■『異郷変化』眉村卓/著(角川文庫)
眉村卓/著 カバー/木村光佑(昭和51年初版 昭和58年9版)
※「作家別」カテゴリーに追加しました。
[カバー裏のあらすじ]
旅先での思いがけない出会い。それは人の心に深く刻み込まれ、いつしか美しい思い出として形づくられる・・・。
が、このいくつかの物語の出会いはみな、普通の出会いとは異なっていた。
なぜか女たちは不思議な魅力をたたえ、彼女らに会った男たちはその瞬間から
妖気あふれる幻想世界へと引きずり込まれてしまう。
あなたにもいつか、こんな出会いに恵まれる日が来る・・・。
眉村卓が、叙情豊かに描く、妖奇幻想の物語集!
それぞれの土地での旅情、そこで会う奇妙な女たち
今となっては、電車オタクな人にも面白く読めるんじゃないだろうか
電車オタクでなくても、私には馴染みのない場所を一緒に巡っているような感覚になる
解説にもある通り、本書は“SF”とは言い難い 旅ものの小説
そして、長い旅の最後は、優しい気持ちで終わらせてくれる
眉村さんの優しさと、どこまでも緻密な全体の構成がうかがえる
私は、京都、奈良は、修学旅行で、大阪は友だちと『るるぶ』みたいな雑誌そのままの観光でしか行ったことがない
こうした、ゆるい旅ができるってこと自体、とても豊かなことだ
本書の登場人物はみな出張などで立ち寄った設定だけれども
一度、何もプランのない旅ってやつをしてみたいと憧れる
郷里から離れて暮らしている自分にとってはどこも異郷だけれども
学生時代に読んだ中では、本書は記憶が薄いほうだったが、
今読むと、どの一篇一篇も、サラリーをもらって生きる人間の悲哀が
いちいち突き刺さる気がした
▼あらすじ(ネタバレ注意
「須磨の女」
大学の助教授をしている栗田はひかり号に乗り、神戸の須磨に向かう
幼い頃から画家になりたかったが、
結局“安全で地道な”コースをたどり、結婚し、子どもができ
30代半ばになり、次第にやりきれなくなってきた
一生というのは、こんなものでいいのか
もっと自由に生きたいように生きては、なぜいけないのか
仲間内で道楽半分にマンガを描くようになり、気づくとテレビやラジオの世界に入っていた
周りから若くなったなどと言われ、自分でも20代のエネルギーを取り戻しかけているのではないかと思う
今回の話を持ち込んだきっかけは、大学時代の友人の男で
須磨にあるラジオ兵庫という局で時々喋っていて栗田を紹介したのだ
ホームを出ると海が見えて、立ち寄りたい気持ちを抑えて局に向かう
フリーのアナウンサーは林野ミカという21かそこらのよく透る声の女性
アナウンサーは皆素晴らしい肉声をもっているとは限らない
要は、声がマイクによく乗るかどうかが問題だ
「私、ここ以外の局で、仕事する気はないんです」
ミカは栗田のことをよく調べていた 普通はこうはいかない
いい加減にやっつけるか、ひどいPR誌などは、どういうものを書いているのかと質問する奴もいる
「須磨駅から海が見えて、しばらく海を眺めようと思ったけど時間がなくてね」
「よろしかったら、一度、須磨をご案内しましょうか?」
番組は無事終わり、ミカと再来週会う約束をした
「今日みたいに寒い日に、海を眺めるなんて、そういう人、私好きです」
番組スタッフの井出はなにか言いかけてやめた
ミカは地理や歴史に詳しく、離宮道の松風・村雨の墓について由来を話した
2人はロープウェイで鉢伏山、回転展望台に行く
「須磨には、まだ木の精や草の精がいっぱい生きているのよ
そんな精が、時々いたずらをして人間を引っ張り込むんだわ」
安徳宮まで来て、アパートがここから近いと聞き、ためらいつつも送ると言うとミカは断った
栗田は衝動的にミカとキスをすると、どこからか樹肌の香がした
1分待ってと言われて待ち、振り向くともうミカは消えていた
翌日、大阪に戻るタクシーの中でふと声が聴きたくなり、ラジオ兵庫にしてもらうと
ミカは具合が悪くて休みだといって、別のアナウンサーが喋っていた
次の収録まで待って、局に駆け込むと、井出が
「先生、リンちゃんとキスなさったんじゃありませんか?
いや文句をつけるわけじゃないんです
彼女は、男性と交渉をもつと声が出なくなってしまうんです
キスでさえ、丸一日以上声が枯れてしまうんです
もっと妙なことがあって・・・彼女が人間かどうかさえ分からない 誰も本当の歳を知らないし
うちのアナウンサーがとあるスナックで見つけて、出てもらったのが2年前で
局の中には熱をあげた者もいて、家をつきとめようとしたけど分からない
安徳宮の廃墟の屋敷に入ったきり出てこなかったそうです
彼女は・・・木か森の・・・精ですよ 局内ではそう信じるようになっています」
次の収録 栗田の気持ちがどうにも整理がつかないまま、ミカはいつもの透明な調子で喋っていた
「奥飛騨の女」
目を覚ますと岐阜のホテルにいた
安倍はそんな長期地方出張に慣れていた
ホテルのバスは、最近流行りのユニット式で若い頃ならともかく、今の安倍には気に入らない
(ユニットバスって、そんな昔からあったんだ/驚
今日の夕方には富山に行かなければならない 高山本線を利用するつもりだ
高山本線はこれで2度目 彼は恐れていた通り、影にも似た不安がわきあがるのを覚えた
勤め始めて2、3年目は出張の帰りに旅行してやろうと企みを抱いたものだった
行き先は、飛騨の高山 小京都の1つで有名だ
東京の人などは、簡単に関西というが、ひと言でくくれるほど単純ではない
大まかに分けても、京都、大阪、神戸、奈良には奈良特有の気風がはっきり残っている
ある評論家が東京はアメリカで、関西はヨーロッパと言っていた
つまり、あらゆるものをごった煮にして、植民地文化から、巨大な文化圏を作るのがアメリカ
関西は、各地域がそれぞれ伝統を背負い、他と対立したり、協力しながら、文化圏を形成している
安倍は大阪の人間で、大阪の人間は、なぜか京都より奈良を愛する者が多い
京都人に会うたび、王城の文化を持っている
大阪など、腹がふくれることだけ考えている集団だといわれるせいかもしれない
だが、京都に惹かれないかというと嘘になる
その女は、美濃太田から乗ってきた
滅多にない美人で、自分の斜め前に座った時はしめたと思った
独身者の自分に話相手ができれば悪くない
この女のような、どこか寂しげな眸に、若い男はよくひっかかるものなのだ
待て 自分でも滑稽と思いながら、なんとか相手のアラを探そうとしてみた
美女でも、ものを言うと下卑たムードを漂わせたりする
美女は一般的にうりざね顔というが、この女はむしろ丸顔だ
女のバッグが転がり落ち、拾ったことから会話が始まった
奥飛騨にある平湯温泉に帰るという
そこに中年男が座ってきた まさに世俗を代表するような存在だった
鼻に眼鏡を乗せて、ずんぐりした小肥りの、いかにもオレは世故に長けているという顔で
くたびれたダークスーツ、仕事なら目の色を変える癖に、
人間として大切なことは何ひとつ理解しようとしない課長や係長の典型だ
こんな手合いには休日も関係ない 仕事からしかものを見られないのに違いない
女「よかったら、私が高山を案内してあげるけど」
中年男「近頃の若い人は結構ですなあ すぐに簡単に旅行に出られる 気楽なもんです」
この男は、はじめから女に話しかけるつもりだったのだ
女はまるでこの中年男がいないような様子で、春川マユミと名乗り、積極的に安倍を誘う
中年男「この頃の若い連中には、呆れてものが言えんわい」
安倍とマユミは駅を降り、国分寺へ向かう マユミは史跡について詳細に説明した
上三之町は、古い家並みがつづく
安倍が考え事をしていても、急かすマユミが少々うるさくなってきた
「僕は、自分のペースで高山を見て回りたいんだ!」
高山陣屋に着き、マユミは素直に謝った
「今日はこのくらいにして、私と一緒に、平湯温泉で泊まって、
明日、奥飛騨に行くのも悪くないんじゃないかしら」
安倍は、あまりにどんどん女ペースで話が進み、少し狼狽していた
マユミは自分に気があるのか?
迷った末、「そうするか」と言うとマユミはにっこりした
その笑顔は、お多福型というより、般若型の笑みだと脳裏をかすめた
15時のバスに間に合わず、次のバスは16時半発 平湯までは1時間半ある
マユミを見ると、はっきり痩せて、声も話し疲れたのかしわがれている
「どこか喫茶店でも行かない?」
照明の乏しい喫茶店に入り、気分がよくないとハンカチを口にあてたままバスに乗った
「もう着くよ」
マユミの顔のハンカチが落ちた そこにあるのは、人間の顔ですらない メガネザルなのだ
しかも、刻々と変貌し、皺はますます多くなり、誰かが「停めろ!」とわめくのも聞こえていたが
バスはそのままスピードをあげて、平湯温泉のバスセンターに着いた
その異様なものは、恐ろしい力で安倍を引っ張って、どこかへ連れて行こうとする
「平湯の大滝よ やっとうまく連れて来たのに、離してたまるものか」
「助けてくれえ!」
気づくと誰かに抱えられていた バスの運転手だった
「もういないよ あんたは助かったんだ
平湯の大滝で死んだ女の幽霊だ 何年か前、若い女の白骨死体が発見された
大学院生と事情があって結婚できず、心中をはかったが、男は死にきれず逃げ出した
だが、逃げた男は、死体のあった辺りで首を絞められて死んでいた
それ以来、何人もの男がここへ連れてこられ、とり殺されるようになった
中には助かった人もいて、朝早いうちは美人で、だんだん容色が衰えて、
夜になると消えてしまう いつも若い男ばかりなんですよ」
安倍は思い出から現実にたち返ると、美濃太田からマユミが乗ってきた
女の目が自分に向けられないように、同時に自分を認めてくれないだろうかという矛盾した思いがわきあがった
彼女の視線は安倍を通り過ぎて、一人で座っている青年でとまり、前の席に座った
そうなのだ 今の自分は、あの時の無視された中年男なのだった
あの頃は若かったのだなと、胸のうちで反芻した
「風花の湖西線」
小説の締め切りまではまだ4日ある 明日は高校の同窓会だった
曇りがちの寒い日で、古川は地下鉄に向かった
どこでもいい、自分に何か新しいものを与えてくれそうな土地
ここ1ヶ月ほど、ものを書く気がまるで出てこない
10年も書いて、内部の何かが燃え尽きたのか それともただのスランプなのか?
途中で女子高校生たちが賑やかに乗ってきた 乙女とはこういうものじゃない
彼は、近頃よくいう、いわゆるセーラー服願望はない
セーラー服に夢を抱くのは、旧制中学の体験のある人間だ
男女が厳重に区別された連中にはひとつの憧憬なのだろう
はじめから男女共学だった古川の年代には、セーラー服は教師の背広と同じで、なんら神秘的なものではない
乙女とは、この連中のようにきゃあきゃあ叫ぶのではなく、己を抑えることを知っていた
あの頃の高校 そういえば、あの頃こそ、自分が一番書けた時代ではなかったか?
あの文芸部には、石原直美がいた
彼は結局なにも告白できず、卒業以来会ってもいない
高校時代への回帰 湖西へ行こう
一度、堅田で下車して、昔行った浮御堂で、その後どうするか考えればいい
湖西線で行くのは初めてだ タクシーで浮御堂に向かった
そこはそのままだった! 青春の象徴に感じた場所が依然として存在しているのが信じられない
ひとりの女が欄干にもたれている 振り向いて「古川さん? 作家の」
その顔は、あの石原直美にあまりに似ていた
「もし、よかったら、お供させてくれません? もっといろいろ話したいんです」
浮御堂に空車は来ないと知り、女に言われて堅田まで数十分歩くことにした
彼女は、古川の書いたものだけでなく、経歴なども詳しい 熱心なファンだろうか
小夜子と名乗り、本当の名ではないかもしれないが、そういうことにしておこう
堅田に着くと「近江舞子はどうかしら もうすぐ列車が出ます」
小夜子がお供するといったのは、もっと先までついて行く意味だったのか
風花は依然としてつづいている
「車庫の灯の届く限りを雪降れり・・・か」
自分の高校時代の句を口ずさむと、小夜子は「私は限りなく、のほうが好きです」と言う
「“風花して、、、君とことなる記憶あり”もあったでしょう?」
どこにも発表した覚えのない句だ ひょっとすると彼女は石原直美の娘ではないか?
「そう思う?」と彼女はいたずらにはぐらかす
こちらに向けた顔は、直美の娘ではなく、直美そのものだった
雄松崎湖岸 高二の遠足の時、直美と2人きりで並んで立っていたことを覚えている
その時も何も言えなかった
「どうして? なぜ、あの時、ご自分の気持ちを言わなかったの?
私、あなたの気持ち、分かっていたのよ
でも、そのほうがあなたらしいのかもしれない あなたは・・・文章で表現すればいい」
「そうかな」
「そういうあなたのほうが、私は好き」
雪は激しくなり、
「私、帰らなければならないの 近江今津から、船で
あなたは、書きたいものを書く、それでいいのよ」
船は桟橋を離れ、出航の銅鑼もなく、雪に包み込まれた
「おい、あんた 困るな その札が見えないのか?」と男から声をかけられた
桟橋と切符売り場の間にはチェーンがあり、掲示板には“運休中”とある
たしか、この季節は船のあらかたは運航していないはずだ
あれは幻だったのか だが、直美が残してくれた意欲はちゃんとあった
すぐに大阪の自宅へ帰ろう なんだか無性に書きたかった
なにかに憑かれたように書き、そのまま同窓会に行った
万一、直美が来るのではと思ったのだ
そして、直美は来ていた あでやかな女になって、ひと言でいえば濃艶だ
「もう、お互い40ですのよ 私なんかすっかりおばあちゃんになってしまって」
「とんでもない 前よりずっとおきれいです」
直美は結婚し、中一と小学4年の男の子がいると話した
あの彼女は、彼の心が生み出したものだった
できるだけ早く抜けて帰宅し、また仕事にかかろう
彼は丁寧に頭を下げると、他の旧友のところへ歩を移した
「空から来た女」
溝口はVTR撮りを終えると、フロアディレクターの浜がやってきた
「ま、あんなもんやないですか? それに、もう予定のフェリーまで時間もないこっちゃし」
これからスタッフ一同で淡路島へ一泊旅行に行くのを失念していた
シナリオライターでUFOマニアの一ノ瀬とともにぎりぎりにフェリーに乗り、福良へと向かう
浜は、先発隊の中にいるアルバイトの女の子といい仲で、向こうで適当にやる魂胆だ
タクシーの中で溝口はビールをあおった
仕事は仕事 仕事がない時は、飲むだけ飲んで酔っ払う
ゆうべまでのことはスカっと忘れるようにするのが一番いい方法なのだ
淡路島にUFOが頻繁に見られるという話になった
一ノ瀬:
UFO研究家の多くがまだ実物を目撃していない
それはUFOらしいものを見ても、誤認と疑う習性があり
おおかたが誤認だと断定するせいだ
フェリーが大磯に着く頃には、溝口はかなり酔っていた
タクシーから空を見ると、オレンジ色の光るものがクルマの上空で、同じ速度で飛んでいる
あれはいわゆるUFOじゃないのか?!
一ノ瀬を起こすと「あれは月だ 大気の加減であんな色に見えるだけだ」とまた眠ってしまった
ふいに運転手が
「あれは、たしかにUFOですよ 僕は先週も見たんだから
この1、2週間、たくさんが見ている 着陸するのを見たとか、円盤に乗った宇宙人と話したという奴さえいる
知り合いの話じゃ、人間のテレパシーに応じて飛んでくるそうです
うまくいけば、宇宙人が会ってくれるってことです」
酔った溝口は「円盤様、どうか降りてきてください 美人の宇宙人、私めとデートしてください」と言うと
運転手は「やっぱり怖いからやめてください」
民宿に着くと、3人の時計が止まっていることに気づく
一ノ瀬がUFOが出現すると、時計が止まるのは典型だと言い、寝ぼけていたことを悔やんだ
(『X-FILES』でもそういうシーンがあるよ
民宿で食事をしていると、溝口を女が見知らぬ訪ねてきた 上下ジーンズの若い女だ
「私、来ちゃった 来てくれ、デートしてくれって言ったでしょ?」
この女、さっきの運転手と知り合いなのではないか
そして、からかって、2人で後で笑うつもりなのだ
化けの皮を剥いでやる というより、彼は女に魅力を感じはじめていた
ミチヨと名乗る女は「私、空から来たの あなたたちがUFOと呼ぶ宇宙船から」と言い、
同僚は笑い出した
「やっぱり、すぐには信じてくれないのね なら明日来るわ」
なぜあの女は、運転手には言わなかった自分の名前を知っているのだ?
翌朝 朝食後は自由解散になっている
普段、マイカーを持たぬ主義を唱えていた手前から、溝口は同乗を断り、
タクシーかバスでのんびり帰るほうが気分がいいのではという気でいた
宿屋でぎりぎりまでごろ寝して、外に出るとミチヨがいた
この女は、自分を宇宙人だと信じているのだ あまり構わないほうがいい
「私、前からこの島を見物したいと思っていたんだ
あなたが呼んでくれてよかった これなら、自分の任務を果たしながら見物できるもん」
2人は八幡宮に着いた 説明を求められるが、言われてみると、正確な説明ができない
溝口は、いっそこっちもデートのつもりで遊んだらいいという気になり始めていた
バスセンンターに着き、本来の予定では、ここからバスで洲本へ出て、船で本州に戻るつもりだった
「あんたの家、どこなんだ? 遠くなるんじゃないのか?」
「私の船はどこでも迎えに来るわよ 原始的な交通機関で少し遠くへ行ったってたかが知れてるわ」
洲本に着き
「どこかで食事にしないか?」
「私食べないわ でも、あなたが食べるのには興味あるけど」
中華料理店に入り、中華ランチを頼むと、女は顔色を変えて、口を押えて外へ走り出た
「あれ、動物の原型が残っていたんだもん 私、とても・・・」と脅えている
(『アミ小さな宇宙人』(徳間書店)と同じだ
「もう、そろそろ帰らなくちゃ でも、ここじゃ宇宙船が着陸するスペースがないからもっと広い所へ連れて行って」
洲本港に行くと
「あなた、やっぱり信じてなかったでしょ? テレパシーで分かるのよ
宇宙には2000億もの恒星がある 中には太陽と似たものも随分多い
ここの人間たちと同じような生物が発達するのも、1万、2万じゃきかない
私の任務は、人間をひとり連れて行くことだったの
心の中に私たちに対する好奇心や接触欲を持っている人をテレパシーで探すの
私たちと協力して、あなた方の世界をもっといいものにするための学習をしてもらう
活動を始めている者も少なくないわ
ただ、そのためには、それまでの生活や知人を捨てて、まったく別の人間として生きることになるけど・・・
あなたは行きやしないわ あなたはこの世界にあまりにとらわれ過ぎているものね」
円盤は2人以外には見えないという ミチヨはもう一度確認するが「やはりダメね」
女は腕を伸ばすと、引かれるように飛行体に瞬間移動し、姿は消えた
「あんた、大丈夫か? タクシーから1人で降りて、随分長いこと一人でぶつぶつ言ってたが」
と声をかけられて、溝口は適当に誤魔化した
“あなたはこの世界にあまりにとらわれ過ぎている”と言われたことがしきりに甦る
そうなのか? 傾いた陽が、彼の長い影を映し出していた
(マンガ『恐怖新聞』にもこういう少女が出てくる
私なら、即答で連れてってもらいたいけどなあ!
「中之島の女」
昔、大阪の広告代理店に勤めていた竹原は、イラストレーター四人展を見て、
やはり東京から来た藤崎とともに馴染みのスナックへ流れた
藤崎が「夜の大阪を歩いてみたい 中之島はどうなんだ?」と言い出した
大阪に住んでいる(いた)人間で、中之島を知らない者はまずいない
かつて天下の台所といわれた大阪の中心部で
今では大阪最古の公園としてビジネス街で働く人々の憩いの場にもなっている
竹原が住んでいたのはもう何年も前の独身の頃だ
中之島も随分変わったが、今の自分に喪われた何かが戻るかもしれないと行く気になった
竹原は途中で道を間違えた あの万国博を境に新御堂筋が作られたのだ
無意識に勘に頼って歩くと、かつて頭にある地図で動いてしまった
職業柄、2人ともくたびれたサファリルックで、藤崎は無精ひげをぼうぼう生やしている
こんな風に深夜、フリーのイラストレーターとしてここに来ることをあの頃の自分は想像しただろうか?
それは淡い勝利感と、手の届かなくなった青春時代への希求の入り混じった感覚だった
昔気質の父に、夢みたいなことが簡単に実現するものかとののしられ、
大学に行くなら、法科か経済にしろと強要されて、法科に入ったが
実際にはスケッチをしたり、美術館に行くほうが多かった
そんな自分が、就職試験でうまくいくはずもなく、勤めながら絵を描きつづけ
広告代理店に嘱託デザイナーとして採用された
立場が変わると、人を見る目まで変わるフシギな体験がはじまった
デザインやコピーをやってる人々は、あたかも自由の世界をはばたいていると感じられた
毎朝9時に出社しなければならない時、仕事さえちゃんとやれば、
いつでもひょいと喫茶店や展覧会を見に行く広告代理店の連中はたしかに生きていると思った
それが、自分が広告代理店に籍を置くと、何もかも変わった
1、2年経つと、決して仕事の実績と対応などせず、そこそこの扱いを受けていると悟り、幻滅した
だが、人はサラリーのために働くのが常識だ
分かっていても、どう抑えても、自分の一生がこんなものではないという自負が頭をもたげる
バイトでいくつかイラストを描き、それが定期収入になった時、彼は嘱託契約を解除した
今もそう楽ではない 仕事を失っても、泣きつくところはないのだ
それでも、今の仕事が自分に合っていると信じていた
もうビジネスマンの世界は異郷で、もう二度と還る気のない世界なのだ
そして、ビジネスマン時代の中之島だ
嘱託の頃は、広告という虚業の世界の一員で、メーカーやOLにある種の違和感を抱いていた
今は中之島は、個人で来るところなのだ どこかの、誰かと一緒の、その一員として来るのではない
自分はもう中之島の一員ではないのではないか、という恐れがたしかに存在していた
中之島には4つの建物―日銀大阪支店、市庁舎、府立図書館、中央公会堂のある緑地帯がある
中央公会堂は、株で大儲けした大阪の一市民の寄附で建てられたが、
5年後、竣工した時には、相場で大失敗して、ピストル自殺をしたという話を聞いた
しばらく行くと、藤崎の声が震えている
「ここに来た時から、入ってはいけない領域をおかして監視されているような気がして・・・
ここは、企業などの組織のメンバーのものなんだ オレたちのような一匹狼のいられる場所ではないんだ」
ベンチに女がうつむいて座っている どこかの会社の制服を着たOLだ
ひとりではない 7、8人のOLが昼休みにやるようにバレーをしている
ハイヒールの硬質の響きがカチ、カチ、カチと響き、OLが一列横隊になり、両手を広げて接近してくる
2人は全力疾走で逃げたが、中之島よりもっと深いどこかへ陥ちこんだ雰囲気がある
御堂筋に出れば、人はいないが、クルマがたくさん通っているはずだ
藤崎:
俺は丸の内で何度か感じたことがある 昼間歩いていても疎外されている気がする
大きなビルになるともっと威圧的だ ここがもっと気味悪いのは、ここはビジネス街だろう?
いくら歩いても見知ったビルが1つもない
藤崎:俺たちは罠にはめられたんだ
女の笑い声がして、突然やんだ そしてまたハイヒールの靴音
両手を広げ、道いっぱいになって進んでくる
アイラインをし、唇を塗り、完全に無表情で寄って来る
「やっつけろ!」
竹原は暴れ、藤崎とはぐれ、クルマが一台もない大通りを突っ走った
体力は尽き果て、やがて意識を失った
病院で気がつき、救急車で運ばれた時、滅茶苦茶に暴れていたという
「酔っ払って、クルマの往来する夜道をわめきながら走って
クルマに自分からぶつかっていったんだ」と医師
藤崎は、はぐれてから大通りに出て、タクシーをつかまえ、ホテルにたどり着いた
ハイヒールを手につかんでいたという
「あの化け物たちは、我々を容れない世界のシンボルとして出現したんだ
ならず者として処刑されるところだったと信じる」
ハイヒールを見ると、一流企業の、給料のほとんどを自分のオシャレや遊びに使えるものだと気づいた
「銀河号の女」
大谷は東京駅から夜行列車で大阪へ行き、朝の会議に出なければならない
ゆうべは学校時代の友人と久々に会い、飲んで歌った
歌ったのは、戦後間もなく流行した歌謡曲と、軍歌だ
昭和一桁生まれは、ろくに音楽教育を受けず、ドレミではなくハニホで習ったため、たいていが音痴だ
軍歌を歌うと、若い連中はしらけるが、それが面白いので余計に大声を上げて高唱したのだ
東名・名神を走るドリーム号なるバスもあるが、午後10時半に出て、午前8時過ぎに大阪に着く
リクライニングシートだと言っても、足を伸ばせないひどい代物で、一度乗って懲りてしまった
(今とあんまり変わらないな
寝台急行銀河のA寝台がなくなり、B寝台しかとれないと聞いてガッカリした
夜行列車には、本当に旅をしているのだというムードがある
ろくに金もなく、立ったままで旅行した時代を思い出させた
A寝台の下段は窓があり、外の景色が見える
そのA寝台がなくなったとなれば、銀河を利用するのもこれが最後かもしれない
2号車に乗ると、喪服を着て、遺骨を抱いた女3人がこちらを見ている
それは、国民学校の学童の頃見た、戦死した家族の列を思い出させた
戦争が終わって30年以上もたったのに、なぜ?
午前2時頃に目が覚め、ノドが乾き、空腹を感じた
近頃は、夜行列車で駅弁を買おうと思っても、駅弁売りがいないことも多い
トイレに行こうとすると、また3人の女が同じように立ってこちらを見ている
空腹感は増して、駅弁と紙コップに入った生ビールを買って、デッキ寄りにある出っ張りに座って食べ始めた
彼には、弁当の食べ方に流儀を持っている
ご飯とおかずを同じ量食べて、包んであった紐でちゃんとくくる
生まれた時から「ものを大切にしろ」と言われ続け、物質も少なかった時代の反映だ
だから逆に、物資が氾濫し、高度経済成長が謳歌されると、復讐するようにやたらに消費しながらも
これでいいのかと疑問に思い、昨今の資源の保護活用の声が大きくなると、やっぱりそうだと自信を持ちだす矛盾
その矛盾にも居直って、安心さえしている面がある
ふと見ると、目の前にまたあの3人の女がいて、じっとこちらを見ていた
女が一番美しいのは喪服を着ている時だという古典的な文句を、彼も信奉している一人だが
それどころではない それに夜行の寝台は暑すぎるくらいが普通なのに、寒いのだ
女が喋った 「それ、私が捨ててきましょう」と空の弁当箱をゴミ箱に捨てた
「お食事も済まれたようですし、少しあなたとお話がしたいのですが」
白布に包まれた箱に目を向け
「これは・・・わたしの息子です」
「これは、わたしの弟です」
「これは、わたしの夫ですわ みんなお国のために戦って、戦死しました」
最年長の女が言った「あなた、戦争をご存知?」
「私は、国民学校へ行っていましたし・・・集団疎開はしましたが」
「あなたは、戦っていない 死んでもいない それで、あんなに立派な弁当を食べていらっしゃる
いい服を着て、豊かな暮らしをしていますね
そして、酒場へ行き、軍歌を歌いました 自分たちは知っているのだから歌うのだとも言いました」
「座興ですか? 軍歌の影に死んでいった人がたくさんいたことを考えなかったのですか?
あなたは戦争を知っているつもりでしょう その気持ちが軍歌に対して安易な懐かしさになるのでしょう?」
♪わが大君に・・・召されたる・・・生命光栄ある朝ぼらけ・・・讃えて送る・・・一億の・・・
「私たちには、いつまでも戦争は終わらないのです」
「私の夫に、あなたが食べているようなものを食べさせたかった」
「私の弟に、あなたが着ているようなものを着せてやりたかった」
「私の息子に、あなたの年になるまで生きさせてやりたかった」
彼は立ちつくし、凍死するのではないかという不安がかすめた
走り出し、ベッドに這い上がり、温かくなって眠ろうとした
車内アナウンスで目が覚めた 寝台の使用は午前7時までだ
今ならあの女たちのいるところを覗くことも出来そうだ
彼は三段の寝台の1つ1つを覗いていったが人の気配はない
車掌に「このあたりにいたお客さんは、もう降りられたのですか?」
車掌「この2号車は、お客さんだけでしたよ」
3人の顔を思い出そうとしたが、ただの印象だけしか残っていない
戻ろうとして、弁当の空き箱を蹴飛ばした 女が捨ててくれた自分の弁当箱だった
幻覚を見たのだろうか?
彼自身、戦争への批判をやっている時、心に後ろめたさがあるのを感じる
それゆえ、彼より若い人々に対して、威丈高になるのかもしれない
所詮、自分たちはサンドウィッチの中味なのだ
持つべきものを持たない、さりとてろくに楽しむことも知らない哀れな年代なのかもしれない
間もなく、大津である
「砂丘の女」
石田は大阪から伊豆空港に向かった これから鳥取に赴くのだ
3ヶ月ばかり前にできた鳥取営業所に行き、飛躍的に伸びそうもない様子を探るのが目的だった
鳥取営業所長の柿本は、石田と同年入社組みで、新入社員時代はよく飲み明かした仲だった
柿本は鳥取出身で、英断な人事だが、本社の人間にとっては、やはり都落ちに違いない
石田個人としては、新規開拓が必要なところへ行く人間こそ、第一級の人材で優遇されてしかるべきと思うが
東京デスク工業は、社歴の古さからますます保守的になり、事務も官僚的になり、
だから新興メーカーに次々先手をとられて伸び悩んでいるのではないか
もうそんなこともどうでもいい
いつも緊張し、全力投球をするには、自分は疲れている
来年のはじめにはもう40歳になってしまうのである
それを考えると、つい、気が滅入るのだった
仕事ばかりしているうちに失われていったものを感じる
それまでに、かっと心が燃え立つような何かがあってもいいのではないか?
(やたら、30、40歳を悪く言うのは、今より昔のほうがより年齢に対して、老いが早く感じられたせいなのかな?
まあ、今でも10代から「もう、私、おばちゃんだから」なんていうコもいるけど
事務所に着くと、柿本が想像よりずっと屈託のない調子なので気が楽になった
柿本:ここでは、冗費節約、一に実戦、二に実戦を徹底して、足まめに回るほかないんだ
会議が終わったのは夜の7時過ぎ
柿本の手配した森旅館は、鳥取砂丘のすぐ手前だった
2人は街中の店に入った
話すことは自然と会議の話題になった
石田は、全員が組織として動くやり方を列挙するが、柿本の反応は鈍い
「彼らはみな、この土地の人間だ この俺も あんたらよりはこの土地を知っている
あんた、我々よりよく知ってるのか?
ここには、すでにもう他社の製品が、がっちり根をおろしている
後から来たわが社のものに切り替えさせるには、個人的な関係から割り込まなきゃならない
ここは東京じゃない 華々しいポスターや、チャチなオマケ、あんたらのやり方で
昨日までの関係をあっさり切り捨てる客がゴロゴロしてるわけじゃないんだ!」
(ヤバイ・・・チャチなオマケに釣られちゃってるよ
柿本:
明日、あさっては休みだろ 店のコが言ったように、砂丘、白兎海岸、湖山池を回ってみろよ
鳥取は初めてなんだろ? 仕事さえ済ませれば、さっさと帰るその神経が、俺にはやりきれないんだ
なぜもっと、その土地のことを知ろうと努力しない?
1日歩いて、何も感じなかったら、あんたには、心の優しさがもうなくなっている そういうことだ
あんた、店のコがコミュニケーションの糸口を与えてくれたのに、つながろうともしなかった
あんたらはいつも、己の流儀を押しつけ、それ以外を認めようとしないんだ
もう40なんだぜ 頭だけで生きていくのは、貧しい人生だと俺は思う
旅館で目覚め、仲居から柿本からの手紙を受け取った
「1日、ゆっくり遊んで行ってほしい 資料を同封しておく」
明日の飛行機の切符がともに入っていた
石田は、店のコたちのコースを行ってみることにした
タクシー運転手は、東京のぶっきらぼうなのと違って、いろいろ説明してくれた
最初は「白兎海岸」「湖山池」
学生時代には何度かこうした旅をしたものだ
金はろくになかったが、若さにものをいわせて、出たとこまかせで、あちこち訪ねて回った
今は・・・彼はふいに自分が、周りの風物や、船客を素直な目で見ているのを悟った
柿本は、若い頃の感受性を思い出させるために、あんなにも見て回れとすすめたのではないか?
それはどこか、疲れきってぐっすりと眠ったあとの、平穏な目覚めに似ていた
砂丘に来たのは夕暮れになった
足を砂に踏み入れても、半分ぐらいずり落ちるほどの傾斜だが、妙に快い
のぼりきると、海が視界いっぱいに広がっている
我にかえると、すでに陽は沈み、ほとんど人がいない海岸に1人の女がしゃがんでいる
「ちょっと、足をくじいてしまって・・・もし、よかったら上まで連れて行って頂けません?」
上までのぼると体力はそこまでだった
すでに暗くなった沖には、漁船のあかりが浮かび、夢のような眺めだ
女は絹子と名乗り、彼が森旅館に泊まっていることを聞くと、急にいなくなった
別の道に分かれていったのだろう
旅館で眠ると、妙な幻覚にとらわれ、自分が寝ているのかどうか、分からなくなった
枕元に絹子が立っている 次は、横に彼女が寝ている
「わたし、来たわ」
自分が目覚めているのか、眠っているのか分からぬ、感覚の中に漂っていた
冷たい感触にハッキリ目が覚めると、少し湿った砂が横に盛り上がっている
どこか人間をかたどったようでもある
彼女は、砂の化身ではないのか?
彼女は彼に「優しい方ね」と言った
彼は袋にその砂を入れた これが彼女ならば、砂丘に帰すべきだ
砂丘の入り口に踏み込み、袋から落ちた砂は、前夜からの風でできた風紋の上へ吸い込まれていった
【小久保實 解説 内容抜粋メモ】
これらの土地はいずれも大阪から気軽に出かけられる所ばかりだ
土地の名前は想い出というイメージを喚びさましがちだ
プルーストの『失われた時を求めて』にも「土地の名」と題する1巻がある
フランスコミック版『失われた時を求めて 第1巻 コンブレー』(白夜書房)
フランスコミック版『失われた時を求めて 第2巻 花咲く乙女たちのかげに1』(白夜書房)
『まんがで読破 失われた時を求めて』(イースト・プレス)
柳田國男の名著『地名の研究』によれば、
「わが国の海岸を通覧するに、最も多き地名が三つある すなわち由良・女良および福良である」
「ほぼ祖先の生活根拠の故山を知ることを得」、その土地を訪ねれば
「その結果は我々の血の中に当然に遺伝しているべきわが祖先の生活趣味を自覚することとなる」
本書に出てくる女たちは、それぞれの土地の霊といっていいだろう
「中之島の女」では、大阪の象徴である島に2人の男は拒否されたのだ
本書に京都は完全に脱落している(ほんとだ/驚
すでに文庫の読者は、本書を読み、作者の違った表情を発見するかもしれない
想像力のはたらきというのは、日常性に切れ目を入れ、押しひらくことを意味する
眉村氏はある文章にこう書いている
「僕にはなんとなく、生活が豊かになり、変化していくのが
みんな揃って、どんどん何かを振り落としながら、
みんなこれで当たり前、これが現代、とうなずき合っている気がする」
その「何か」を凝視したのが本書だ
現在の眉村氏はとても良い顔だ
厳しさと優しさが自然に解け合っている
現代の人間が、取り落としたものを認識している顔だ
眉村卓/著 カバー/木村光佑(昭和51年初版 昭和58年9版)
※「作家別」カテゴリーに追加しました。
[カバー裏のあらすじ]
旅先での思いがけない出会い。それは人の心に深く刻み込まれ、いつしか美しい思い出として形づくられる・・・。
が、このいくつかの物語の出会いはみな、普通の出会いとは異なっていた。
なぜか女たちは不思議な魅力をたたえ、彼女らに会った男たちはその瞬間から
妖気あふれる幻想世界へと引きずり込まれてしまう。
あなたにもいつか、こんな出会いに恵まれる日が来る・・・。
眉村卓が、叙情豊かに描く、妖奇幻想の物語集!
それぞれの土地での旅情、そこで会う奇妙な女たち
今となっては、電車オタクな人にも面白く読めるんじゃないだろうか
電車オタクでなくても、私には馴染みのない場所を一緒に巡っているような感覚になる
解説にもある通り、本書は“SF”とは言い難い 旅ものの小説
そして、長い旅の最後は、優しい気持ちで終わらせてくれる
眉村さんの優しさと、どこまでも緻密な全体の構成がうかがえる
私は、京都、奈良は、修学旅行で、大阪は友だちと『るるぶ』みたいな雑誌そのままの観光でしか行ったことがない
こうした、ゆるい旅ができるってこと自体、とても豊かなことだ
本書の登場人物はみな出張などで立ち寄った設定だけれども
一度、何もプランのない旅ってやつをしてみたいと憧れる
郷里から離れて暮らしている自分にとってはどこも異郷だけれども
学生時代に読んだ中では、本書は記憶が薄いほうだったが、
今読むと、どの一篇一篇も、サラリーをもらって生きる人間の悲哀が
いちいち突き刺さる気がした
▼あらすじ(ネタバレ注意
「須磨の女」
大学の助教授をしている栗田はひかり号に乗り、神戸の須磨に向かう
幼い頃から画家になりたかったが、
結局“安全で地道な”コースをたどり、結婚し、子どもができ
30代半ばになり、次第にやりきれなくなってきた
一生というのは、こんなものでいいのか
もっと自由に生きたいように生きては、なぜいけないのか
仲間内で道楽半分にマンガを描くようになり、気づくとテレビやラジオの世界に入っていた
周りから若くなったなどと言われ、自分でも20代のエネルギーを取り戻しかけているのではないかと思う
今回の話を持ち込んだきっかけは、大学時代の友人の男で
須磨にあるラジオ兵庫という局で時々喋っていて栗田を紹介したのだ
ホームを出ると海が見えて、立ち寄りたい気持ちを抑えて局に向かう
フリーのアナウンサーは林野ミカという21かそこらのよく透る声の女性
アナウンサーは皆素晴らしい肉声をもっているとは限らない
要は、声がマイクによく乗るかどうかが問題だ
「私、ここ以外の局で、仕事する気はないんです」
ミカは栗田のことをよく調べていた 普通はこうはいかない
いい加減にやっつけるか、ひどいPR誌などは、どういうものを書いているのかと質問する奴もいる
「須磨駅から海が見えて、しばらく海を眺めようと思ったけど時間がなくてね」
「よろしかったら、一度、須磨をご案内しましょうか?」
番組は無事終わり、ミカと再来週会う約束をした
「今日みたいに寒い日に、海を眺めるなんて、そういう人、私好きです」
番組スタッフの井出はなにか言いかけてやめた
ミカは地理や歴史に詳しく、離宮道の松風・村雨の墓について由来を話した
2人はロープウェイで鉢伏山、回転展望台に行く
「須磨には、まだ木の精や草の精がいっぱい生きているのよ
そんな精が、時々いたずらをして人間を引っ張り込むんだわ」
安徳宮まで来て、アパートがここから近いと聞き、ためらいつつも送ると言うとミカは断った
栗田は衝動的にミカとキスをすると、どこからか樹肌の香がした
1分待ってと言われて待ち、振り向くともうミカは消えていた
翌日、大阪に戻るタクシーの中でふと声が聴きたくなり、ラジオ兵庫にしてもらうと
ミカは具合が悪くて休みだといって、別のアナウンサーが喋っていた
次の収録まで待って、局に駆け込むと、井出が
「先生、リンちゃんとキスなさったんじゃありませんか?
いや文句をつけるわけじゃないんです
彼女は、男性と交渉をもつと声が出なくなってしまうんです
キスでさえ、丸一日以上声が枯れてしまうんです
もっと妙なことがあって・・・彼女が人間かどうかさえ分からない 誰も本当の歳を知らないし
うちのアナウンサーがとあるスナックで見つけて、出てもらったのが2年前で
局の中には熱をあげた者もいて、家をつきとめようとしたけど分からない
安徳宮の廃墟の屋敷に入ったきり出てこなかったそうです
彼女は・・・木か森の・・・精ですよ 局内ではそう信じるようになっています」
次の収録 栗田の気持ちがどうにも整理がつかないまま、ミカはいつもの透明な調子で喋っていた
「奥飛騨の女」
目を覚ますと岐阜のホテルにいた
安倍はそんな長期地方出張に慣れていた
ホテルのバスは、最近流行りのユニット式で若い頃ならともかく、今の安倍には気に入らない
(ユニットバスって、そんな昔からあったんだ/驚
今日の夕方には富山に行かなければならない 高山本線を利用するつもりだ
高山本線はこれで2度目 彼は恐れていた通り、影にも似た不安がわきあがるのを覚えた
勤め始めて2、3年目は出張の帰りに旅行してやろうと企みを抱いたものだった
行き先は、飛騨の高山 小京都の1つで有名だ
東京の人などは、簡単に関西というが、ひと言でくくれるほど単純ではない
大まかに分けても、京都、大阪、神戸、奈良には奈良特有の気風がはっきり残っている
ある評論家が東京はアメリカで、関西はヨーロッパと言っていた
つまり、あらゆるものをごった煮にして、植民地文化から、巨大な文化圏を作るのがアメリカ
関西は、各地域がそれぞれ伝統を背負い、他と対立したり、協力しながら、文化圏を形成している
安倍は大阪の人間で、大阪の人間は、なぜか京都より奈良を愛する者が多い
京都人に会うたび、王城の文化を持っている
大阪など、腹がふくれることだけ考えている集団だといわれるせいかもしれない
だが、京都に惹かれないかというと嘘になる
その女は、美濃太田から乗ってきた
滅多にない美人で、自分の斜め前に座った時はしめたと思った
独身者の自分に話相手ができれば悪くない
この女のような、どこか寂しげな眸に、若い男はよくひっかかるものなのだ
待て 自分でも滑稽と思いながら、なんとか相手のアラを探そうとしてみた
美女でも、ものを言うと下卑たムードを漂わせたりする
美女は一般的にうりざね顔というが、この女はむしろ丸顔だ
女のバッグが転がり落ち、拾ったことから会話が始まった
奥飛騨にある平湯温泉に帰るという
そこに中年男が座ってきた まさに世俗を代表するような存在だった
鼻に眼鏡を乗せて、ずんぐりした小肥りの、いかにもオレは世故に長けているという顔で
くたびれたダークスーツ、仕事なら目の色を変える癖に、
人間として大切なことは何ひとつ理解しようとしない課長や係長の典型だ
こんな手合いには休日も関係ない 仕事からしかものを見られないのに違いない
女「よかったら、私が高山を案内してあげるけど」
中年男「近頃の若い人は結構ですなあ すぐに簡単に旅行に出られる 気楽なもんです」
この男は、はじめから女に話しかけるつもりだったのだ
女はまるでこの中年男がいないような様子で、春川マユミと名乗り、積極的に安倍を誘う
中年男「この頃の若い連中には、呆れてものが言えんわい」
安倍とマユミは駅を降り、国分寺へ向かう マユミは史跡について詳細に説明した
上三之町は、古い家並みがつづく
安倍が考え事をしていても、急かすマユミが少々うるさくなってきた
「僕は、自分のペースで高山を見て回りたいんだ!」
高山陣屋に着き、マユミは素直に謝った
「今日はこのくらいにして、私と一緒に、平湯温泉で泊まって、
明日、奥飛騨に行くのも悪くないんじゃないかしら」
安倍は、あまりにどんどん女ペースで話が進み、少し狼狽していた
マユミは自分に気があるのか?
迷った末、「そうするか」と言うとマユミはにっこりした
その笑顔は、お多福型というより、般若型の笑みだと脳裏をかすめた
15時のバスに間に合わず、次のバスは16時半発 平湯までは1時間半ある
マユミを見ると、はっきり痩せて、声も話し疲れたのかしわがれている
「どこか喫茶店でも行かない?」
照明の乏しい喫茶店に入り、気分がよくないとハンカチを口にあてたままバスに乗った
「もう着くよ」
マユミの顔のハンカチが落ちた そこにあるのは、人間の顔ですらない メガネザルなのだ
しかも、刻々と変貌し、皺はますます多くなり、誰かが「停めろ!」とわめくのも聞こえていたが
バスはそのままスピードをあげて、平湯温泉のバスセンターに着いた
その異様なものは、恐ろしい力で安倍を引っ張って、どこかへ連れて行こうとする
「平湯の大滝よ やっとうまく連れて来たのに、離してたまるものか」
「助けてくれえ!」
気づくと誰かに抱えられていた バスの運転手だった
「もういないよ あんたは助かったんだ
平湯の大滝で死んだ女の幽霊だ 何年か前、若い女の白骨死体が発見された
大学院生と事情があって結婚できず、心中をはかったが、男は死にきれず逃げ出した
だが、逃げた男は、死体のあった辺りで首を絞められて死んでいた
それ以来、何人もの男がここへ連れてこられ、とり殺されるようになった
中には助かった人もいて、朝早いうちは美人で、だんだん容色が衰えて、
夜になると消えてしまう いつも若い男ばかりなんですよ」
安倍は思い出から現実にたち返ると、美濃太田からマユミが乗ってきた
女の目が自分に向けられないように、同時に自分を認めてくれないだろうかという矛盾した思いがわきあがった
彼女の視線は安倍を通り過ぎて、一人で座っている青年でとまり、前の席に座った
そうなのだ 今の自分は、あの時の無視された中年男なのだった
あの頃は若かったのだなと、胸のうちで反芻した
「風花の湖西線」
小説の締め切りまではまだ4日ある 明日は高校の同窓会だった
曇りがちの寒い日で、古川は地下鉄に向かった
どこでもいい、自分に何か新しいものを与えてくれそうな土地
ここ1ヶ月ほど、ものを書く気がまるで出てこない
10年も書いて、内部の何かが燃え尽きたのか それともただのスランプなのか?
途中で女子高校生たちが賑やかに乗ってきた 乙女とはこういうものじゃない
彼は、近頃よくいう、いわゆるセーラー服願望はない
セーラー服に夢を抱くのは、旧制中学の体験のある人間だ
男女が厳重に区別された連中にはひとつの憧憬なのだろう
はじめから男女共学だった古川の年代には、セーラー服は教師の背広と同じで、なんら神秘的なものではない
乙女とは、この連中のようにきゃあきゃあ叫ぶのではなく、己を抑えることを知っていた
あの頃の高校 そういえば、あの頃こそ、自分が一番書けた時代ではなかったか?
あの文芸部には、石原直美がいた
彼は結局なにも告白できず、卒業以来会ってもいない
高校時代への回帰 湖西へ行こう
一度、堅田で下車して、昔行った浮御堂で、その後どうするか考えればいい
湖西線で行くのは初めてだ タクシーで浮御堂に向かった
そこはそのままだった! 青春の象徴に感じた場所が依然として存在しているのが信じられない
ひとりの女が欄干にもたれている 振り向いて「古川さん? 作家の」
その顔は、あの石原直美にあまりに似ていた
「もし、よかったら、お供させてくれません? もっといろいろ話したいんです」
浮御堂に空車は来ないと知り、女に言われて堅田まで数十分歩くことにした
彼女は、古川の書いたものだけでなく、経歴なども詳しい 熱心なファンだろうか
小夜子と名乗り、本当の名ではないかもしれないが、そういうことにしておこう
堅田に着くと「近江舞子はどうかしら もうすぐ列車が出ます」
小夜子がお供するといったのは、もっと先までついて行く意味だったのか
風花は依然としてつづいている
「車庫の灯の届く限りを雪降れり・・・か」
自分の高校時代の句を口ずさむと、小夜子は「私は限りなく、のほうが好きです」と言う
「“風花して、、、君とことなる記憶あり”もあったでしょう?」
どこにも発表した覚えのない句だ ひょっとすると彼女は石原直美の娘ではないか?
「そう思う?」と彼女はいたずらにはぐらかす
こちらに向けた顔は、直美の娘ではなく、直美そのものだった
雄松崎湖岸 高二の遠足の時、直美と2人きりで並んで立っていたことを覚えている
その時も何も言えなかった
「どうして? なぜ、あの時、ご自分の気持ちを言わなかったの?
私、あなたの気持ち、分かっていたのよ
でも、そのほうがあなたらしいのかもしれない あなたは・・・文章で表現すればいい」
「そうかな」
「そういうあなたのほうが、私は好き」
雪は激しくなり、
「私、帰らなければならないの 近江今津から、船で
あなたは、書きたいものを書く、それでいいのよ」
船は桟橋を離れ、出航の銅鑼もなく、雪に包み込まれた
「おい、あんた 困るな その札が見えないのか?」と男から声をかけられた
桟橋と切符売り場の間にはチェーンがあり、掲示板には“運休中”とある
たしか、この季節は船のあらかたは運航していないはずだ
あれは幻だったのか だが、直美が残してくれた意欲はちゃんとあった
すぐに大阪の自宅へ帰ろう なんだか無性に書きたかった
なにかに憑かれたように書き、そのまま同窓会に行った
万一、直美が来るのではと思ったのだ
そして、直美は来ていた あでやかな女になって、ひと言でいえば濃艶だ
「もう、お互い40ですのよ 私なんかすっかりおばあちゃんになってしまって」
「とんでもない 前よりずっとおきれいです」
直美は結婚し、中一と小学4年の男の子がいると話した
あの彼女は、彼の心が生み出したものだった
できるだけ早く抜けて帰宅し、また仕事にかかろう
彼は丁寧に頭を下げると、他の旧友のところへ歩を移した
「空から来た女」
溝口はVTR撮りを終えると、フロアディレクターの浜がやってきた
「ま、あんなもんやないですか? それに、もう予定のフェリーまで時間もないこっちゃし」
これからスタッフ一同で淡路島へ一泊旅行に行くのを失念していた
シナリオライターでUFOマニアの一ノ瀬とともにぎりぎりにフェリーに乗り、福良へと向かう
浜は、先発隊の中にいるアルバイトの女の子といい仲で、向こうで適当にやる魂胆だ
タクシーの中で溝口はビールをあおった
仕事は仕事 仕事がない時は、飲むだけ飲んで酔っ払う
ゆうべまでのことはスカっと忘れるようにするのが一番いい方法なのだ
淡路島にUFOが頻繁に見られるという話になった
一ノ瀬:
UFO研究家の多くがまだ実物を目撃していない
それはUFOらしいものを見ても、誤認と疑う習性があり
おおかたが誤認だと断定するせいだ
フェリーが大磯に着く頃には、溝口はかなり酔っていた
タクシーから空を見ると、オレンジ色の光るものがクルマの上空で、同じ速度で飛んでいる
あれはいわゆるUFOじゃないのか?!
一ノ瀬を起こすと「あれは月だ 大気の加減であんな色に見えるだけだ」とまた眠ってしまった
ふいに運転手が
「あれは、たしかにUFOですよ 僕は先週も見たんだから
この1、2週間、たくさんが見ている 着陸するのを見たとか、円盤に乗った宇宙人と話したという奴さえいる
知り合いの話じゃ、人間のテレパシーに応じて飛んでくるそうです
うまくいけば、宇宙人が会ってくれるってことです」
酔った溝口は「円盤様、どうか降りてきてください 美人の宇宙人、私めとデートしてください」と言うと
運転手は「やっぱり怖いからやめてください」
民宿に着くと、3人の時計が止まっていることに気づく
一ノ瀬がUFOが出現すると、時計が止まるのは典型だと言い、寝ぼけていたことを悔やんだ
(『X-FILES』でもそういうシーンがあるよ
民宿で食事をしていると、溝口を女が見知らぬ訪ねてきた 上下ジーンズの若い女だ
「私、来ちゃった 来てくれ、デートしてくれって言ったでしょ?」
この女、さっきの運転手と知り合いなのではないか
そして、からかって、2人で後で笑うつもりなのだ
化けの皮を剥いでやる というより、彼は女に魅力を感じはじめていた
ミチヨと名乗る女は「私、空から来たの あなたたちがUFOと呼ぶ宇宙船から」と言い、
同僚は笑い出した
「やっぱり、すぐには信じてくれないのね なら明日来るわ」
なぜあの女は、運転手には言わなかった自分の名前を知っているのだ?
翌朝 朝食後は自由解散になっている
普段、マイカーを持たぬ主義を唱えていた手前から、溝口は同乗を断り、
タクシーかバスでのんびり帰るほうが気分がいいのではという気でいた
宿屋でぎりぎりまでごろ寝して、外に出るとミチヨがいた
この女は、自分を宇宙人だと信じているのだ あまり構わないほうがいい
「私、前からこの島を見物したいと思っていたんだ
あなたが呼んでくれてよかった これなら、自分の任務を果たしながら見物できるもん」
2人は八幡宮に着いた 説明を求められるが、言われてみると、正確な説明ができない
溝口は、いっそこっちもデートのつもりで遊んだらいいという気になり始めていた
バスセンンターに着き、本来の予定では、ここからバスで洲本へ出て、船で本州に戻るつもりだった
「あんたの家、どこなんだ? 遠くなるんじゃないのか?」
「私の船はどこでも迎えに来るわよ 原始的な交通機関で少し遠くへ行ったってたかが知れてるわ」
洲本に着き
「どこかで食事にしないか?」
「私食べないわ でも、あなたが食べるのには興味あるけど」
中華料理店に入り、中華ランチを頼むと、女は顔色を変えて、口を押えて外へ走り出た
「あれ、動物の原型が残っていたんだもん 私、とても・・・」と脅えている
(『アミ小さな宇宙人』(徳間書店)と同じだ
「もう、そろそろ帰らなくちゃ でも、ここじゃ宇宙船が着陸するスペースがないからもっと広い所へ連れて行って」
洲本港に行くと
「あなた、やっぱり信じてなかったでしょ? テレパシーで分かるのよ
宇宙には2000億もの恒星がある 中には太陽と似たものも随分多い
ここの人間たちと同じような生物が発達するのも、1万、2万じゃきかない
私の任務は、人間をひとり連れて行くことだったの
心の中に私たちに対する好奇心や接触欲を持っている人をテレパシーで探すの
私たちと協力して、あなた方の世界をもっといいものにするための学習をしてもらう
活動を始めている者も少なくないわ
ただ、そのためには、それまでの生活や知人を捨てて、まったく別の人間として生きることになるけど・・・
あなたは行きやしないわ あなたはこの世界にあまりにとらわれ過ぎているものね」
円盤は2人以外には見えないという ミチヨはもう一度確認するが「やはりダメね」
女は腕を伸ばすと、引かれるように飛行体に瞬間移動し、姿は消えた
「あんた、大丈夫か? タクシーから1人で降りて、随分長いこと一人でぶつぶつ言ってたが」
と声をかけられて、溝口は適当に誤魔化した
“あなたはこの世界にあまりにとらわれ過ぎている”と言われたことがしきりに甦る
そうなのか? 傾いた陽が、彼の長い影を映し出していた
(マンガ『恐怖新聞』にもこういう少女が出てくる
私なら、即答で連れてってもらいたいけどなあ!
「中之島の女」
昔、大阪の広告代理店に勤めていた竹原は、イラストレーター四人展を見て、
やはり東京から来た藤崎とともに馴染みのスナックへ流れた
藤崎が「夜の大阪を歩いてみたい 中之島はどうなんだ?」と言い出した
大阪に住んでいる(いた)人間で、中之島を知らない者はまずいない
かつて天下の台所といわれた大阪の中心部で
今では大阪最古の公園としてビジネス街で働く人々の憩いの場にもなっている
竹原が住んでいたのはもう何年も前の独身の頃だ
中之島も随分変わったが、今の自分に喪われた何かが戻るかもしれないと行く気になった
竹原は途中で道を間違えた あの万国博を境に新御堂筋が作られたのだ
無意識に勘に頼って歩くと、かつて頭にある地図で動いてしまった
職業柄、2人ともくたびれたサファリルックで、藤崎は無精ひげをぼうぼう生やしている
こんな風に深夜、フリーのイラストレーターとしてここに来ることをあの頃の自分は想像しただろうか?
それは淡い勝利感と、手の届かなくなった青春時代への希求の入り混じった感覚だった
昔気質の父に、夢みたいなことが簡単に実現するものかとののしられ、
大学に行くなら、法科か経済にしろと強要されて、法科に入ったが
実際にはスケッチをしたり、美術館に行くほうが多かった
そんな自分が、就職試験でうまくいくはずもなく、勤めながら絵を描きつづけ
広告代理店に嘱託デザイナーとして採用された
立場が変わると、人を見る目まで変わるフシギな体験がはじまった
デザインやコピーをやってる人々は、あたかも自由の世界をはばたいていると感じられた
毎朝9時に出社しなければならない時、仕事さえちゃんとやれば、
いつでもひょいと喫茶店や展覧会を見に行く広告代理店の連中はたしかに生きていると思った
それが、自分が広告代理店に籍を置くと、何もかも変わった
1、2年経つと、決して仕事の実績と対応などせず、そこそこの扱いを受けていると悟り、幻滅した
だが、人はサラリーのために働くのが常識だ
分かっていても、どう抑えても、自分の一生がこんなものではないという自負が頭をもたげる
バイトでいくつかイラストを描き、それが定期収入になった時、彼は嘱託契約を解除した
今もそう楽ではない 仕事を失っても、泣きつくところはないのだ
それでも、今の仕事が自分に合っていると信じていた
もうビジネスマンの世界は異郷で、もう二度と還る気のない世界なのだ
そして、ビジネスマン時代の中之島だ
嘱託の頃は、広告という虚業の世界の一員で、メーカーやOLにある種の違和感を抱いていた
今は中之島は、個人で来るところなのだ どこかの、誰かと一緒の、その一員として来るのではない
自分はもう中之島の一員ではないのではないか、という恐れがたしかに存在していた
中之島には4つの建物―日銀大阪支店、市庁舎、府立図書館、中央公会堂のある緑地帯がある
中央公会堂は、株で大儲けした大阪の一市民の寄附で建てられたが、
5年後、竣工した時には、相場で大失敗して、ピストル自殺をしたという話を聞いた
しばらく行くと、藤崎の声が震えている
「ここに来た時から、入ってはいけない領域をおかして監視されているような気がして・・・
ここは、企業などの組織のメンバーのものなんだ オレたちのような一匹狼のいられる場所ではないんだ」
ベンチに女がうつむいて座っている どこかの会社の制服を着たOLだ
ひとりではない 7、8人のOLが昼休みにやるようにバレーをしている
ハイヒールの硬質の響きがカチ、カチ、カチと響き、OLが一列横隊になり、両手を広げて接近してくる
2人は全力疾走で逃げたが、中之島よりもっと深いどこかへ陥ちこんだ雰囲気がある
御堂筋に出れば、人はいないが、クルマがたくさん通っているはずだ
藤崎:
俺は丸の内で何度か感じたことがある 昼間歩いていても疎外されている気がする
大きなビルになるともっと威圧的だ ここがもっと気味悪いのは、ここはビジネス街だろう?
いくら歩いても見知ったビルが1つもない
藤崎:俺たちは罠にはめられたんだ
女の笑い声がして、突然やんだ そしてまたハイヒールの靴音
両手を広げ、道いっぱいになって進んでくる
アイラインをし、唇を塗り、完全に無表情で寄って来る
「やっつけろ!」
竹原は暴れ、藤崎とはぐれ、クルマが一台もない大通りを突っ走った
体力は尽き果て、やがて意識を失った
病院で気がつき、救急車で運ばれた時、滅茶苦茶に暴れていたという
「酔っ払って、クルマの往来する夜道をわめきながら走って
クルマに自分からぶつかっていったんだ」と医師
藤崎は、はぐれてから大通りに出て、タクシーをつかまえ、ホテルにたどり着いた
ハイヒールを手につかんでいたという
「あの化け物たちは、我々を容れない世界のシンボルとして出現したんだ
ならず者として処刑されるところだったと信じる」
ハイヒールを見ると、一流企業の、給料のほとんどを自分のオシャレや遊びに使えるものだと気づいた
「銀河号の女」
大谷は東京駅から夜行列車で大阪へ行き、朝の会議に出なければならない
ゆうべは学校時代の友人と久々に会い、飲んで歌った
歌ったのは、戦後間もなく流行した歌謡曲と、軍歌だ
昭和一桁生まれは、ろくに音楽教育を受けず、ドレミではなくハニホで習ったため、たいていが音痴だ
軍歌を歌うと、若い連中はしらけるが、それが面白いので余計に大声を上げて高唱したのだ
東名・名神を走るドリーム号なるバスもあるが、午後10時半に出て、午前8時過ぎに大阪に着く
リクライニングシートだと言っても、足を伸ばせないひどい代物で、一度乗って懲りてしまった
(今とあんまり変わらないな
寝台急行銀河のA寝台がなくなり、B寝台しかとれないと聞いてガッカリした
夜行列車には、本当に旅をしているのだというムードがある
ろくに金もなく、立ったままで旅行した時代を思い出させた
A寝台の下段は窓があり、外の景色が見える
そのA寝台がなくなったとなれば、銀河を利用するのもこれが最後かもしれない
2号車に乗ると、喪服を着て、遺骨を抱いた女3人がこちらを見ている
それは、国民学校の学童の頃見た、戦死した家族の列を思い出させた
戦争が終わって30年以上もたったのに、なぜ?
午前2時頃に目が覚め、ノドが乾き、空腹を感じた
近頃は、夜行列車で駅弁を買おうと思っても、駅弁売りがいないことも多い
トイレに行こうとすると、また3人の女が同じように立ってこちらを見ている
空腹感は増して、駅弁と紙コップに入った生ビールを買って、デッキ寄りにある出っ張りに座って食べ始めた
彼には、弁当の食べ方に流儀を持っている
ご飯とおかずを同じ量食べて、包んであった紐でちゃんとくくる
生まれた時から「ものを大切にしろ」と言われ続け、物質も少なかった時代の反映だ
だから逆に、物資が氾濫し、高度経済成長が謳歌されると、復讐するようにやたらに消費しながらも
これでいいのかと疑問に思い、昨今の資源の保護活用の声が大きくなると、やっぱりそうだと自信を持ちだす矛盾
その矛盾にも居直って、安心さえしている面がある
ふと見ると、目の前にまたあの3人の女がいて、じっとこちらを見ていた
女が一番美しいのは喪服を着ている時だという古典的な文句を、彼も信奉している一人だが
それどころではない それに夜行の寝台は暑すぎるくらいが普通なのに、寒いのだ
女が喋った 「それ、私が捨ててきましょう」と空の弁当箱をゴミ箱に捨てた
「お食事も済まれたようですし、少しあなたとお話がしたいのですが」
白布に包まれた箱に目を向け
「これは・・・わたしの息子です」
「これは、わたしの弟です」
「これは、わたしの夫ですわ みんなお国のために戦って、戦死しました」
最年長の女が言った「あなた、戦争をご存知?」
「私は、国民学校へ行っていましたし・・・集団疎開はしましたが」
「あなたは、戦っていない 死んでもいない それで、あんなに立派な弁当を食べていらっしゃる
いい服を着て、豊かな暮らしをしていますね
そして、酒場へ行き、軍歌を歌いました 自分たちは知っているのだから歌うのだとも言いました」
「座興ですか? 軍歌の影に死んでいった人がたくさんいたことを考えなかったのですか?
あなたは戦争を知っているつもりでしょう その気持ちが軍歌に対して安易な懐かしさになるのでしょう?」
♪わが大君に・・・召されたる・・・生命光栄ある朝ぼらけ・・・讃えて送る・・・一億の・・・
「私たちには、いつまでも戦争は終わらないのです」
「私の夫に、あなたが食べているようなものを食べさせたかった」
「私の弟に、あなたが着ているようなものを着せてやりたかった」
「私の息子に、あなたの年になるまで生きさせてやりたかった」
彼は立ちつくし、凍死するのではないかという不安がかすめた
走り出し、ベッドに這い上がり、温かくなって眠ろうとした
車内アナウンスで目が覚めた 寝台の使用は午前7時までだ
今ならあの女たちのいるところを覗くことも出来そうだ
彼は三段の寝台の1つ1つを覗いていったが人の気配はない
車掌に「このあたりにいたお客さんは、もう降りられたのですか?」
車掌「この2号車は、お客さんだけでしたよ」
3人の顔を思い出そうとしたが、ただの印象だけしか残っていない
戻ろうとして、弁当の空き箱を蹴飛ばした 女が捨ててくれた自分の弁当箱だった
幻覚を見たのだろうか?
彼自身、戦争への批判をやっている時、心に後ろめたさがあるのを感じる
それゆえ、彼より若い人々に対して、威丈高になるのかもしれない
所詮、自分たちはサンドウィッチの中味なのだ
持つべきものを持たない、さりとてろくに楽しむことも知らない哀れな年代なのかもしれない
間もなく、大津である
「砂丘の女」
石田は大阪から伊豆空港に向かった これから鳥取に赴くのだ
3ヶ月ばかり前にできた鳥取営業所に行き、飛躍的に伸びそうもない様子を探るのが目的だった
鳥取営業所長の柿本は、石田と同年入社組みで、新入社員時代はよく飲み明かした仲だった
柿本は鳥取出身で、英断な人事だが、本社の人間にとっては、やはり都落ちに違いない
石田個人としては、新規開拓が必要なところへ行く人間こそ、第一級の人材で優遇されてしかるべきと思うが
東京デスク工業は、社歴の古さからますます保守的になり、事務も官僚的になり、
だから新興メーカーに次々先手をとられて伸び悩んでいるのではないか
もうそんなこともどうでもいい
いつも緊張し、全力投球をするには、自分は疲れている
来年のはじめにはもう40歳になってしまうのである
それを考えると、つい、気が滅入るのだった
仕事ばかりしているうちに失われていったものを感じる
それまでに、かっと心が燃え立つような何かがあってもいいのではないか?
(やたら、30、40歳を悪く言うのは、今より昔のほうがより年齢に対して、老いが早く感じられたせいなのかな?
まあ、今でも10代から「もう、私、おばちゃんだから」なんていうコもいるけど
事務所に着くと、柿本が想像よりずっと屈託のない調子なので気が楽になった
柿本:ここでは、冗費節約、一に実戦、二に実戦を徹底して、足まめに回るほかないんだ
会議が終わったのは夜の7時過ぎ
柿本の手配した森旅館は、鳥取砂丘のすぐ手前だった
2人は街中の店に入った
話すことは自然と会議の話題になった
石田は、全員が組織として動くやり方を列挙するが、柿本の反応は鈍い
「彼らはみな、この土地の人間だ この俺も あんたらよりはこの土地を知っている
あんた、我々よりよく知ってるのか?
ここには、すでにもう他社の製品が、がっちり根をおろしている
後から来たわが社のものに切り替えさせるには、個人的な関係から割り込まなきゃならない
ここは東京じゃない 華々しいポスターや、チャチなオマケ、あんたらのやり方で
昨日までの関係をあっさり切り捨てる客がゴロゴロしてるわけじゃないんだ!」
(ヤバイ・・・チャチなオマケに釣られちゃってるよ
柿本:
明日、あさっては休みだろ 店のコが言ったように、砂丘、白兎海岸、湖山池を回ってみろよ
鳥取は初めてなんだろ? 仕事さえ済ませれば、さっさと帰るその神経が、俺にはやりきれないんだ
なぜもっと、その土地のことを知ろうと努力しない?
1日歩いて、何も感じなかったら、あんたには、心の優しさがもうなくなっている そういうことだ
あんた、店のコがコミュニケーションの糸口を与えてくれたのに、つながろうともしなかった
あんたらはいつも、己の流儀を押しつけ、それ以外を認めようとしないんだ
もう40なんだぜ 頭だけで生きていくのは、貧しい人生だと俺は思う
旅館で目覚め、仲居から柿本からの手紙を受け取った
「1日、ゆっくり遊んで行ってほしい 資料を同封しておく」
明日の飛行機の切符がともに入っていた
石田は、店のコたちのコースを行ってみることにした
タクシー運転手は、東京のぶっきらぼうなのと違って、いろいろ説明してくれた
最初は「白兎海岸」「湖山池」
学生時代には何度かこうした旅をしたものだ
金はろくになかったが、若さにものをいわせて、出たとこまかせで、あちこち訪ねて回った
今は・・・彼はふいに自分が、周りの風物や、船客を素直な目で見ているのを悟った
柿本は、若い頃の感受性を思い出させるために、あんなにも見て回れとすすめたのではないか?
それはどこか、疲れきってぐっすりと眠ったあとの、平穏な目覚めに似ていた
砂丘に来たのは夕暮れになった
足を砂に踏み入れても、半分ぐらいずり落ちるほどの傾斜だが、妙に快い
のぼりきると、海が視界いっぱいに広がっている
我にかえると、すでに陽は沈み、ほとんど人がいない海岸に1人の女がしゃがんでいる
「ちょっと、足をくじいてしまって・・・もし、よかったら上まで連れて行って頂けません?」
上までのぼると体力はそこまでだった
すでに暗くなった沖には、漁船のあかりが浮かび、夢のような眺めだ
女は絹子と名乗り、彼が森旅館に泊まっていることを聞くと、急にいなくなった
別の道に分かれていったのだろう
旅館で眠ると、妙な幻覚にとらわれ、自分が寝ているのかどうか、分からなくなった
枕元に絹子が立っている 次は、横に彼女が寝ている
「わたし、来たわ」
自分が目覚めているのか、眠っているのか分からぬ、感覚の中に漂っていた
冷たい感触にハッキリ目が覚めると、少し湿った砂が横に盛り上がっている
どこか人間をかたどったようでもある
彼女は、砂の化身ではないのか?
彼女は彼に「優しい方ね」と言った
彼は袋にその砂を入れた これが彼女ならば、砂丘に帰すべきだ
砂丘の入り口に踏み込み、袋から落ちた砂は、前夜からの風でできた風紋の上へ吸い込まれていった
【小久保實 解説 内容抜粋メモ】
これらの土地はいずれも大阪から気軽に出かけられる所ばかりだ
土地の名前は想い出というイメージを喚びさましがちだ
プルーストの『失われた時を求めて』にも「土地の名」と題する1巻がある
フランスコミック版『失われた時を求めて 第1巻 コンブレー』(白夜書房)
フランスコミック版『失われた時を求めて 第2巻 花咲く乙女たちのかげに1』(白夜書房)
『まんがで読破 失われた時を求めて』(イースト・プレス)
柳田國男の名著『地名の研究』によれば、
「わが国の海岸を通覧するに、最も多き地名が三つある すなわち由良・女良および福良である」
「ほぼ祖先の生活根拠の故山を知ることを得」、その土地を訪ねれば
「その結果は我々の血の中に当然に遺伝しているべきわが祖先の生活趣味を自覚することとなる」
本書に出てくる女たちは、それぞれの土地の霊といっていいだろう
「中之島の女」では、大阪の象徴である島に2人の男は拒否されたのだ
本書に京都は完全に脱落している(ほんとだ/驚
すでに文庫の読者は、本書を読み、作者の違った表情を発見するかもしれない
想像力のはたらきというのは、日常性に切れ目を入れ、押しひらくことを意味する
眉村氏はある文章にこう書いている
「僕にはなんとなく、生活が豊かになり、変化していくのが
みんな揃って、どんどん何かを振り落としながら、
みんなこれで当たり前、これが現代、とうなずき合っている気がする」
その「何か」を凝視したのが本書だ
現在の眉村氏はとても良い顔だ
厳しさと優しさが自然に解け合っている
現代の人間が、取り落としたものを認識している顔だ