、病院裏に残っている。


●今も利用されている「陸軍第11師団関連施設」
「第11師団騎兵連隊の旧兵舎」

1896 香川県善通寺に突然師団設置が決定し「軍都」に大きく変わった。
戦争体制のもとでは国の命令1つで、一般市民の生活や財産が問答無用に奪われる。

「偕行社」
陸軍将校の親睦のための集会所だった、

「旧第11師団司令部(現陸上自衛隊乃木資料館)
戦争のための建物には、国の方針で多額のお金がかけられた。


●自然の要塞が軍港になった

「海軍基地・呉」
現海上自衛隊呉地方総監部

毎年6/30、呉市は、太平洋戦争の犠牲者の合同慰霊式を行っている。
7/1は「呉空襲犠牲者慰霊・恒久平和祈念の日」とし、黙祷を呼びかけている。
呉市に投下された爆弾の量は全国で8番目。理由は、呉が軍事的に重要な町だったため。
戦前、日本海軍には4つの「海軍鎮守府」「海軍工廠」があった。

「呉海軍工廠」は、軍艦・装備など一貫して製造する「東洋一の兵器工場」となった。
ここで造られた空母などの艦船は130隻、「戦艦大和」なども造られた。

明治政府は、横須賀に次ぐ「海軍鎮守府(軍港)」を置くため調査を開始。
1883 呉を候補地として報告。
海軍はドックの周りを縄のカーテンで囲み、中で何を造っているかを隠した。
工廠の職工にも「一切口外しない」ことを誓約させた。

沿岸の道も海軍用地となって、山腹をぬう不便な新道を通らざるをえなくなった。
大切な漁場が奪われ、工場で働く労働者が増え、まったく違った町となっていった。


●「富国強兵政策」で変わった瀬戸内海
1890 海岸防御の砲台を築くため、芸予海峡・広島湾などが選ばれた。
小島、大久野島という小さな島に砲台が築かれ、爆薬庫・砲弾庫・兵舎・発電所などが造られた。
小島、大久野島はセットで「陸軍芸予要塞」と呼ばれた。

1924 廃止された小島要塞は、国から払い下げられ、史跡公園となった。
大久野島は、陸軍が跡地に毒ガス工場を設置した/驚

芸予要塞の砲台跡


「砲兵工廠」
戦時に使う兵器、火薬類、戦車などをつくる兵器工場。
火薬製造所は、板橋、王子などにもあった。

靖国神社の境内には、「東京砲兵工廠」が造った「大村益次郎銅像」と、「大阪砲兵工廠」が造った「青銅鳥居」がある。


●東京ドームの場所に大兵器工場があった
「東京砲兵工廠(陸軍造兵廠東京工廠)」

東京ドームホテルの北側に、砲兵工廠の土台だった分厚い赤れんがブロックが展示されている。
東京ドームシティの開発で、射撃場跡のみ残った。

1877 西南戦争で使われた小銃は、各国銃が混在して、補給などで困っていたため、
「東京砲兵工廠」で「村田銃」が発明された。
工場は、戦争のたびに拡張され、1909年末の工員数は約12500人に達した。


●原爆投下の目標にされた小倉
砲兵工廠は、兵器以外にも大形鋳造品を造っていた。
1923 関東大震災などの理由で、北九州・小倉に移転が決まった。1927。
小倉が広島の次なる原爆投下目標にされた理由はここから始まる。


●大阪城周辺は大軍事工場だった~大阪は西日本の軍事拠点


「大阪砲兵工廠(大阪陸軍造兵廠)」
1870 大阪城に造兵司が置かれ、1879には「大阪砲兵工廠」となり、陸軍最大の大砲・弾丸製造所になった。
自動車、戦車などもつくり、大阪の工業発展を支えた。

1923 「大阪砲兵工廠」は「陸軍造兵廠」となる。
太平洋戦争時には、従業員、学徒動員生徒も含め約64000人が働いていた。
大阪城は、内外が軍の施設ばかりだった。戦後は大阪府警・大阪市立博物館となり、現在は閉鎖している。

1945.8.14 敗戦の前日の大空襲で、造兵廠はは大打撃を受けて崩壊。工員など382名が死亡。
大きな軍事工場、陸軍施設があったからこそ、アメリカ軍が集中的に攻撃した

「病院は負傷者であふれ、『殺してくれ』と叫ぶ者、『水をくれ』『助けてくれ』とすがる者。地獄を見るような光景だった」

城東線は、砲兵工廠や造兵廠の中を走っていたので、軍事機密を守るため高架でなく地下運転とし
工廠沿いは高いコンクリート壁で遮っていた。大阪城公園駅(戦時は造兵廠のど真ん中)が地上運転なのは戦時中の名残り。

「旧化学分析場」


●宇治の歴史

旧宇治火薬製造所

1871 「黄檗宗万福寺」が国に上地(没収)され、「宇治火薬庫」がつくられた。
1875 万福寺の東隣りにあった「許波多神社」も上地され、移転。
村人は「沓石(土台の石柱)」のみ残し、大事な神社の強制移転に抵抗精神を表した。
沓石は、京阪黄檗駅南側にある。

1894 日清戦争 「宇治火薬庫」の西隣りの田園地帯に「火薬製造所」がつくられた。
「宇治火薬庫」跡は、「宇治少年院」「黄檗公園」、京都大学グラウンドなどになっている。
「宇治火薬製造所」跡は、京都大学宇治キャンパス、東宇治中学校、陸上自衛隊関西補給処になっている。

「宇治火薬製造所」で生産された火薬は、トロッコで運ばれ、大阪の枚方に開設した「禁野火薬庫」へ、
「禁野火薬庫」が大爆発した1940からは、「祝園爆薬庫」に運ばれ、砲弾として完成された。

「宇治火薬製造所」の爆発事故
1937 日中戦争が始まった直後の大文字送り火の夜に起きた。
深夜3回にわたり、付近の住宅に多大な被害を与えた

・火薬製造所工員の勤務
太平洋戦争末期には、3000~3500名の工員が、昼夜二交代制、12時間ずつ、24時間稼動で働いた。


「陸軍石柱」
陸軍火薬庫・火薬製造所と民有地の境界には石柱が多く立てられた。


●橋脚が1本もない鉄橋「近鉄淀川橋梁」~戦争の訓練を優先
「橋脚があると、夜間の架橋・渡河演習の障害になる」などとして、許されなかった。
しかし、伏見酒造組合が「トンネルで地下水が減少・水質変化すれば死活問題」と計画変更を強く求めた。
奈良電は、工兵隊と酒造組合両者の賛同が得られる案として、頑丈な鉄の構桁(トラス)を組み立て、世界でも少ない「トラス橋」となった。


●高校生らが発見した地下壕
「大和航空基地(柳本飛行場)」
1943 海軍大和航空基地の建設が開始。
工事には、周辺住民、学徒動員生徒、強制連行などによる朝鮮人約2000人が厳しい労働に従事させられた。

「一本松山地下壕群」と「竹之内地下壕群」
「一本松山地下壕群」


戦争末期に天皇が使用する「御座所」をつくる計画だった。
2011 天理高校の教師と生徒の調査で発見。
軍部は天皇に「大和航空基地」から「特攻作戦」に飛びたつ兵士を見送らせる計画を立てたが、造成前に敗戦となった。

「竹之内地下壕群」
「大和航空基地」の「特攻作戦」を指揮する司令部「大本営」が置かれる予定だった。

「松代大本営」
その後の本土戦用の大本営は、長野県松代に移す予定だった→ブログにもあり



●日本最大の飛行連隊基地「大刀洗飛行場」
1941~ 「東洋一の航空戦略基地」と言われた。
戦争末期、沖縄戦の特攻作戦では、ここで訓練を受けた多くの若い兵士が知覧、鹿屋などを中継基地として出撃し、尊い命を落とした。

筑前町立大刀洗平和記念館

「頓田の森 平和花園」@朝倉市・ひばりが丘学園内
大刀洗飛行隊地下司令部跡と言われる

1945~ アメリカ軍は度重なる空襲を行い、軍人、住民に1000人を超える犠牲者が出た。

『シイの木はよみがえった』
立石国民学校の終業式の最中に空襲警報があり、先生の引率で下校し、
頓田の森に逃げ込みシイの大木に伏せていた子どもたちの上に、
B29の爆弾が直撃し、1~5年生の31名が亡くなった悲劇。


「掩体壕」
戦闘機などを敵軍の空襲から守るために造られた格納庫。

「茂原3号掩体壕」

「久津川車塚古墳」
掩体壕には「古墳」が使われた例もある。古墳の封土(古墳をおおう盛り土)が1辺10mほど何ヶ所も削られた。
戦争は文化財も破壊した。

頑丈な「掩体壕」は、壊すのも大変な労力が多いため、倉庫などに利用されているものも多い。

「南国市前浜7号掩体壕」
道路や田があるのを無視して造ったため農民らは怒った。

1945.5~6には特攻隊員が鹿屋から出撃した。

「宇佐・城井1号掩体壕」
1945 米軍機の爆撃により宇佐飛行場施設は壊滅し、多くの住民が犠牲となった。
宇佐飛行場施設には銃弾の弾痕が見られる。


「地下壕」
空爆が激しくなると、一時的に避難する待避所・防空壕づくりが行われた。
山すそにトンネル状の横穴を掘って、施設・工場として使うよう計画された。

「大本営地下壕@市ヶ谷」
皇居内の「御文庫」は1941年4月、8月には市ヶ谷台に大本営地下壕を造りはじめた。
同年12月が開戦日のため、開戦前から天皇、政府・軍首脳部のための安全な場所を確保しようとしたことが分かる。
その後、防衛庁建設工事以後に閉鎖された。


●大学が「連合艦隊司令部」に
1944 海軍省は慶応義塾、日吉キャンパスの寄宿舎と大学予科校舎の一部を借りる。
海軍は、多くの戦艦、航空母艦を失い、「連合艦隊司令部」を陸上にあげると決定。

「軍が土地を買い上げるので印鑑を持ってこい」と住民は呼び出された。
軍刀を持った軍人に逆らえず、無理矢理買収され、数軒の農家は邪魔になるからと50mほど移動させられた。
周囲の田畑は、掘り出した土や岩で埋め立てられ使えなくなった。

「旧帝国海軍日吉台地下壕」

茸型縦坑@横浜市港北区

「大谷石」をセメントの代用に
セメントが尽きると、田園調布から石垣・塀などの大谷石を代用し、それでも足りずに、2400mの約半分は素掘りのまま。
移転前に敗戦となった。

「箕輪・艦政本部地下壕」


●本土戦の抵抗陣地
首都東京を防衛するための重要な地域として、千葉県南部に多くの軍事施設がつくられた。
1930 立山海軍航空隊がつくられ、飛行訓練などが行われた
兵士、住民、学生、朝鮮人たちの強制労働によって、陣地壕、掩体壕などが建設された。

「赤山地下壕@千葉県館山市」

内部概要図

「戦闘指揮所」「作戦室」という浮き彫りの額が掲げられている。


●巨大な岩穴で航空機エンジンを製造
中島飛行場、三菱重工業が戦中の航空機2大メーカーだった。
最盛期の従業員は各20万人ほどに達した。
各地の飛行機工場は空爆で破壊され、疎開地下工場で生産を続けようとした。

「信夫山地下工場」金鉱山の坑道を再利用
「大谷地下工場」大谷石採石場の廃坑を利用
「吉見地下工場」古墳時代末期の横穴群の50基以上の墳墓を壊してつくった など

「浅川地下壕」
1944 町のあちこちに「飯場」が建てられ、大勢の朝鮮人労働者が移ってきた。家族を含め約2000名といわれる。
削岩機、ダイナマイト、トロッコなどの危険な作業はほとんど朝鮮人労働者の仕事だった。
地下工場の高い湿度、低温で作業効率は上がらず、終戦までに完成したエンジンは10台ほどだったという。


「里山辺地下壕@長野県松本市」
1944 三菱重工業名古屋飛行機製作所は、東南海地震で壊滅的被害を受けた。
また、中島飛行機武蔵製作所の空爆などから、長野県松本市の学校などに疎開してきた。

坑道は、地層が脆く、落盤が多く、工事途中で敗戦となったため掘り崩した岩石がそのままになっている。
壕内には「天主」「熊谷組」などの文字などが残っている。


●「疎開工場」~戦闘機製造工場が全国に疎開
「愛知航空機瀬戸地下工場」
爆撃機「彗星」の主翼などの生産も行われた。


零地区第1区機械配置図


「瀬戸地下軍需工場跡を保存する会」
瀬戸市立水野小学校は、戦争末期、海軍部隊の本部、疎開工場の事務室、工員の宿泊場所となり、授業は縮小した。
地下での労働は過酷で、低空飛行の米軍機による機銃掃射もあり、生命の危険と隣り合わせだった。
当時の区長は「こんなところに穴を掘るようでは、大日本帝国もおしまいだと思った」と証言している。


地下工場跡


[証言:工場近くに居住]
飯場には80人くらいの朝鮮人が、逃亡を防ぐためか、白い服を着せられて、地蔵島のほうで働かされていた。
昼夜兼行で、つるはしで掘らされていた。

[証言:静岡からの徴用工で地下工場に勤務]
10機以上の「彗星」の胴体を組み立てた。材料がなくなると、胴体の下は、ベニヤをあてがうという酷いものだった。


●長いトンネル内で軍事生産を計画
「高槻地下倉庫(タチソ)」
保存運動活動による説明板がある

戦後は丘陵は採石場になったため、地下壕の大部分は崩壊した。
今残っているのは、第1工場トンネル群、第2トンネル群T5内はコンクリートで補強されている。


【あとがき抜粋メモ】
宇治の戦争遺跡を見学した大学生は「広島・長崎で知るだけでなく、日本中どこにでもあるのだと思った」と言った。
戦前の「戦争を行うのが当然」という考えのもとでは、地域住民が戦争施設の設置に反対の意志を持っても
(役場に押しかけて要求した例もあるが)、有無を言わさず国の計画通り押し切られることが多かった。


追。
「日本の戦争史(年表)」の1943年に、
“ジャズなど米英楽曲1000曲種の演奏・レコードを禁止する”とあるが、どれが禁止されたのかなあ?



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