■『神との対話 宇宙をみつける自分をみつける』(サンマーク出版)
ニール・ドナルド・ウォルシュ/著 吉田利子/訳
■第1章 人生は、自分が何者であるかを思い出すため。すでに知っていることを体験する機会だ。
■第2章 自分の信念をもち、自分の価値観に従うこと〜
【内容抜粋メモ】
(質問文はなるべく省略して、返答の一部をメモしているので、飛んでいるとか矛盾していると感じるかも
■第7章 親、配偶者として、あなたの愛を相手をしばる接着剤にしてはならない
A:
選びなさい。だが、欲しがるのはやめなさい。
Q:妻や子どもがいたら、どうすればいいんですか? わたしは「現実にどう応用すればいいのか」を知りたいんです。
A:
家庭人の道はつねに厳しい。
毎月心配している「小切手」を何だと考えるか、何のために働いているかによって見方は違ってくる。
あなたの人生の目的が「安定」だとしたら、「小切手を1回もらえなきゃ救貧院行き」だと感じるのはよく分かる。
だが、魂の安らぎと、物質的な安らぎも手に入れられる。
ほかの人間の魂への責任はない。
あなたの仕事は、彼らを完全に早く自立させること。
神の最大の瞬間は、あなたがたが神を必要としないと気づいた時だ。
真の指導者とは、追随者がいちばん多いものではなく、最も多くの指導者を作り出す者だ。
親として、配偶者として、あなたの愛を、相手を縛るための接着剤にしてはならない。
まず引きつけ、つぎに転換させ、反発させる磁石にしなさい。
そうしないと、引きつけられた者はあなたに執着しなければ生きられないと信じはじめる。これほど真実とかけ離れたことはない。
辛い時には、真の自分を忘れがちになり、与えられた道具を忘れがちになる。
あなたの自己が実現することが、あなたの魂の唯一の目的だ。
現在の状況、環境は、一時的なかりそめのものだと考える。道具として使えるようになる。
Q:これは与えられた「試練」のひとつかもしれないと感じてしまうんです。
A:
ある原因があれば必ず結果が生じる。
自分は失業という状況の犠牲者だと考えている。だが、ほんとうは、もうあなたはその仕事を選択していないのだ。
あなたは朝、いやいやながら起き、仕事が楽しくなくなり、愚痴っぽい気分になりはじめていた。
何かほかにしたいと夢を見はじめていた。
Q:恥じ入ります。
A:
あなたは小さい頃から「悪い」と言われ続けてきた。罪悪感は、そういう学習の結果だ。
あなたがたは不完全なものとしてこの世に生まれたと教えられている。
■第8章 人間関係の目的は相手に満たしてもらうことではなく、「完全な自分」を分かち合う相手をもつことだ
Q:わたしはいつになったらなめらかな人間関係をもてるようになるんでしょうか?
A:
人間関係について学ばなければならないことは何もない。
ただ、知っていることを実証すればいい。
本来の目的のために関係を活用することだ。
その経験をいちばん直接的に、力強く、純粋に実践できるのが人間関係という場だ。
他がなければ、あなたも無だと覚えておきなさい。
(中学の時、わたしが人間関係に疲れて「みんな自分と同じ考え、性格だったら楽なのに」と言ったら、
友だちが「それじゃあ退屈でウンザリするんじゃない?」てゆってくれたことを思い出した。
自分を創りあげることは、意識的な構想に基づく素晴らしい創造にもなるし、「偶然まかせ」にしておくこともできる。
愛情関係が失敗する時、原因はそもそも間違った理由で関係を結んだことにある。
ほとんどのヒトは、相手との関係で「何を与えられるだろうか」と考えず、「何が得られるだろうか」と考えて関係を結ぶ。
人間関係の目的は、自身のどの部分を「明らかに」したいか決定すること。
ほんとうの自分は何者かを決め、ほんとうの自分になることだ。
特別な誰かに出会うまでは、自分は「何者でもない」と思うのは、とても夢があるが、真実ではない
「あなたを失望させたくない」ばかりに、相手はほんとうの自分らしくない努力をし、やがて耐えられなくなる。
期待を満たせずに恨みが生じ、怒りが湧き起こる。
相手は自身を救うため、ほんとうの自分らしくふるまうようになる。
すると、あなたは相手が「すっかり変わってしまった」と言う。
人間関係の目的は、相手に満たしてもらうことでなく、「完全な自分」を分かち合う相手をもつことだ。
ここに人間関係のパラドックス(逆説)がある。
ほんとうの自分を経験するために特別の相手を必要としない。
だが、他者がいなければあなたは何者でもない。これを深く理解する人間は非常に少ない。
あなたがたは40歳〜60歳になる頃、壮大な夢を諦め、ごく低い予想に甘んじるか、まったく期待しなくなる。
人間関係の試練は、相手があなたの思いにどこまで応えてくれるか、
自分が相手の思いにどこまで応えられるかにある、と思いこむ誤解だ。
だが、真の試練は、あなたがあなた自身への思いにどこまで応えられるかだ。
人間関係では、それぞれが自分のことを考えるべきだ。
もっとも愛情深い人間とは、もっとも自己中心的な人間だ。
自分を愛していなければ、相手を愛することはできない。
多くの人たちは、相手への愛情を通じて自分への愛情を求めるという過ちを犯している。潜在意識で。
「正しく相手を愛することさえできれば、相手は私を愛してくれるだろう。そうすれば自分を愛することができる」と。
これを裏返せば、愛してくれる他者がいないから自分を憎んでいる人が多い。
第一に、彼らは相手を信じない。自分を操って、何か期待しているのだろう、と考える。
第二に、ようやく愛されていると信じても、「いつまで愛してくれるだろう」と心配しはじめる。
愛情を繋ぎとめるために、ほんとうの自分とは違うふるまいを始める。
ひとりでいた時よりも、自分が小さくなったと感じ、喜びも満足も減ったと思う。
意識的に自分自身になっていくこと。これが最も重要な要素だ。
だから「自己中心的な者に幸いあれ。彼らは神を知るから」
馬を馬車の前につないでいるなら、やがてはそれを恨むようになる。
ヒトにとって耐えられないのは、自分より他者のほうが神聖だということだから。
あなたがたは、わたしが送った教師のすべてを「迫害」してきた。
彼らがあなたより神聖だったからではなく、あなたがたが彼らを神聖な存在に祭り上げたからだ。
Q:人間関係で傷ついても「受け流せ、平気でいろ」というのは立派ですが、言うは易く、行うは難しです。
A:
まず、どう感じているかを自分にも相手にも正直に認めなさい
怒り、嫌悪を味わい「仕返ししたい」と思っている者も、
いつかは「そんな自分にはなりたいくない」と考えて否定的な考えを捨てることができるだろう。
マスターは災厄を祝福する。
災難のたねから自己の成長が生まれることを知っている。
マスターとは、つねに同じ気高い選択、回答を出す人たちだ。
できるだけ得をするという観点から人生を生きていると、人生の真の利益を失う。チャンスを見逃す。
多くの人は「わたしの身体、それがわたしだ」と言う。
だが聞く耳のある者は「わたしの魂、それがわたしだ」と言う。
人間関係の問題はひとつしかない。
「いま、愛なら何をするだろうか?」
他者に最高の善をもたらすあり方や行為を選択すること。
最も気高い選択とは、あなた自身に最高の善をもたらすものだ。
あなたにとっての最高の善が、他者にとっても最高の善になる。
あなたがたが自分のためにすることは、他者のためにすることだ。あなたと他者はひとつだから。
あらゆる「難解な真理」のなかで、現実に応用しやすい真実だ。
気高い意味で自身を第一に考えるなら、決して神意にかなわない行動をするはずはない。
あなたは「何をしようと」しているのか? その疑問に答えなければ、何が最善かいつまでも謎だろう。
「虐待」を続けさせておけば、虐待する側までが虐待されることになる。
愛情ある態度をとるということは、必ずしも相手の好きにさせるということではない。
横暴な独裁者を栄させてはいけない。
人生には、ほんとうの自分でない面を示すことで、ほんとうの自分を証明することを要求されることが何度かある。
ただ、傷つけられても放っておくことが、あなた自身にとっても他者にとっても愛ある行為とは限らない。
あなたは何を悪と呼び、何を善と呼ぶかで自身を「定義」する。
悟りへの途上においては、傷つき、喪失を経験の一部として認め、それとの関係でほんとうの自分とは何かを決定すればいい。
それに早く到達する方法は、完全に正直になることだ。
経験によって新たなことが分かったら、素直にすばやく変更しなさい。
まともな精神をもつものなら、人間関係で傷ついても「受け流せ、平気でいろ」などとは言わない。
人間関係の犠牲者になる必要はない。1分たりともガマンする必要はない。
義務、制約、ルールもない。あなたは、どんな規範や法律にも拘束されない。
宗教家たちは、わたしがあなたがたを真の自分より劣るものとして創ったと信じ込ませている。
あらゆる困難を克服しなければならないと。
そういう宗教は、神が受け入れてくれれば「救われる」が、それまではどんな努力をしても何の効果もない、と言う。
問題はあなたが言う「キリスト教のファンダメンタリスト(原理主義者)」の教義ではない。
あなたは義務のない関係を考えられない。ほんとうの自分を受け入れられないからだ。
完璧に自由な人生を、あなたは「宗教的なアナーキズム」だと言う。
「結婚」は神聖だとされている。だが、神聖な義務だからではなく、比類ないチャンスだからだ。
Q:わたしは人間関係が難しくなるたび投げ出してきました(同じこといってるよ
A:
あなたは、ひとつの関係を長く続けることが成功だと思っているようだが、それは勘違いだ。
短いほうがいいというのではなく、長ければいいわけでもない。
長い人間関係はお互いの成長、経験、充足にとって素晴らしいチャンスで、成果だ。
たいていのヒトは「間違った」理由から人間関係を結んでいる。
寂しさから逃れるため、愛を感じたいため、自我を救うため、性生活を向上させたいため、退屈だからという場合もある。
自分がなぜ「恋に落ちた」か立ち止まって考えたか?
「取引をする。あなたが持っているものをくれるなら、わたしも持っているものをあげましょう」これは商行為だ。
これを「あなたと大きな取引をします」とは言わず、「とても愛しています」と言う。それが失望のはじまりだ。
難題や困難を避けようとしてはいけない。神からの偉大な贈り物だと歓迎しなさい。
わたしたちが相手に見るものを、相手は自身に見る。
ヴィジョンが大きくなるほど、相手は進んでそのヴィジョンを自分の中に発見し、わたしたちにも見せてくれる。
その方法は、自分でほんとうの自分を思い出す(こちらのほうがずっと易しい)こと。ヒトはあなたの中に自身を見る。
(だんだん難しくなるなあ・・・
あなた(ニールさん)はメッセンジャーだ。
なぜなら、今、そしてこれからしばらくの間、世界には、神の言葉をほがらかに響かせるたくさんのトランペットが必要だからだ。
知っているだろうが、世界はほかのことなら何でも受け入れても、神につかわされた人間は受け入れたがらない。
■第9章 「ほんとうの自分であること」は人生で一番の難題だ。それができるヒトはごく少ない
わたしが人間を眺める最高の基準に照らせば、怒りの表現、敵意の放出、敵対者を罰する手段として
「殺害が正当化」されることは決してない。
懲罰、報復、小さな違いを解決する手段としての殺害が行われてもいいということはない。
多くの場合、あなたがたはほかの誰かの決定を受け入れている。昔の人や年上の人たちのほうがよく知っているだろうと考えている。
重要なことになるほど、別のヒトの考えに従いがちだ。
神の本質、真のモラルとは何か、戦争、医療、安楽死、個人の価値観、こういう問題をあなたがたは放棄し、他人任せにしている。
「誰かが決めるだろう。 わたしはついていけばいい」
そうすれば考える必要がなくなるから。
国家は政治的な目的を達するためにヒトを殺してもいいか?
宗教は教義に従わせるためにヒトを殺してもいいか?
社会はルールに違反した者を殺してもいいか?
自衛のためにヒトを殺してもいいか?
国家、宗教は、権力機構として存続するために、その言葉を信じろと命ずる。
社会は、ある種の違反行為(時代によって変わるが)を犯した者を罰するためには「死刑」も必要だ、と信じるようしむけるだろう。
自分で考えるのは辛いことだ。あなたは純粋な創造の場に置かれる。
過去の知識にたよらない決断、それが「純粋な創造」と呼ばれる。
あなたがたはこの重要な仕事には関心がなく、他人任せにしたがる。だから「習慣」の生き物でいる。
他人からどうあなたが感じるべきかを指示され、自分のほんとうの気持ちと違うと、深い真理的な葛藤を経験する。
あなたがたがまず行くのは僧侶、教師のところだ。
ひどいヒトはあなたを脅し、直感的に知ったことを捨てさせようとする。
認められ、大げさに騒がれることはたいてい心から納得して決めたことではない。
個人の誠実な選択がそう祝福されることはほとんどなく、嘲笑されるかもしれない。
「自分で考えるんだって?! いったい何様のつもりなんだ?」
そう、おまえは何者か、という問いに答えることになる。
その仕事はたったひとりでしなければならない。報償もなく、気づいてももらえないかもしれない。
だが、そうする理由はばかばかしいほど簡単だ。
「ほかにはどうしようもないから」
あなたの誕生は、旅のはじまりを告げる合図にほかならない。
問題は、この道を意識的に歩くか、無意識のまま歩くかということだ。
もうあなたには、数少ない生しか残されていないというしるしだ。←ニールさんのこと
そう遠くない昔、あなたは豊かになりたい、有名になりたいと願った。
いま、あなたはただほんとうの自分になりたいと願っている。
あなたはわたしを愛している。わたしをあなたと平等だと言うほどに愛している。これらはほんとうに、とても良い兆候だ。
たくさん思い出せば思い出すほど、たくさんのことを経験することができて、たくさんのことを知ることができる。
そして、たくさんのことを知れば知るほど、たくさんのことを思い出す。循環しているんだ
人生はじつに甘美なものだ!
あなたはすべてを経験させてもらえる。
涙、楽しさ、苦痛、昂揚、激しい憂うつも、勝利、敗北、引き分けも経験できる。これ以上、何がある?
あなたは苦痛なしに愛すること、手放すこと、創造すること、苦痛なしに泣くことさえ学んでいる(思い出している)はずだ。
■第10章
Q:わたしはあなたを愛しています。ご存知ですか?
A:知っている。そして、わたしもあなたを愛している。
■第11章 良いものはすべて足りないという集合的な意識が、いまの世界を創造している
A:
あなたの人生で最大の難問は、「自意識」をどうコントロールするかだった。
恥じ入るというのは、他人にどう見られるかを重要視する自意識の強い人間の反応だ。笑ってごらん
Q:わたしは永遠にあくせく働き、つつましく暮らす運命なんですか?
A:
あなたは、金は悪いものだと思っている。神は善いものだと思っている。それはよろしい。
しかし、あなたの思考の中で、神と金は混じりあわない。
すると、良いことをして金を得ることが難しくなる。
「より良い」ことは、金銭的な価値が少ないと、あなたがたの社会全体が考えている。
だから、教師は薄給で、ストリップの踊り子は大金を稼いでいる。
その差を埋めるためには汚職をする。聖職者はパンと水で暮らしていて、タレントたちには金が降るように集まってくる。
あなたがたは、本質的な価値のあるものは安く手に入るべきだと思っている。
あなたがたは、金を愛しているのに、金はすべての悪の根源だと言う。「汚い銭」「汚い金持ち」呼ばわりする。
たいていのヒトは、生活のためにイヤでたまらないことをしているから、金を得ることを何とも思わない。
「悪い」ものを得るために「悪い」ことをしている。
金にまつわる矛盾がある。あなたの一部は金を拒否しているのに、一部は金がないことを恨んでいる。
それでは宇宙はあなたから2種類の違った思考を受け取るからどうしていいか分からない。考え方に一貫性がなくて揺れ動いているからだ。
宇宙は、「巨大なコピー機」にすぎない。あなたの考えを何枚もコピーするだけだ。あなたの考えを変えるしかない。
Q:考え方は一瞬で変えられません。
A:
支えとなっている考えをどうすれば変えられるか?
根になる考えをいちばん速く変える方法は、「思考→言葉→行為」というプロセスを逆転させることだ。
こうありたいと思う考えに基づいて行動しなさい。何度も実行すれば、精神の訓練ができて、新しい考え方ができるようになる。
世界があなたの精神を操作して、いまのような考え方をさせているのを知らないのか? 自分で操作するほうが良くはないか?
こうありたいという自分の希望に基づいた考えはさらに少ない。
あなたには、金に関して根となる思考がもうひとつある。「足りない」という考えだ。
金が足りない、時間が足りない、愛が足りない、食べ物、水、同情が足りない、良いものはすべて足りない。
この足りないという集合的な意識が、いまの世界を創造している。
ほかにも、もっとある。
金は手に入りにくい、ただほど高いものはない、金のなる木はない(実はあるのだが)()。。
あなたの現在の経験の多くは、いままでの考え方がもとになっている。
支えとなる考えが楽しいものなら、つねに喜びを生む。逆なら地獄を生み出す。
思考→言葉→行為というパラダイムを逆転させることだ。
“行動する前に考えよ”という古い格言を知っているか?
根となる考えを変えたければ、「考える前」に行動しなければいけない。
パラダイム=ある時代に支配的な物の考え方・認識の枠組み。規範。「
あなたは金を稼いだところにはまだ金があることをはっきりと知っている。
新しい考え方に従って行動しなさい。だが、急いで行動しなくてはいけない。
そうしないと、気づいた時には精神が邪魔をして新しい考えを文字通り殺してしまう。
機会があったら急いで行動しなさい
Q:新思考運動というのはそういうことなんですね?
A:
もしそうでなくても、そうあるべきだ。
■第12章 ほんとうにしたいことを、どんどんしなさい! ほかのことをしてはいけない
Q:どうしてわたしは、ほんとうにしたいことをして暮らしていけないんでしょうか?
A:
ほんとうにしたいことをして暮らしている人は、何が何でもそうしたいとこだわっている人だ。彼らは諦めない。決して譲歩しない。
そして、何かで「在ること」と「行動すること」には違いがあり、たいていのヒトは後者に力点を置いているということだ。
魂の発達を選ぶなら、身体の世間的な活動によって達成することはできない。
身体はつねに何かをしている。何かをしようとしている。
魂は永遠に在るものだ。身体が何をしようとも、魂が在るがままに存在する。
人生とは「行動すること」だと考えているなら、自分を理解していない。
魂にとっては、どんな行動をするかではなく、その間どんなふうに在るかだけが大切だ。
経験するには何もしないのがいちばんいいということも知っている。何もせずただ在ることだ。(???
あなたが望む在り方なら何でも。幸福、哀しみ、弱さ、強さ、喜び、復讐、洞察、盲目、善悪、男女、なんでもかまわない。
Q:新しいビジネスを起こすのに大事なのは「場所」だと聞いたことがあります。
A:
それもひとつの答えらしいな。魂の関心事はただひとつ。あなたがどこへ行くか、ということだけだ。
同じ資質を持った2人の1人は成功し、1人は失敗した。
1人は開放的、親しみ深く、陽気で、自信があり、仕事を楽しんでいる。
1人は閉鎖的、冷たくて、陰気で、自分がしていることを嫌っている。
あなたは身体によって何かを生むために、この地上にいるのではない。魂によって何かを生むために、この地上にいる。
身体は魂の道具にすぎない。
「わたし」であることを求める魂には、「在り方」の膨大なメニューの中から選ばなければならない。
いま、この瞬間も魂はそれをしている。
魂は、計画どおりの経験ができるようにと、正しい完璧な機会にあなたを導く。
実際に何を経験するかはあなた次第だ。それはあなたが何を選んだかによる。
「父」は「息子」に自分の意志を押しつけはしない。それは「父」の本質と異なるもので、文字どおり不可能だからだ。
精神は始終意志を身体に押しつけようとするし、実際に押しつける。
身体は精神を支配しようとして、支配に成功することが多い。
だが、魂には何かしなければならないという必要性がなく、身体と精神がしたいようにさせておく。
従属は創造ではないから、救済にはつながらない。
精神の働きとは、選択肢の中から選択することだ。
身体の働きとは、選択を行動に移すことだ。
身体、精神、魂が一体となって調和し、ともに創造する時、神が肉体化する。
その時、魂は自らの体験の中で自らを知る。そして、天は喜ぶ。
わたしはあなたの世俗的な成功には関心がない。あなたが関心をもっているだけだ。
真のマスターは、暮らしをたてることではなく、生きることを選んだヒトたちだ。
ある種の在り方からは、非常に豊かで充実した、生き甲斐のある素晴らしい人生が生まれる。
そうなったら世間的な財産や成功はどうでもよくなるだろう。
人生の皮肉は、世間的な財産や成功に関心がなくなった途端に、それがふんだんに流れ込んでくる道が開けるということだ。
あなたは欲しがるものを持てないが、持っているものは何でも経験できるだろう。
「わたし」という言葉は創造というエンジンをスタートさせるキーだ。
「わたし」という言葉は非常に強力だ。宇宙への宣言、命令なのだ。
「わたし」+「成功したい」では、成功したがっているあなたが生まれる。
たとえば怒りや苛立ちのたった一度のことなら、現実になることはないだろう。「地獄へ落ちろ!」などについては、そう心配しなくていい。
ある考えや言葉を何度も繰り返したら、一度でなく、何千回も繰り返したら、
その創造力がどれほど大きいか、見当がつくだろうか?
質問の答えは、「成功したい」と考える代わりに「わたしは成功している」と考えることだ。
あなたがが受け入れられる考え方をしなさい。「さあ、いよいよわたしは成功する」「すべては成功に導いてくれる」と。
うまくいくのは、真実であるとすでに知っていることを宣言する場合だけだ。
プラス思考の最高のかたちは、「感謝の言葉」だ。
人生で何かを経験したければ、それを「欲しい」と思ってはいけない。それを選びなさい。
***************身体・物質のつくりについて
どの魂にも、本質的ないのちの成長に関心をもつ発達段階が訪れる。
ある意味、これは非常に危険な時期だ。とくにはじめは。
なぜなら、身体にかかわることはどうでもいいと感じてしまう。
あなたは身体、精神、本質的ないのちである霊魂という3つの部分からなる存在だ。
地上にいる間だけではなく、いつも3つの部分からなる存在である。
死ぬ時には、身体も精神も捨てられない。身体はかたちを変え、最も濃厚な部分は捨てられるが、外殻はつねに維持されている。
あるヒトたちの言葉を借りれば、エーテル状の身体の振動数が低下し、
目に見えないほどの高速な振動から、物質を生じて固まりになる速度へと落ちる。
この「実体」のある物質は、純粋な思考によって創られる。
精神によってコントロールできる塊で、じつはあなたの精神が物質を動かす主(あるじ)だ!
小さなエネルギーの単位がそれぞれのエネルギーを使い果たすと、身体はそれを捨て、精神が新しいエネルギーを創り出す。
精神は「自分とは何者か?」と考えつづけることで、そのエネルギーを創っている!
あなたが「病気」について考えると、身体はその思考を物理的なかたちに変える。
ヒトはこの否定的な病んだかたちを見て「どうしたのか?(What's the matter?)→どんな物質なのか?」と聞く。
Q:死後、わたしの「パーソナリティ」は続くという意味ですか?
A:
そう、これまで何者だったかも知っている。
決算はない。「よい」とか「だめだ」と言う者はいない。審判をしたがるのは人間だけだ。
だが、自分がこの世で考えたり、行ったすべてを見直し、自分は何者になりたいかということに照らし合わせたら、
もう一度同じことをするかどうか判断する機会はあるだろう。
Q:
カーマ・ローカと呼ばれる東洋の神秘的な教えがあります。
死ぬ時に自分がしたことはすでに体験済みだから、相手がどう感じたかを体験するんです。
A:
死後の経験は別の次元のもので、言葉という大きな制約がある道具での表現を受け付けない。
苦痛や恐怖、審判なしにまた現在の生を見直す機会を与えられる、
あなたは現世の経験をどう感じるか判断し、それをもとにどこへ行きたいかを決める、と言えば充分だろう。
あなたがたの多くは、この世へ戻ってこようと決意する。
また、少数の者は、他のヒトをこの高密度の相対的な世界から連れ出すためにだけ戻ってくる。
彼らの仕事は完成している。彼らは奉仕することだけを目指している。そういう人たちは見れば分かる。
Q:わたしは違うのですか?
A:
違う。尋ねなければ分からないなら、違うのだ。その人たちは、尋ねることは何もないのだ。
あなたがほんとうにしたいことを、どんどんしなさい! ほかのことをしてはいけない。
生活のためにしたくもないことをして、人生の時間を無駄にしようなどと、どうして考えるのか?
少なくとも、楽しいことをしなさい。過小評価することはない。
身体の行動は、存在のある段階を達成しようとする魂の試みではなく、存在のある段階を反映している。
真の秩序の中では、幸せになるために何かをするのではない。幸せだから、何かをする。
共感しているから、優しい行動をとる。
高い意識をもつヒトは、魂の決定が先で、その後に身体の行動がくる。
だが、あなたの身体がすることはあなたの人生の反映だというのは真実だ。
あなたがたには楽しむ権利がある。子どもがあろうと、配偶者がいようといまいと。
金があってもなくても、楽しい家庭はできる。
幸福になるのは良いことだ。仕事においても幸福になっていい。
あなたのライフワークは「自分が何者であるか」を宣言することである。
「どんな犠牲を払ってでも、自分の幸福を捨ててでも、家族を支える男」があなたなら、自分の仕事を愛しなさい。
「責任を果たすために嫌な職業に就いている女性」があなたなら、その職業を愛しなさい。
それがあなたの自己イメージをしっかりと支えてくれるから。
誰も、自分がしたくないことはしない。
ニール・ドナルド・ウォルシュ/著 吉田利子/訳
■第1章 人生は、自分が何者であるかを思い出すため。すでに知っていることを体験する機会だ。
■第2章 自分の信念をもち、自分の価値観に従うこと〜
【内容抜粋メモ】
(質問文はなるべく省略して、返答の一部をメモしているので、飛んでいるとか矛盾していると感じるかも
■第7章 親、配偶者として、あなたの愛を相手をしばる接着剤にしてはならない
A:
選びなさい。だが、欲しがるのはやめなさい。
Q:妻や子どもがいたら、どうすればいいんですか? わたしは「現実にどう応用すればいいのか」を知りたいんです。
A:
家庭人の道はつねに厳しい。
毎月心配している「小切手」を何だと考えるか、何のために働いているかによって見方は違ってくる。
あなたの人生の目的が「安定」だとしたら、「小切手を1回もらえなきゃ救貧院行き」だと感じるのはよく分かる。
だが、魂の安らぎと、物質的な安らぎも手に入れられる。
ほかの人間の魂への責任はない。
あなたの仕事は、彼らを完全に早く自立させること。
神の最大の瞬間は、あなたがたが神を必要としないと気づいた時だ。
真の指導者とは、追随者がいちばん多いものではなく、最も多くの指導者を作り出す者だ。
親として、配偶者として、あなたの愛を、相手を縛るための接着剤にしてはならない。
まず引きつけ、つぎに転換させ、反発させる磁石にしなさい。
そうしないと、引きつけられた者はあなたに執着しなければ生きられないと信じはじめる。これほど真実とかけ離れたことはない。
辛い時には、真の自分を忘れがちになり、与えられた道具を忘れがちになる。
あなたの自己が実現することが、あなたの魂の唯一の目的だ。
現在の状況、環境は、一時的なかりそめのものだと考える。道具として使えるようになる。
Q:これは与えられた「試練」のひとつかもしれないと感じてしまうんです。
A:
ある原因があれば必ず結果が生じる。
自分は失業という状況の犠牲者だと考えている。だが、ほんとうは、もうあなたはその仕事を選択していないのだ。
あなたは朝、いやいやながら起き、仕事が楽しくなくなり、愚痴っぽい気分になりはじめていた。
何かほかにしたいと夢を見はじめていた。
Q:恥じ入ります。
A:
あなたは小さい頃から「悪い」と言われ続けてきた。罪悪感は、そういう学習の結果だ。
あなたがたは不完全なものとしてこの世に生まれたと教えられている。
■第8章 人間関係の目的は相手に満たしてもらうことではなく、「完全な自分」を分かち合う相手をもつことだ
Q:わたしはいつになったらなめらかな人間関係をもてるようになるんでしょうか?
A:
人間関係について学ばなければならないことは何もない。
ただ、知っていることを実証すればいい。
本来の目的のために関係を活用することだ。
その経験をいちばん直接的に、力強く、純粋に実践できるのが人間関係という場だ。
他がなければ、あなたも無だと覚えておきなさい。
(中学の時、わたしが人間関係に疲れて「みんな自分と同じ考え、性格だったら楽なのに」と言ったら、
友だちが「それじゃあ退屈でウンザリするんじゃない?」てゆってくれたことを思い出した。
自分を創りあげることは、意識的な構想に基づく素晴らしい創造にもなるし、「偶然まかせ」にしておくこともできる。
愛情関係が失敗する時、原因はそもそも間違った理由で関係を結んだことにある。
ほとんどのヒトは、相手との関係で「何を与えられるだろうか」と考えず、「何が得られるだろうか」と考えて関係を結ぶ。
人間関係の目的は、自身のどの部分を「明らかに」したいか決定すること。
ほんとうの自分は何者かを決め、ほんとうの自分になることだ。
特別な誰かに出会うまでは、自分は「何者でもない」と思うのは、とても夢があるが、真実ではない
「あなたを失望させたくない」ばかりに、相手はほんとうの自分らしくない努力をし、やがて耐えられなくなる。
期待を満たせずに恨みが生じ、怒りが湧き起こる。
相手は自身を救うため、ほんとうの自分らしくふるまうようになる。
すると、あなたは相手が「すっかり変わってしまった」と言う。
人間関係の目的は、相手に満たしてもらうことでなく、「完全な自分」を分かち合う相手をもつことだ。
ここに人間関係のパラドックス(逆説)がある。
ほんとうの自分を経験するために特別の相手を必要としない。
だが、他者がいなければあなたは何者でもない。これを深く理解する人間は非常に少ない。
あなたがたは40歳〜60歳になる頃、壮大な夢を諦め、ごく低い予想に甘んじるか、まったく期待しなくなる。
人間関係の試練は、相手があなたの思いにどこまで応えてくれるか、
自分が相手の思いにどこまで応えられるかにある、と思いこむ誤解だ。
だが、真の試練は、あなたがあなた自身への思いにどこまで応えられるかだ。
人間関係では、それぞれが自分のことを考えるべきだ。
もっとも愛情深い人間とは、もっとも自己中心的な人間だ。
自分を愛していなければ、相手を愛することはできない。
多くの人たちは、相手への愛情を通じて自分への愛情を求めるという過ちを犯している。潜在意識で。
「正しく相手を愛することさえできれば、相手は私を愛してくれるだろう。そうすれば自分を愛することができる」と。
これを裏返せば、愛してくれる他者がいないから自分を憎んでいる人が多い。
第一に、彼らは相手を信じない。自分を操って、何か期待しているのだろう、と考える。
第二に、ようやく愛されていると信じても、「いつまで愛してくれるだろう」と心配しはじめる。
愛情を繋ぎとめるために、ほんとうの自分とは違うふるまいを始める。
ひとりでいた時よりも、自分が小さくなったと感じ、喜びも満足も減ったと思う。
意識的に自分自身になっていくこと。これが最も重要な要素だ。
だから「自己中心的な者に幸いあれ。彼らは神を知るから」
馬を馬車の前につないでいるなら、やがてはそれを恨むようになる。
ヒトにとって耐えられないのは、自分より他者のほうが神聖だということだから。
あなたがたは、わたしが送った教師のすべてを「迫害」してきた。
彼らがあなたより神聖だったからではなく、あなたがたが彼らを神聖な存在に祭り上げたからだ。
Q:人間関係で傷ついても「受け流せ、平気でいろ」というのは立派ですが、言うは易く、行うは難しです。
A:
まず、どう感じているかを自分にも相手にも正直に認めなさい
怒り、嫌悪を味わい「仕返ししたい」と思っている者も、
いつかは「そんな自分にはなりたいくない」と考えて否定的な考えを捨てることができるだろう。
マスターは災厄を祝福する。
災難のたねから自己の成長が生まれることを知っている。
マスターとは、つねに同じ気高い選択、回答を出す人たちだ。
できるだけ得をするという観点から人生を生きていると、人生の真の利益を失う。チャンスを見逃す。
多くの人は「わたしの身体、それがわたしだ」と言う。
だが聞く耳のある者は「わたしの魂、それがわたしだ」と言う。
人間関係の問題はひとつしかない。
「いま、愛なら何をするだろうか?」
他者に最高の善をもたらすあり方や行為を選択すること。
最も気高い選択とは、あなた自身に最高の善をもたらすものだ。
あなたにとっての最高の善が、他者にとっても最高の善になる。
あなたがたが自分のためにすることは、他者のためにすることだ。あなたと他者はひとつだから。
あらゆる「難解な真理」のなかで、現実に応用しやすい真実だ。
気高い意味で自身を第一に考えるなら、決して神意にかなわない行動をするはずはない。
あなたは「何をしようと」しているのか? その疑問に答えなければ、何が最善かいつまでも謎だろう。
「虐待」を続けさせておけば、虐待する側までが虐待されることになる。
愛情ある態度をとるということは、必ずしも相手の好きにさせるということではない。
横暴な独裁者を栄させてはいけない。
人生には、ほんとうの自分でない面を示すことで、ほんとうの自分を証明することを要求されることが何度かある。
ただ、傷つけられても放っておくことが、あなた自身にとっても他者にとっても愛ある行為とは限らない。
あなたは何を悪と呼び、何を善と呼ぶかで自身を「定義」する。
悟りへの途上においては、傷つき、喪失を経験の一部として認め、それとの関係でほんとうの自分とは何かを決定すればいい。
それに早く到達する方法は、完全に正直になることだ。
経験によって新たなことが分かったら、素直にすばやく変更しなさい。
まともな精神をもつものなら、人間関係で傷ついても「受け流せ、平気でいろ」などとは言わない。
人間関係の犠牲者になる必要はない。1分たりともガマンする必要はない。
義務、制約、ルールもない。あなたは、どんな規範や法律にも拘束されない。
宗教家たちは、わたしがあなたがたを真の自分より劣るものとして創ったと信じ込ませている。
あらゆる困難を克服しなければならないと。
そういう宗教は、神が受け入れてくれれば「救われる」が、それまではどんな努力をしても何の効果もない、と言う。
問題はあなたが言う「キリスト教のファンダメンタリスト(原理主義者)」の教義ではない。
あなたは義務のない関係を考えられない。ほんとうの自分を受け入れられないからだ。
完璧に自由な人生を、あなたは「宗教的なアナーキズム」だと言う。
「結婚」は神聖だとされている。だが、神聖な義務だからではなく、比類ないチャンスだからだ。
Q:わたしは人間関係が難しくなるたび投げ出してきました(同じこといってるよ
A:
あなたは、ひとつの関係を長く続けることが成功だと思っているようだが、それは勘違いだ。
短いほうがいいというのではなく、長ければいいわけでもない。
長い人間関係はお互いの成長、経験、充足にとって素晴らしいチャンスで、成果だ。
たいていのヒトは「間違った」理由から人間関係を結んでいる。
寂しさから逃れるため、愛を感じたいため、自我を救うため、性生活を向上させたいため、退屈だからという場合もある。
自分がなぜ「恋に落ちた」か立ち止まって考えたか?
「取引をする。あなたが持っているものをくれるなら、わたしも持っているものをあげましょう」これは商行為だ。
これを「あなたと大きな取引をします」とは言わず、「とても愛しています」と言う。それが失望のはじまりだ。
難題や困難を避けようとしてはいけない。神からの偉大な贈り物だと歓迎しなさい。
わたしたちが相手に見るものを、相手は自身に見る。
ヴィジョンが大きくなるほど、相手は進んでそのヴィジョンを自分の中に発見し、わたしたちにも見せてくれる。
その方法は、自分でほんとうの自分を思い出す(こちらのほうがずっと易しい)こと。ヒトはあなたの中に自身を見る。
(だんだん難しくなるなあ・・・
あなた(ニールさん)はメッセンジャーだ。
なぜなら、今、そしてこれからしばらくの間、世界には、神の言葉をほがらかに響かせるたくさんのトランペットが必要だからだ。
知っているだろうが、世界はほかのことなら何でも受け入れても、神につかわされた人間は受け入れたがらない。
■第9章 「ほんとうの自分であること」は人生で一番の難題だ。それができるヒトはごく少ない
わたしが人間を眺める最高の基準に照らせば、怒りの表現、敵意の放出、敵対者を罰する手段として
「殺害が正当化」されることは決してない。
懲罰、報復、小さな違いを解決する手段としての殺害が行われてもいいということはない。
多くの場合、あなたがたはほかの誰かの決定を受け入れている。昔の人や年上の人たちのほうがよく知っているだろうと考えている。
重要なことになるほど、別のヒトの考えに従いがちだ。
神の本質、真のモラルとは何か、戦争、医療、安楽死、個人の価値観、こういう問題をあなたがたは放棄し、他人任せにしている。
「誰かが決めるだろう。 わたしはついていけばいい」
そうすれば考える必要がなくなるから。
国家は政治的な目的を達するためにヒトを殺してもいいか?
宗教は教義に従わせるためにヒトを殺してもいいか?
社会はルールに違反した者を殺してもいいか?
自衛のためにヒトを殺してもいいか?
国家、宗教は、権力機構として存続するために、その言葉を信じろと命ずる。
社会は、ある種の違反行為(時代によって変わるが)を犯した者を罰するためには「死刑」も必要だ、と信じるようしむけるだろう。
自分で考えるのは辛いことだ。あなたは純粋な創造の場に置かれる。
過去の知識にたよらない決断、それが「純粋な創造」と呼ばれる。
あなたがたはこの重要な仕事には関心がなく、他人任せにしたがる。だから「習慣」の生き物でいる。
他人からどうあなたが感じるべきかを指示され、自分のほんとうの気持ちと違うと、深い真理的な葛藤を経験する。
あなたがたがまず行くのは僧侶、教師のところだ。
ひどいヒトはあなたを脅し、直感的に知ったことを捨てさせようとする。
認められ、大げさに騒がれることはたいてい心から納得して決めたことではない。
個人の誠実な選択がそう祝福されることはほとんどなく、嘲笑されるかもしれない。
「自分で考えるんだって?! いったい何様のつもりなんだ?」
そう、おまえは何者か、という問いに答えることになる。
その仕事はたったひとりでしなければならない。報償もなく、気づいてももらえないかもしれない。
だが、そうする理由はばかばかしいほど簡単だ。
「ほかにはどうしようもないから」
あなたの誕生は、旅のはじまりを告げる合図にほかならない。
問題は、この道を意識的に歩くか、無意識のまま歩くかということだ。
もうあなたには、数少ない生しか残されていないというしるしだ。←ニールさんのこと
そう遠くない昔、あなたは豊かになりたい、有名になりたいと願った。
いま、あなたはただほんとうの自分になりたいと願っている。
あなたはわたしを愛している。わたしをあなたと平等だと言うほどに愛している。これらはほんとうに、とても良い兆候だ。
たくさん思い出せば思い出すほど、たくさんのことを経験することができて、たくさんのことを知ることができる。
そして、たくさんのことを知れば知るほど、たくさんのことを思い出す。循環しているんだ
人生はじつに甘美なものだ!
あなたはすべてを経験させてもらえる。
涙、楽しさ、苦痛、昂揚、激しい憂うつも、勝利、敗北、引き分けも経験できる。これ以上、何がある?
あなたは苦痛なしに愛すること、手放すこと、創造すること、苦痛なしに泣くことさえ学んでいる(思い出している)はずだ。
■第10章
Q:わたしはあなたを愛しています。ご存知ですか?
A:知っている。そして、わたしもあなたを愛している。
■第11章 良いものはすべて足りないという集合的な意識が、いまの世界を創造している
A:
あなたの人生で最大の難問は、「自意識」をどうコントロールするかだった。
恥じ入るというのは、他人にどう見られるかを重要視する自意識の強い人間の反応だ。笑ってごらん
Q:わたしは永遠にあくせく働き、つつましく暮らす運命なんですか?
A:
あなたは、金は悪いものだと思っている。神は善いものだと思っている。それはよろしい。
しかし、あなたの思考の中で、神と金は混じりあわない。
すると、良いことをして金を得ることが難しくなる。
「より良い」ことは、金銭的な価値が少ないと、あなたがたの社会全体が考えている。
だから、教師は薄給で、ストリップの踊り子は大金を稼いでいる。
その差を埋めるためには汚職をする。聖職者はパンと水で暮らしていて、タレントたちには金が降るように集まってくる。
あなたがたは、本質的な価値のあるものは安く手に入るべきだと思っている。
あなたがたは、金を愛しているのに、金はすべての悪の根源だと言う。「汚い銭」「汚い金持ち」呼ばわりする。
たいていのヒトは、生活のためにイヤでたまらないことをしているから、金を得ることを何とも思わない。
「悪い」ものを得るために「悪い」ことをしている。
金にまつわる矛盾がある。あなたの一部は金を拒否しているのに、一部は金がないことを恨んでいる。
それでは宇宙はあなたから2種類の違った思考を受け取るからどうしていいか分からない。考え方に一貫性がなくて揺れ動いているからだ。
宇宙は、「巨大なコピー機」にすぎない。あなたの考えを何枚もコピーするだけだ。あなたの考えを変えるしかない。
Q:考え方は一瞬で変えられません。
A:
支えとなっている考えをどうすれば変えられるか?
根になる考えをいちばん速く変える方法は、「思考→言葉→行為」というプロセスを逆転させることだ。
こうありたいと思う考えに基づいて行動しなさい。何度も実行すれば、精神の訓練ができて、新しい考え方ができるようになる。
世界があなたの精神を操作して、いまのような考え方をさせているのを知らないのか? 自分で操作するほうが良くはないか?
こうありたいという自分の希望に基づいた考えはさらに少ない。
あなたには、金に関して根となる思考がもうひとつある。「足りない」という考えだ。
金が足りない、時間が足りない、愛が足りない、食べ物、水、同情が足りない、良いものはすべて足りない。
この足りないという集合的な意識が、いまの世界を創造している。
ほかにも、もっとある。
金は手に入りにくい、ただほど高いものはない、金のなる木はない(実はあるのだが)()。。
あなたの現在の経験の多くは、いままでの考え方がもとになっている。
支えとなる考えが楽しいものなら、つねに喜びを生む。逆なら地獄を生み出す。
思考→言葉→行為というパラダイムを逆転させることだ。
“行動する前に考えよ”という古い格言を知っているか?
根となる考えを変えたければ、「考える前」に行動しなければいけない。
パラダイム=ある時代に支配的な物の考え方・認識の枠組み。規範。「
あなたは金を稼いだところにはまだ金があることをはっきりと知っている。
新しい考え方に従って行動しなさい。だが、急いで行動しなくてはいけない。
そうしないと、気づいた時には精神が邪魔をして新しい考えを文字通り殺してしまう。
機会があったら急いで行動しなさい
Q:新思考運動というのはそういうことなんですね?
A:
もしそうでなくても、そうあるべきだ。
■第12章 ほんとうにしたいことを、どんどんしなさい! ほかのことをしてはいけない
Q:どうしてわたしは、ほんとうにしたいことをして暮らしていけないんでしょうか?
A:
ほんとうにしたいことをして暮らしている人は、何が何でもそうしたいとこだわっている人だ。彼らは諦めない。決して譲歩しない。
そして、何かで「在ること」と「行動すること」には違いがあり、たいていのヒトは後者に力点を置いているということだ。
魂の発達を選ぶなら、身体の世間的な活動によって達成することはできない。
身体はつねに何かをしている。何かをしようとしている。
魂は永遠に在るものだ。身体が何をしようとも、魂が在るがままに存在する。
人生とは「行動すること」だと考えているなら、自分を理解していない。
魂にとっては、どんな行動をするかではなく、その間どんなふうに在るかだけが大切だ。
経験するには何もしないのがいちばんいいということも知っている。何もせずただ在ることだ。(???
あなたが望む在り方なら何でも。幸福、哀しみ、弱さ、強さ、喜び、復讐、洞察、盲目、善悪、男女、なんでもかまわない。
Q:新しいビジネスを起こすのに大事なのは「場所」だと聞いたことがあります。
A:
それもひとつの答えらしいな。魂の関心事はただひとつ。あなたがどこへ行くか、ということだけだ。
同じ資質を持った2人の1人は成功し、1人は失敗した。
1人は開放的、親しみ深く、陽気で、自信があり、仕事を楽しんでいる。
1人は閉鎖的、冷たくて、陰気で、自分がしていることを嫌っている。
あなたは身体によって何かを生むために、この地上にいるのではない。魂によって何かを生むために、この地上にいる。
身体は魂の道具にすぎない。
「わたし」であることを求める魂には、「在り方」の膨大なメニューの中から選ばなければならない。
いま、この瞬間も魂はそれをしている。
魂は、計画どおりの経験ができるようにと、正しい完璧な機会にあなたを導く。
実際に何を経験するかはあなた次第だ。それはあなたが何を選んだかによる。
「父」は「息子」に自分の意志を押しつけはしない。それは「父」の本質と異なるもので、文字どおり不可能だからだ。
精神は始終意志を身体に押しつけようとするし、実際に押しつける。
身体は精神を支配しようとして、支配に成功することが多い。
だが、魂には何かしなければならないという必要性がなく、身体と精神がしたいようにさせておく。
従属は創造ではないから、救済にはつながらない。
精神の働きとは、選択肢の中から選択することだ。
身体の働きとは、選択を行動に移すことだ。
身体、精神、魂が一体となって調和し、ともに創造する時、神が肉体化する。
その時、魂は自らの体験の中で自らを知る。そして、天は喜ぶ。
わたしはあなたの世俗的な成功には関心がない。あなたが関心をもっているだけだ。
真のマスターは、暮らしをたてることではなく、生きることを選んだヒトたちだ。
ある種の在り方からは、非常に豊かで充実した、生き甲斐のある素晴らしい人生が生まれる。
そうなったら世間的な財産や成功はどうでもよくなるだろう。
人生の皮肉は、世間的な財産や成功に関心がなくなった途端に、それがふんだんに流れ込んでくる道が開けるということだ。
あなたは欲しがるものを持てないが、持っているものは何でも経験できるだろう。
「わたし」という言葉は創造というエンジンをスタートさせるキーだ。
「わたし」という言葉は非常に強力だ。宇宙への宣言、命令なのだ。
「わたし」+「成功したい」では、成功したがっているあなたが生まれる。
たとえば怒りや苛立ちのたった一度のことなら、現実になることはないだろう。「地獄へ落ちろ!」などについては、そう心配しなくていい。
ある考えや言葉を何度も繰り返したら、一度でなく、何千回も繰り返したら、
その創造力がどれほど大きいか、見当がつくだろうか?
質問の答えは、「成功したい」と考える代わりに「わたしは成功している」と考えることだ。
あなたがが受け入れられる考え方をしなさい。「さあ、いよいよわたしは成功する」「すべては成功に導いてくれる」と。
うまくいくのは、真実であるとすでに知っていることを宣言する場合だけだ。
プラス思考の最高のかたちは、「感謝の言葉」だ。
人生で何かを経験したければ、それを「欲しい」と思ってはいけない。それを選びなさい。
***************身体・物質のつくりについて
どの魂にも、本質的ないのちの成長に関心をもつ発達段階が訪れる。
ある意味、これは非常に危険な時期だ。とくにはじめは。
なぜなら、身体にかかわることはどうでもいいと感じてしまう。
あなたは身体、精神、本質的ないのちである霊魂という3つの部分からなる存在だ。
地上にいる間だけではなく、いつも3つの部分からなる存在である。
死ぬ時には、身体も精神も捨てられない。身体はかたちを変え、最も濃厚な部分は捨てられるが、外殻はつねに維持されている。
あるヒトたちの言葉を借りれば、エーテル状の身体の振動数が低下し、
目に見えないほどの高速な振動から、物質を生じて固まりになる速度へと落ちる。
この「実体」のある物質は、純粋な思考によって創られる。
精神によってコントロールできる塊で、じつはあなたの精神が物質を動かす主(あるじ)だ!
小さなエネルギーの単位がそれぞれのエネルギーを使い果たすと、身体はそれを捨て、精神が新しいエネルギーを創り出す。
精神は「自分とは何者か?」と考えつづけることで、そのエネルギーを創っている!
あなたが「病気」について考えると、身体はその思考を物理的なかたちに変える。
ヒトはこの否定的な病んだかたちを見て「どうしたのか?(What's the matter?)→どんな物質なのか?」と聞く。
Q:死後、わたしの「パーソナリティ」は続くという意味ですか?
A:
そう、これまで何者だったかも知っている。
決算はない。「よい」とか「だめだ」と言う者はいない。審判をしたがるのは人間だけだ。
だが、自分がこの世で考えたり、行ったすべてを見直し、自分は何者になりたいかということに照らし合わせたら、
もう一度同じことをするかどうか判断する機会はあるだろう。
Q:
カーマ・ローカと呼ばれる東洋の神秘的な教えがあります。
死ぬ時に自分がしたことはすでに体験済みだから、相手がどう感じたかを体験するんです。
A:
死後の経験は別の次元のもので、言葉という大きな制約がある道具での表現を受け付けない。
苦痛や恐怖、審判なしにまた現在の生を見直す機会を与えられる、
あなたは現世の経験をどう感じるか判断し、それをもとにどこへ行きたいかを決める、と言えば充分だろう。
あなたがたの多くは、この世へ戻ってこようと決意する。
また、少数の者は、他のヒトをこの高密度の相対的な世界から連れ出すためにだけ戻ってくる。
彼らの仕事は完成している。彼らは奉仕することだけを目指している。そういう人たちは見れば分かる。
Q:わたしは違うのですか?
A:
違う。尋ねなければ分からないなら、違うのだ。その人たちは、尋ねることは何もないのだ。
あなたがほんとうにしたいことを、どんどんしなさい! ほかのことをしてはいけない。
生活のためにしたくもないことをして、人生の時間を無駄にしようなどと、どうして考えるのか?
少なくとも、楽しいことをしなさい。過小評価することはない。
身体の行動は、存在のある段階を達成しようとする魂の試みではなく、存在のある段階を反映している。
真の秩序の中では、幸せになるために何かをするのではない。幸せだから、何かをする。
共感しているから、優しい行動をとる。
高い意識をもつヒトは、魂の決定が先で、その後に身体の行動がくる。
だが、あなたの身体がすることはあなたの人生の反映だというのは真実だ。
あなたがたには楽しむ権利がある。子どもがあろうと、配偶者がいようといまいと。
金があってもなくても、楽しい家庭はできる。
幸福になるのは良いことだ。仕事においても幸福になっていい。
あなたのライフワークは「自分が何者であるか」を宣言することである。
「どんな犠牲を払ってでも、自分の幸福を捨ててでも、家族を支える男」があなたなら、自分の仕事を愛しなさい。
「責任を果たすために嫌な職業に就いている女性」があなたなら、その職業を愛しなさい。
それがあなたの自己イメージをしっかりと支えてくれるから。
誰も、自分がしたくないことはしない。