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長崎平和絵本シリーズ6『ふりそでの少女』(汐文社)

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松添博/作 絵

“松添博さんが1974年、日本画の素養を生かして1枚の絵に描いた。振袖を着て火葬されている二人の少女。
 88年、少女は福留美奈子さん(当時9)と大島史子(ちかこ)さん(同12)と判明。
 92年、この絵をもとに絵本をまとめ、出版した。”


平成29年 長崎平和祈念式典(2017.8.9)

ここで紹介された絵本を読んだ


【内容抜粋メモ】

1945年
戦争は日に日にはげしくなり、長崎市滑石町には多くの人が疎開していました




8月9日11時過ぎ
B29がまっすぐ町に飛んでいるのが見え



次の瞬間、私は強い光と熱線を浴びたのでした



目の前には、それはそれは大きな雲が広がっていました




体中の火傷を治してもらおうと、元軍医さんのところへ行くと
麻酔薬もなく泣き叫ぶ患者を押さえつけて手術をしています
これを「生き地獄」というのでしょう




4、5日後、町のあちこちで火葬の煙がたちのぼりました



避難所の小学校の校庭では、死体が山積みにされ、一度に焼かれました




10日ほど後、私は運命の2人の少女に出会いました
晴れ着を着て、薄化粧をして、火葬されるところで、そこだけが別世界のようでした




この光景が忘れられず、ある年、1枚の絵にしました
その絵を見た人の中に2人を知る人がいて、名前が分かりました

福留美奈子さん(当時9歳)と、大島史子(ちかこ)さん(当時12歳)でした
名前が分かると、さらに2人を知る人が現れました


史子ちゃんは、城山小学校の近くに住み、
父は三菱製鋼所で働いていましたが、工場の事故で亡くなりました

美奈子ちゃんは、父母が上海に行っている間、叔父の家に預けられていました


史子ちゃんの家には広い庭があり、
ここで、たくさんの友だちと遊ぶのが一番の楽しみでした



史子ちゃんは女学校の1年生になり、国語の先生になるのが夢でした

その頃から空襲がはげしくなり、夏休みもなくなり、
授業の合間に農作業をする毎日が続きました




8月9日、登校してすぐ空襲警報が鳴り、史子ちゃんは家に帰りました
家で勉強をしていると、B29の爆音がして、
気づくと、お母さんは顔に大火傷を負い、
おばあさんは、家の下敷きになり、まもなく亡くなりました

2人は防空壕に避難しましたが
お母さんは「私はもうだめだから、史子一人でお父さんの田舎に行きなさい」と言います



史子ちゃんは、仕方なく長崎駅を目指して歩くと、すれ違う人はこの世の人とは思えません



梁川橋から、父が勤めていた製鋼所がアメのようにぐにゃぐにゃになっているのが見えます
川の水辺には裸の人がたくさん倒れています




4、5日後、駅の近くでぼんやりしている史子ちゃんが見つかりました
お母さんは、両手を合わせて何か言おうとしても声が出ず、そのまま亡くなりました
泣きじゃくっていた史子ちゃんも、翌日、あとを追うように亡くなりました

史子ちゃんの家の向かいで、家の下敷きになり、頭に大けがをした美奈子ちゃんがいました
8月18日、美奈子ちゃんは9歳の誕生日に亡くなりました

叔母さんは、彼女に晴れ着を着せ、前日亡くなった史子の話を聞き
同じように晴れ着を着せて、いっしょに火葬することにしたのです




翌年、史子ちゃんのお父さんが眠る富山市のお墓で法要が行われ
父の墓の横に3人の名前が刻まれた墓碑が建てられました



戦後中国から引き上げていた美奈子ちゃんの母(88歳)は
45年目の夏、火葬した場所に花束を捧げました


その後、私は「原爆被爆者療養センター」の所長になりました
2人の少女と縁があると思えて仕方ありません

少女たちを思って、長崎の町が見下ろせるセンターの庭に桜の木を植えました




あなたたちの死を無駄にしないよう、私たちは平和を訴え続けます



松添博:
1930年生まれ
1985年、1ヶ月半にわたりアメリカのテキサス大学で
原爆絵図を含む日本画個展を開き、悲惨さを訴えた


原爆被爆者療養センターはもうないのかな?

原爆被爆者療養センター「立山荘」がなくなりましたが、他に被爆者が利用できる施設はありませんか。



その他の図書








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