■『ラストデイズ 忌野清志郎×太田光』(2014.03.24OA)
だいぶ前に予録してた番組だけど、大事にしていて、どのタイミングで見ればいいか分からずにいたけど、
今年の5月2日の命日に重ねて見たのはちょうど良かった。
主に発売禁止となった『COVERS』の話や、同じ頃ブレイクした爆問・太田との対談の話など。
素顔のキヨシローさんが見えて、より深く人柄が見えてきた気がする。
語りは、なんと西島秀俊さん/驚
[対談]
「僕が“若者は投票に行かなくてもイイ”など書いたコラム(『TVBros』天下御免の向こう見ず)を読んだキヨシローさんから“1回会って文句を言いたい”と言われた。当時はそういうことが一杯あったから、またかという感じで。でも、天下のキヨシローさんで弱ったなって、気が重かった」
「政治に無関心でいいなんて言ってると、君の息子なんかが戦争に行っちゃうわけよ」
(太田さんは、役に立たない政治屋に頼るより、個人の思考のほうが大事だって言いたかったんじゃないかなあ・・・
議論は噛み合わないまま対談は終わった
「ルール違反の中にカッコよさがあって、その中にはドロップアウトしてる人間とかがいて、
“もっと自分のやりたい、楽しいことやろうぜ”っていう。
もともと比喩的な詩人だった人が、直接訴えていくほうに行っちゃった感じはする」(太田)
『COVERS』を境にどういう変化があったのか?
東京都立日野高校
当時を知る友人とともに。「校舎の屋上が好きで、よくサボってた」(このプレイヤーは!?
「遅刻の常習犯で、単位落とすぞって電話かけるとピンクカブで来るっていう」w
「あいつは(誰とも)つるまなかった」
「目立たなくて、物静かで、喋らない。けど、感受性はスゴイ」
3歳で実母と死別。叔母夫婦に育てられた。
「“あーやっぱりネ”って思った。そんなに深刻にはならなかったよ。親はずっと隠してたんだけどさ」(清志郎)
「傷つきやすいだろうなっていうのは表情で分かるし。オレも高校時代、つまらなかったというか、どん底だった。
誰とも馴染めなかった。こっちから絶とうと思ってたんじゃなくて、キッカケがつかめなくて。
本当は友だちが欲しくてしょうがなかった。
キヨシローさんも似たようなことで悩んでる。自分って何なんだろうって。
世の中とソリが合わない。居場所がない。皆と同じことが出来ないし」
RCサクセションは大ブレイク。風呂なしアパートから、一気に高級車も手に入れた(やっぱクルマなのね、男の成功って
次第に清志郎は居心地の悪さを感じるようになる。
年間100本近いライヴという過密なスケジュール、メンバにも不協和音が響いていた。
「最低だったね」
自宅録音だから声が全然違う
「ステージで急にディランの♪風に吹かれて を演り始めた。“すごく良かったよ”と言ったら、とても喜んでくれて」
「世の中の話題は原発だった、あの時。どれだけ反発があったかは、実際、オレもやってたから分かる。
唐突にド直球にくる。あんなに言葉の幅を持ってる人がなんで!?って思った」(太田)
「アーティストは皆思っていることで1つの表現形なんだと思う。
世の中とどういうふうにコミュニケートしていくか」
35歳の時、ロンドンにソロアルバムの録音で行き、あるバンドと運命的な出会いを果たす
「ロックを通じて、すぐ心がつながった。兄弟さ」
サッチャー政権で、街には大量の失業者があふれていた
「どんな事を歌ってもイイとキヨシローは気づいたと思う。イギリスにはもっと政治的なことを歌うバンドもあったし。
日本で見つけられなかった何かを、この国で見つけたんじゃないかな」
「いわゆる文化人になっちゃダメだよな。あくまでイタズラ小僧でいなけりゃいけないし、ファンはそこが好きなんだから。
政治のことに口を出すのはイイけど、もっとおちょくってほしい。(でもアルバムには参加したのは)そういう気分は分かるから」(泉谷しげる)
キヨシローさんの古くからの盟友・仲井戸麗市さんもアルバムには戸惑った
「ああいう社会性を持ったテーマのアルバムだったから、俺個人の見解は、簡単に言うとヘヴィでした。
“君が好きだ”っていう歌とは違う角度だったから」
同じ頃、母の数少ない遺品でもあるアルバムを受け取っていた。
父は結婚後まもなく戦死、その想いを短歌にして綴っていた
『トップランナー(2001)』でのインタビュー
「偶然とはいえ、血のつながりを感じた。やっぱりそういうことも(戦争など)歌っていかないとなあと思いました」
1ヶ月後、アルバムは完成。しかし、シングル発売2週間前、レコード会社に中止と言われて、珍しく灰皿を床に投げつけて怒ったという。
「呆れましたよ。なんだよ・・・どうしてだよ。たかが歌だろ。
それが企業にとってどうとか、そんな風に捉えられちゃうってのは、ちょっと心が狭いんじゃないか。それが日本の常識ってやつか」(清志郎)
1988年8月15日 『COVERS』は別のレコード会社から発売された。
太田もまた49歳の今、分岐点にいる。1本の長編映画に挑戦中。
「一番創作性が高いのは、物語をつくって、そこにメッセージを押し込めること。
クリエイターとしては、オブラートに包んだりするほうが表現者としてはまっとうだと思うし、
でも時々、そんな事やってらんないよっていう時もあるワケだよね。
野暮だと分かってても、言わずにいられないっていう時もあって、
だから『COVERS』が野暮だなんて、オレが言えた義理じゃない」
「学祭の時に学校のモノを壊しちゃったりして、楽屋に戻ってガックリしてたり」
太田「演じてた?w」
「いや、どっちも本当。次のバンドに“次頑張れよ”って言ったりするところが、
キヨシローさんのキャパの広さだと思う。湾岸戦争の時にフセインの格好して出てきたり」
世の中にはまだ歌われていないことが山ほどある。
子どもが産まれれば家族の歌を、自転車にハマればサイクリングの歌をうたった。
55歳でがん宣告
闘病、その2年後に復活ライヴ
太田「キヨシローさんがあんなに若くして亡くなってなかったら、その後のRCはホント楽しみでしたね」
仲井戸「それはね、残念。キヨシローの60過ぎも見てみたかったし。
だけど最近、そういう思い方を止めるようにして。
キヨシローくんは58年の人生だった。若すぎるけど、たっぷりやったんだ、と友人としては思う。
いま、痛感しているのは、キヨシローくんはRCをこうしたいとか、すごくロマンがあった奴だったと、今ごろ思って」
太田「やっぱ、モノをつくる人って、ホントに敏感に、繊細に、優しい。
もうちょっと歳とったら鈍感になりたいなって思ったけど、それは表現者としては落ちてくってことだよね。
表現を研ぎ澄ませていくんだったら、敏感なままで、子どものままで、傷つきやすいままでいるべきだし、
それは苦しいだろうと思うね」
♪激しい雨
だいぶ前に予録してた番組だけど、大事にしていて、どのタイミングで見ればいいか分からずにいたけど、
今年の5月2日の命日に重ねて見たのはちょうど良かった。
主に発売禁止となった『COVERS』の話や、同じ頃ブレイクした爆問・太田との対談の話など。
素顔のキヨシローさんが見えて、より深く人柄が見えてきた気がする。
語りは、なんと西島秀俊さん/驚
[対談]
「僕が“若者は投票に行かなくてもイイ”など書いたコラム(『TVBros』天下御免の向こう見ず)を読んだキヨシローさんから“1回会って文句を言いたい”と言われた。当時はそういうことが一杯あったから、またかという感じで。でも、天下のキヨシローさんで弱ったなって、気が重かった」
「政治に無関心でいいなんて言ってると、君の息子なんかが戦争に行っちゃうわけよ」
(太田さんは、役に立たない政治屋に頼るより、個人の思考のほうが大事だって言いたかったんじゃないかなあ・・・
議論は噛み合わないまま対談は終わった
「ルール違反の中にカッコよさがあって、その中にはドロップアウトしてる人間とかがいて、
“もっと自分のやりたい、楽しいことやろうぜ”っていう。
もともと比喩的な詩人だった人が、直接訴えていくほうに行っちゃった感じはする」(太田)
『COVERS』を境にどういう変化があったのか?
東京都立日野高校
当時を知る友人とともに。「校舎の屋上が好きで、よくサボってた」(このプレイヤーは!?
「遅刻の常習犯で、単位落とすぞって電話かけるとピンクカブで来るっていう」w
「あいつは(誰とも)つるまなかった」
「目立たなくて、物静かで、喋らない。けど、感受性はスゴイ」
3歳で実母と死別。叔母夫婦に育てられた。
「“あーやっぱりネ”って思った。そんなに深刻にはならなかったよ。親はずっと隠してたんだけどさ」(清志郎)
「傷つきやすいだろうなっていうのは表情で分かるし。オレも高校時代、つまらなかったというか、どん底だった。
誰とも馴染めなかった。こっちから絶とうと思ってたんじゃなくて、キッカケがつかめなくて。
本当は友だちが欲しくてしょうがなかった。
キヨシローさんも似たようなことで悩んでる。自分って何なんだろうって。
世の中とソリが合わない。居場所がない。皆と同じことが出来ないし」
RCサクセションは大ブレイク。風呂なしアパートから、一気に高級車も手に入れた(やっぱクルマなのね、男の成功って
次第に清志郎は居心地の悪さを感じるようになる。
年間100本近いライヴという過密なスケジュール、メンバにも不協和音が響いていた。
「最低だったね」
自宅録音だから声が全然違う
「ステージで急にディランの♪風に吹かれて を演り始めた。“すごく良かったよ”と言ったら、とても喜んでくれて」
「世の中の話題は原発だった、あの時。どれだけ反発があったかは、実際、オレもやってたから分かる。
唐突にド直球にくる。あんなに言葉の幅を持ってる人がなんで!?って思った」(太田)
「アーティストは皆思っていることで1つの表現形なんだと思う。
世の中とどういうふうにコミュニケートしていくか」
35歳の時、ロンドンにソロアルバムの録音で行き、あるバンドと運命的な出会いを果たす
「ロックを通じて、すぐ心がつながった。兄弟さ」
サッチャー政権で、街には大量の失業者があふれていた
「どんな事を歌ってもイイとキヨシローは気づいたと思う。イギリスにはもっと政治的なことを歌うバンドもあったし。
日本で見つけられなかった何かを、この国で見つけたんじゃないかな」
「いわゆる文化人になっちゃダメだよな。あくまでイタズラ小僧でいなけりゃいけないし、ファンはそこが好きなんだから。
政治のことに口を出すのはイイけど、もっとおちょくってほしい。(でもアルバムには参加したのは)そういう気分は分かるから」(泉谷しげる)
キヨシローさんの古くからの盟友・仲井戸麗市さんもアルバムには戸惑った
「ああいう社会性を持ったテーマのアルバムだったから、俺個人の見解は、簡単に言うとヘヴィでした。
“君が好きだ”っていう歌とは違う角度だったから」
同じ頃、母の数少ない遺品でもあるアルバムを受け取っていた。
父は結婚後まもなく戦死、その想いを短歌にして綴っていた
『トップランナー(2001)』でのインタビュー
「偶然とはいえ、血のつながりを感じた。やっぱりそういうことも(戦争など)歌っていかないとなあと思いました」
1ヶ月後、アルバムは完成。しかし、シングル発売2週間前、レコード会社に中止と言われて、珍しく灰皿を床に投げつけて怒ったという。
「呆れましたよ。なんだよ・・・どうしてだよ。たかが歌だろ。
それが企業にとってどうとか、そんな風に捉えられちゃうってのは、ちょっと心が狭いんじゃないか。それが日本の常識ってやつか」(清志郎)
1988年8月15日 『COVERS』は別のレコード会社から発売された。
太田もまた49歳の今、分岐点にいる。1本の長編映画に挑戦中。
「一番創作性が高いのは、物語をつくって、そこにメッセージを押し込めること。
クリエイターとしては、オブラートに包んだりするほうが表現者としてはまっとうだと思うし、
でも時々、そんな事やってらんないよっていう時もあるワケだよね。
野暮だと分かってても、言わずにいられないっていう時もあって、
だから『COVERS』が野暮だなんて、オレが言えた義理じゃない」
「学祭の時に学校のモノを壊しちゃったりして、楽屋に戻ってガックリしてたり」
太田「演じてた?w」
「いや、どっちも本当。次のバンドに“次頑張れよ”って言ったりするところが、
キヨシローさんのキャパの広さだと思う。湾岸戦争の時にフセインの格好して出てきたり」
世の中にはまだ歌われていないことが山ほどある。
子どもが産まれれば家族の歌を、自転車にハマればサイクリングの歌をうたった。
55歳でがん宣告
闘病、その2年後に復活ライヴ
太田「キヨシローさんがあんなに若くして亡くなってなかったら、その後のRCはホント楽しみでしたね」
仲井戸「それはね、残念。キヨシローの60過ぎも見てみたかったし。
だけど最近、そういう思い方を止めるようにして。
キヨシローくんは58年の人生だった。若すぎるけど、たっぷりやったんだ、と友人としては思う。
いま、痛感しているのは、キヨシローくんはRCをこうしたいとか、すごくロマンがあった奴だったと、今ごろ思って」
太田「やっぱ、モノをつくる人って、ホントに敏感に、繊細に、優しい。
もうちょっと歳とったら鈍感になりたいなって思ったけど、それは表現者としては落ちてくってことだよね。
表現を研ぎ澄ませていくんだったら、敏感なままで、子どものままで、傷つきやすいままでいるべきだし、
それは苦しいだろうと思うね」
♪激しい雨