■北の大地に夢を追え~“北海道” 誕生の秘密~@歴史秘話ヒストリア
蝦夷、アイヌと聞くと、ネイティヴ・アメリカン、アボリジニ、アラスカのエスキモーなどと同様、
自称「文明人」らが大勢押し寄せて、苦しめられた先住民族の歴史が気になっていた。
今回見て、北の厳しい冬の自然とともに生きる姿は、星野道夫さんが書いたアラスカの少数民族の姿ともダブった。
人類創生の神話は、世界共通した部分が多いのもフシギ。
結局、松浦武四郎さんの想いも空しく、アイヌの伝統文化はいったん途絶えてしまったけれども、
彼の書いた文献が残ったおかげで、今またそれを復活させる動きが出ていることは感動した。
●幕末の探検家・松浦武四郎の生い立ち
末っ子に生まれ、玄関を開ければ、伊勢街道。賑わう人々を見ては旅に憧れる少年時代。
「一生に一度は伊勢参り」と言われ、1830年には1年で500万人の参拝客が行き交う大ブーム!
●突然旅に出る
16歳で金も持たずに家を飛び出る。まず向かったのは江戸。
桑名から海に出て、富士山に感動し、土地の名物に舌鼓を打ち・・・
そのお金は、お伊勢参りの参拝者にふるまわれる食べ物やお金をもらったり、
「伊勢から来た」というと、「話を聞かせてくれ」と言われて話したり、
「参拝の際にはお世話になったから」ともてなしを受けたりしてなんとかなった/驚
旅先から実家に頻繁に手紙を出し、「手紙の送り賃は着払いで」などと勝手なことを書いていたw
●江戸に着いて1ヶ月で実家に連れ戻されるが、半年後にはまた家出
全国を1万kmも旅をして疲れが出たのか長崎でダウン。
看病してくれた寺の住職に感動して、そのまま勢いで出家するも、また旅への想いが募り始める。
そこに町名主が来て「蝦夷地がロシア人に荒らされて困っている。誰か行って見てきてくれればいいのですが・・・」
「私が参りましょう!」
●蝦夷はまったく異質な土地
28歳で函館に着き、アイヌ人に会い、言葉が通じないのでジェスチャーで案内を頼み、
少しずつ言葉、文化、地理を覚えていく。それを絵とともにことこまかに帳面に書いた。
武四郎が肌身離さず持ち歩いた帳面
絵も上手いなあ/驚
●アイヌは文字を持たないので、耳コピでアイヌ語を覚える
挨拶の方法(主に男性同士
イランカラプテ:お久しぶり
ピリカノパィェヤン:さよなら お達者で
花:ノンノ
富士山に似た山に行ったら豪雪
シレトク(地の果ての意)
アザラシさんかあいい!
●道なき道を行く過酷な旅を助けてくれたアイヌの優しさ
川の増水の時は、丸太の橋をかけてくれた/断崖絶壁ではロープを下げて引っ張りあげてくれた
川を渡っている時、大雨が降った時はフキの葉をかぶせてくれた
こうしているうちに慕われ、家に招かれるようになる
貴重な米粉で作った団子美味しそう! 芋餅も美味しいよねv 「美味しい」は「ピリカ」
●自然に宿る神「カムイ」(アニメがあったね
夜に長老がフシギな話を聞かせてくれた。
1滴の水、森の木々にも、自然にはすべてカムイ(神)が宿っていること
(アラスカ、沖縄、インディアンにも通じる。現代人が忘れてしまったこと
ヒグマは「キムンカムイ(山の神)」/毎年川をのぼってきてくれるシャケ
シマフクロウは特別な存在
<シマフクロウの伝説>
昔、カムイがこの地を創った頃、シマフクロウが飛んできて、目をパチパチとまばたきをするたびに
太陽、月、木、土が生まれ、我々アイヌには知恵を授けてくれた。
だからフクロウは聖なる鳥。この大地は「カイ」と呼ぶ。~『天塩日誌』より
●若者がいない深刻な理由
どの村に行っても老人しかいない理由を聞くと、
商人は、若者を大勢集めて強制労働させていた
「このままでは民族は滅びてしまう」と訴えられる
海辺で一人「トンコリ」を弾く老人を見て憂う武四郎
「トンコリ」は、親から子、子から孫へと代々伝えられる伝統楽器
『近世蝦夷人物誌』より
●帰ってから蝦夷のことを皆に知ってもらおうと本を執筆
13年間の蝦夷の旅を終えて、江戸に戻り、江戸市民が蝦夷のことを何も知らないことに気づき、本を出して紹介しようと思いつく。
“アイヌは心優しくもてなしてくれた。
とても話好きで、朝まで一緒に酒を飲んで、そのまま寝てしまったこともあった
野宿をしていたら鹿を獲ってきてくれてとても助かった”
絵をふんだんに入れ、ユーモアも交えた本は大評判となり、24冊の「武四郎物」となり、
蝦夷の人は野蛮で怖いと思っていた江戸の人々は驚いた。
スゴロクまでつくり、ゴールの函館では皆で楽しく踊る絵w
●明治時代、政府の役人となって再び蝦夷に関わる
武四郎は、蝦夷地の第一人者として誰もが認める存在となる
明治2年「開拓使」が設けられ、武四郎は新政府から「蝦夷開拓御用掛(ごようがかり)」に任命される。
その時、武四郎は条件を出す。
蝦夷という名前も新たな時代にふさわしく、
かつ老人から聞いた「カイ=祖国」の字を入れて「北加伊道」とする。
明治2年に正式に認められ、その後「北海道」となる
●地名に残るアイヌ語
地名にはもとからのアイヌ語を残そうとして、100近くの地名が採用された
●商人の猛反対にあう
ようやく念願が叶って、強制労働を禁じる通達ができたが、商人の猛反対にあい、
役人に賄賂まで贈って撤回を働きかけ、開拓使の通達は骨抜きになる
武四郎は、5枚にわたる辞表を書き、辞職することで抵抗を示した(明治3年てたった1年間・・・
●今に残る功績
武四郎は、晩年、三鷹(!)にある6畳1間の家で静かに過ごした
(こういう庵イイなあ。自然と、好きなものに囲まれた最小限の暮らし
生涯をかけて旅した各地から部材を集めて、家に置いたが、北海道の木は使われていない
その後一度も北海道を訪れなかった
「申し訳ない気持ちがあったと思われる」
明治21年 松浦武四郎 享年71歳
●その後の北海道の発展と文化の衰退
国家はアイヌを日本国民に組み入れ、日本名への変更、日本語の使用が決められた。
アイヌ文化は野蛮とされ、失われていった(あれだけ本が売れたのに、なにも変えられなかったのか・・・
「イオマンテ」(熊の霊送りの儀式)
各国の先住民復興活動が盛んに
1世紀ぶりに儀式が復活
今では、武四郎の記録をもとに儀式等を復活させることができた
蝦夷、アイヌと聞くと、ネイティヴ・アメリカン、アボリジニ、アラスカのエスキモーなどと同様、
自称「文明人」らが大勢押し寄せて、苦しめられた先住民族の歴史が気になっていた。
今回見て、北の厳しい冬の自然とともに生きる姿は、星野道夫さんが書いたアラスカの少数民族の姿ともダブった。
人類創生の神話は、世界共通した部分が多いのもフシギ。
結局、松浦武四郎さんの想いも空しく、アイヌの伝統文化はいったん途絶えてしまったけれども、
彼の書いた文献が残ったおかげで、今またそれを復活させる動きが出ていることは感動した。
●幕末の探検家・松浦武四郎の生い立ち
末っ子に生まれ、玄関を開ければ、伊勢街道。賑わう人々を見ては旅に憧れる少年時代。
「一生に一度は伊勢参り」と言われ、1830年には1年で500万人の参拝客が行き交う大ブーム!
●突然旅に出る
16歳で金も持たずに家を飛び出る。まず向かったのは江戸。
桑名から海に出て、富士山に感動し、土地の名物に舌鼓を打ち・・・
そのお金は、お伊勢参りの参拝者にふるまわれる食べ物やお金をもらったり、
「伊勢から来た」というと、「話を聞かせてくれ」と言われて話したり、
「参拝の際にはお世話になったから」ともてなしを受けたりしてなんとかなった/驚
旅先から実家に頻繁に手紙を出し、「手紙の送り賃は着払いで」などと勝手なことを書いていたw
●江戸に着いて1ヶ月で実家に連れ戻されるが、半年後にはまた家出
全国を1万kmも旅をして疲れが出たのか長崎でダウン。
看病してくれた寺の住職に感動して、そのまま勢いで出家するも、また旅への想いが募り始める。
そこに町名主が来て「蝦夷地がロシア人に荒らされて困っている。誰か行って見てきてくれればいいのですが・・・」
「私が参りましょう!」
●蝦夷はまったく異質な土地
28歳で函館に着き、アイヌ人に会い、言葉が通じないのでジェスチャーで案内を頼み、
少しずつ言葉、文化、地理を覚えていく。それを絵とともにことこまかに帳面に書いた。
武四郎が肌身離さず持ち歩いた帳面
絵も上手いなあ/驚
●アイヌは文字を持たないので、耳コピでアイヌ語を覚える
挨拶の方法(主に男性同士
イランカラプテ:お久しぶり
ピリカノパィェヤン:さよなら お達者で
花:ノンノ
富士山に似た山に行ったら豪雪
シレトク(地の果ての意)
アザラシさんかあいい!
●道なき道を行く過酷な旅を助けてくれたアイヌの優しさ
川の増水の時は、丸太の橋をかけてくれた/断崖絶壁ではロープを下げて引っ張りあげてくれた
川を渡っている時、大雨が降った時はフキの葉をかぶせてくれた
こうしているうちに慕われ、家に招かれるようになる
貴重な米粉で作った団子美味しそう! 芋餅も美味しいよねv 「美味しい」は「ピリカ」
●自然に宿る神「カムイ」(アニメがあったね
夜に長老がフシギな話を聞かせてくれた。
1滴の水、森の木々にも、自然にはすべてカムイ(神)が宿っていること
(アラスカ、沖縄、インディアンにも通じる。現代人が忘れてしまったこと
ヒグマは「キムンカムイ(山の神)」/毎年川をのぼってきてくれるシャケ
シマフクロウは特別な存在
<シマフクロウの伝説>
昔、カムイがこの地を創った頃、シマフクロウが飛んできて、目をパチパチとまばたきをするたびに
太陽、月、木、土が生まれ、我々アイヌには知恵を授けてくれた。
だからフクロウは聖なる鳥。この大地は「カイ」と呼ぶ。~『天塩日誌』より
●若者がいない深刻な理由
どの村に行っても老人しかいない理由を聞くと、
商人は、若者を大勢集めて強制労働させていた
「このままでは民族は滅びてしまう」と訴えられる
海辺で一人「トンコリ」を弾く老人を見て憂う武四郎
「トンコリ」は、親から子、子から孫へと代々伝えられる伝統楽器
『近世蝦夷人物誌』より
●帰ってから蝦夷のことを皆に知ってもらおうと本を執筆
13年間の蝦夷の旅を終えて、江戸に戻り、江戸市民が蝦夷のことを何も知らないことに気づき、本を出して紹介しようと思いつく。
“アイヌは心優しくもてなしてくれた。
とても話好きで、朝まで一緒に酒を飲んで、そのまま寝てしまったこともあった
野宿をしていたら鹿を獲ってきてくれてとても助かった”
絵をふんだんに入れ、ユーモアも交えた本は大評判となり、24冊の「武四郎物」となり、
蝦夷の人は野蛮で怖いと思っていた江戸の人々は驚いた。
スゴロクまでつくり、ゴールの函館では皆で楽しく踊る絵w
●明治時代、政府の役人となって再び蝦夷に関わる
武四郎は、蝦夷地の第一人者として誰もが認める存在となる
明治2年「開拓使」が設けられ、武四郎は新政府から「蝦夷開拓御用掛(ごようがかり)」に任命される。
その時、武四郎は条件を出す。
蝦夷という名前も新たな時代にふさわしく、
かつ老人から聞いた「カイ=祖国」の字を入れて「北加伊道」とする。
明治2年に正式に認められ、その後「北海道」となる
●地名に残るアイヌ語
地名にはもとからのアイヌ語を残そうとして、100近くの地名が採用された
●商人の猛反対にあう
ようやく念願が叶って、強制労働を禁じる通達ができたが、商人の猛反対にあい、
役人に賄賂まで贈って撤回を働きかけ、開拓使の通達は骨抜きになる
武四郎は、5枚にわたる辞表を書き、辞職することで抵抗を示した(明治3年てたった1年間・・・
●今に残る功績
武四郎は、晩年、三鷹(!)にある6畳1間の家で静かに過ごした
(こういう庵イイなあ。自然と、好きなものに囲まれた最小限の暮らし
生涯をかけて旅した各地から部材を集めて、家に置いたが、北海道の木は使われていない
その後一度も北海道を訪れなかった
「申し訳ない気持ちがあったと思われる」
明治21年 松浦武四郎 享年71歳
●その後の北海道の発展と文化の衰退
国家はアイヌを日本国民に組み入れ、日本名への変更、日本語の使用が決められた。
アイヌ文化は野蛮とされ、失われていった(あれだけ本が売れたのに、なにも変えられなかったのか・・・
「イオマンテ」(熊の霊送りの儀式)
各国の先住民復興活動が盛んに
1世紀ぶりに儀式が復活
今では、武四郎の記録をもとに儀式等を復活させることができた