こないだジャニスのアルバムを聴いて、またブルースが聴きたくなったのと、
スミソニアン所蔵の音源が気になったから借りてみたら、今回の4枚もすべて大当たりv
曲はもちろんのこと、ライナーから音楽の歴史の流れなど、さまざまな貴重な知識が学べた。
なので、また長くなってしまったがあしからず/謝
●Field Recordings 1973-1980/Big Joe Williams
ひさびさ本物のいわゆるブルースを味わえた感v
【ライナー抜粋メモ~高地明(1991)】
1935年に初レコーディング、45年間にわたり作品を音盤に記録し続けた、偉大なミシシッピ・デルタの9弦ギターのブルースマン。
芸歴はもっと長く、放浪しながら、60年以上もブルースマン生活をしていたことになる。
単独アルバムだけでも30枚近くある。
その人生で最後のものを集めたのが本アルバム。
1975年『第3回ブルース・フェスティヴァル』のために来日。
羽田空港に出迎えに行くと、車椅子に乗って、巨大な腹の、まるで“黒い塊”のような怖そうな老人に見えた。
ふり絞るヴォーカルとギターの力感は、ミシシッピ・デルタ・ブルースの真髄そのものだった。
ビッグ・ジョーは、レコーディング・アーティストではなく、あくまでも
“飲んだくれで、勝手気ままな、放浪のブルースマン”だと言われている。
8,11,16で一緒に歌う女性リディア・カーターは、気心知れた絡みで実になごむ。
●Folkways A Vision Shared A Tribute To Woody
【ライナー抜粋メモ~スミソニアン協会広報局次官ラルフ・リンツラー】
現在活躍中のアーティストが、自分たちの作品をアメリカの国立博物館と言われるスミソニアン協会に寄贈したのは、このレコードが初めて。
すべて印刷物、レコードにし、国民の誰でもが、いつでも見たり、聴いたりできる状態に保存します。
【ライナー抜粋メモ~スミソニアン協会 フォークウェイズ・レコーズ・ディレクター アンソニー・シーガー】
レッド・ベリーの歌は、南部の貧しい農場労働者のダンス曲、ワークソング、黒人移民たちの大都市への憧れと苦悩が歌われている。
ウディ・ガスリーは、アングロ・アメリカの伝統的なバラッド、干ばつや大恐慌のために家を失い、放浪する者の絶望、
そのせいでカリフォルニアへ移住した人々の絶望から生まれた。
モーゼズ・アッシュは、広範囲にわたる音の世界を提供することに一生を捧げた。
50年間に2100の作品をプロデュースし、記録した音をいつでも聴けるよう保存した。
子どもの声、カエルの声、市街地の音、前衛的な電子音楽、政治演説、戯曲など。
これらは、支配者が好むものではなく、ふつうの人々の音楽だ。
アッシュは、レッド・ベリー、ガスリーらに、自由にレコードの内容を決めさせた。
フォークウェイズのレコードは、ラジオやジュークボックスを通しては聴けず、
レコード店にも必ずあるというものでもなかったが、広く人々の耳に伝わった。
ボブ・ディランは、ガスリーの曲をそれらから聴き、いくつも覚えた。
公共図書館には、フォークウェイズのレコードが揃えられた。
音楽は、それを人々が聴くことができなければ意味がない。
スミソニアン協会がフォークウェイズ・コレクションを取得した意図は、
かつて発表されたレコードをいつでも聴ける状態に保ち、未来のために記録する伝統を残し、
それを再演する社会や、人々が音を聴けるようにすることにある。
音楽は、時間、空間、社会的距離、政治、偏見の障害を越える表現形式だ。
アメリカのポピュラー音楽は、カリブやアフリカのスタイルに影響を受けている。
そして、アメリカのポピュラー音楽は、地球上のほとんどの場所へ届いている。
音楽は、人々を1つにするためにも、分断するためにも、
戦争を生むためにも、愛を生むためにも使うことができる。
【ボブ・ディラン BBCラジオインタビュー転載 内容抜粋メモ】
リトル・リチャードは「写真を撮られるのが嫌なら、スターではいられない」と言った。
当時、これらの歌は「危険」だとみなされていた。
現代のように焦点がぼやけ、価値が多様化した時代では忘れてしまいがちだが、芸術ほど破壊的な力をもつものはない。
当時のレコードを私は今も持っている。
レッド・ベリー、ウディ・ガスリー、シスコ・ヒューストン、ビッグ・ビル・ブルーンジー、、、
世界がデモクラシーの正しさを信じ続け、政治への意識持ち、
長期間戦い続けてきたことを語るものだ。
それぞれの時代の文脈の中で、我々は戦わなければならない。
歴史の意味は、重要なものを世代から世代へ伝えることにある。
ガスリーを初めて聴いたのは、知人のパーティーで、フォークウェイズのレコードだった。
彼は常に言うべきことを持っていたんだ。
僕は失った多くの時間を埋め合わせようと、彼に関して分かるすべてを知ろうとした。
『バウンド・フォー・グローリー~ギターをとって弦をはれ(昌文社)』
やっと本人に会えた時、彼は具合が悪くて、僕は従僕のように付き添った。
彼のそばで彼の歌をうたったんだ。彼は曲名を指定して歌わせた。
僕にとって、彼は鎖の中の1つの環みたいなものだ。
僕が他の人にとってそうであるように、
誰もが、誰かにとってそうであるように。
ガスリーには素直さがあった。僕には取り戻すことが出来ないある種の素直さだ。
彼を最後に、それはなくなった。
【ライナー抜粋メモ~和訳・解説:菅野ヘッケル】
フォークソングは、大衆のための理想社会を求めて歌われ、人から人へと伝えられた。
レッド・ベリーは、フォークウェイズに900曲以上、ガスリーも200曲以上レコーディングしている。
スミソニアン協会は、1846年にイギリスの科学者の遺産を基金として設立された。
ワシントンDCに本部を置く、世界最大の文化施設。
アメリカ政府の保護下にあるが、政府機関ではない。
ウディ・ガスリー
一家はオケマに移住した人々の最初のグループに属していた。
子どもの頃、姉が事故死、父は事業に失敗、母は精神病院に入院し、
16歳のウディはハモニカだけを持って旅に出た。
1952年、母と同じハンチントンコリアという不治の病にかかり、長い病院生活を送る。
まだデビュー前のディランが毎日のように病室を訪れた話は、映画『アリスのレストラン』にも出てくる。
レッド・ベリー
南北戦争後の南部に住む黒人たちの生活は非常に厳しかった。
のちにジョン・ロマックスが彼の人生を書いた『ネグロ・フォーク・フォングス』という本には、
ベリーが暴力的で、酒と女に溺れた人生だと書かれていたが、本人をよく知る人たちは事実とまったく違うと証言、
ベリー自身も、この本の出版を差し止める手続きをとろうとしたが、
当時の南部で、黒人がどれほど公正な裁判を受けることができただろう。
生存中は成功に恵まれなかったベリー。
死後6ヶ月目、ウィーヴァーズが歌う♪グッナイト・アイリーン が大ヒットした。
【lyrics】
♪ド・レ・ミ(dough(お金)に音階のレ、ミをつけた語呂合わせ
俺の警告をちゃんと聞いたほうがいいぞ
俺は、毎日、求人広告を隅々まで見ているのに
新聞の見出しはいつも同じことの繰り返し
あんたにドレミがなかったら・・・
♪グッナイト・アイリーン
田舎に暮らすこともあれば
町で暮らすこともある
思いきって河に飛び込んで
溺れ死んじゃおうかと思い詰めることもあるんだ
アイリーン おやすみ
夢の中で一緒になるからね
♪我が祖国
この大地はあなたの大地
この大地は私の大地
アカマツの森からメキシコ湾流の水まで
この大地はあなたと私のためにある
●クラシック・ケルティック・ミュージック フロム・スミソニアン・フォークウェイズ
一時期「ワールド・ミュージック」コーナーも一度手をつけてはみたものの、
妙な境地に引きずり込まれる感触と、自分の立ち位置が分からなくなりそうで引き返した思い出がある
【ライナー抜粋メモ~松山晋也(2013)】
民俗音楽のリスナーの間で、最も良心的レーベルとして親しまれてきた「フォークウェイズ」。
だが、70年代以降のケルト音楽の演奏を、ブリテン諸島とアメリカにまたがって
ここまでバランスよくコンパクトに集めた作品はあまり記憶にない。
ブリテン諸島とアメリカ大陸に渡って変容したアパラチアの「マウンテンミュージック」、
アイリッシュ、スコティッシュ、さらには、ネイティヴ・アメリカン、カントリー・ブルースなどが資料化されている。
創業からアッシュが亡くなる1986年までにリリースされたアルバム数は2168枚。
一貫していたのは、商業的成功ではなく、文化的・歴史的価値を重視する学術的姿勢だった。
経営は苦しく、スミソニアン協会の傘下フォークライフ&カルチュラル・ヘリテッジに吸収された。
「アメリカーナ」と呼ばれるアメリカ大衆温故知新ブームのあった1997年、
『Anthology of American Folk Music』が2枚組でインタビューリースされ、同年のグラミーを受賞。
ローマ帝国の文献にもあるとおり、アイルランド、スコットランド人は、もともと音楽に秀でた民族だったが、
18~19Cの「産業革命」以降は農村コミュニティの解体、生活様式の変化もあり伝統文化の継承が困難になる。
アメリカでフォーク・リヴァイヴァルが起こったのは1950年代後半以降。
ブリテン諸島からアメリカ大陸への移民は、19C半ばのジャガイモ飢饉後、一層増加した。
新しいフォーク・ムーヴメントが起こり、その牽引車がガスリー、ピート・シーガーなどだった。
アイルランドでとくに影響が大きかったのは、クランシー・ブラザース。
1980年代には多様性が高まる。
クランシー・ブラザースの影響下で結成されたのがダブリナーズ。
1980年代にはポーグス、エンヤなど。
本盤のコンパイラーのリチャード・カーリンは民俗音楽学者・ミュージシャンで、伝統音楽に関して誰より詳しい人物。
各楽曲が、いつ、どんな状況で録音されたかは、ブックレットの詳細な解説を読んでいただきたい(ブックレットはなかった
●Woodstock Diary
まさか、今、またあの「ウッドストック」の未発表曲が聴けるなんて思わなかった。
日本でのフェスは、今となっては完全に商業化、定型化してしまった。
世間からはみ出して、異質なロック魂を感じられるバンド、演奏は一体いくつ聴けるかどうか。
どれも似たり寄ったりに聴こえる。
【ライナー抜粋メモ~会田裕之(1994)】
音楽が大群衆を、それまでの西洋文化になかった形で惹きつけるようになったのは、やはりロック・フェスティヴァルが登場してから。
西洋に輸入されるまで、ブルースビートはアフリカでは踊りによる「憑依」の儀式の核だった。
「ロアス」は、自然の力による神聖な一体化の啓示者で、神は踊りの恍惚を通して宿る。
忘我状態のダンサーは、肉体を放棄することで神となり、それは催眠的リズムを持つ音楽により引き起こされる。
ロックのブルースビートは、こうした儀式にある。
聖書によると、アダムとイヴの最初の罪は、禁断の「相対するもの」の知識を与えたこと。
エデンから追放され、時間の迷妄界、過去と現在、生と死の世界へ追いやられた。
「肉体を否定する」ことは聖書によるところの美徳となった。
当局は、直ちに「神聖な太鼓」の廃止を決め、ロアダンスを禁止した
この損失を埋めるために奴隷が生み出したのがブルースだ。
清教徒により抑えられたアニミズムの本能を発散させた。
部族的なヴードゥーダンスに代わり、かつて交信儀式でドラムが伝えたものは、個々のプレイヤーによって保存された。
リズムが電気音になった時、ロックンロールは幕を開けた。
エルヴィスを通してアフリカとチャネリングしたのだ。
リズム&ブルースが主流となり、肉感的な「スネークダンス」となる。
リトル・リチャードいわく
「ロックンロールは、癒す音楽、見えなかった者の目を見えるように、歩けなかった者の足を歩けるようにする」
ドラムのビートが人間の最初の罪を癒し、魂のブルースを和らげた。
ジミヘン:
体制は「あれもするな、これもするな」と俺たちに言うために十戒を作った。
ところが、突然、彼らとまったく違う脳みそを持つ若者が出てきて、どうしたらいいのか分からないでいる。
俺たちは、若者を救いたいんだ。年寄りと若者の間の緩衝物を創りたい。
かつて動物と話したシャーマンのように、西洋の若者は詩人、ヨガ行者、歌手、魔女らに通じるようになった。
その祭りはサンフランシスコのヘイト~アシュベリー地区のダンスホールで始まった。
50年代には「ビートニク」の故郷となり、アメリカのカウンターカルチャーの受け皿だった。
若者は、自然を汚す親たちのやり方に裏切られた気がしていた。
過半数がベトナム戦争への選抜徴兵制を嫌った。
この徴兵制は、黒人が多く、黄色人種を撃たせ、インディアンから取り上げた土地で暮らす白人を豊かにするものだったからだ
ロックが引き金となり、環境保護の意識が急激に高まった。
利己的に地球を粗末にする社会の中、「ヘイト・オアシス」が設立された。
「フェスティヴァル」という言葉は、サンフランシスコで行われた「トリップス・フェスティヴァル」でデビューを飾った。
人類の生活が記録されるようになってから約1万年、500世代のうち、495世代は「種族」で生活を営んできた。
それが急速に変わったのは「産業革命」後。個人の時代となり、疎外感が増大した。
空気中の二酸化炭素量が初めて計られたのは1958年から。
ロックは人間と自然の結びつきを立て直す力を貯めていった。時間はあまりなかった
1966年、野外の入場無料フリーフェアーへと移行。
1967年、「グレート・ヒューマン・ビー・イン」が開催。
これらの“土に還ろう”的な集団儀式は団体生活の美徳を訴えた。協力、哀れみ、優しさ、忍耐、、、
「モンタレー・インターナショナル・ポップ・フェスティヴァル」が開催。
限度以上の規模となり、3つのフェスティヴァルでゲートが壊される大混乱となり、逮捕者、怪我人が出た。
成功したフェスティヴァルのプロモーターは、その理由を
「メインコンセプトは、音楽集会ではなく、本物の音楽フェスティヴァルを開くことだった。ケンカも押し合いすらない平和そのものだったよ」
1967年「モンタレー・ポップ・フェスティヴァル」では無料のキャンプ場が設置され、
プロモーターは「トラブルは嫌だ。中へ入れてやれ」と決断。
「ウッドストック」
【ブログ内関連記事】
「心の中のベストフィルム~『ウッドストック/愛と平和と音楽の三日間』(1970)
『ウッドストック'94』
『THE LATE SHOW "LIVE AT MONTEREY"』
NYで運営を開始して間もなく町から追い出され、ギリギリになって農場を利用。
100万人のヒッピーのうち、渋滞に巻き込まれ、会場にたどり着いたのは40%。
事業は「無料フェスティヴァル宣言」をする。
機材も、ローディも渋滞で到着せず、もっとも近くにいたリッチー・ヘヴンスが演奏を始めた。
深夜に豪雨となり、「ぬかるみ丘」に変わり、軍がいつでも出動できるよう待機していたが、
むしろ群衆は思いやりを共有し、ベセルの住民はすっかり感心し、商売は繁盛し、
飢えた集団に食べ物の差し入れをする隣人もいた。
日曜の午後、また豪雨 民族移動が始まり、電気ケーブルなどで事故が起きるかもしれないと心配されたが、
ロック・フェスティヴァルで警察の大出動がなかったのは、後にも先にも「ウッドストック」だけ。
ジミはロック・フェスティヴァルの中心的存在で、最も高いギャラが払われた。
彼は「神のブルース」の生き神だったのだ。彼が昼間、まして朝のライヴとなると数えるほどしかない。
ジミの演奏で祭典が終わった。
フェスでは、何人かの赤ちゃんが産まれ、3人の少年が亡くなった。
1人は麻薬の過剰投与、1人は盲腸の破裂、1人はトラクター事故。
渋滞で来られなかった1万8000人にはチケットが払い戻された。
25年ぶりの再現『ウッドストック'94』が開催。
新聞には、ストーンズの全米ツアーのレポと重なり、今は本当に90年代半ばなのか?と疑った。
再現がきっかけで、ウッドストックものが脚光を浴びる。
4枚組CD『ウッドストック25周年コレクション~平和と音楽の日々』から未発表曲を選んで構成された。
<各アーティスト、楽曲紹介>
トップバッターのリッチー・ヘヴンスのステージは3時間近く続いた。
ジェファーソン・エアプレインの出番待ちは17時間だった!
17日の夜明けで完全な脱力時間帯だったという。
♪Somebody to Love は、私も大好きな1曲。
♪If I Were a Carpenter は、ジョーン・バエズで聴いたな。
ザ・バンド
実際にウッドストックに住み『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』を出した。
(実に力の抜けた♪ザ・ウェイト を演奏している
ジョニー・ウィンター
“100万ドルのブルースギター”と騒がれたホワイトブルースの象徴のような存在。
ジャニス・ジョプリン
ジャニスの叫びが真髄に響く。白鳥の歌、パールの叫びだ。
♪トライ で限界まで叫んだ後、♪ボール&チェイン でさらにディープなブルースを・・・
と思ったら、この1曲だけが音飛びしていた
このCDを聴いた人がこの1曲にしびれて、何百万回も聴いたからだとムリヤリ解釈して諦めた
黒人アーティストの出演が少なく、マウンテン、スライ&ザ・ファミリー・ストーン、ジミの3組のみ。
ジミ・ヘンドリックス
登場したのは予定の17日ではなく、18日の朝。
約40万の観衆も、この頃には数万人だったと言われる。
この混雑&雷雨は厳しいなあ
この「ウッドストック」世代が、あのトランプ氏なんかを支持したりしてるんだろうか? 妙な話だ。
スミソニアン所蔵の音源が気になったから借りてみたら、今回の4枚もすべて大当たりv
曲はもちろんのこと、ライナーから音楽の歴史の流れなど、さまざまな貴重な知識が学べた。
なので、また長くなってしまったがあしからず/謝
●Field Recordings 1973-1980/Big Joe Williams
ひさびさ本物のいわゆるブルースを味わえた感v
【ライナー抜粋メモ~高地明(1991)】
1935年に初レコーディング、45年間にわたり作品を音盤に記録し続けた、偉大なミシシッピ・デルタの9弦ギターのブルースマン。
芸歴はもっと長く、放浪しながら、60年以上もブルースマン生活をしていたことになる。
単独アルバムだけでも30枚近くある。
その人生で最後のものを集めたのが本アルバム。
1975年『第3回ブルース・フェスティヴァル』のために来日。
羽田空港に出迎えに行くと、車椅子に乗って、巨大な腹の、まるで“黒い塊”のような怖そうな老人に見えた。
ふり絞るヴォーカルとギターの力感は、ミシシッピ・デルタ・ブルースの真髄そのものだった。
ビッグ・ジョーは、レコーディング・アーティストではなく、あくまでも
“飲んだくれで、勝手気ままな、放浪のブルースマン”だと言われている。
8,11,16で一緒に歌う女性リディア・カーターは、気心知れた絡みで実になごむ。
●Folkways A Vision Shared A Tribute To Woody
【ライナー抜粋メモ~スミソニアン協会広報局次官ラルフ・リンツラー】
現在活躍中のアーティストが、自分たちの作品をアメリカの国立博物館と言われるスミソニアン協会に寄贈したのは、このレコードが初めて。
すべて印刷物、レコードにし、国民の誰でもが、いつでも見たり、聴いたりできる状態に保存します。
【ライナー抜粋メモ~スミソニアン協会 フォークウェイズ・レコーズ・ディレクター アンソニー・シーガー】
レッド・ベリーの歌は、南部の貧しい農場労働者のダンス曲、ワークソング、黒人移民たちの大都市への憧れと苦悩が歌われている。
ウディ・ガスリーは、アングロ・アメリカの伝統的なバラッド、干ばつや大恐慌のために家を失い、放浪する者の絶望、
そのせいでカリフォルニアへ移住した人々の絶望から生まれた。
モーゼズ・アッシュは、広範囲にわたる音の世界を提供することに一生を捧げた。
50年間に2100の作品をプロデュースし、記録した音をいつでも聴けるよう保存した。
子どもの声、カエルの声、市街地の音、前衛的な電子音楽、政治演説、戯曲など。
これらは、支配者が好むものではなく、ふつうの人々の音楽だ。
アッシュは、レッド・ベリー、ガスリーらに、自由にレコードの内容を決めさせた。
フォークウェイズのレコードは、ラジオやジュークボックスを通しては聴けず、
レコード店にも必ずあるというものでもなかったが、広く人々の耳に伝わった。
ボブ・ディランは、ガスリーの曲をそれらから聴き、いくつも覚えた。
公共図書館には、フォークウェイズのレコードが揃えられた。
音楽は、それを人々が聴くことができなければ意味がない。
スミソニアン協会がフォークウェイズ・コレクションを取得した意図は、
かつて発表されたレコードをいつでも聴ける状態に保ち、未来のために記録する伝統を残し、
それを再演する社会や、人々が音を聴けるようにすることにある。
音楽は、時間、空間、社会的距離、政治、偏見の障害を越える表現形式だ。
アメリカのポピュラー音楽は、カリブやアフリカのスタイルに影響を受けている。
そして、アメリカのポピュラー音楽は、地球上のほとんどの場所へ届いている。
音楽は、人々を1つにするためにも、分断するためにも、
戦争を生むためにも、愛を生むためにも使うことができる。
【ボブ・ディラン BBCラジオインタビュー転載 内容抜粋メモ】
リトル・リチャードは「写真を撮られるのが嫌なら、スターではいられない」と言った。
当時、これらの歌は「危険」だとみなされていた。
現代のように焦点がぼやけ、価値が多様化した時代では忘れてしまいがちだが、芸術ほど破壊的な力をもつものはない。
当時のレコードを私は今も持っている。
レッド・ベリー、ウディ・ガスリー、シスコ・ヒューストン、ビッグ・ビル・ブルーンジー、、、
世界がデモクラシーの正しさを信じ続け、政治への意識持ち、
長期間戦い続けてきたことを語るものだ。
それぞれの時代の文脈の中で、我々は戦わなければならない。
歴史の意味は、重要なものを世代から世代へ伝えることにある。
ガスリーを初めて聴いたのは、知人のパーティーで、フォークウェイズのレコードだった。
彼は常に言うべきことを持っていたんだ。
僕は失った多くの時間を埋め合わせようと、彼に関して分かるすべてを知ろうとした。
『バウンド・フォー・グローリー~ギターをとって弦をはれ(昌文社)』
やっと本人に会えた時、彼は具合が悪くて、僕は従僕のように付き添った。
彼のそばで彼の歌をうたったんだ。彼は曲名を指定して歌わせた。
僕にとって、彼は鎖の中の1つの環みたいなものだ。
僕が他の人にとってそうであるように、
誰もが、誰かにとってそうであるように。
ガスリーには素直さがあった。僕には取り戻すことが出来ないある種の素直さだ。
彼を最後に、それはなくなった。
【ライナー抜粋メモ~和訳・解説:菅野ヘッケル】
フォークソングは、大衆のための理想社会を求めて歌われ、人から人へと伝えられた。
レッド・ベリーは、フォークウェイズに900曲以上、ガスリーも200曲以上レコーディングしている。
スミソニアン協会は、1846年にイギリスの科学者の遺産を基金として設立された。
ワシントンDCに本部を置く、世界最大の文化施設。
アメリカ政府の保護下にあるが、政府機関ではない。
ウディ・ガスリー
一家はオケマに移住した人々の最初のグループに属していた。
子どもの頃、姉が事故死、父は事業に失敗、母は精神病院に入院し、
16歳のウディはハモニカだけを持って旅に出た。
1952年、母と同じハンチントンコリアという不治の病にかかり、長い病院生活を送る。
まだデビュー前のディランが毎日のように病室を訪れた話は、映画『アリスのレストラン』にも出てくる。
レッド・ベリー
南北戦争後の南部に住む黒人たちの生活は非常に厳しかった。
のちにジョン・ロマックスが彼の人生を書いた『ネグロ・フォーク・フォングス』という本には、
ベリーが暴力的で、酒と女に溺れた人生だと書かれていたが、本人をよく知る人たちは事実とまったく違うと証言、
ベリー自身も、この本の出版を差し止める手続きをとろうとしたが、
当時の南部で、黒人がどれほど公正な裁判を受けることができただろう。
生存中は成功に恵まれなかったベリー。
死後6ヶ月目、ウィーヴァーズが歌う♪グッナイト・アイリーン が大ヒットした。
【lyrics】
♪ド・レ・ミ(dough(お金)に音階のレ、ミをつけた語呂合わせ
俺の警告をちゃんと聞いたほうがいいぞ
俺は、毎日、求人広告を隅々まで見ているのに
新聞の見出しはいつも同じことの繰り返し
あんたにドレミがなかったら・・・
♪グッナイト・アイリーン
田舎に暮らすこともあれば
町で暮らすこともある
思いきって河に飛び込んで
溺れ死んじゃおうかと思い詰めることもあるんだ
アイリーン おやすみ
夢の中で一緒になるからね
♪我が祖国
この大地はあなたの大地
この大地は私の大地
アカマツの森からメキシコ湾流の水まで
この大地はあなたと私のためにある
●クラシック・ケルティック・ミュージック フロム・スミソニアン・フォークウェイズ
一時期「ワールド・ミュージック」コーナーも一度手をつけてはみたものの、
妙な境地に引きずり込まれる感触と、自分の立ち位置が分からなくなりそうで引き返した思い出がある
【ライナー抜粋メモ~松山晋也(2013)】
民俗音楽のリスナーの間で、最も良心的レーベルとして親しまれてきた「フォークウェイズ」。
だが、70年代以降のケルト音楽の演奏を、ブリテン諸島とアメリカにまたがって
ここまでバランスよくコンパクトに集めた作品はあまり記憶にない。
ブリテン諸島とアメリカ大陸に渡って変容したアパラチアの「マウンテンミュージック」、
アイリッシュ、スコティッシュ、さらには、ネイティヴ・アメリカン、カントリー・ブルースなどが資料化されている。
創業からアッシュが亡くなる1986年までにリリースされたアルバム数は2168枚。
一貫していたのは、商業的成功ではなく、文化的・歴史的価値を重視する学術的姿勢だった。
経営は苦しく、スミソニアン協会の傘下フォークライフ&カルチュラル・ヘリテッジに吸収された。
「アメリカーナ」と呼ばれるアメリカ大衆温故知新ブームのあった1997年、
『Anthology of American Folk Music』が2枚組でインタビューリースされ、同年のグラミーを受賞。
ローマ帝国の文献にもあるとおり、アイルランド、スコットランド人は、もともと音楽に秀でた民族だったが、
18~19Cの「産業革命」以降は農村コミュニティの解体、生活様式の変化もあり伝統文化の継承が困難になる。
アメリカでフォーク・リヴァイヴァルが起こったのは1950年代後半以降。
ブリテン諸島からアメリカ大陸への移民は、19C半ばのジャガイモ飢饉後、一層増加した。
新しいフォーク・ムーヴメントが起こり、その牽引車がガスリー、ピート・シーガーなどだった。
アイルランドでとくに影響が大きかったのは、クランシー・ブラザース。
1980年代には多様性が高まる。
クランシー・ブラザースの影響下で結成されたのがダブリナーズ。
1980年代にはポーグス、エンヤなど。
本盤のコンパイラーのリチャード・カーリンは民俗音楽学者・ミュージシャンで、伝統音楽に関して誰より詳しい人物。
各楽曲が、いつ、どんな状況で録音されたかは、ブックレットの詳細な解説を読んでいただきたい(ブックレットはなかった
●Woodstock Diary
まさか、今、またあの「ウッドストック」の未発表曲が聴けるなんて思わなかった。
日本でのフェスは、今となっては完全に商業化、定型化してしまった。
世間からはみ出して、異質なロック魂を感じられるバンド、演奏は一体いくつ聴けるかどうか。
どれも似たり寄ったりに聴こえる。
【ライナー抜粋メモ~会田裕之(1994)】
音楽が大群衆を、それまでの西洋文化になかった形で惹きつけるようになったのは、やはりロック・フェスティヴァルが登場してから。
西洋に輸入されるまで、ブルースビートはアフリカでは踊りによる「憑依」の儀式の核だった。
「ロアス」は、自然の力による神聖な一体化の啓示者で、神は踊りの恍惚を通して宿る。
忘我状態のダンサーは、肉体を放棄することで神となり、それは催眠的リズムを持つ音楽により引き起こされる。
ロックのブルースビートは、こうした儀式にある。
聖書によると、アダムとイヴの最初の罪は、禁断の「相対するもの」の知識を与えたこと。
エデンから追放され、時間の迷妄界、過去と現在、生と死の世界へ追いやられた。
「肉体を否定する」ことは聖書によるところの美徳となった。
当局は、直ちに「神聖な太鼓」の廃止を決め、ロアダンスを禁止した
この損失を埋めるために奴隷が生み出したのがブルースだ。
清教徒により抑えられたアニミズムの本能を発散させた。
部族的なヴードゥーダンスに代わり、かつて交信儀式でドラムが伝えたものは、個々のプレイヤーによって保存された。
リズムが電気音になった時、ロックンロールは幕を開けた。
エルヴィスを通してアフリカとチャネリングしたのだ。
リズム&ブルースが主流となり、肉感的な「スネークダンス」となる。
リトル・リチャードいわく
「ロックンロールは、癒す音楽、見えなかった者の目を見えるように、歩けなかった者の足を歩けるようにする」
ドラムのビートが人間の最初の罪を癒し、魂のブルースを和らげた。
ジミヘン:
体制は「あれもするな、これもするな」と俺たちに言うために十戒を作った。
ところが、突然、彼らとまったく違う脳みそを持つ若者が出てきて、どうしたらいいのか分からないでいる。
俺たちは、若者を救いたいんだ。年寄りと若者の間の緩衝物を創りたい。
かつて動物と話したシャーマンのように、西洋の若者は詩人、ヨガ行者、歌手、魔女らに通じるようになった。
その祭りはサンフランシスコのヘイト~アシュベリー地区のダンスホールで始まった。
50年代には「ビートニク」の故郷となり、アメリカのカウンターカルチャーの受け皿だった。
若者は、自然を汚す親たちのやり方に裏切られた気がしていた。
過半数がベトナム戦争への選抜徴兵制を嫌った。
この徴兵制は、黒人が多く、黄色人種を撃たせ、インディアンから取り上げた土地で暮らす白人を豊かにするものだったからだ
ロックが引き金となり、環境保護の意識が急激に高まった。
利己的に地球を粗末にする社会の中、「ヘイト・オアシス」が設立された。
「フェスティヴァル」という言葉は、サンフランシスコで行われた「トリップス・フェスティヴァル」でデビューを飾った。
人類の生活が記録されるようになってから約1万年、500世代のうち、495世代は「種族」で生活を営んできた。
それが急速に変わったのは「産業革命」後。個人の時代となり、疎外感が増大した。
空気中の二酸化炭素量が初めて計られたのは1958年から。
ロックは人間と自然の結びつきを立て直す力を貯めていった。時間はあまりなかった
1966年、野外の入場無料フリーフェアーへと移行。
1967年、「グレート・ヒューマン・ビー・イン」が開催。
これらの“土に還ろう”的な集団儀式は団体生活の美徳を訴えた。協力、哀れみ、優しさ、忍耐、、、
「モンタレー・インターナショナル・ポップ・フェスティヴァル」が開催。
限度以上の規模となり、3つのフェスティヴァルでゲートが壊される大混乱となり、逮捕者、怪我人が出た。
成功したフェスティヴァルのプロモーターは、その理由を
「メインコンセプトは、音楽集会ではなく、本物の音楽フェスティヴァルを開くことだった。ケンカも押し合いすらない平和そのものだったよ」
1967年「モンタレー・ポップ・フェスティヴァル」では無料のキャンプ場が設置され、
プロモーターは「トラブルは嫌だ。中へ入れてやれ」と決断。
「ウッドストック」
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「心の中のベストフィルム~『ウッドストック/愛と平和と音楽の三日間』(1970)
『ウッドストック'94』
『THE LATE SHOW "LIVE AT MONTEREY"』
NYで運営を開始して間もなく町から追い出され、ギリギリになって農場を利用。
100万人のヒッピーのうち、渋滞に巻き込まれ、会場にたどり着いたのは40%。
事業は「無料フェスティヴァル宣言」をする。
機材も、ローディも渋滞で到着せず、もっとも近くにいたリッチー・ヘヴンスが演奏を始めた。
深夜に豪雨となり、「ぬかるみ丘」に変わり、軍がいつでも出動できるよう待機していたが、
むしろ群衆は思いやりを共有し、ベセルの住民はすっかり感心し、商売は繁盛し、
飢えた集団に食べ物の差し入れをする隣人もいた。
日曜の午後、また豪雨 民族移動が始まり、電気ケーブルなどで事故が起きるかもしれないと心配されたが、
ロック・フェスティヴァルで警察の大出動がなかったのは、後にも先にも「ウッドストック」だけ。
ジミはロック・フェスティヴァルの中心的存在で、最も高いギャラが払われた。
彼は「神のブルース」の生き神だったのだ。彼が昼間、まして朝のライヴとなると数えるほどしかない。
ジミの演奏で祭典が終わった。
フェスでは、何人かの赤ちゃんが産まれ、3人の少年が亡くなった。
1人は麻薬の過剰投与、1人は盲腸の破裂、1人はトラクター事故。
渋滞で来られなかった1万8000人にはチケットが払い戻された。
25年ぶりの再現『ウッドストック'94』が開催。
新聞には、ストーンズの全米ツアーのレポと重なり、今は本当に90年代半ばなのか?と疑った。
再現がきっかけで、ウッドストックものが脚光を浴びる。
4枚組CD『ウッドストック25周年コレクション~平和と音楽の日々』から未発表曲を選んで構成された。
<各アーティスト、楽曲紹介>
トップバッターのリッチー・ヘヴンスのステージは3時間近く続いた。
ジェファーソン・エアプレインの出番待ちは17時間だった!
17日の夜明けで完全な脱力時間帯だったという。
♪Somebody to Love は、私も大好きな1曲。
♪If I Were a Carpenter は、ジョーン・バエズで聴いたな。
ザ・バンド
実際にウッドストックに住み『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』を出した。
(実に力の抜けた♪ザ・ウェイト を演奏している
ジョニー・ウィンター
“100万ドルのブルースギター”と騒がれたホワイトブルースの象徴のような存在。
ジャニス・ジョプリン
ジャニスの叫びが真髄に響く。白鳥の歌、パールの叫びだ。
♪トライ で限界まで叫んだ後、♪ボール&チェイン でさらにディープなブルースを・・・
と思ったら、この1曲だけが音飛びしていた
このCDを聴いた人がこの1曲にしびれて、何百万回も聴いたからだとムリヤリ解釈して諦めた
黒人アーティストの出演が少なく、マウンテン、スライ&ザ・ファミリー・ストーン、ジミの3組のみ。
ジミ・ヘンドリックス
登場したのは予定の17日ではなく、18日の朝。
約40万の観衆も、この頃には数万人だったと言われる。
この混雑&雷雨は厳しいなあ
この「ウッドストック」世代が、あのトランプ氏なんかを支持したりしてるんだろうか? 妙な話だ。