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学習漫画 世界の伝記26『ガリレオ・ガリレイ』(集英社)

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学習漫画 世界の伝記26『ガリレオ・ガリレイ』(集英社)

科学シリーズ。「近代科学の父」と呼ばれるガリレイ。

【内容抜粋メモ】

1564年 ガリレオはイタリアのピサで生まれた。7人兄弟の長男。
ガリレイ家は、もともとフィレンツェの小貴族。この当時は落ちぶれて貧しかった。
父は名の知れた音楽家。ガリレオには医者になってほしいと思っていた。

父が宮廷で音楽を教えるため、10歳の頃フィレンツェに引っ越す。
聖マリア修道院で勉強。
父に「決まりきった常識だけを信じていては真理が見えなくなる」と言われて育つ。
「学問の父」と呼ばれるアリストレスの「重い石のほうが軽い石より早く落ちる」という説に疑問を抱く。

ピサ大学に移る。疑問を持つと誰にでも論議をふっかけるので、あだ名が「けんか屋」。
礼拝堂のシャンデリアの揺れを観察して、「ふりこの等時性の法則」を発見。19歳。
大学を辞めて、しばらく近所の病人の診察をして稼いだ。
夜は数学・物理学・天文学などを独学で学び、物の重さや密度を計る比重計を発明したり、重心の理論を考え出した。

デル・モンテ伯爵がピサ大学の講師に推薦してくれた。25歳。
ピサの斜塔で、重さが違っても形が同じならほとんど同時に落ちることを実験して見せる。「落体の法則」
真空状態なら同時に落ちるだろうと推測。

1951年 最大の理解者であった父が心臓発作で亡くなる。
大学との契約が切れ、家族の面倒をみなければなくなる。

デル・モンテ伯爵からパドバ大学への就職を推薦される。
3倍の給料で、化学・物理、機械、運動、建築、宇宙、絵画、詩まで取り組み、
論文を外国にも送ったのでヨーロッパ中に名が知れた。28歳が黄金期。
「物理学でいちばん大切なのは、観察と実験」と教えた。
コペルニクスの『天体の回転について』という本で地動説に賛成する。


天動説と地動説
2Cのギリシアの天文学者プトレマイオスが唱えた天動説は、
「宇宙をつくったのは神さまで、宇宙を完全な球形につくり、その中心に地球をおいた」
というキリスト教の教えに合っていたため長い間支持された。
コペルニクスの地動説を唱えることは死刑に値した。


当時の歴史の動き
1517年 ドイツにマルチン・ルターという僧が現れ、キリスト教の改革運動を始め、ドイツ全体の戦争にまで発展した
昔ながらのキリスト教を守る「カトリック派」と、改革運動を支持する「プロテスタント派」に分かれた。

1600年 東インド会社が設立。


ガリレオはマリナ・ガンバと正式ではないが結婚。3人の子どもが産まれた。

ジョルダノ・ブルーノ(キリスト教神父)が天動説に異議を述べて火あぶりの刑になった。
友人サルピの説得で、ガリレオは講義では地動説についてふせた。
代わりに温度計の発明などに力を注いだ。

1604年 パドバの上空に明るい星があらわれ、科学者の論争の的となった。
科学者は「月に反射した太陽の光だ」と言い、ガリレオは「新しい星だ」と言い、
18ヶ月後に星は消えたが、アリストテレス学派の怒りは消えなかった

オランダのめがね屋で遠めがねが発明された。

1610年 ガリレオは20倍に見える「ガリレオ式」望遠鏡をつくり、月を観察した

木星に小さな星が見え、毎日位置を変えることを発見。
『星からのたより』を出版。天の川、木星の4個の星が話題になる。
この本をフィレンツェのメディチ大公にささげ、4個の星に「メディチの星」と名付けた。
大公のはからいでピサ大学の教壇にふたたび立つ。
フィレンツェに帰った時、迎えたのは妹とその家族だけだった。
マリナとは10年ほど暮らして別れ、その後二度と結婚はしなかった。2人の娘は修道院に入った。

金星も月のように満ち欠けしていると発見。土星、火星、太陽も観察して黒点を発見。
黒点も移動していることから、太陽も自転していると推測する。
太陽の観察のせいで後に目を悪くしてしまう。

1613年 『太陽の黒点に関する覚書』を書く。

貴族のフィリッポ・サルビアッティは18歳だったが、年齢の差を超えた付き合いがあった。
難しいラテン語でなく、すべての人が読めるイタリア語で出版することを決める。
※ラテン語は、学術上の共通語として使われていたが、一部の学者、教会関係者以外の一般のヒトはほとんど読めなかった。

1611年 ローマでパウロ五世と対面。望遠鏡を贈る。

弟子カステリに書いた1通の手紙に天動説への疑問を書いたのが法王庁に逆らうとされ、宗教裁判となる。
1.太陽が宇宙の中心である 2.地球は太陽の周りを回っていることを話すのを禁じられ、
3.コペルニクスの『天体回転論』を読むことも出版も禁じられる。

ローマから帰ったガリレオはすっかり落ち込む。修道院から帰った娘ビルジニアが世話をする。

『天文対話』(空想の人物が地動説を語る本)を書き始め、ベストセラーになる
パウロ五世からウルバヌス八世に変わって、ふたたび法王庁から呼び出される。
さらに長女のビルジニアが34歳の若さで亡くなり、悲しみのあまり数ヶ月、本も読めなくなる。

持病のリューマチを理由に延期を願い出たが、1632年ふたたび宗教裁判のためローマに呼び出される。
今後いっさい地動説の考えを放棄し、『天文対話』は禁書にし、牢に入るよう命じられる
この時、ギリシア語で「それでも地球は動く」と繰り返していたという。

牢にいても新しい本を書いていた。ミルトン(『失楽園』が有名な詩人)らヨーロッパの学者や文化人が訪ねてきた。
そばにはひとり息子のビンツェンチオや、真空の研究で有名になるトリチェリ(イタリアの物理学者)らが付き添っていた。
目が不自由になったガリレオは口述筆記で新しい本を書き続けた。

1636年に書いた『新科学対話』は、イタリアで出版できず、1638年オランダで出版された。
1638年 失明。

1642年 息子と数人の弟子に見守られて死去。
同じ年、彼の跡を継ぐ偉大な科学者アイザック・ニュートンがイギリスで生まれている。

1989年 ローマ法王、ヨハネ・パウロ二世は、「ガリレイを宗教裁判にかけ迫害したのは間違いだった、彼は無知の犠牲者だった」と発言(遅すぎ


【竹内均氏による解説抜粋メモ】
「ふりこの等時性」の原理を使ってオランダの物理学者ホオイヘンスが振り子時計を作ったのは、ガリレイの死後14年たった1656年。

「空気の抵抗力」
パドバ時代に自由落下運動と斜面運動について研究した。
アリストテレスの落下運動について疑問をもったガリレイはさまざまな実験をして、
落下運動には、地球の引力の他にもうひとつの力が働いていると言った。「空気の抵抗力」

真空中では重い物も軽い物も同時に落ちることが確かめられている。
ガリレイの弟子トリチェリが「トリチェリの真空」を作ったのは、ガリレイ死後の翌年1643年。
空気の抵抗は、軽い物により大きく現れることを発見。
斜面運動では、時間とともに、それに比例して球の速度が増すことを確かめた。


「地動説を唱えて宗教裁判に」
月の表面に地球に似た山や谷があることなどを発見し、地動説を間接的に証拠立てた。
それを友人のドイツの天文学者ケプラーに書き送っている。

ローマ法王庁からコペルニクスの説を単なる仮説として述べるなら本を出版してもよいと許可を得る。『天文対話』
それがあまりに生き生きとしていたために、改めて教会の怒りを買い、ローマで謹慎を命ぜられ、死ぬまで続いた。



ガリレイの望遠鏡



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