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『トットてれび』(全7話)

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『トットてれび』(全7話)
出演:
黒柳徹子:満島ひかり(百歳の徹子:黒柳徹子)
渥美清:中村獅童
向田邦子:ミムラ
伊集院ディレクター:濱田岳
黒柳守綱:吉田栄作
黒柳朝:安田成美
飯沢匡:大森南朋
大岡龍男:武田鉄矢
沢村貞子:岸本加世子
森繁久彌:吉田鋼太郎
ナレーション:小泉今日子

 

1回30分だから展開が早いっ!
徹子さんが、いろんな番組でちょこちょこ話していたテレビ開局時からの歴史が一気に見れるのは貴重すぎる。
それぞれの時代を一世風靡したスターを演じる役者さんは、プレッシャーだったろうけど、みんなしっくりハマっていて感動。
徹子さん本人と、パンダのキャラが時々出てくるのもお茶目な演出。

 

全7話じゃとてもじゃないがおさまりきれない、たっくさんのエピソードを知っているんだろうなあ!
徹子さんの天真爛漫さ、地球規模の優しさが伝わる。動物と会話できる能力まであるなんて知らなかった/驚×5000


●1話「テレビ女優第一号・黒柳徹子の笑いと涙の青春」
テレビ放送は昭和28年2月1日、まだ日本全国に866台しかなかった。


昭和15年。小学校1年生で退学したテツコ7歳。

「神さまは人間に1つ飛びぬけた才能をくださる
 でも大概、人間はその才能に気づかず、違った職業を選んで一生を終えてしまう」

父のこの言葉を信じて、クラシックバレエ、絵画、英文タイプ、犬の調教師、競馬の旗手
自転車の曲芸乗り、タップダンス、、、こんなにいっぱい挑戦したの!?

テツコ20歳。生まれて初めて見た「人形劇」に心奪われた。

 

新聞で偶然NHKの広告が目に入る。
そこで子どもに絵本が読みたいと思った。
6000人の応募者がいた!

「赤巻紙 青巻紙 黄巻紙」を読むのに飽き飽きしてた大岡。
テツコは緊張して噛み噛みになり爆笑される。

面接試験では、「父に相談してない理由は“みっともない”と言われるので」と素直に答える
マンモスの夢を見ると必ず良いことがあるというジンクス通り、
テツコはNHKに受かり、専属テレビ女優第一号となる。

最初の仕事は、ラジオドラマのガヤガヤ(エキストラ)。
主役が喋っている時に軍人が倒れた時のリアクション
「死んでるの!?」と連呼して「バックしろ」と言われる。
「その他大勢なので個性は要らないんです」と帰らせられる。



大岡:
なぜ採用されたかご存じ? あなたがあまりにも何も出来なかったから
新しい世界には無色透明な人が1人くらいいてもいいのではという理由で受かったの

次は、通行人の仕事を頼まれる。笠置シヅ子役はエゴラッピンのよっちゃん!
テツコ「生きてらっしゃる!」て/爆



このシーン見たことある。♪買い物ブギ テツコはまたうるさがられて帰らせられる。

「あなたも全部変?」柴さんかあいい!


自給が56円で、テレビ1台25万?! ラーメン1杯は60円
入った中華屋には向田邦子がいた。



3匹のサルのヤン坊ニン坊トン坊の、前代未聞の声優のオーディションでトン坊役でようやく評価される。

大岡:
これは、大人で子どもの声が出せる人を探す、かつてない大掛かりな試みだったんです


「私、喋り方も変だと言われています。直します。勉強してちゃんと頑張りますから・・・」

作者:
直しちゃいけません。あなたの喋り方がいいんですから
あなたのそのまんまが欲しいんです。どこも変じゃありません

よっちゃんかっけー。フルで聴きたかった!



●2話「上を向いて歩こう!」
テツコ22歳。NHK3人娘として売り出し中。


森繁久彌さんは、大勢の女性を引き連れて登場。テツコの印象は“ちょっとエッチなおじさん”w
映画では超有名でもテレビでは、全員が同期生なのかあ!

「ねえ、1回どう?」(これが生涯続くって・・・


渥美清さんは、浅草のストリップ劇場から来た。
ドラマも全部生放送。清さんから「アマ」と呼ばれ、ケンカとなるが、後に大の仲良しになる。


昭和33年。中華屋にもテレビが入る。
第9回「紅白歌合戦」をやってる。向田もテレビの仕事を書いている。
他の劇場と掛け持ちする歌手が多く「男が来た! 伸ばして」て無茶ぶり。
「女来ました! 曲名は、アレです」♪銀座かっぽれ




昭和34年。テレビはどんどん増え、1000万台。
テツコの仕事もどんどん増え、衣装は自前、メイクも自分で、寝るヒマもなく1週間に6日徹夜!?

 

 

とうとう過労で倒れて1ヵ月入院と言われる。
伊集院らが見舞いに来たが、断ると、司会は別の人がやっていた。

「使い捨て?」


昭和16年。テツコ8歳の時、テレビのことを教えてくれた友だちがいた。


足の悪いヤスアキちゃんと樹に登ったことを思い出す。
彼がアメリカのテレビジョンの話を最初に聞かせてくれた。
ヤスアキちゃんは、テレビジョンが日本にやって来る前に亡くなった。

復帰1回目の仕事は歌とコントを合わせた斬新な演出の「夢であいましょう」。

 

E.H.エリック


新人の頃に受けた講義では、

「テレビジョンのテレとは遠い距離、ビジョンとは見ること。
 これからは、世界で行われる結婚式や戦争、なにもかもがテレビジョンで見ることができるでしょう
 テレビが永久的な平和をもたらすと信じています」

坂本九さんの役ってのもなかなかできないよねえ!
毎回、昭和の名曲のミュージカル仕立てで終わるのかな?

 

 


●3話「生放送は波乱の連続!」
昭和36年。テツコ28歳。
生放送でハプニングが続くと「終」のカンペを出していたw

坂本九さんの♪上を向いて歩こう を作詞した永六輔さんは、あの特徴的な歌い方に激怒する。

リハの後、本番2時間前は、近所の中華屋で腹ごしらえ(やった!クレイジーキャッツが出た!

 



迷子の柴子に「ねえ、あなた、何人きょうだい?」て、動物と話せるんだ/驚
森繁さんも中華屋に来て、向田さんの捨てた原稿を見つける。

「夢で~」が終わると、翌日のドラマ「若い季節」(視聴率は30%)のリハだが、台本が遅れるのはしょっちゅう。
昔のコピーはお酢のニオイがして、濡れているから剥がすのが大変(一体何使ってるの?

 

本番7時間前に台本が揃う。スタジオ内にいくつもセットが組まれている。
セリフ覚えは大変だから、渥美さん以外の男優はほぼカンニングペーパーを貼っていた。
セリフ覚えの悪いのり平さんがカンペなしでやると言い出す。



九ちゃんが誘拐された話で、社長が入ってきたらドアが壊れたり、公園のシーンでは壁が倒れてくるw
ハプニングつづきでのり平さんのセリフが飛んだので、相手のセリフを覚えていたテツコが進めた。
あと3分しかなくて巻く指示が出る。なのに九ちゃんがいなくて、居場所を知っているのは柴子さん!
九ちゃんは仕事の疲れで寝ちゃってたw

 
「あなた、知ってるんでしょう?」

♪スーダラ節 が流れれば、なんでも丸くおさまるよねv


森繁から「僕の本書いてみない?」と向田に電話が来る。



●4話「徹子、変身!玉ねぎヘア誕生」
パンダが来る前か。当時の日本人は誰も知らなかった
「クマだと思う方? 日焼けした白クマだと思う方? あら、けっこういらっしゃるのね」w
子どもに対しても丁寧な喋り方なのが心地いい。

 


昭和39年。東京オリンピックをきっかけにカラーテレビが爆発的に普及。


民放各局も次々開局。テツコ31歳。
ドラマは生放送から収録になり、撮影時間がとても延びた。

「ただいま母さん」

沢村さんの顔に電灯が落ちてきたのに「腫れてくる前に今日の分撮りましょう」て凄いプロ魂/驚
共演が多かったため、沢村さんを「母さん」と呼んでいたテツコ。

時代劇までやってたんだ/驚


篠山紀信「ぜひあなたのヌード写真を撮らせてください!」(あら、アッキーのお父さん!

 

 

清「脱いじゃったらおしまいよ~」


この頃、テツコは向田と毎日会っていた。

(これが当時の高度経済成長期の職業婦人のマンション暮らしかあ

「なんかね、自分で自分のことが分かんなくなっちゃった」
「休めばいいじゃない。私ね、テツコさんみたいなおばあさんの話を書きたくて楽しみにしてるの」

(私らしいってどういうことかしら?)

テレビの仕事をしばらく休む決心をする。
休養直前、伊集院はまたドラマの話を持ってくる。『繭子ひとり』の青森のおばあさん役。
テツコのメイクに伊集院はやりすぎたと言うが、
「戦争中に、疎開先の青森でこういうおばさんに何人も出会ったの」

 

昭和20年。青森。テツコ11歳。「私が今あるのは、あのおばさんたちのお陰なの」
『繭子ひとり』の最高視聴率は55%を超えた。
最終回まで出してくれという反響がすごくて頼む伊集院だが、約束の半年で終える。



38歳で単身NYへ。


テツコからの手紙を読む向田さんは大の猫好き。


“この街でふつうの人と同じように、笑ったり、泣いたり、怒ったりしながら、
 自分の人生をきちんと作っていこうと思います”

ブロードウェイの演劇スタジオで英語で演技指導まで受けたんだ/驚
司会業の時しか知らないけど、女優さんだったのか。



清さんは寅さん演ってる!


4ヶ月後。
伊集院から届いた大きな箱の中には、『繭子ひとり』の時のカツラ。
「田口ケイさんはNYで何していますか?」とファンから手紙が殺到(NYに行った設定はムリじゃない?w
それをかぶってNYの様子を伝える。

「このヘアスタイル流行ってるんだ。アフロか?」


清「なにがグッドバイだ。早くけえって来いよ、お嬢さん」


“15年間女優をやってきたけれど、そもそも女優の才能があるのかずっと悩み続けていました。
 でも、この街に来て、そんな思いは吹っ切れました。
 人生に必要なものは、修練と勇気。あとはすべてゴミなのかもしれません
 日本に帰ったら、私にしか出来ない、これまでとはまったく違ったことをやりたいと思っています
 ただ1つ分かったことは、女が一人で生きていくのは大変!
 追伸。洋服にも和服にも合う、私らしい髪型を開発しました”

 

ラストは、ひかりちゃん自身による♪New York New York
チャーリーから"Onion Hair"て呼ばれてる。
もう次回は「徹子の部屋」!

 


●5話「向田邦子と徹子・友情の物語」


昭和51年「徹子の部屋」第1回目ゲストは森繁さんだったんだ。
「毎日髪型が変わったら、見ている人がゲストのお話に集中できないと思って」ていうのがあのヘアスタイルの理由。
最初に誉めてくれたのは向田さん。

 


昭和43年、向田さんはいち早く「留守番電話」を取り付けた。

テツコさんはなかなか留守電に慣れないで何回も吹き込む。結局、電車の網棚の上にタヌキが寝てた話だった/爆

TBSラジオで森繁さんのラジオドラマ「重役読本」の脚本を6年間を書き続けた。

「アドリブは入れないで書いた通りに喋ってください」

テツコは民放各局を走り回っていたが、向田さんの家はその真ん中にあって、毎日会っていた。


カバの佐藤さん/上野動物園の友だち・カワウソさんが1週間分の愚痴を言う
 
向「カワウソは、食べずに遊ぶためだけに獲物を殺すことがある」と教える

「あの時代名前の分からないものがいっぱいあったわよね」
向田は幼い頃、進駐軍からもらったお菓子が忘れられないという

自分のポートレイトを褒められたが悲しい顔


(あの時間は何だったんだろう、と今でもフシギに思う)

ある日、向田さんは南青山に引越しを決意し、それまでの原稿をすべて捨てた。


書いたテレビドラマは千本、ラジオドラマは1万本を超える。

 



初めて書いた短篇小説で直木賞を受賞。

スピーチ
「5年前、私は乳がんの手術で酸素テントの中におりました」


テツコさんは、「禍福は糾える縄の如し」の読み方と意味を教えてもらった時、初めて向田さんと出会ったことを思い出す。

「幸福の裏には必ず不幸がある」
「あの、幸福の縄だけで縒ってあるってことはないんですか?」
「ないの」

中華屋で向田さんが座っていた席は、向田さんのファンで書き物をする女性が座っている。

「テツコさんの縄は幸福ばっかりだと思う。
 やっぱりテツコさんのお婆さんになったところを書いてみたい。
 どこにもいない日本人離れした、面白いお婆さん」


昭和56年。台北に旅行に行った向田さん。
テツコさんはNYへ行くと留守電に入れていたが、向田さんの乗った台湾行きの飛行機が墜落



森繁「花ひらき はな香る 花こぼれ なほ薫る」

写真家の恋人を亡くしたことを後で知ったテツコさん

「私ね、面白いおばあちゃんになる」と踊りはじめる。


●6話「私の兄ちゃん・渥美清」
昭和54年。「徹子の部屋」新年第1回目のゲストは渥美清さん。
以前、噂になった時、渥美さんの写真がないから、いつもちんどん屋のものだった。

 



2人の出会いは、24年前。

昭和35年。「お父さんの季節」。声が大きすぎたり、テレビ目線で怒られる。
舞台と違うテレビの世界で悪戦苦闘。

 

「読んでごらんなさいな!」とテツコさんが渡したのは、なんと『星の王子さま』!!


みんなで飲み会に行くのに待たずに行ってしまったことに激怒するテツコさん。

“ココロで見なくちゃ、物事はよく見えないってことさ。肝心なことは目に見えないんだよ”

渥美さんは『男はつらいよ』で国民的スターに。
みんな寅さんの格好して観に来てたの? コスプレのはしり???w
そこに変装してお客として入る本人。



テツコは、毎年お正月、お兄ちゃん(渥美)と一緒に『男はつらいよ』を観るようになった。

「客がどこで笑うか知りたいんだ。あれさ、新宿だとみんな笑うが、浅草の映画館だと誰も笑わない
 寅のメロンをとっとくのは当然だろう、てこうくるわけだ。勉強になるんだねえ」

まだ売れない頃、約束した北京ダックを一緒に食べる。
テツコさんは、大食い? 運転が好き。もう渥美さんは結婚している。
住んでるところも教えない秘密主義者だと怒る。


平成6年。初めて撮影風景を見に、浅草に行くテツコさん。
「私ね、今回のヒロインなんですよ」なんてゆっちゃってw

 

「僕はあの星の中のひとつに過ぎない。あのひとつの星の中で笑うんだ
 君はどんな時にも、僕の友だちなんだから」

「もらった本は、まだウチにある」と言われ、本をあげたことを忘れてるテツコさんw
玄関に入ると、いつも奥さんを抱きしめるという話をしつこく聞く。

2ヶ月も前からハガキ書いたり、留守電に入れたりしてたが返事がなかった理由を
「女連れて、温泉でも行ってたんでしょ?」としつこく言うと、大笑いする渥美さん。

「お嬢さんはいつも元気ですね。元気がいちばん」

あれが兄ちゃんと会った最後だった。

「僕はもうダメですけど、お嬢さんは元気でいてください」と留守電に入っているのを何度も聞く。

撮影に会いに行った時は相当辛い状況だったと話す奥さん。
「主人をそんなに笑わせてくださって、ありがとうございました」

♪オレがいたんじゃ お嫁にゃ行けぬ わかっちゃいるんだ 妹よ


「泣いてたまるか」てポジティヴなテツコさん。



●7話
昭和51年。♪知床旅情 を歌わされる森繁さん。

平成13年にも登場「徹子の部屋 25周年番組収録」(アレ?松田龍平くんがいる/驚
 

21世紀に入って2週間目。森繁さんは88歳!
この日は無口で、耳も聞こえていない様子。

「人生なんて半分ウソみたいなもんだからねえ。老人ホーム、あんた一緒に入りませんか?」

 
(アレ?カメラマンは瀧さん!朝ドラにこっちに大活躍


昭和36年。
森繁さんはセリフを覚えてこないため、カンペが必要だった。柱や野菜にまで!
「1回どう? カンニングなしで演技なさったらどう?」と激怒するテツコさん(言うべきところはハッキリ言う人なんだね

ドラマ『王将』生放送。有名な将棋士の役の大事なシーン
カンペをどけられた森繁さんは固まる。
(カンペ読んでも、そんなそぶりもなさげで、演技で泣かせることが出来るのはさすがだなあ!


昭和53年。
テレビ放送25周年の記念番組で森繁さんと共演することになったが、
「25っていうのは中途半端なんだな」と台本に×をつける。「これ、50でいこうよ」
「私が70で、森繁さんは90でいっしょにコントやりましょうよ!」「大ホールで、生で!」

結局、25周年の記念番組は生放送に。
朗読劇は、カンペなし?



「大体、私がこうして生きてることがおかしいんだ。のり平も、清もみんな逝っちゃった」

「VTRを止めてください! 森繁さん、ちゃんとやっていただかないと困るんです!」とまたもや檄を飛ばす。

「森繁久彌って俳優が、どんなにステキか、みんなに知っていただきたいのにね、こんなんじゃテレビじゃありませんよ!
 徹子の部屋は、編集しないで放送してるんです(そーなんだ/驚) 今日のじゃ面白くないの!」

森繁さんの案で、つぶやくように♪知床旅情 を歌い始める。
それを観て、老人ホームにいる中華屋の主人たちも歌う。

♪私を泣かすな 白いカモメよ



2年後。リムジンで「1回どう」と言われ、「また今度」と別れたのが最期。

(1回どう、と半世紀かけて言い続けてくれたのは、森繁さんの粋だった)

死は悲しいけれども、死ぬのは怖くない、とも感じているテツコさん。



 

「あなた、おいくつ?」
「私はね、今日の私です。私、昔から100歳になるのは難しいと言われてたんですよ」(本物の徹子さん

1位は♪出発の歌
 



同じ司会者によるトーク番組の最長放送|桂文枝師匠とギネス世界記録

「長生きしたい」て思う人は、たくさんいるけれども、
長く生きるということは、相当、強靭かつ柔軟なココロでなければ、
いっしょに生きてきた人たちをたくさん見送ることになるんだね。
どんな輝かしいスターも、名も無き生き物も、生まれて、死ぬのはみんないっしょなんだ。


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