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北野武~父と母の真実 阿波国徳島に何が!~@ファミリーヒストリー(73分拡大版)

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北野武~父と母の真実 阿波国徳島に何が!~@ファミリーヒストリー(73分拡大版)
司会:今田耕司,三輪秀香 語り:余貴美子

最初、テレビのラテ欄を見た時、誰か同姓同名の違う人かと思ったけれども、
たけしさんのルーツ気になるっ!

お母さんの話になると、たけしさんは絶対泣いちゃうよ




映画監督として「マエストロ」なんて呼ばれているのか/章は黒澤明以来32年ぶりの快挙
 

足立区生まれ



●自伝的ドラマ「たけしくん、はい」でとくに忠実に描いたのは母の姿
 

 

母さきさんの口癖は「勉強しろ、とにかく勉強しろ」
友だち付き合いにも口を出した

武:
おふくろは、オレが悪い友だちを連れて来ると
「お前らバカだから、悪いから来んな」とは言わない
「うちの武と付き合うとロクなことないよ ほんとに悪いんだからね
 警察に捕まったりするよ だから帰んな」て言うんですよ
今考えれば、頭いいな、あの人と思って

ドラマには家族の背景は描かれていなかった


「おふくろと、おやじ以外に、俺の血のつながりのある人を知っているのは兄弟しかいないんですよ あと一切いない」




以前は進行役はいなかったよね


武:この番組自体が怖いんだよ(じゃ、自分から頼んだわけではないんだ


●まずは兄・大さんを取材 74歳の今も教壇に立っている

兄弟の中で最後まで実家にいた大さんだが、両親からもルーツはほとんど聞いていない

 

大:
うちは2代、親までは分かるんだけど、3代だともう分からない
おやじのほうは「義太夫のおばあさん」が叔母だっていうこと

義太夫節の師匠をしていたが過去は謎 ドラマにも登場する
 

大:
まあ正直言って「うるせえなあ」っていうw
義太夫なんて理解もないし、とにかく年寄りが来て、ベンベンやってうなってる
おばあちゃんが稽古つけてるの嫌って、ほんと悲惨な家だったw


●東大の「明治新聞雑誌文庫」の中に資料が眠っていた
「こちらが花柳界についての記事が載っている雑誌になります」

 


八重子は芸名 「容貌美にして、技術が高い「と書いてある


●祖母のルーツは阿波国徳島
人気娘義太夫・本名は北野うし

(以前、美輪さんにそう言われてなかった? 「後ろについてるから武さんは芸達者なんだ」って

うしの生まれた通町は、徳島城のすぐ近く
 
有数の中心街として栄えた 自転車の店などもあった

学芸員・根津さん:
通町は、殿様が国内を巡見する時に必ず通る道
他国の使者が来た時も、ここを通るので通町と呼ばれている
ここに店舗を構えるには、よほどの資金力、力がないとだめ
そういう商人が集まる町



●鶴蔵の楽しみは、義太夫の語りで、娘うしにも習わせていた
父・鶴蔵(父方の曽祖父)は粉名屋を生業としてた うどん粉を扱っていて商売は上々


 

「義太夫節」とは、浄瑠璃の流派のひとつ 物語を語る
徳島は人形浄瑠璃の本場 民衆の最大の娯楽 義太夫節の語り手は憧れの的だった

 
女太夫の番付表 200人の女太夫のうち、うしは11歳にして上位 異例の出世


●明治23年の大恐慌
維新後の資本主義で金融逼迫が起こり、全国的に倒産が相次ぎ、鶴蔵も資金繰りに困る

うしは明治25年に上京し、日本橋などの寄席に積極的に出演
明治30年の番付表でも上位にいて、実家に仕送りを続けた
今、その粉問屋の形跡はない

武:
伴奏してる前でおやじが「う~う~」ゆって地獄絵図みたいだよw
「うるさくて勉強できない」ていうと、母ちゃんは「それは集中してないんだ」


●さきの生い立ち

武「あ、さきさんだ」

さきの母校

武「千葉なんだ」

校長が出してくれた卒業生名簿から実家の住所が分かった
小宮さき 五井 当時の地図を見るとほとんんど田畑
土地の所有者は別で、小宮家は小作人だった

父・寅吉(母方の祖父)の次女がさき


大さん:
生まれてすぐ母親が亡くなった
おじいさんと父に育てられて、母が尋常小学校を出る頃、父も亡くなって
高山っていう男爵の家に奉公に行ったとは聞いてます

戸籍を見ると、両親、きょうだい全員が亡くなっていた/驚
 

大正7年 跡取りもいない小宮家は農家をやめる
さき(14歳)は東京へ出て、奉公先の高山家を訪ねた

男爵ではなく実業家の市平氏
 
本郷にある広い大邸宅

高山佐代子さん「やたらとトイレが広かったんですw」

職業斡旋所の紹介で来たさき
先輩の奉公人らは裁縫や料理などしたが、家族が先に亡くなり誰にも教えてもらえなかったさきは便所掃除などの下働きだった

 


●武の姉・安子さん、今回テレビに初登場


母さきさんは、自分の生い立ちをほとんど語らなかったが
安子さん(80歳)には、いろいろと打ち明けていた

EXILEの話でいきなり盛り上がる安子さんww
「なにせミーハーなんです、私は」(みんな顔の輪郭や目元がそっくり


Q:さきはどう裁縫などを身につけたのか?

安子:
3時のおやつを食べないでとっておいて、女中頭さんとかにお裁縫を教えてもらった


自分の着物をほぐして、小さな模型みたいにして
自分はなんの取り柄もないから、お手洗いばっかり掃除させられたから



負けず嫌いのさきは、休憩時間に配られる今川焼きを先輩に渡してお願いした
わずかな睡眠時間を割いて、裁縫の練習をした

ある日、夫人が「夫の袴の腰板を替えてほしい」と言い、
ほかのものが尻ごみする中、さきは「私に直させていただけませんか?」と言ったが聞く耳を持たなかった

安子:
悔しかったでしょうね 裁縫ができることで待遇が違ったらしい

この時味わった悔しさを生涯忘れなかった


●高山夫人は娘たちに義太夫を習わせた 教えたのは竹本八重子!
大正12年 稽古部屋の奉公人は、19歳のさき!
互いに実家が没落した境遇ですぐに打ち解けあい、後に家族となる運命の出会い

武:
高山さんは知ってた でもオレには
「私は師範学校を出て、子どもの教育をしていた」てずっと言ってたのに、便所掃除はねえだろ
意地だなあ ちょっとショックだなあ 参ったなあ(子どものためにも隠し通してたのかもね

「(姉は)EXILEにコネがないか」ってオレにゆってくるわけさw


●さきが大切に保管していた1枚の写真

朝ドラ『べっぴんさん』みたいなショーウィンドウ

大:
日暮里の正木屋という洋品屋で、大正時代だからカンカン帽ですか?
おふくろも自分の思い出として残しておいたんでしょうね


うしとさきは洋品店を営んでいた?!

大正12年 うしは恋人との間に20代になる一人息子・徳次郎がいた
さきが気に入り、「ぜひうちの嫁においで」といってくれた

さきは奉公を卒業し、徳次郎と結婚
わずか7ヵ月後、徳次郎は盲腸炎をこじらせて急死(どうしてこんなに亡くなってしまうの?

塞ぎこむ時間はなく、洋装への変換期で「モガ」が流行る中、さきの作る帽子などは飛ぶように売れた
2年後、うしが1人の男性を連れてきた

うしの甥で、漆職人・正瑞菊次郎(父)

(父が出てきた途端に爆笑するたけしさん

大:
私が聞いてるのは、浅草生まれ 珍しい苗字ですね

菊次郎も自らのことを一切語らなかった

明治32年生まれの戸籍を調べると、
菊次郎さんの父も亡くなって、母エツさんは再婚し3人子どもがいる




●エツの3人の子どもを取材
「すみだ郷土文化資料館」に小学校の時の正春の作文がある/驚(行ったことある!→here
内容は関東大震災からの復興についてで、家族の記述はない

 

春之じょうの住まいは板橋 晩年まで一人暮らし 10年前亡くなった ほかに手がかりはなし



●正瑞という苗字で調査
名字研究家の第一人者・高信氏に聞いた(いろんな研究家がいるねえ!

高信氏:
本来だと「勝」の「勝瑞」のほうはいて、もとはそれが発祥だと思う
阿波の国に「勝瑞城」というのがあった

「勝瑞城」は室町時代に建ち、政治文化の中心地として栄えた
天正10年、長宗我部元親によって滅ぼされた(『真田丸』にも出てきた名前?
武士はこの地を追われた

 

正瑞家が多く集まる地域を訪ねた 今も10世帯ほどある
もと武士だった 戦には負けたが、主義主張は正しかったという意味で「正瑞」とかえて生きながらえたのでは?

菊次郎のルーツはそれ以上分からず
戸籍の字も誤って登録した可能性が高いと専門家は言う




●菊次郎はさきと結婚
菊次郎の父は早くに亡くなり、母も再婚 幼少期に奉公に出され、生計を立てていた
27歳の菊次郎にさきも好印象を抱き、うしの「北野家を残したい」という思いから
うしと菊次郎は養子縁組を交わし、菊次郎はさきと結婚(なんだか複雑すぎる・・・

 

しかし、菊次郎はわずか5年で店を倒産させた 博打に手を出して借金を抱えた
うしは店を手放して一人暮らしに
さきと菊次郎は、幼い長男、次男を連れて平屋へ引っ越す


大:
ひと言で言えば、人がいい よすぎる
頼まれたらノーと言えない「いいってことよ」ってゆって

安子:
要するに見栄っ張りなのよね 酔った勢いで言われると断れずに高いものを買っちゃう
飲んだりしちゃって、倒産して、夜逃げ同然で足立区島根町に来た
道楽者っていうのかしらねw こんなに悪口言っていいのかな
父親を褒める子どもは一人もいないわね、うちは(笑いが止まらない安子さん

武:
もういやっていうほど、これはおふくろに言われたよ
「あのジジイがみんな潰しやがった」って
うちはいい生活してたのに、酔っ払うと「いいってことよ」て

Q:正瑞家はご存知でした?
オレは“ハセガワ”て聞いたんだけどなあ
養子縁組は聞いてたけど とても武士には見えないけどな どう見ても職人


●父の仕事
 
足立区 神輿の鉄扉を昭和30年代に塗った跡が残っている

宮司:
母がお茶を持っていっても「はい」と言うだけで
静かに、何も言わずに、丁寧に仕事をこなす感じ

借金を抱えた貧乏生活 漆の仕事が減り、菊次郎は「ペンキ職人」として再出発した

 

大:
ウソみたいな話だけど、昔はテーラーとかって仕立て屋があった
そこにペンキを塗ると、帰りに背広をあつらえて帰ってきちゃう
ペンキの値段より、背広のほうが高いから、おふくろ怒ってね

「数あるペンキ屋からウチを選んでくれた なんかお返ししなくちゃ悪いじゃねえか」
「悪いじゃねえか」がおやじのキーワードです(浅草っ子なんだね

「接骨医に行って、足くじいて帰ってきた」っていうのは弟のギャグですけど


戦時中、菊次郎は山梨の戦闘機工場に徴用され機体の塗装をし、そのまま終戦

昭和22年、武さん誕生
竹のようにどんな困難にも耐えてスクスク伸びて欲しいと両親が名づけた


アヒル口でカワイイ


●とにかく教育熱心だった母さき

安子:
母は毎日、子どもたちに幅の広い菜切り包丁で鉛筆を削っていた
鉛筆を削らないと勉強できないからって毎朝やってました



武:
旅行に連れてってやるって言うから嬉しいなと思ったら
神田にある参考書の本屋や卸屋に行って、理科や数学の本をいっぱい買ってきて帰ってきて終わり

あと、野球が大好きで、やってると怒られるんで、イチョウの木の下に穴掘って
新聞紙で(グローブを)包んで土盛って、分かんないようにして
(母が)いないうちにグローブ持っちゃ野球やって、帰ったら埋めてた

ある日、穴掘って新聞紙あけたら、その参考書が入ってた もうガックリしちゃって
「なんだ見え透いて、見てたのか」と思って

英語の塾行かされて、「How are you?」て急に言われたり、いっぱいありますよ


家計のやりくりは大変 さきは内職をたくさんかけもっていた
うしも同居をはじめ、義太夫の稼ぎを家計に回した


●「貧乏は教育で断つ」という母の信念

安子:
貧乏だというのは教育がないからだ 教育があればいろんなところに勤められる
いいところに入ればお金がもらえて、いい暮らしができる
だから、なにしろ子どもたちに教育をつけなくちゃいけないって

お金をいくら持ってても人に取られればそれまでだけど
教育は人が取ろうと思っても、取れるものじゃないからって

(これは今の格差社会や、途上国にも言えることだな


大:

自分の連れ合いが職人ですから とくにペンキ屋だと雨風吹いたら塗れないとか、
足場から落ちて怪我したら仕事ができない 日給月給

機械科さえ出れば潰しがきく
機械の技士、造船会社、電機会社、公務員からどうにでもなれると
だから機械工学科に行って、腕に職をつける
大学出ることで、勤め人になる


長男・重一は東京工業専門学校を卒業 都内の高校で機械工学を教え、その後エンジニアとして活躍した


安子は都立の進学校を卒業後、結婚を機に軽井沢でペンションを経営

大さんも大学教授に



●そんな中、末っ子の武は・・・
近所の評判は遊びの天才で人気者 周りには常に大勢の友だちが集まった

 

 




●昭和40年 さきに尻を叩かれて大学に現役合格


武:
機械の会社入って、サイズ測ったりなんかするようなことが急に嫌になっちゃって
授業もノギス作ったり、万力作ったり、こんなことオイラやるか?

すごいですよね 学校辞めるっていう
新宿の西口かなんか見て 今日オレどうしよう 学校辞めようかなと思ったけど、おふくろの顔が目に浮かんで
それでも辞めちゃうっていうのは最高の反抗だなと

そしたら空の色が変わったというか、
辞めたってゆった瞬間に違う色になった感じがあって、
スッキリしたんでもないし、どんより曇ったわけでもなくて
異次元に行っちゃった感じがあってね
罪悪感と、恐怖と、チャレンジと、入り混じった感じだった


●大学3年 家出を決意
家族に内緒で荷物を運び出そうとした時

母「コラ、たけし、なにしてんだ?」
武「家を出ていく」
母「出て行くんなら出て行け 大学までやってやったのに お前なんか子どもじゃない 絶対帰って来るな!」

武は勘当され、家を飛び出した

武:
親が、どこでもいいから入れって、嫌でしょうがなかった
フシギなのは、それまでずっと学費は母ちゃんが払い込んでいたんだよね 大学を辞めてるのに
退学じゃない、休学でもない ただ行かないだけで


●武のサクセスストーリー
昭和47年 浅草のストリップ劇場の合間に行われるコントや漫才が人気で連日大盛況だった
武はエレベーターボーイの職にありつく

 

武:
なにがやりたいってわけでもなかった
ただ浅草のフランス座とか興業界の従業員になると、フリーパスをもらえる
それで見て回って笑ったのは、コント55号ぐらいですね

失礼だけど、その当時の有名な漫才師が「なんでこれが面白いんだろう?」と思った時代がある
その人がすごいいい車で帰って行った時、あんなつまんないことで、あんないい思いできるんだと思って



当時、武が劇場で寝泊りしていた その部屋が今も残っている
東洋館 出演者の楽屋のさらに奥のわずか3畳の屋根裏部屋

 


●2年の下積みを経て昭和49年「ツービート」結成

(写真提供が「マルベル堂」だ!

正統派漫才で浅草でデビューするもまったくウケず ヤジを浴びることもしばしば


売れない時代に通った店の店主・河野通夫さん(♪浅草キッド が流れてきそう

河野さんは、元浅草出身の役者で武の先輩

当時の様子を再現してガラス戸から何度も覗き込むww


河野さん:
奴、しつこいから 行ったり来たりして そりゃ気づくよ
“おお、タケ、タケ 入ってこいっていうと” (ハアハアして)犬よりひどいよ
だって腹減ってんだもん おかまいなしだよ

武「裸の大将じゃねえかw」

河野さん:
その時、彼はむさぼるように本を読んだ
煮込みも食えない奴が本なんかどうやって買ったと思ったら、古本屋だよ 二束三文
本っていろんな個性の人が書いてるから 何百円出せば、こんなに本買えたんだよ
もうそれは敵わない! それを全部自分のタンスの中に入れちゃうわけ


「徹底的に勉強してやる」

小説から時事問題にいたるまであらゆるジャンルを読んだ
舞台作家に何度も質問し、ネタをゼロから作り上げた


●「赤信号 みんなで渡れば 怖くない」

(あれ? ここでスカパラの♪One Step Beyond が流れた

「注意一秒 ケガ一生 車に飛び込め元気な子」

「気にするな どうせばあさん 先はない」

賛否両論を巻き起こし、テレビに出るようになり、音信不通のきょうだいは驚いた


安子:
ああいうことをあんなに言っていいのかしらと思って
だけど・・・まったく、どうしようもないわねw
ああいうのはちょっと私も恥ずかしいわね、ほんとのことゆってね


大:
恥ずかしい 弟に申し訳ないんですけど
やっぱり足立区で北野っていうと分かっちゃうんですけどね

「たけしさんて弟ではないですか?」
「いや違います 僕は3人きょうだいです」って弟をなき者にしたわけですよ

結局、最後は見つかっちゃったですね、やっぱりw




家出から20年あまり さきは大と同居していた
すでに10本近いレギュラー番組を抱え、スターになった武
さきはテレビを食い入るように見つめていた

たけし城とか全部懐かしい!
 

 


●さきは心配が募り、一度もテレビを見て笑うことはなかった

大:
ハッキリゆって笑わないですよ それはおふくろが一番いい例ですよ
新聞が来ると、テレビ欄で武の出る番組を全部マジックで線を引いて見てた
その頃は多少、私も余裕をもって多少笑うようになったんですけど
おふくろは最後まで笑ってなかった



今回の取材でさきの遺品が見つかった 大さんの自宅奥に大切にしまわれていた

内緒でしまっていたタケちゃんマン人形!


大正時代、うしとともに営む洋品店で使っていたソロバン


平成4年 武が2年連続「好きなタレント100人」で1位に選ばれた時の記事

(絶対、武さんを泣かせようとしてるな



黙って見ていて、長いこと言葉が出ないたけしさん
しばらく前からずっと鼻を赤くして、口を隠していたもんね

武:
オレ、漫才売れる前におふくろは「最近タケちゃん見えないね?」と(近所の人が)言ったら
「武は外国に留学している アメリカの大学に行ってる」て言ってたらしいんだけど
まさかあんなもん(切り抜き)持ってるとは思わなかったね
タケちゃんマンまで持っていたとはw

いまだにあれだよね 死んで何年も経ってるのに、やっぱり母ちゃんと思っちゃうんだよね
こう、なんかの時にフワっと出てくる もうトラウマだよね(男はみんなそうじゃない?

あれ?こんなことをやると、おふくろに怒られるとか
あ、ちょっとこれ、傲慢になってる、偉そうになってるとか


●武の母校


恩師・藤崎さん(全然若くて元気だね/驚
 

教えていた当時は20歳


藤崎さん:
「赤信号 みんなで渡れば 怖くない」ってやってるのを見て
彼が4年生の時に、西新井警察署の交通安全の標語でですね
「ちょっと待て 赤い目玉が光ってる」ていうのが入選したんですよ
お母さん喜んでました、すごく
全校の前で賞状をもらってますから

だから、あいつ4年生の時にいい標語作って入賞してるのに
とんでもないこと言ってるなって一瞬思ったんですけど
まあ、彼らしいなと思っていましたね


●「60年ほどの忘れられない思い出」

藤崎さん:
戦時中、兵舎として使われた校舎は壁が煤けて真っ黒だった
夏休み、学校に行くと、菊次郎さんが壁かなんかを塗っているところをたまたま見て
一生懸命塗ってて、ほんとにきれいな教室にしてもらいました
生徒もすごく喜んだ

これは私が長い教員生活、仕事をやっている中で
そういうお父さんは、後にも先にも菊次郎さんだけですね


教育にはほとんど口を出さなかった菊次郎は、家族に内緒で教室の壁を塗っていた
これを後で知った養母うしは「これぞ私の息子」と目を細めたという
うしは享年90歳 菊次郎は昭和54年 享年80歳


●57歳での大学卒業

2004年 明治大学が武の世界的活躍を評価して「特別卒業認定証」を授与した


その5日後、大さんが菩提寺を訪れた


大:
9月12日って、父親の命日なんですよ
女房が墓参りに行ったら、大きな花が供えてあって
武が墓参りに来てたって 報告に来てたってことですよね

彼の中に常にあったんでしょうね 学歴とかじゃないにしても
母親の期待をある意味では裏切ったという
(お兄さん、いつでもニコニコして優しそうな人柄が出てる


武:
やっぱり、きょうだい全員だけど、この母あってというか
もう有り難いしか言えないね
よくぞ北野さきの息子に生まれたっていう感謝しかないね
(最後も泣きそうだった

まあ、でも、うちの母ちゃんもしっかりしてんだよ
父ちゃんとか、ばあちゃんの墓参りに昔行った時
拝んでたら「父ちゃん、花も何もないね」て隣りから花もってきて
お盆だから花がいっぱいあるわけだよ
いろんなところからもってきて全部入れちゃってw

(最後は笑いで締めるところは、武さんらしさ
 相手が今田くんっていうのも、いいフォローだった



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