■もうダメ武将とは言わせない~官兵衛ジュニア 長政の苦悩~@歴史秘話ヒストリア
長政は父と真逆で猪突猛進、短気だった
大河『軍師官兵衛』の間は、その先の人生が分かってしまったらつまらなくなるから、ずっと見るのを我慢してたんだけど、
完結したので、いろいろと予録してたのを解禁w
ドラマでは父側から描いていたけれども、息子側から見るとまた違うな。
松坂桃李くんが演じていたから普通にカッコ良かったけど、実はコンプレックスやら、父とは真逆な性格でなかなか複雑な人生だったみたい。
又兵衛がなぜ急に敵、それも牢人になっていたのかって謎も解けた。
・長政の子ども時代
父が又兵衛を引き取ってきて、後に墓石に「実子」と書くほど息子同然の扱いをして、長政は戸惑った
信長への忠誠心を表すために人質として長浜城に送られた
その後、荒木村重に捕われて戻らない官兵衛を謀反とみた信長は、松寿丸を殺せと命令するが、
同僚の竹中半兵衛によって救われる。しかし、カムフラージュのため女児の格好をさせられ屈辱的だったという
その後、官兵衛は「玉松」も養子にする。
天正15年。黒田家は中津に12万石を与えられる。
官兵衛の兜、長政の兜。兜のデザインも対照的
官兵衛「長政は自己中心的で、周りが見えていない」
ちなみにゴモラは長政がモデル!? 頭の形とか、大坂城を壊してるシーンとか/爆
官兵衛は留守で、長政は独断で城井谷城を攻めるが、狭い入り口を抜けると兵に待ち構えられていて散々な目に遭う。
和睦交渉と見せかけて、宇都宮一族と家臣も惨殺してしまう/驚
血の跡が壁に残り、何度塗りなおしても浮かび上がったため、全面真っ赤に塗ってある
胴を斬られて死んだ宇都宮鎮房の墓には横にヒビ、首を斬られた父の墓にもヒビ・・・
官兵衛は、そんな長政に責任感を持たせようと家督を譲るが、家臣たちは従わなかった。
「腹立てずの会」で忌憚のない意見を交わし、武勇に秀でた家臣を選んで先鋒を任せ、自らは後ろに控えて指揮を執るなど工夫して信用を得た。
・石田三成vs徳川家康「関ヶ原の戦」
このお陰で、西軍の吉川、小早川を味方につけた
この長政の働きぶりを家康は特別にとりたてた
・その後の又兵衛
後に袂を分けた又兵衛も描かれている
慶長5年。黒田家は福岡に52万石が与えられた。隣りの細川家とは対立した関係にあり、長政の益富城はその間にあり睨みを利かせていた。
又兵衛は、ある日、益富城の守りを放棄して黒田家を飛び出す。
「大坂の夏の陣」
大名に見捨てられた豊臣家は、牢人らに集まるよう呼びかけた。
徳川側は大名軍20万人の大軍ではじめから勝ち目はなかったが、又兵衛はこれを有り難く受ける。
又兵衛は豊臣方の3000の兵とともに出陣し、伊達政宗らと猛然と戦って、戦死。享年56歳。
・福岡の発展へ
長政は現在の150万都市の礎を築いた。「道明寺だんじり祭り」の山車には又兵衛もいる
福岡市の光雲神社
長政は父と真逆で猪突猛進、短気だった
大河『軍師官兵衛』の間は、その先の人生が分かってしまったらつまらなくなるから、ずっと見るのを我慢してたんだけど、
完結したので、いろいろと予録してたのを解禁w
ドラマでは父側から描いていたけれども、息子側から見るとまた違うな。
松坂桃李くんが演じていたから普通にカッコ良かったけど、実はコンプレックスやら、父とは真逆な性格でなかなか複雑な人生だったみたい。
又兵衛がなぜ急に敵、それも牢人になっていたのかって謎も解けた。
・長政の子ども時代
父が又兵衛を引き取ってきて、後に墓石に「実子」と書くほど息子同然の扱いをして、長政は戸惑った
信長への忠誠心を表すために人質として長浜城に送られた
その後、荒木村重に捕われて戻らない官兵衛を謀反とみた信長は、松寿丸を殺せと命令するが、
同僚の竹中半兵衛によって救われる。しかし、カムフラージュのため女児の格好をさせられ屈辱的だったという
その後、官兵衛は「玉松」も養子にする。
天正15年。黒田家は中津に12万石を与えられる。
官兵衛の兜、長政の兜。兜のデザインも対照的
官兵衛「長政は自己中心的で、周りが見えていない」
ちなみにゴモラは長政がモデル!? 頭の形とか、大坂城を壊してるシーンとか/爆
官兵衛は留守で、長政は独断で城井谷城を攻めるが、狭い入り口を抜けると兵に待ち構えられていて散々な目に遭う。
和睦交渉と見せかけて、宇都宮一族と家臣も惨殺してしまう/驚
血の跡が壁に残り、何度塗りなおしても浮かび上がったため、全面真っ赤に塗ってある
胴を斬られて死んだ宇都宮鎮房の墓には横にヒビ、首を斬られた父の墓にもヒビ・・・
官兵衛は、そんな長政に責任感を持たせようと家督を譲るが、家臣たちは従わなかった。
「腹立てずの会」で忌憚のない意見を交わし、武勇に秀でた家臣を選んで先鋒を任せ、自らは後ろに控えて指揮を執るなど工夫して信用を得た。
・石田三成vs徳川家康「関ヶ原の戦」
このお陰で、西軍の吉川、小早川を味方につけた
この長政の働きぶりを家康は特別にとりたてた
・その後の又兵衛
後に袂を分けた又兵衛も描かれている
慶長5年。黒田家は福岡に52万石が与えられた。隣りの細川家とは対立した関係にあり、長政の益富城はその間にあり睨みを利かせていた。
又兵衛は、ある日、益富城の守りを放棄して黒田家を飛び出す。
「大坂の夏の陣」
大名に見捨てられた豊臣家は、牢人らに集まるよう呼びかけた。
徳川側は大名軍20万人の大軍ではじめから勝ち目はなかったが、又兵衛はこれを有り難く受ける。
又兵衛は豊臣方の3000の兵とともに出陣し、伊達政宗らと猛然と戦って、戦死。享年56歳。
・福岡の発展へ
長政は現在の150万都市の礎を築いた。「道明寺だんじり祭り」の山車には又兵衛もいる
福岡市の光雲神社