■『アラヤシキの住人たち』(農山漁村文化協会)
本橋成一/写真と文
【ブログ内関連記事】
『アレクセイと泉のはなし』(アリス館)
『ナージャの村』(平凡社)
【ポレポレ坐イベント~無限抱擁】 「2016.4.19~5.8.新版『無限抱擁』(本橋成一写真集)刊行記念写真展」
本作は、原発関連ではなく、長野(!)の山深い集落で暮らす人々の姿を撮っている。
ヒトの暮らしの原風景が見えてくる。
ああ、これが本当に生きるってことなんだと思うんだけど、
私は、まだまだ都心の便利さ、文化から離れられないんだなあ。。。
雪深い景色、自給自足の生活、平等の意識は、宮沢賢治の世界にも通じると思った。
【内容抜粋メモ】
長野県小谷村にある真木集落。
動物もヒトも山道を歩いてしかたどり着けない場所。
「新屋敷(あらやしき)」は建てられてから100年以上経つ。
50年前に誰もいなくなり、今度は新たな住人がやって来た。
「板木」の音は、暮らしの合図。
「たん・たん・たん」は「ご・は・ん」
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「茅場」
集落の上の山から茅を刈り、屋敷の屋根をみんなで少しずつふきかえる。
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住人は、個性的。
丁寧な人、大ざっぱな人、手早い人、ゆっくりな人。みんなそれぞれ。
「町まで片道歩いて1時間半」
この道は、真木と町をつなぐ1本だけの道。
ある時、大雨が降って、道が崩れたが、ムリをせず、必要な分だけ力を合わせて作り直した。
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「百葉箱」
クニさんは、毎日欠かさず、天候を記録している。
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榎戸さんはとても早口。みずほさんは、ときどき時間を止めて動かなくなる。
2人は仲が悪いように見えて、大の仲良しのようでもある。
「雪」
冬には3mも雪が積もる。
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結婚する人もいて、子どもも生まれた。
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(私も昔、祖父母、母らが農作業をしている間、こんなカゴに入れられている写真があったな
子どもの頃は農作業の手伝いも体験させてもらって、脱穀やら、味噌作りもした
音楽を奏で、笑い、歌い、食べて、おしゃべりをする。
それが、暮らすといういうこと。
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【宮嶋信×本橋成一対談 内容抜粋メモ】
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宮嶋信:
1953年東京生まれ。自由学園卒業。
心身にハンディキャップをもつ人などと小谷村で共同生活を営む。
「自由学園」(ずっと自由学園明日館を見に行きたいと思ってるんだよなあ
1921年、ジャーナリストの羽仁吉一・もと子夫妻が創立した学校。
酪農、農作業、食品加工、調理も、学業の一環として、生徒が主体になって学校生活が成立している。
“自分たちの食べ物を、自分で育て、暮らしをつくることが、人間が生きる上で一番大事”という考えが基礎にある。
宮嶋:
1974年、小谷村に「共働学舎」を設立した。
父は、羽仁夫妻の考えを受け継いでいた。
その父が、好きな自由学園の教師を辞めて、山で暮らし始めた。
「網膜色素変性症」を患い、いずれ失明する覚悟で、都会で人の世話を受けるより、
大自然の中でハンディキャップをもつ人とともに暮らすことを選び、自給的な生活を始めた。
本橋さんも、宮嶋らと縁があった。
本橋:
10年ほど前から東京の「ポレポレ坐」で「共働学舎」の収穫祭を始めて、宮嶋さんと会った。
宮嶋:
福祉を始める時、今なら箱からつくりますよね。
社会福祉法人をつくり、助成金をもらって。
すると、その中で暮らす人間が育たないから、暮らしが不在になる。
最初、「共働学舎」をつくる時、人間が生きるために何が必要かを一生懸命考えた。
いちばんお金がかかるのは「食べること」。健康にいいものを食べられれば、生きていける。
日本人だし、まずは米
だねということで、毎日、いちばん近い農家さんのところに行って一から教えてもらった。
まず原点は、自分たちの食べ物をつくる、暮らしをつくるという「自労自活」です(いい言葉
真木は古い集落
江戸時代からある。いちばん栄えた頃は12軒、90人が住んでいた。
1968年、小学校が廃校、大雨で道が崩れ、1972年、最後の住人が里に下りて「廃村」になった。
その4年後に僕らが借り受けた。
今いるのはだいたい10~15人ほど。
里の「立屋」には25人ほどのメンバーがいる。
「共働学舎」は出入り自由。
「立屋」でパンやクッキーをつくって売り、収入を得ているが、基本は自給を大事に考えている。
現金を得るための仕事が忙しくて、野菜の収穫や、茅を刈る時間が足りなくなってはいけないと思っている。
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茅場
昔は多くの村にあった。住民が出て行く時、孫たちに少しでもお金になるよう杉に植え替えた。
(なぜ杉に・・・
写真にたくさん杉が写っているから、自分は暮らせないと思っちゃった。
でも、ストレスも、排気ガス![]()
もなく、健康食をとれば体質改善されて、治るかも???
1年間乾燥させて、少しずつ屋根を葺き替える。
暮らしって、それ自体が喜び、楽しみだと思う。
今は「効率」ばかりが価値になって、お金にならないこと、面倒なことはやりたがらない人も増えた。
冬になぜ里のほうが忙しいかというと、車
のせい。除雪しなければならないから。
歩けばいいんです![]()
本橋:
そういうことはたくさんありますよ。
雪でビニルハウスが倒れて、仕事も経費も増える。年間通して作ろうとするから。
その時々の旬のものを食べればいい。冬にトマトがなくても全然困らない。
僕は「マイナス計算」と言っているんですが、新幹線
の東京⇔大阪間を10分でも遅く走らせたら、
みんなでそれをやれば、ちょっとずつ元に戻るだろうと思うんです。
(いっそ、新幹線を全部、各停に戻すとか!
宮嶋:
子どもと親で往復3時間かけて、話をしながら学校に送り迎えする時間。
家内もその時間が大好きで、どれほど多くのことを学んだか。
百葉箱
気象観測は、「共働学舎」を「立屋」で始めた時からやっている。
農業をやる上で大事なことですから。
板木
あれは禅宗の影響です。宮嶋眞一郎はクリスチャンですが、実は仏教好き。
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本橋:
羽仁吉一先生の本『雑司ヶ谷短信』(婦人之友社)に「教育は不便なるがよし」という言葉がある。
今は、スーパーに行っても生き物の形が見えにくい。
宮嶋:
最近ね「言ってもらわないと分かりません」って若い人に言われて、すごく突き刺さる(指示待ち妖怪?![]()
僕は、「感じろよ」と思ってる。「空気を読め」ということでもない。
自分の「感性」を研ぎ澄ませて生きるということなんですが。
野村くんは、僕らに「もっとゆっくり生きなさいよ」ということを示す使者だと思っている。
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本橋:
宮嶋眞一郎先生の言葉がありますね。
「あなたという人は地球始まって以来、絶対いなかったはずです。
あなたという人は地球が滅びるまで出てこないはずなんです」
宮嶋:
彼らは、ありのままなんです。
僕は、そうしたことをなかなか出来にくいタチだから、知識をどんどん入れて、自分を繕ってしまう。
僕は長男を8歳の時に事故で亡くしました。
随分悩んで、1年後にお墓をつくり「幼な子のように心ひくゝ」と彫りました。聖書の言葉です。
僕は、こういう生き方をしていますが、あまり協調性はなく、人とともに生きるのはほんとは苦手です。
だから、つい怒ってしまったら、お墓をなでに行く。
みずほさん、えのさん、息子の生き方から、たくさんのことを教えてもらって生きている。
真木の暮らしは、そういうことだと思っています。
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本橋成一/写真と文
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本作は、原発関連ではなく、長野(!)の山深い集落で暮らす人々の姿を撮っている。
ヒトの暮らしの原風景が見えてくる。
ああ、これが本当に生きるってことなんだと思うんだけど、
私は、まだまだ都心の便利さ、文化から離れられないんだなあ。。。
雪深い景色、自給自足の生活、平等の意識は、宮沢賢治の世界にも通じると思った。
【内容抜粋メモ】
長野県小谷村にある真木集落。
動物もヒトも山道を歩いてしかたどり着けない場所。
「新屋敷(あらやしき)」は建てられてから100年以上経つ。
50年前に誰もいなくなり、今度は新たな住人がやって来た。
「板木」の音は、暮らしの合図。
「たん・たん・たん」は「ご・は・ん」

「茅場」
集落の上の山から茅を刈り、屋敷の屋根をみんなで少しずつふきかえる。

住人は、個性的。
丁寧な人、大ざっぱな人、手早い人、ゆっくりな人。みんなそれぞれ。
「町まで片道歩いて1時間半」
この道は、真木と町をつなぐ1本だけの道。
ある時、大雨が降って、道が崩れたが、ムリをせず、必要な分だけ力を合わせて作り直した。

「百葉箱」
クニさんは、毎日欠かさず、天候を記録している。

榎戸さんはとても早口。みずほさんは、ときどき時間を止めて動かなくなる。
2人は仲が悪いように見えて、大の仲良しのようでもある。
「雪」
冬には3mも雪が積もる。

結婚する人もいて、子どもも生まれた。

(私も昔、祖父母、母らが農作業をしている間、こんなカゴに入れられている写真があったな
子どもの頃は農作業の手伝いも体験させてもらって、脱穀やら、味噌作りもした
音楽を奏で、笑い、歌い、食べて、おしゃべりをする。
それが、暮らすといういうこと。

【宮嶋信×本橋成一対談 内容抜粋メモ】

宮嶋信:
1953年東京生まれ。自由学園卒業。
心身にハンディキャップをもつ人などと小谷村で共同生活を営む。
「自由学園」(ずっと自由学園明日館を見に行きたいと思ってるんだよなあ
1921年、ジャーナリストの羽仁吉一・もと子夫妻が創立した学校。
酪農、農作業、食品加工、調理も、学業の一環として、生徒が主体になって学校生活が成立している。
“自分たちの食べ物を、自分で育て、暮らしをつくることが、人間が生きる上で一番大事”という考えが基礎にある。
宮嶋:
1974年、小谷村に「共働学舎」を設立した。
父は、羽仁夫妻の考えを受け継いでいた。
その父が、好きな自由学園の教師を辞めて、山で暮らし始めた。
「網膜色素変性症」を患い、いずれ失明する覚悟で、都会で人の世話を受けるより、
大自然の中でハンディキャップをもつ人とともに暮らすことを選び、自給的な生活を始めた。
本橋さんも、宮嶋らと縁があった。
本橋:
10年ほど前から東京の「ポレポレ坐」で「共働学舎」の収穫祭を始めて、宮嶋さんと会った。
宮嶋:
福祉を始める時、今なら箱からつくりますよね。
社会福祉法人をつくり、助成金をもらって。
すると、その中で暮らす人間が育たないから、暮らしが不在になる。
最初、「共働学舎」をつくる時、人間が生きるために何が必要かを一生懸命考えた。
いちばんお金がかかるのは「食べること」。健康にいいものを食べられれば、生きていける。
日本人だし、まずは米

まず原点は、自分たちの食べ物をつくる、暮らしをつくるという「自労自活」です(いい言葉

江戸時代からある。いちばん栄えた頃は12軒、90人が住んでいた。
1968年、小学校が廃校、大雨で道が崩れ、1972年、最後の住人が里に下りて「廃村」になった。
その4年後に僕らが借り受けた。
今いるのはだいたい10~15人ほど。
里の「立屋」には25人ほどのメンバーがいる。
「共働学舎」は出入り自由。
「立屋」でパンやクッキーをつくって売り、収入を得ているが、基本は自給を大事に考えている。
現金を得るための仕事が忙しくて、野菜の収穫や、茅を刈る時間が足りなくなってはいけないと思っている。


昔は多くの村にあった。住民が出て行く時、孫たちに少しでもお金になるよう杉に植え替えた。
(なぜ杉に・・・

でも、ストレスも、排気ガス


1年間乾燥させて、少しずつ屋根を葺き替える。
暮らしって、それ自体が喜び、楽しみだと思う。
今は「効率」ばかりが価値になって、お金にならないこと、面倒なことはやりたがらない人も増えた。
冬になぜ里のほうが忙しいかというと、車

歩けばいいんです

本橋:
そういうことはたくさんありますよ。
雪でビニルハウスが倒れて、仕事も経費も増える。年間通して作ろうとするから。
その時々の旬のものを食べればいい。冬にトマトがなくても全然困らない。
僕は「マイナス計算」と言っているんですが、新幹線

みんなでそれをやれば、ちょっとずつ元に戻るだろうと思うんです。
(いっそ、新幹線を全部、各停に戻すとか!
宮嶋:
子どもと親で往復3時間かけて、話をしながら学校に送り迎えする時間。
家内もその時間が大好きで、どれほど多くのことを学んだか。

気象観測は、「共働学舎」を「立屋」で始めた時からやっている。
農業をやる上で大事なことですから。

あれは禅宗の影響です。宮嶋眞一郎はクリスチャンですが、実は仏教好き。

本橋:
羽仁吉一先生の本『雑司ヶ谷短信』(婦人之友社)に「教育は不便なるがよし」という言葉がある。
今は、スーパーに行っても生き物の形が見えにくい。
宮嶋:
最近ね「言ってもらわないと分かりません」って若い人に言われて、すごく突き刺さる(指示待ち妖怪?

僕は、「感じろよ」と思ってる。「空気を読め」ということでもない。
自分の「感性」を研ぎ澄ませて生きるということなんですが。
野村くんは、僕らに「もっとゆっくり生きなさいよ」ということを示す使者だと思っている。

本橋:
宮嶋眞一郎先生の言葉がありますね。
「あなたという人は地球始まって以来、絶対いなかったはずです。
あなたという人は地球が滅びるまで出てこないはずなんです」
宮嶋:
彼らは、ありのままなんです。
僕は、そうしたことをなかなか出来にくいタチだから、知識をどんどん入れて、自分を繕ってしまう。
僕は長男を8歳の時に事故で亡くしました。
随分悩んで、1年後にお墓をつくり「幼な子のように心ひくゝ」と彫りました。聖書の言葉です。
僕は、こういう生き方をしていますが、あまり協調性はなく、人とともに生きるのはほんとは苦手です。
だから、つい怒ってしまったら、お墓をなでに行く。
みずほさん、えのさん、息子の生き方から、たくさんのことを教えてもらって生きている。
真木の暮らしは、そういうことだと思っています。
