図書館で借りたCDシリーズ。
豊島区の図書館では、DVDは2枚、CDは3枚までしか借りられないのが残念だけど、
予約して取り置きの際も、借りた後も延長がきくのが有り難い。
自分で借りる機械もあって、カードをかざして、台の上に借りたいものを置いて、点数をタッチすればいいだけv
今回探してた本は「閉架」だったんだけど、その場合は、用紙に書いて、カウンターに出さなきゃならない。
でも検索結果を印刷した紙があれば、名前の記入だけでOK。
倉庫から持ってきてもらって、なんだか見たことがあるような気がしたけど、せっかくだから借りてみた
CDはブルースコーナーを物色。
以前から聴きたくても図書館で見つからなかった巨人を2人も見つけて、今回も大収穫
●BEST 34/Joan Baez(2枚組)
♪THE HITCHHIKERS' SONG(ヒッチハイカーの歌)だけなぜかパソに取り込めなかった。残念。
ずぅーーーっと探してたアルバム。これでカセットテープも心置きなく廃棄出来るv
バエズの声で聴くディランの曲が好きなんだ。
【ライナー抜粋メモ~三橋一夫】
♪ドンナ・ドンナ は朝日新聞が「米国では民謡が大人気」という見出しをつけていた。
1960年代、アメリカの『キャヴァリア』という雑誌で、毎年、フォークミュージシャンの人気投票をやり、
女性歌手部門で、上位5位までには必ず、J.バエズ、ジュディ・コリンズ、オデッタ、バフィー・セントメリーが入っていた。
バエズはメキシコ系、コリンズはアイルランド系、オデッタは黒人、バフィーはアメリカ・インディアン。
アメリカを代表するとされていたWASP(プロテスタントで、アングロサクソンのアメリカ人)が1人もいない。
ニューポートで開かれたフォーク・フェスティバルに、真っ赤な霊柩車を乗りつけ、飛び入りで歌って、一夜でヒロインとなったバエズ。
同じく、ディランも一夜でヒーローとなり、かれらはフォークソングのプリンス&プリンセスと言われた。
バエズは「アムネスティ・インターナショナル」(世界から暴力を追放する運動)に参加したりして、
なにかと社会的な部分が報道されがちだが、デビューアルバム以来、プロテストソングはない。
ベトナム戦争のことがレコードになったのは、A&Mに移籍してからだった(1972年)。
♪ドンナ・ドンナ にしても、ミュージカル「ジョー・ヒル」が映画化されて有名になったが、
1930年代の労働運動のヒーローの死をうたったこの歌は、労働組合の中でしか知られていなかった(牛の話じゃないの!?
あるアメリカの音楽評論家は彼女のことを「アマチュアの良さが最も発揮された歌手」と評した。
「作られたもの」に対するアンチテーゼが、最も美しい形で掲げられたのだ。
●I Left My Blues in San Francisco/Buddy Guy
このシャウトっぷり、いやあひたすら堪能。
【ライナー抜粋メモ~小出斉「チェス・ブルース・コレクション」】
私がずっと探していたブラックミュージックシリーズのアルバムは全部チェスレーベルだったんだ!
ローリング・ストーンズが、1965年にチェススタジオで録音したインスト「2012 South Michigan Avenue」。
タイトルは、当時のチェススタジオの住所。
チェスレコード。黒人音楽ファン、とくにブルースファンにとっては、特別なレーベルだろう。
ポーランドからシカゴに移住してきたレオナードとフィルのチェス兄弟が、
1947年にスタートしたアリストクラットレーベルを母体に名前を改めたのが1950年。
今回の「チェス・ブルース・コレクション」は、そんな中からの30枚。
チェスが最も強かったシカゴブルースを中心にしている。
バディ・ガイのチェスから初めてのフルアルバムで、1969年発表。この時点でバディはチェスを離れていた。
60年~67年にチェスに在籍し、活躍していたのに、チェスはずっと放っておいたのは可哀想じゃないの?
ジミヘンもバディのステージに影響されたくらい、凄いパフォーマーだったが、なぜか会社に認めてもらえず、チェスを離れる一因となった。
タイトルは、トニー・ベネットの大ヒット♪I Left My Heart in San Francisco をもじったのが可笑しい。
バディのイメージは、激情型、エモーション100%で突き進む(修造さん的な?w
60年代初期から、さまざまな他人のヒット曲を演奏して「人間ジューク・ボックス」とも言われた。
【ライナー抜粋メモ~ボブ・シュナイダーズ ジョージ・“バディ”・ガイ訳】
第二次世界大戦後に出現したシカゴブルースは、サニー・ボーイ・ウィリアムソンら創始者たちの逝去により
消滅したと感じる音楽学者もいるが、実際には、微妙な変化を受けながら世代交代を果してきた。
60年~70年代をとして、シカゴには新しい世代のブルースミュージシャンが出現しはじめた。
ジュニア・ウェルズ、バディ・ガイ、ルーサー・アリソンなど。
バディは7年間、チェスのハウスギタリストとして働き、自らのレコードも創った。
やがて刺激的なギタースタイルやエキサイティングなステージはトレードマークとなった。
●Ain't Gonna Be Your Dog/Howlin' Wolf(2枚組)
まさか、ここでハウリン・ウルフさんにお目にかかれるとはっ!! 感激の極みです/感謝 痺れる・・・・
【ライナー抜粋メモ~小出斉】
ブルースが形式を整えたのは、19C終わり~20Cにかけてが定説。
アメリカ南部で生まれた、弾き語りのカントリーブルースが都会に広まり、定型化し、
バンドサウンドに代わり、戦後はエレキが主体になった。
94年に企画された「チェス・ブルース・コレクション」も好評で、第2期もできた。
ここでは、多くが録音から30~40年を経たもの。
【ライナー抜粋メモ~中山義雄 1996】
「あっちの連中は、音楽のことを分かってるつもりになってるんだが、人生ってもんを知らねえんだ」ウルフはこう吠えた。
黒人をホワイトハウスに送り込むと鼻息の荒かった反面、俺はドン百姓だから、と自分を卑下していたウルフ。
英文ライナーを書いたディック・シャーマンは、晩年のウルフのいささか分裂症気味な性格に触れているが、
今まで引っかかっていた、ウルフの2つの顔にまつわる謎が解けたのだ。
ウルフは、ローシング・ストーンズのメンバがシカゴ公演の際に自宅に立ち寄ってくれるものと思っていた。
しかし、誰一人としてやって来ない(ジョンなら絶対行ったんじゃないかな
そこには豪傑揃いのブルース界にあっても、浮かんでくるのは孤独な老人の姿である。
ビル・ワイマンだけはウルフのもとを訪ね、その時の幸せそうな表情を映した写真は『The Chess Box』のブックレットに載っている。
全盛期のウルフは、親分肌の豪傑ぶり。
晩年近くのウルフは、ひたすら孤独と闘い、肉体の衰えから死の足音を感じていた一人の老人でもあった。
アメリカは日本とは逆に、ヨーロッパや日本からの輸入盤は高価で、
ファンはよほどじゃない限り手を出さないというのがマーケットの常識。
アメリカで再発された音源に最上級の形容詞つきで、幻の逸品と謳われていても、
日本では常識の範疇に属するものも少なくない。
1949年、ウルフはウエスト・メンフィスのKFFAで「歌う広告塔」の番組を持ち、
その魅惑の低音でスポンサーの宣伝をし、人気に火がつき、サム・フィリップスのもとで録音を開始する。
モダンとチェスの間で争奪戦が繰り広げられたのは有名な逸話で、結局、チェスが獲得。
マディ・ウォーターズと並び、シカゴブルースシーンの顔になり、2人のライバル意識は確執に発展する。
ウィリー・ディクスンは、マディから「ウルフにばかり良い曲を書きやがって」と言われ、ウルフとの板ばさみで苦労が絶えなかった。
【ライナー抜粋メモ~ディック・シャーマン 中山義雄/訳 1993】
ウルフは、優位に立つ白人文化とうまくやってゆく術を、父から学んだ。
「俺はロバート・ジョンソン、サニー・ボーイ・ウィリアムソンに出くわし、しょっちゅう一緒に遊んで、一緒に演ったもんだ」
「とにかくミュージシャンてのはヤワな代物なんだ。牛みたいに急かされ続けようとすりゃ、
ヒビだらけになっちまう。もう良い仕事はできなくなっちまうのさ」
♪ママズ・ベイビー などでは、ギターという道具の限界を超えている。
ウルフの人生最期の10年間には、遅ればせながらの評価が与えられ、世を去った1976年の2ヶ月前まで、炎のライヴが続いた。
ウルフは、心臓と肝臓の病との闘いが増していたため、レコードとして残されたものの中には、
無理をして吹き込んだもの、常軌を逸した異様なもの、妥協の産物があった。
彼は何を考えているか見当がつかない、取扱注意だと言われることもあった。
彼には自分の腕ひとつで生きてきた男のプライドがあったのだ。
時に腸を煮え繰り返して、自分には充分なものを与えてくれたことなどない“世界の変化”に裸一貫で向かい合い、とてつもない障害を乗り越えてきた。
『The Chess Box』のインタビューでは、時としてラディカルなまでに変形された自分の歌のカヴァーにまでウルウは感謝していたのである。
豊島区の図書館では、DVDは2枚、CDは3枚までしか借りられないのが残念だけど、
予約して取り置きの際も、借りた後も延長がきくのが有り難い。
自分で借りる機械もあって、カードをかざして、台の上に借りたいものを置いて、点数をタッチすればいいだけv
今回探してた本は「閉架」だったんだけど、その場合は、用紙に書いて、カウンターに出さなきゃならない。
でも検索結果を印刷した紙があれば、名前の記入だけでOK。
倉庫から持ってきてもらって、なんだか見たことがあるような気がしたけど、せっかくだから借りてみた
CDはブルースコーナーを物色。
以前から聴きたくても図書館で見つからなかった巨人を2人も見つけて、今回も大収穫
●BEST 34/Joan Baez(2枚組)
♪THE HITCHHIKERS' SONG(ヒッチハイカーの歌)だけなぜかパソに取り込めなかった。残念。
ずぅーーーっと探してたアルバム。これでカセットテープも心置きなく廃棄出来るv
バエズの声で聴くディランの曲が好きなんだ。
【ライナー抜粋メモ~三橋一夫】
♪ドンナ・ドンナ は朝日新聞が「米国では民謡が大人気」という見出しをつけていた。
1960年代、アメリカの『キャヴァリア』という雑誌で、毎年、フォークミュージシャンの人気投票をやり、
女性歌手部門で、上位5位までには必ず、J.バエズ、ジュディ・コリンズ、オデッタ、バフィー・セントメリーが入っていた。
バエズはメキシコ系、コリンズはアイルランド系、オデッタは黒人、バフィーはアメリカ・インディアン。
アメリカを代表するとされていたWASP(プロテスタントで、アングロサクソンのアメリカ人)が1人もいない。
ニューポートで開かれたフォーク・フェスティバルに、真っ赤な霊柩車を乗りつけ、飛び入りで歌って、一夜でヒロインとなったバエズ。
同じく、ディランも一夜でヒーローとなり、かれらはフォークソングのプリンス&プリンセスと言われた。
バエズは「アムネスティ・インターナショナル」(世界から暴力を追放する運動)に参加したりして、
なにかと社会的な部分が報道されがちだが、デビューアルバム以来、プロテストソングはない。
ベトナム戦争のことがレコードになったのは、A&Mに移籍してからだった(1972年)。
♪ドンナ・ドンナ にしても、ミュージカル「ジョー・ヒル」が映画化されて有名になったが、
1930年代の労働運動のヒーローの死をうたったこの歌は、労働組合の中でしか知られていなかった(牛の話じゃないの!?
あるアメリカの音楽評論家は彼女のことを「アマチュアの良さが最も発揮された歌手」と評した。
「作られたもの」に対するアンチテーゼが、最も美しい形で掲げられたのだ。
●I Left My Blues in San Francisco/Buddy Guy
このシャウトっぷり、いやあひたすら堪能。
【ライナー抜粋メモ~小出斉「チェス・ブルース・コレクション」】
私がずっと探していたブラックミュージックシリーズのアルバムは全部チェスレーベルだったんだ!
ローリング・ストーンズが、1965年にチェススタジオで録音したインスト「2012 South Michigan Avenue」。
タイトルは、当時のチェススタジオの住所。
チェスレコード。黒人音楽ファン、とくにブルースファンにとっては、特別なレーベルだろう。
ポーランドからシカゴに移住してきたレオナードとフィルのチェス兄弟が、
1947年にスタートしたアリストクラットレーベルを母体に名前を改めたのが1950年。
今回の「チェス・ブルース・コレクション」は、そんな中からの30枚。
チェスが最も強かったシカゴブルースを中心にしている。
バディ・ガイのチェスから初めてのフルアルバムで、1969年発表。この時点でバディはチェスを離れていた。
60年~67年にチェスに在籍し、活躍していたのに、チェスはずっと放っておいたのは可哀想じゃないの?
ジミヘンもバディのステージに影響されたくらい、凄いパフォーマーだったが、なぜか会社に認めてもらえず、チェスを離れる一因となった。
タイトルは、トニー・ベネットの大ヒット♪I Left My Heart in San Francisco をもじったのが可笑しい。
バディのイメージは、激情型、エモーション100%で突き進む(修造さん的な?w
60年代初期から、さまざまな他人のヒット曲を演奏して「人間ジューク・ボックス」とも言われた。
【ライナー抜粋メモ~ボブ・シュナイダーズ ジョージ・“バディ”・ガイ訳】
第二次世界大戦後に出現したシカゴブルースは、サニー・ボーイ・ウィリアムソンら創始者たちの逝去により
消滅したと感じる音楽学者もいるが、実際には、微妙な変化を受けながら世代交代を果してきた。
60年~70年代をとして、シカゴには新しい世代のブルースミュージシャンが出現しはじめた。
ジュニア・ウェルズ、バディ・ガイ、ルーサー・アリソンなど。
バディは7年間、チェスのハウスギタリストとして働き、自らのレコードも創った。
やがて刺激的なギタースタイルやエキサイティングなステージはトレードマークとなった。
●Ain't Gonna Be Your Dog/Howlin' Wolf(2枚組)
まさか、ここでハウリン・ウルフさんにお目にかかれるとはっ!! 感激の極みです/感謝 痺れる・・・・
【ライナー抜粋メモ~小出斉】
ブルースが形式を整えたのは、19C終わり~20Cにかけてが定説。
アメリカ南部で生まれた、弾き語りのカントリーブルースが都会に広まり、定型化し、
バンドサウンドに代わり、戦後はエレキが主体になった。
94年に企画された「チェス・ブルース・コレクション」も好評で、第2期もできた。
ここでは、多くが録音から30~40年を経たもの。
【ライナー抜粋メモ~中山義雄 1996】
「あっちの連中は、音楽のことを分かってるつもりになってるんだが、人生ってもんを知らねえんだ」ウルフはこう吠えた。
黒人をホワイトハウスに送り込むと鼻息の荒かった反面、俺はドン百姓だから、と自分を卑下していたウルフ。
英文ライナーを書いたディック・シャーマンは、晩年のウルフのいささか分裂症気味な性格に触れているが、
今まで引っかかっていた、ウルフの2つの顔にまつわる謎が解けたのだ。
ウルフは、ローシング・ストーンズのメンバがシカゴ公演の際に自宅に立ち寄ってくれるものと思っていた。
しかし、誰一人としてやって来ない(ジョンなら絶対行ったんじゃないかな
そこには豪傑揃いのブルース界にあっても、浮かんでくるのは孤独な老人の姿である。
ビル・ワイマンだけはウルフのもとを訪ね、その時の幸せそうな表情を映した写真は『The Chess Box』のブックレットに載っている。
全盛期のウルフは、親分肌の豪傑ぶり。
晩年近くのウルフは、ひたすら孤独と闘い、肉体の衰えから死の足音を感じていた一人の老人でもあった。
アメリカは日本とは逆に、ヨーロッパや日本からの輸入盤は高価で、
ファンはよほどじゃない限り手を出さないというのがマーケットの常識。
アメリカで再発された音源に最上級の形容詞つきで、幻の逸品と謳われていても、
日本では常識の範疇に属するものも少なくない。
1949年、ウルフはウエスト・メンフィスのKFFAで「歌う広告塔」の番組を持ち、
その魅惑の低音でスポンサーの宣伝をし、人気に火がつき、サム・フィリップスのもとで録音を開始する。
モダンとチェスの間で争奪戦が繰り広げられたのは有名な逸話で、結局、チェスが獲得。
マディ・ウォーターズと並び、シカゴブルースシーンの顔になり、2人のライバル意識は確執に発展する。
ウィリー・ディクスンは、マディから「ウルフにばかり良い曲を書きやがって」と言われ、ウルフとの板ばさみで苦労が絶えなかった。
【ライナー抜粋メモ~ディック・シャーマン 中山義雄/訳 1993】
ウルフは、優位に立つ白人文化とうまくやってゆく術を、父から学んだ。
「俺はロバート・ジョンソン、サニー・ボーイ・ウィリアムソンに出くわし、しょっちゅう一緒に遊んで、一緒に演ったもんだ」
「とにかくミュージシャンてのはヤワな代物なんだ。牛みたいに急かされ続けようとすりゃ、
ヒビだらけになっちまう。もう良い仕事はできなくなっちまうのさ」
♪ママズ・ベイビー などでは、ギターという道具の限界を超えている。
ウルフの人生最期の10年間には、遅ればせながらの評価が与えられ、世を去った1976年の2ヶ月前まで、炎のライヴが続いた。
ウルフは、心臓と肝臓の病との闘いが増していたため、レコードとして残されたものの中には、
無理をして吹き込んだもの、常軌を逸した異様なもの、妥協の産物があった。
彼は何を考えているか見当がつかない、取扱注意だと言われることもあった。
彼には自分の腕ひとつで生きてきた男のプライドがあったのだ。
時に腸を煮え繰り返して、自分には充分なものを与えてくれたことなどない“世界の変化”に裸一貫で向かい合い、とてつもない障害を乗り越えてきた。
『The Chess Box』のインタビューでは、時としてラディカルなまでに変形された自分の歌のカヴァーにまでウルウは感謝していたのである。