■真田一族 戦国最強の絆~真田昌幸・信之・幸村 父と子の物語~@歴史秘話ヒストリア
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NHK大河ドラマ『真田丸』 第46~最終回
春の信濃路・真田丸の旅@あさイチ
予録を消化中
この番組を見たら、1年間の大河ドラマの概略が一気に分かり、
その後の兄・信之が長生きしたことまで分かった
でも、これをドラマ放送中に流すのは、ものすごいネタバレ/驚
だから、大河が終わってから見ようと思っていて、今ごろになってしまった
【内容抜粋メモ】
真田昌幸は、戦国時代でもっとも「食えない奴」と思われていた
当時は、小さい領土を守るため、力のある武田信玄の支配化につくと決心
昌幸は7歳で人質に出され、自分たちの弱さと苦労を身に染みて感じる
28歳で真田家当主となる
武田家の滅亡、信玄公の死はショック
家康と北条氏が勢力拡大
昌幸は小さな領土を守るため、家康につくと条件として「沼田の地を差し出せ」と言われる
領地の半分をとられてしまうため、とった策は、家康を裏切って、上杉景勝につくという決断
激怒した家康は、昌幸討伐軍を出す(昌幸39歳)
「真田一族を皆殺しにせよ」という厳しい命令を出す
家康軍7000vs真田軍2000で上田城を守るには!?
南は千曲川、西は断崖、北は沼地 その沼地をさらに掘り、東だけをあけた
家康軍は、予想通り東から入り、なぜか撤退する真田軍を追って城内へ攻め込む
そこに、大木、岩、銃で猛攻撃され、多大な死者を出した徳川軍は城下町へと退却
そこにはいつのまにか柵があり、閉じ込められて
また火、矢、銃で攻められ、まんまと手中に落ち、
徳川軍は1300人余りの死者を出して撤退する
兄弟の決別
その後、織田信長が死に、秀吉が台頭 昌幸は秀吉のもとにつく
弟・幸村は秀吉に差し出し、そして、あろうことか長男・信之を家康の家臣にしてほしいと申し入れる
こうして、どちらの勢力が勝っても、真田家が存続するようはかった
忍者
群馬に真田家に仕えた忍者の墓が残っている
彼はとても有能だったが、昌幸から「2つの城に火を放て」と命令を受けて、
尻高城に火を放った後、中山城に忍び込むと、目もくらむばかりに輝く馬上鎧を見つけ
任務を忘れて持ち帰ったというユニークなエピソードも残っている
親子の決別
秀吉が死去 再び世は混乱する
豊臣側の石田三成vs家康で争い、兄弟同士戦うことになってしまう
三成から援軍を求める手紙が届くが、兄弟は各家で婚姻関係も結んでいたため
昌幸は信之と幸村を呼び、栃木・犬伏で会談する
昌幸「わが真田家は三成軍に加勢しようと思う」幸村もそれに賛成
信之の妻・小松姫(家康の重臣の娘)と子の行く末を案じるがゆえ、信之は反対
昌幸「では、親子離れ離れとなろう それが真田家にとって良いことになるだろう」
と苦渋の決断を下す
信之の妻・小松姫
昌幸は「孫に会わせて欲しい」と、信之不在の沼田城に来て、あわよくば城を乗っ取ろうとするが
完全武装した小松姫が出てきて「たとえ父上でも城に入れるわけにはまいりません」と言ったため諦めた
再び家康vs真田軍
家康が関ヶ原に行く途中に昌幸がいるのは邪魔
家康は討伐軍の総大将に、跡継ぎの秀忠を抜擢(源くんねw
秀忠率いる東軍は3万8000人、昌幸軍は2500人
どれほど家康が昌幸を警戒していたがが分かる
信之は父に降伏勧告をし、昌幸は受け入れ
「家臣たちに言い聞かせるので、待ってほしい」と願い出るが
2日経っても昌幸は降伏せず
秀忠は上田城へ総攻撃を開始
そこにまた様々な仕掛けをほどこし、戦は難航
西軍の主力だった小早川秀秋軍が徳川方に寝返り、形勢は逆転 東軍の勝利で決着
昌幸から信之へ托したもの
昌幸は、関ヶ原の戦いの前に、重要書類をすべてまとめて長男に譲り渡していた
高野山に流罪となる昌幸と幸村
信之は、真田家当主として上田城に入る
家康「百万石を与えるから、昌幸と幸村の首をはねて持ってまいれ」
信之「百万石は辞退します 父を売って自分だけが豊かになり出世するなど
人間として許されないことです どうか父の命だけはお助けください」
信之が懇願し、家康は流罪のままとする
その後も信之は、父と弟の赦免運動に奔走するがうまくいかず
昌幸は享年65歳で死去
大坂の陣
幸村は豊臣軍に参戦したことを知り、信之は2人の息子を戦地に送る
幸村は享年49歳で死去
信之は「大坂の陣」後、幕府から
「信之が戦の最中、幸村と通じて、徳川軍の動きを伝え、援軍を送ったのでは?」と詰問を受けるが
信之「関ヶ原で父と弟と決別してまで、家康殿に忠誠を尽くしたのに、今さら反逆するわけがない
それほど疑うなら、私は今すぐ命を絶ちます」と弁明
信之の長い生涯
真田家は幕府から「領地替え」を命じられ、上田から松代に移る 栄転に見せかけた左遷だった
その頃、松代は、天災、大飢饉が続いて、土地を捨てる人が続出
信之は、自ら土地を視察し、年貢を免除し、新田開発を行う
藩主をとっくに引退する年齢になっても現役で働き続けた
「戦国の争乱が終わってからも、戦わないで自分の領地を維持した」
関ヶ原から50年、家康、家光も死に、4代将軍・家綱になっても、
信之はまだ藩主を務めていた 92歳の藩主は最高齢
数少ない戦国の世を知る手本として尊敬の的となり、家綱の相談役にもなる
(かざりって悪い意味じゃなく、尊敬の意味なのね
93歳で死去
松代に残る歴史
信之が亡くなった後、昭和のはじめまで使われた鐘
(象山記念館を観た時、これも観た!
「上田真田まつり」親子三代が町を練り歩く 今年は4月29日(土)
家臣の子孫に残された宝
信之は父を偲び、この椀で酒を飲んだ
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その後の兄・信之が長生きしたことまで分かった
でも、これをドラマ放送中に流すのは、ものすごいネタバレ/驚
だから、大河が終わってから見ようと思っていて、今ごろになってしまった
【内容抜粋メモ】
真田昌幸は、戦国時代でもっとも「食えない奴」と思われていた
当時は、小さい領土を守るため、力のある武田信玄の支配化につくと決心
昌幸は7歳で人質に出され、自分たちの弱さと苦労を身に染みて感じる
28歳で真田家当主となる
武田家の滅亡、信玄公の死はショック
家康と北条氏が勢力拡大
昌幸は小さな領土を守るため、家康につくと条件として「沼田の地を差し出せ」と言われる
領地の半分をとられてしまうため、とった策は、家康を裏切って、上杉景勝につくという決断
激怒した家康は、昌幸討伐軍を出す(昌幸39歳)
「真田一族を皆殺しにせよ」という厳しい命令を出す
家康軍7000vs真田軍2000で上田城を守るには!?
南は千曲川、西は断崖、北は沼地 その沼地をさらに掘り、東だけをあけた
家康軍は、予想通り東から入り、なぜか撤退する真田軍を追って城内へ攻め込む
そこに、大木、岩、銃で猛攻撃され、多大な死者を出した徳川軍は城下町へと退却
そこにはいつのまにか柵があり、閉じ込められて
また火、矢、銃で攻められ、まんまと手中に落ち、
徳川軍は1300人余りの死者を出して撤退する
兄弟の決別
その後、織田信長が死に、秀吉が台頭 昌幸は秀吉のもとにつく
弟・幸村は秀吉に差し出し、そして、あろうことか長男・信之を家康の家臣にしてほしいと申し入れる
こうして、どちらの勢力が勝っても、真田家が存続するようはかった
忍者
群馬に真田家に仕えた忍者の墓が残っている
彼はとても有能だったが、昌幸から「2つの城に火を放て」と命令を受けて、
尻高城に火を放った後、中山城に忍び込むと、目もくらむばかりに輝く馬上鎧を見つけ
任務を忘れて持ち帰ったというユニークなエピソードも残っている
親子の決別
秀吉が死去 再び世は混乱する
豊臣側の石田三成vs家康で争い、兄弟同士戦うことになってしまう
三成から援軍を求める手紙が届くが、兄弟は各家で婚姻関係も結んでいたため
昌幸は信之と幸村を呼び、栃木・犬伏で会談する
昌幸「わが真田家は三成軍に加勢しようと思う」幸村もそれに賛成
信之の妻・小松姫(家康の重臣の娘)と子の行く末を案じるがゆえ、信之は反対
昌幸「では、親子離れ離れとなろう それが真田家にとって良いことになるだろう」
と苦渋の決断を下す
信之の妻・小松姫
昌幸は「孫に会わせて欲しい」と、信之不在の沼田城に来て、あわよくば城を乗っ取ろうとするが
完全武装した小松姫が出てきて「たとえ父上でも城に入れるわけにはまいりません」と言ったため諦めた
再び家康vs真田軍
家康が関ヶ原に行く途中に昌幸がいるのは邪魔
家康は討伐軍の総大将に、跡継ぎの秀忠を抜擢(源くんねw
秀忠率いる東軍は3万8000人、昌幸軍は2500人
どれほど家康が昌幸を警戒していたがが分かる
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2日経っても昌幸は降伏せず
秀忠は上田城へ総攻撃を開始
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西軍の主力だった小早川秀秋軍が徳川方に寝返り、形勢は逆転 東軍の勝利で決着
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昌幸は、関ヶ原の戦いの前に、重要書類をすべてまとめて長男に譲り渡していた
高野山に流罪となる昌幸と幸村
信之は、真田家当主として上田城に入る
家康「百万石を与えるから、昌幸と幸村の首をはねて持ってまいれ」
信之「百万石は辞退します 父を売って自分だけが豊かになり出世するなど
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信之が懇願し、家康は流罪のままとする
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大坂の陣
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幸村は享年49歳で死去
信之は「大坂の陣」後、幕府から
「信之が戦の最中、幸村と通じて、徳川軍の動きを伝え、援軍を送ったのでは?」と詰問を受けるが
信之「関ヶ原で父と弟と決別してまで、家康殿に忠誠を尽くしたのに、今さら反逆するわけがない
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真田家は幕府から「領地替え」を命じられ、上田から松代に移る 栄転に見せかけた左遷だった
その頃、松代は、天災、大飢饉が続いて、土地を捨てる人が続出
信之は、自ら土地を視察し、年貢を免除し、新田開発を行う
藩主をとっくに引退する年齢になっても現役で働き続けた
「戦国の争乱が終わってからも、戦わないで自分の領地を維持した」
関ヶ原から50年、家康、家光も死に、4代将軍・家綱になっても、
信之はまだ藩主を務めていた 92歳の藩主は最高齢
数少ない戦国の世を知る手本として尊敬の的となり、家綱の相談役にもなる
(かざりって悪い意味じゃなく、尊敬の意味なのね
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松代に残る歴史
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(象山記念館を観た時、これも観た!
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家臣の子孫に残された宝
信之は父を偲び、この椀で酒を飲んだ