■10代の哲学さんぽ『自由ってなに? 人間はみんな自由って、ほんとう?』(岩崎書店)
アニッサ・カステル/文
みんな「自由になりたい」って思っていても、その意味は実はヒトによって全然違うのかもしれないな。
それに、寿命やらの時間的制約、集団生活など、「完全な自由」はあり得ないという本書の言い分にも納得。
何事にもコインの裏表があって、「制約」の裏側に「自由」がある。
で、もっと言えば、それはそのひと個人の「選択」や「考え方」によって、どうにでもなる。
「自分は自由だ」って思っていても、勘違いしているとなると、これまた問題。
自由は全員にとっての権利。
でも、「ほんとうの自由ってなに???」ってことを本書では問いかけている。
日頃思うのは、「自由業」て言葉があるけど、全然自由じゃないじゃんって思う。
会社勤めなら9〜5時の制約で済むところが、1連の仕事が終わるまで毎晩徹夜もあり得るし、
仕事の肩書きのせいで家のローンが組めなかったり、カードが作れなかったりetc...
自由な「自己表現」の代わりに、「自己責任」も伴う。
でも、本書を読んでもなお、どこかには必ず、森羅万象が平等で、自由で、心身とも豊かに生きている時代がある、
そんな未来がくるって私は信じてるんだ。
【内容抜粋メモ】
歴史上には、完璧な自由をもっていたと思われる人物が、多く存在する。
たとえばローマ帝国時代の独裁官カエサル(ジュリアス・シーザー)。
または冷酷なローマ皇帝ネロ。
彼らは家臣や民衆など、他人に対しては絶対的自由を誇っていたが、
逆に、自らの巨大な情熱や欲望の奴隷であったとは言えないだろうか?
(クレオパトラの愛に裏切られたり、独占できなかったなら、それも自由じゃないもんねえ?
哲学者プラトンの書いた『国家』の中に、透明人間ギュゲスが登場する。
ある人は彼を例にだして、ヒトはみな根が悪で、気づかれずに好きなことができるなら、どんな悪事でも犯すと主張する。
しかし、プラトンはこう反論した。
ヒトは生まれつき悪ではなく、理性と欲望、衝動の間で、きちんとバランスをとりさえすれば正義を貫くことができる。
私たちの自由は、他のヒトたちの自由が存在することによって制限を受けるべきである。
リーダーたちは、理性的で、自分をコントロールする術を見つけてこそ、初めて自由でいられる。
**********************************生まれながらの奴隷
古代ギリシャ・ローマの世界では、政治に参加し、都市の運営にかかわる自由な市民(男性のみ)と、
ただ働くばかりで、意見を言うことを許されない「奴隷」が存在した(『テルマエ〜』のことじゃん
奴隷は主人の「持ち物」とみなされ、どの市民の家庭にも奴隷がいて、「生きた道具」として使われていた。
戦争で負けて奴隷になったのではなく、生まれた場所・境遇のせいで、生まれた時から自由の権利をもたない。
1789年、フランス革命の時、国民議会が決めた「フランス人権宣言」では、
第1条で「ヒトは生まれながらにして自由かつ平等の権利を有する」と決めた。
それまでは、ヒトは2種類に分けられると考えていた。
1.自由で、価値のある人間。
2.自由である価値も能力もない奴隷。
あれから何千年も過ぎたのに、まだごく一部にはこういった時代遅れの偏見をもつヒトも存在する。
古代ギリシャでもっとも重要な哲学者のひとり、アリストテレスは、
奴隷の身分に生まれついた人と、戦争などのために奴隷になった人をハッキリと区別した。
「ジュネーブ条約」
1864〜1949年の間に結ばれた国際協定。日本は1886年に加盟した。
戦闘で傷ついた兵士、捕虜、戦闘に参加しない市民は、他国の権力者に支配され自由を失っても奴隷にはならないと保証された。
「自由を手放すということは、人間としての価値も、権利も、そして義務さえも、手放すことだ。
そうやってすべてを手放した人間には、それを埋め合わせられるものなど、なにもない。
そんな行為は人間の本質に反する」(ルソー)
ルソー
国家は王家の持ち物ではなく、人民による約束から作り出されたものだと「人民主権」を説いた。
**********************************自由を使わないヒトたち
PCのスリープ状態のように、自由を眠らせたまま、全然使わないことも可能だ。
なぜなら、自由は、命と同様、自然から私たちへの贈り物だから
現代の法律では、ボスに命令されて、部下が犯した犯罪であっても、
犯人は部下で、自分の行動の責任をとらなければならない。
殺人事件で、証人が犯人を知っているのに言わなければ「共犯」となる。
自分の自由を正しく使わなかったことで、罰せられるのだ。
ヒトが自由である権利をもっていることと、ほんとうに自由であることは別。
ほんとうの意味で自由を実現するには、環境、時代、立場などの条件が、すべて揃わなければならない。
もし、だれからも制限を受けず、望みどおりすることを意味するとしたら、そのためには絶対的な強さが必要だから。
イタロ・カルヴィーノ著『木のぼり男爵』
主人公コジモにとって、自由は一切の妥協を許さない、心底大切なものだった。
ほんのわずかな制限も、彼には檻や牢獄を思わせる。
**********************************自然の法則
例:地球には重力があるため、ヒトは鳥のように飛ぶことはできない。
私たちは、他の多くの人々と折り合いをつけながら、一緒に暮らしている
そして、その一人ひとりが、自由を尊重されるべき権利をもっている。
また、多少気に入らなくても、法律やしきたりに従って生きている。
他にも、死、時間、天気など、自然の制約もある。
自由とは絶対的なものではないから、常に他のヒトと比べて、
自分が自由かどうかを判断し、妥協することも多い。
「奴隷貿易」
16〜19C末、ヨーロッパの人々がアフリカ大陸の黒人を商品として売買して、南北アメリカ大陸で働かせた。
現代の奴隷は、過去の奴隷よりもっと悲惨かもしれない。
本来モノがもっている価値や値段まで失ってしまっているから。
B.トレイヴン著『海を歩く男』を書いた謎の多い作家。
真に自由であるためには、ヒトが本来の姿でいられる時代、環境に生まれなくてはならない。
私たちをとりまく現実が、ヒトがヒトらしく生きられるようになっていない場合もあり得る。
**********************************自由な時間、自立したココロ
生活のために必死で働かなければならないヒトがいる一方
財産を山ほど持っていて、遊んで暮らせるヒトもいる
自由とは、自由な時間をもつこと、ムダにできる時間をもつことなのだろうか?
しかし多くの哲学者は、この時間はムダどころか、かけがえのない大切なものだといっている。
古代ギリシャでは、自由な人間とは、「自由な時間」をもった者だった。
学んだり、世界を観察したり、考えたり。労働は奴隷が受け持った。
「school=学校」
古代ギリシャ語の「自由な時間=schole」からきている(今じゃ学校こそ自由を奪われる場所になってるよねえ
「アテネの民主政治」
紀元前5C頃、役職は市民の間でのクジ引きで決められた。
自由な市民は政治に参加した。時間や労力のすべてを、ほんとうに価値のあることだけに集中させていた。
古代ギリシャでなくてはならないと信じられていた「社会の二重構造」は、今日ではけっして許されない。
「アテネの民主政治」は奴隷制がなければ成立しなかった。
「自由な時間」と聞くと、私たちは休暇や余暇を思い浮かべる
仕事も、勉強もしなくてい。しばしば、遊びの予定がびっしり詰まっている
しかし、古代ギリシャの哲学者にとっての「自由な時間」とは「からっぽになる時間」「なに1つ予定のない時間」だった。
めまぐるしい現代に「自由なココロ」を味わうゆとりが、一体どれほどあるのか?
1秒もムダにせず、なにもしない時間をまったく持たないヒトに、精神の自由があるだろうか?
自分自身の内側に深く入っていくひとときのない人に、きちんと自分の頭で考えることができるだろうか?
いつでも周囲の影響を受けていては、ココロの自由は手に入らないのだ。
自由でいられる社会・環境にあることと、真に自由であることは、別の問題。
真に自由でいるためには、環境も、ココロもきちんと自立している必要がある。
だが、それはとても儚く、壊れやすい。
その人がどうやって生きてきたかであり、「人生の選択」なのだ。
「自由な精神」は、ただ待っているだけでは手に入らない。努力して身につけるものだ。
その上で、自分の力では変えられないものは、潔く諦める。それこそがココロの自由へのカギなのだ。
「自分次第でなんとかなるものには、しっかりと向き合うことだ。
そしてそれ以外のものは、ただあるがままを受け入れるのだ」(エピクテトス)
エピクテトス
ローマの奴隷出身者。自分の思いどおりにはできないもの(身体、富、名誉など)から解放された自由と魂の静けさをもっとも大切にした。
「ストア派哲学者」の1人。
私たちも、流行や友だちの言うことに、いつも影響を受けていては、自由にはなれない。
エピクテトスは、周囲に振り回されないためには、自分次第でなんとかなるものと、ならないものを、しっかり見分けることだと言っている。
「ほんとうのあなたでないものは、すべて捨ててしまいなさい。
考えを研ぎ澄まし、ほんとうのあなたでないものにとりつかれないようにすること。
そして執着したり、それを奪われても嘆いたりしないことだ」(エピクテトス)
自由な人間とは、自由を妨げるもの(高価な品物、大多数の意見など)に執着しないこと。
他人の意見、流行、店にある魅力的な品々などに縛られず、ただ自由こそが、かけがえのない宝だと認めたヒトだ。
これには代償がある。強い意志、深く考え続けること、相当の努力が必要だ。
私たちは、心底望めば、自由になれることを知っている。
しかしその努力を、大変だから、怖いから、ラクがしたいから、という理由で明日に延ばしてしまう。
日本の法律では、成人とは20歳。しかし精神的に大人になるには、一人ひとりがまったく違った道筋をたどる。
また、苦労の末、やっと自由を手にしても、今度はそれを守り続けなければならない。
「自立せずにいるのは、なんと楽なことか。
分からないことは、本が教えてくれるし、
なにが正しいかは、司祭が教えてくれるし、
どんな食事をすればいいかは、医者が教えてくれる。
自分の頭を使って考える必要なんて、なにもない。
お金さえ払えば、そんな面倒な仕事は、他のヒトが代わりにやってくれるのだから」(カント)
**********************************自由を捨てている?!
フシギなことに、多くのヒトは黙って他人の言いなりになり、束縛を受けるがままになっている。
ほんのわずかな努力で、不自由な状況から抜け出すことができるというのに。
「弱さ」「怠けココロ」も原因の1つだろう。
ほんとうの自分を捨てて、支配者に服従するのを選んでいるのは、実は民衆自身ではないのか?
ただ言うことを聞かないだけで、そんな人物はたちまち権力の座から追い出すことができるというのに。
「ヒトは自由に生まれついているはずなのに、あちらこちらで鉄の鎖につながれている。
自分を誰かの主人だと思っている者は、実はその誰かよりずっと縛られているのだ」(ルソー)
答えは「ヒトは集団で暮らしているから」だ。
互いに頼り合うことから、服従も生まれるのではないか?
「もし、自然が私たちに与えた権利と、自然から学んだことに従って生きるとしたら、
私たちは、ごく当たり前に両親の言うことをきき、自分の理性に従う。
けれども、だれかの奴隷になったりはしない」(ラ・ボエシ)
エチエンヌ・ド・ラ・ボエシ
フランスの作家。『自発的服従』という論文を書いた。
「自由な人間」とは、モノ、自然からの束縛を受けず、他人から支配されたり、影響を受けないヒトのこと。
でも、ある決められた規則に従えば、どう振る舞えばいいか正確に分かるし、
これから起こることを予測して、状況をコントロールすることができる。
「私たちは、非人間的な法律に従うほうが、人間に従うよりも、ずっと自由でいられる」(ルソー)
ものづくりの職人は、彼の主人より自由だ。
なぜなら、職人は仕事にしか左右されないけれど、主人は、奴隷である職人に頼らざるを得ないから。
社会で生きるとは、自由への制限を受け入れることだ。
それと同時に、私たち自身も、他人の持つ自由を制限している。
「依存には2種類ある。1つはモノへの依存、もう1つは人間への依存だ。
前者は自然に基づき、後者は社会に基づく。
モノへの依存はごく単純で、善悪がない。だから自由は傷つかず、悪いものも生じない。
だが、人間に依存すると、状況はぐっと乱れ、複雑になる、あらゆる悪の源になる。
こうして主人と奴隷は依存しあいながら、お互いを堕落させていくのだ」(ルソー)
他人とともに暮らせば、必ず互いに犠牲になる部分が生まれる。
そこで「自分の内面に入っていく」ことは非常に難しい。
社会では、私たちは、多かれ少なかれ、必ず誰かに頼って生きている。
完全に依存しないのは不可能だ。
ヒトは社会的であればあるほど、自由ではなくなる。
**********************************考える自由
社会や集団からの束縛を逃れるたった1つの方法は、「考える自由」だ。
ところが、今や、意識や思考の外から働きかける技術がどんどん進歩している。
例:「サブリミナル効果」
戦時中の拷問は、秘密を話させるだけでなく、自分の価値を見失わせ、人格を壊す。
しかし、やはり考えることが「従属」や「無気力」、外部の圧力から身を守る武器には変わりない。
「従属」
権力や、威力のあるものに依存して、それに付き従うこと。
だが、ココロの自由は二重の意味で脅かされている。
1.自分で考えるのを止めてしまう。または、考えるのを邪魔される場合。
→他人の意志に飲み込まれ、その奴隷になってしまう。
2.自分の頭でしっかり考えていても、奴隷でいることを受け入れるような、間違った考えにたどりついてしまう可能性。
「人間は落ちるところまで落ちても、さらに落ちることができるし、
どんなにひどい目にあっても、さらにひどいものに耐えることができるのだ」(B.トレイヴン『海を歩く男』
奴隷になることを受け入れるヒトがいるからこそ、独裁者が生まれる。
独裁者が奴隷を生むわけではないのである。
「希望があれば生きられる」と言っても、まちがった希望を目標にして、全力を注げば、ヒトは熱情や欲望に振り回される。
時に希望は、そうして私たちを服従へと導く。
逆に、状況を客観的に見ることで、現在が辛くても、そこに意味を見出すこともできる。
それこそが、ヒトをもっとも自由な存在に、場合によってはもっとも束縛された存在にするのだ。
動物たちは、自由でもなければ、奴隷でもない。
だが、ヒトは自由にも奴隷にもなれる。
だからこそ、衝動や情熱をよい方向に向け、満たしてやれるように、しっかり考えた上で行動しなければならない。
それで初めて、自由を正しく使えたことになる。
だが、皮肉にも、強い情熱にとりつかれると、考え抜き、よくわきまえた上で、束縛を選ぶ者も出てくる。
自由な人間が、その自由によって、自由そのものを捨てようとする。
マルセル・プルースト『失われた時を求めて』
20Cを代表する傑作の1つ。この小説を書くために、プルーストは壁にコルクを貼って防音した部屋に15年間も閉じこもった。
1ページ以上、句点なしで続く独特の文体は、子どもの頃から患っていた喘息に原因があるともいわれている。
私たちは、自由であるにも関わらず、束縛を受ける。
それはヒトとして存在し、集団で生きる以上、避けられないことだ。
それもやっぱり人間というものなのだ。
アニッサ・カステル/文
みんな「自由になりたい」って思っていても、その意味は実はヒトによって全然違うのかもしれないな。
それに、寿命やらの時間的制約、集団生活など、「完全な自由」はあり得ないという本書の言い分にも納得。
何事にもコインの裏表があって、「制約」の裏側に「自由」がある。
で、もっと言えば、それはそのひと個人の「選択」や「考え方」によって、どうにでもなる。
「自分は自由だ」って思っていても、勘違いしているとなると、これまた問題。
自由は全員にとっての権利。
でも、「ほんとうの自由ってなに???」ってことを本書では問いかけている。
日頃思うのは、「自由業」て言葉があるけど、全然自由じゃないじゃんって思う。
会社勤めなら9〜5時の制約で済むところが、1連の仕事が終わるまで毎晩徹夜もあり得るし、
仕事の肩書きのせいで家のローンが組めなかったり、カードが作れなかったりetc...
自由な「自己表現」の代わりに、「自己責任」も伴う。
でも、本書を読んでもなお、どこかには必ず、森羅万象が平等で、自由で、心身とも豊かに生きている時代がある、
そんな未来がくるって私は信じてるんだ。
【内容抜粋メモ】
歴史上には、完璧な自由をもっていたと思われる人物が、多く存在する。
たとえばローマ帝国時代の独裁官カエサル(ジュリアス・シーザー)。
または冷酷なローマ皇帝ネロ。
彼らは家臣や民衆など、他人に対しては絶対的自由を誇っていたが、
逆に、自らの巨大な情熱や欲望の奴隷であったとは言えないだろうか?
(クレオパトラの愛に裏切られたり、独占できなかったなら、それも自由じゃないもんねえ?
哲学者プラトンの書いた『国家』の中に、透明人間ギュゲスが登場する。
ある人は彼を例にだして、ヒトはみな根が悪で、気づかれずに好きなことができるなら、どんな悪事でも犯すと主張する。
しかし、プラトンはこう反論した。
ヒトは生まれつき悪ではなく、理性と欲望、衝動の間で、きちんとバランスをとりさえすれば正義を貫くことができる。
私たちの自由は、他のヒトたちの自由が存在することによって制限を受けるべきである。
リーダーたちは、理性的で、自分をコントロールする術を見つけてこそ、初めて自由でいられる。
**********************************生まれながらの奴隷
古代ギリシャ・ローマの世界では、政治に参加し、都市の運営にかかわる自由な市民(男性のみ)と、
ただ働くばかりで、意見を言うことを許されない「奴隷」が存在した(『テルマエ〜』のことじゃん
奴隷は主人の「持ち物」とみなされ、どの市民の家庭にも奴隷がいて、「生きた道具」として使われていた。
戦争で負けて奴隷になったのではなく、生まれた場所・境遇のせいで、生まれた時から自由の権利をもたない。
1789年、フランス革命の時、国民議会が決めた「フランス人権宣言」では、
第1条で「ヒトは生まれながらにして自由かつ平等の権利を有する」と決めた。
それまでは、ヒトは2種類に分けられると考えていた。
1.自由で、価値のある人間。
2.自由である価値も能力もない奴隷。
あれから何千年も過ぎたのに、まだごく一部にはこういった時代遅れの偏見をもつヒトも存在する。
古代ギリシャでもっとも重要な哲学者のひとり、アリストテレスは、
奴隷の身分に生まれついた人と、戦争などのために奴隷になった人をハッキリと区別した。
「ジュネーブ条約」
1864〜1949年の間に結ばれた国際協定。日本は1886年に加盟した。
戦闘で傷ついた兵士、捕虜、戦闘に参加しない市民は、他国の権力者に支配され自由を失っても奴隷にはならないと保証された。
「自由を手放すということは、人間としての価値も、権利も、そして義務さえも、手放すことだ。
そうやってすべてを手放した人間には、それを埋め合わせられるものなど、なにもない。
そんな行為は人間の本質に反する」(ルソー)
ルソー
国家は王家の持ち物ではなく、人民による約束から作り出されたものだと「人民主権」を説いた。
**********************************自由を使わないヒトたち
PCのスリープ状態のように、自由を眠らせたまま、全然使わないことも可能だ。
なぜなら、自由は、命と同様、自然から私たちへの贈り物だから
現代の法律では、ボスに命令されて、部下が犯した犯罪であっても、
犯人は部下で、自分の行動の責任をとらなければならない。
殺人事件で、証人が犯人を知っているのに言わなければ「共犯」となる。
自分の自由を正しく使わなかったことで、罰せられるのだ。
ヒトが自由である権利をもっていることと、ほんとうに自由であることは別。
ほんとうの意味で自由を実現するには、環境、時代、立場などの条件が、すべて揃わなければならない。
もし、だれからも制限を受けず、望みどおりすることを意味するとしたら、そのためには絶対的な強さが必要だから。
イタロ・カルヴィーノ著『木のぼり男爵』
主人公コジモにとって、自由は一切の妥協を許さない、心底大切なものだった。
ほんのわずかな制限も、彼には檻や牢獄を思わせる。
**********************************自然の法則
例:地球には重力があるため、ヒトは鳥のように飛ぶことはできない。
私たちは、他の多くの人々と折り合いをつけながら、一緒に暮らしている
そして、その一人ひとりが、自由を尊重されるべき権利をもっている。
また、多少気に入らなくても、法律やしきたりに従って生きている。
他にも、死、時間、天気など、自然の制約もある。
自由とは絶対的なものではないから、常に他のヒトと比べて、
自分が自由かどうかを判断し、妥協することも多い。
「奴隷貿易」
16〜19C末、ヨーロッパの人々がアフリカ大陸の黒人を商品として売買して、南北アメリカ大陸で働かせた。
現代の奴隷は、過去の奴隷よりもっと悲惨かもしれない。
本来モノがもっている価値や値段まで失ってしまっているから。
B.トレイヴン著『海を歩く男』を書いた謎の多い作家。
真に自由であるためには、ヒトが本来の姿でいられる時代、環境に生まれなくてはならない。
私たちをとりまく現実が、ヒトがヒトらしく生きられるようになっていない場合もあり得る。
**********************************自由な時間、自立したココロ
生活のために必死で働かなければならないヒトがいる一方
財産を山ほど持っていて、遊んで暮らせるヒトもいる
自由とは、自由な時間をもつこと、ムダにできる時間をもつことなのだろうか?
しかし多くの哲学者は、この時間はムダどころか、かけがえのない大切なものだといっている。
古代ギリシャでは、自由な人間とは、「自由な時間」をもった者だった。
学んだり、世界を観察したり、考えたり。労働は奴隷が受け持った。
「school=学校」
古代ギリシャ語の「自由な時間=schole」からきている(今じゃ学校こそ自由を奪われる場所になってるよねえ
「アテネの民主政治」
紀元前5C頃、役職は市民の間でのクジ引きで決められた。
自由な市民は政治に参加した。時間や労力のすべてを、ほんとうに価値のあることだけに集中させていた。
古代ギリシャでなくてはならないと信じられていた「社会の二重構造」は、今日ではけっして許されない。
「アテネの民主政治」は奴隷制がなければ成立しなかった。
「自由な時間」と聞くと、私たちは休暇や余暇を思い浮かべる
仕事も、勉強もしなくてい。しばしば、遊びの予定がびっしり詰まっている
しかし、古代ギリシャの哲学者にとっての「自由な時間」とは「からっぽになる時間」「なに1つ予定のない時間」だった。
めまぐるしい現代に「自由なココロ」を味わうゆとりが、一体どれほどあるのか?
1秒もムダにせず、なにもしない時間をまったく持たないヒトに、精神の自由があるだろうか?
自分自身の内側に深く入っていくひとときのない人に、きちんと自分の頭で考えることができるだろうか?
いつでも周囲の影響を受けていては、ココロの自由は手に入らないのだ。
自由でいられる社会・環境にあることと、真に自由であることは、別の問題。
真に自由でいるためには、環境も、ココロもきちんと自立している必要がある。
だが、それはとても儚く、壊れやすい。
その人がどうやって生きてきたかであり、「人生の選択」なのだ。
「自由な精神」は、ただ待っているだけでは手に入らない。努力して身につけるものだ。
その上で、自分の力では変えられないものは、潔く諦める。それこそがココロの自由へのカギなのだ。
「自分次第でなんとかなるものには、しっかりと向き合うことだ。
そしてそれ以外のものは、ただあるがままを受け入れるのだ」(エピクテトス)
エピクテトス
ローマの奴隷出身者。自分の思いどおりにはできないもの(身体、富、名誉など)から解放された自由と魂の静けさをもっとも大切にした。
「ストア派哲学者」の1人。
私たちも、流行や友だちの言うことに、いつも影響を受けていては、自由にはなれない。
エピクテトスは、周囲に振り回されないためには、自分次第でなんとかなるものと、ならないものを、しっかり見分けることだと言っている。
「ほんとうのあなたでないものは、すべて捨ててしまいなさい。
考えを研ぎ澄まし、ほんとうのあなたでないものにとりつかれないようにすること。
そして執着したり、それを奪われても嘆いたりしないことだ」(エピクテトス)
自由な人間とは、自由を妨げるもの(高価な品物、大多数の意見など)に執着しないこと。
他人の意見、流行、店にある魅力的な品々などに縛られず、ただ自由こそが、かけがえのない宝だと認めたヒトだ。
これには代償がある。強い意志、深く考え続けること、相当の努力が必要だ。
私たちは、心底望めば、自由になれることを知っている。
しかしその努力を、大変だから、怖いから、ラクがしたいから、という理由で明日に延ばしてしまう。
日本の法律では、成人とは20歳。しかし精神的に大人になるには、一人ひとりがまったく違った道筋をたどる。
また、苦労の末、やっと自由を手にしても、今度はそれを守り続けなければならない。
「自立せずにいるのは、なんと楽なことか。
分からないことは、本が教えてくれるし、
なにが正しいかは、司祭が教えてくれるし、
どんな食事をすればいいかは、医者が教えてくれる。
自分の頭を使って考える必要なんて、なにもない。
お金さえ払えば、そんな面倒な仕事は、他のヒトが代わりにやってくれるのだから」(カント)
**********************************自由を捨てている?!
フシギなことに、多くのヒトは黙って他人の言いなりになり、束縛を受けるがままになっている。
ほんのわずかな努力で、不自由な状況から抜け出すことができるというのに。
「弱さ」「怠けココロ」も原因の1つだろう。
ほんとうの自分を捨てて、支配者に服従するのを選んでいるのは、実は民衆自身ではないのか?
ただ言うことを聞かないだけで、そんな人物はたちまち権力の座から追い出すことができるというのに。
「ヒトは自由に生まれついているはずなのに、あちらこちらで鉄の鎖につながれている。
自分を誰かの主人だと思っている者は、実はその誰かよりずっと縛られているのだ」(ルソー)
答えは「ヒトは集団で暮らしているから」だ。
互いに頼り合うことから、服従も生まれるのではないか?
「もし、自然が私たちに与えた権利と、自然から学んだことに従って生きるとしたら、
私たちは、ごく当たり前に両親の言うことをきき、自分の理性に従う。
けれども、だれかの奴隷になったりはしない」(ラ・ボエシ)
エチエンヌ・ド・ラ・ボエシ
フランスの作家。『自発的服従』という論文を書いた。
「自由な人間」とは、モノ、自然からの束縛を受けず、他人から支配されたり、影響を受けないヒトのこと。
でも、ある決められた規則に従えば、どう振る舞えばいいか正確に分かるし、
これから起こることを予測して、状況をコントロールすることができる。
「私たちは、非人間的な法律に従うほうが、人間に従うよりも、ずっと自由でいられる」(ルソー)
ものづくりの職人は、彼の主人より自由だ。
なぜなら、職人は仕事にしか左右されないけれど、主人は、奴隷である職人に頼らざるを得ないから。
社会で生きるとは、自由への制限を受け入れることだ。
それと同時に、私たち自身も、他人の持つ自由を制限している。
「依存には2種類ある。1つはモノへの依存、もう1つは人間への依存だ。
前者は自然に基づき、後者は社会に基づく。
モノへの依存はごく単純で、善悪がない。だから自由は傷つかず、悪いものも生じない。
だが、人間に依存すると、状況はぐっと乱れ、複雑になる、あらゆる悪の源になる。
こうして主人と奴隷は依存しあいながら、お互いを堕落させていくのだ」(ルソー)
他人とともに暮らせば、必ず互いに犠牲になる部分が生まれる。
そこで「自分の内面に入っていく」ことは非常に難しい。
社会では、私たちは、多かれ少なかれ、必ず誰かに頼って生きている。
完全に依存しないのは不可能だ。
ヒトは社会的であればあるほど、自由ではなくなる。
**********************************考える自由
社会や集団からの束縛を逃れるたった1つの方法は、「考える自由」だ。
ところが、今や、意識や思考の外から働きかける技術がどんどん進歩している。
例:「サブリミナル効果」
戦時中の拷問は、秘密を話させるだけでなく、自分の価値を見失わせ、人格を壊す。
しかし、やはり考えることが「従属」や「無気力」、外部の圧力から身を守る武器には変わりない。
「従属」
権力や、威力のあるものに依存して、それに付き従うこと。
だが、ココロの自由は二重の意味で脅かされている。
1.自分で考えるのを止めてしまう。または、考えるのを邪魔される場合。
→他人の意志に飲み込まれ、その奴隷になってしまう。
2.自分の頭でしっかり考えていても、奴隷でいることを受け入れるような、間違った考えにたどりついてしまう可能性。
「人間は落ちるところまで落ちても、さらに落ちることができるし、
どんなにひどい目にあっても、さらにひどいものに耐えることができるのだ」(B.トレイヴン『海を歩く男』
奴隷になることを受け入れるヒトがいるからこそ、独裁者が生まれる。
独裁者が奴隷を生むわけではないのである。
「希望があれば生きられる」と言っても、まちがった希望を目標にして、全力を注げば、ヒトは熱情や欲望に振り回される。
時に希望は、そうして私たちを服従へと導く。
逆に、状況を客観的に見ることで、現在が辛くても、そこに意味を見出すこともできる。
それこそが、ヒトをもっとも自由な存在に、場合によってはもっとも束縛された存在にするのだ。
動物たちは、自由でもなければ、奴隷でもない。
だが、ヒトは自由にも奴隷にもなれる。
だからこそ、衝動や情熱をよい方向に向け、満たしてやれるように、しっかり考えた上で行動しなければならない。
それで初めて、自由を正しく使えたことになる。
だが、皮肉にも、強い情熱にとりつかれると、考え抜き、よくわきまえた上で、束縛を選ぶ者も出てくる。
自由な人間が、その自由によって、自由そのものを捨てようとする。
マルセル・プルースト『失われた時を求めて』
20Cを代表する傑作の1つ。この小説を書くために、プルーストは壁にコルクを貼って防音した部屋に15年間も閉じこもった。
1ページ以上、句点なしで続く独特の文体は、子どもの頃から患っていた喘息に原因があるともいわれている。
私たちは、自由であるにも関わらず、束縛を受ける。
それはヒトとして存在し、集団で生きる以上、避けられないことだ。
それもやっぱり人間というものなのだ。