■君よ、さらば! ~官兵衛VS.三成 それぞれの戦国乱世~@歴史秘話ヒストリア
「スーパー官僚」の三成
・秀吉との出会い~官兵衛編
少年の頃から古今の兵法を学んだ官兵衛。その城は毛利と織田の中間だった。
信長は毛利を討つべく播磨国に兵を進める。その軍勢を率いていたのが秀吉だった。
官兵衛は、周囲の領主を説得して味方にしたばかりか、自分の姫路城の本丸を秀吉に譲った。
・秀吉との出会い~三成編
三成は北近江(滋賀県長浜市)生まれ。下級武士の次男で、三成は寺で幼少期を過ごした。
そこに立ち寄った秀吉(38)に三成(15)は、3度とも違うお茶をふるまった。その細やかな心遣いが認められた。
・知恵者ぶり~官兵衛編
佐用城攻め、備中高松城の水攻め、小田原城攻め、和睦に導く交渉術にも長けていた。
・知恵者ぶり~三成編
秀吉と家臣の間を取り次ぐ役目についた三成。
秀吉から500万石の領地を与えられたのを断り、葦の密生する土地をもらい、
これまでタダで刈っていた農民から税をとり、その収入で1万石並みの軍備を用意してみせた。
柴田勝家との戦では、夜の山道を急行するため、先回りして沿道の住民に松明をかかげさせ、
途中、途中で握り飯を用意する用意周到さをみせた。
官兵衛が幽閉から戻ると泣いて喜んだという秀吉。
三成は、忠告する時、機嫌をうかがったりしないところが気に入られていたという。
現代の歴史教科書に載っている「太閤検地」などの実行責任者は三成だった。
従来の検地は基準がバラバラで自己申告だったのを全国共通に統一したため、
各地の生産高、大名の総収入が正確に把握できるようになった。
しかも、生産高のうち、ちょっとずつ税として納めさせたため、秀吉のもとには全国から220万石が集まった/驚
・九州平定での官兵衛の活躍
官兵衛は敵方の武将に「今味方すれば領地も保証すると」手紙を出し、武将たちは次々と降伏。戦わずして九州をおさめた。
・本能寺の変
主君の死に動揺する秀吉に「天下をおとりになる時が参りましたぞ」と言った官兵衛。
秀吉は内心「恐ろしい男だ」と恐れ、それ以降、決して官兵衛に心を許さなくなった。
また、官兵衛は、秀吉が禁止しているキリスト教を信仰したことも良く思わなかった。
官兵衛は備前中津に12万石を与えられるが、三成は19万石と差をつけられた。
三成は、秀吉にあることないことを吹き込んでいるとボヤく官兵衛。
・文禄の役
作戦指揮のため、官兵衛を前線に派遣。三成も武将監督のため海を渡る。
朝鮮水軍の反撃、民衆の武装蜂起で秀吉軍は苦戦。
官兵衛は日本に戻り、大名らが撤退したことを秀吉に伝えると、激怒した秀吉は、俸禄と屋敷の没収という厳しい処分を下した。
「官兵衛はスケープゴート(責任の身代わり)にされ、官兵衛もそれを承知していたのではないか」(専門家)
官兵衛は髷を落とし、引退を決意。名を「如水」(水の如し)と改める。
三成は、戦争終結のため奔走し、明の使者と帰国、和平交渉の場を設けるも、
「明皇帝の娘を天皇に嫁がせよ」などの秀吉の要望は一蹴され、
「なんじを日本国王と認める代わりに朝鮮から兵を退くべし」と言い渡される。
・慶長の役
秀吉は、大名らが逃げた朝鮮兵を追わなかったことに厳しい処分を下した。
理不尽ながら、奉行の三成は処分を遂行。「汚れ役」をうけおう。
・秀吉の死後
官兵衛は、三成からの誘いに態度をハッキリさせなかった。
領地没収などで三成への恨みを募らせていた大名らは東軍に参加。
関ヶ原の戦で負けた三成は大坂城に送られた(関ヶ原の戦はたったの6時間で決着がついてたのか!
三成を見て見ぬフリをする大名の中で立ち止まったのは長政。
長政のいたわりの言葉に思わず涙したという話は、大河ドラマとはだいぶ異なるなあ。
三成の死後、4年後に官兵衛が亡くなった。何も望まず、穏やかな晩年だったという
・現代に残る2人の功績
博多の復興を秀吉に命じられたのは、三成と官兵衛だった。三成は道路の整備、埋め立てを進めた
これを見ると、全然、官兵衛vs三成じゃない。
2人とも秀吉にとても忠実に真面目に責務を果していたという印象が残る。
ドラマじゃ官兵衛をことあるごとにイジメているイメージだったけど、
単に誰にでもストレートにものを言う生真面目な人だったのかな。
「わしが死んだ後、誰が天下をとると思う?」との質問には、三成ver.と官兵衛ver.の両方が『名将言行録』に載っているってビックリ。
「スーパー官僚」の三成
・秀吉との出会い~官兵衛編
少年の頃から古今の兵法を学んだ官兵衛。その城は毛利と織田の中間だった。
信長は毛利を討つべく播磨国に兵を進める。その軍勢を率いていたのが秀吉だった。
官兵衛は、周囲の領主を説得して味方にしたばかりか、自分の姫路城の本丸を秀吉に譲った。
・秀吉との出会い~三成編
三成は北近江(滋賀県長浜市)生まれ。下級武士の次男で、三成は寺で幼少期を過ごした。
そこに立ち寄った秀吉(38)に三成(15)は、3度とも違うお茶をふるまった。その細やかな心遣いが認められた。
・知恵者ぶり~官兵衛編
佐用城攻め、備中高松城の水攻め、小田原城攻め、和睦に導く交渉術にも長けていた。
・知恵者ぶり~三成編
秀吉と家臣の間を取り次ぐ役目についた三成。
秀吉から500万石の領地を与えられたのを断り、葦の密生する土地をもらい、
これまでタダで刈っていた農民から税をとり、その収入で1万石並みの軍備を用意してみせた。
柴田勝家との戦では、夜の山道を急行するため、先回りして沿道の住民に松明をかかげさせ、
途中、途中で握り飯を用意する用意周到さをみせた。
官兵衛が幽閉から戻ると泣いて喜んだという秀吉。
三成は、忠告する時、機嫌をうかがったりしないところが気に入られていたという。
現代の歴史教科書に載っている「太閤検地」などの実行責任者は三成だった。
従来の検地は基準がバラバラで自己申告だったのを全国共通に統一したため、
各地の生産高、大名の総収入が正確に把握できるようになった。
しかも、生産高のうち、ちょっとずつ税として納めさせたため、秀吉のもとには全国から220万石が集まった/驚
・九州平定での官兵衛の活躍
官兵衛は敵方の武将に「今味方すれば領地も保証すると」手紙を出し、武将たちは次々と降伏。戦わずして九州をおさめた。
・本能寺の変
主君の死に動揺する秀吉に「天下をおとりになる時が参りましたぞ」と言った官兵衛。
秀吉は内心「恐ろしい男だ」と恐れ、それ以降、決して官兵衛に心を許さなくなった。
また、官兵衛は、秀吉が禁止しているキリスト教を信仰したことも良く思わなかった。
官兵衛は備前中津に12万石を与えられるが、三成は19万石と差をつけられた。
三成は、秀吉にあることないことを吹き込んでいるとボヤく官兵衛。
・文禄の役
作戦指揮のため、官兵衛を前線に派遣。三成も武将監督のため海を渡る。
朝鮮水軍の反撃、民衆の武装蜂起で秀吉軍は苦戦。
官兵衛は日本に戻り、大名らが撤退したことを秀吉に伝えると、激怒した秀吉は、俸禄と屋敷の没収という厳しい処分を下した。
「官兵衛はスケープゴート(責任の身代わり)にされ、官兵衛もそれを承知していたのではないか」(専門家)
官兵衛は髷を落とし、引退を決意。名を「如水」(水の如し)と改める。
三成は、戦争終結のため奔走し、明の使者と帰国、和平交渉の場を設けるも、
「明皇帝の娘を天皇に嫁がせよ」などの秀吉の要望は一蹴され、
「なんじを日本国王と認める代わりに朝鮮から兵を退くべし」と言い渡される。
・慶長の役
秀吉は、大名らが逃げた朝鮮兵を追わなかったことに厳しい処分を下した。
理不尽ながら、奉行の三成は処分を遂行。「汚れ役」をうけおう。
・秀吉の死後
官兵衛は、三成からの誘いに態度をハッキリさせなかった。
領地没収などで三成への恨みを募らせていた大名らは東軍に参加。
関ヶ原の戦で負けた三成は大坂城に送られた(関ヶ原の戦はたったの6時間で決着がついてたのか!
三成を見て見ぬフリをする大名の中で立ち止まったのは長政。
長政のいたわりの言葉に思わず涙したという話は、大河ドラマとはだいぶ異なるなあ。
三成の死後、4年後に官兵衛が亡くなった。何も望まず、穏やかな晩年だったという
・現代に残る2人の功績
博多の復興を秀吉に命じられたのは、三成と官兵衛だった。三成は道路の整備、埋め立てを進めた
これを見ると、全然、官兵衛vs三成じゃない。
2人とも秀吉にとても忠実に真面目に責務を果していたという印象が残る。
ドラマじゃ官兵衛をことあるごとにイジメているイメージだったけど、
単に誰にでもストレートにものを言う生真面目な人だったのかな。
「わしが死んだ後、誰が天下をとると思う?」との質問には、三成ver.と官兵衛ver.の両方が『名将言行録』に載っているってビックリ。