■『にんじん』(1894)ジュール・ルナール(白水社)
岸田国士/訳
(以下は読んだ当時のメモの転記
もっと違ったイメージを描いていたけれども、フランスのエスプリがいっぱい詰まった1冊だった。
二十編の出来事をタイトルにして、それにまつわる一家族のエピソードを描いた短編集という意表をつく構成と、
意表をつくオチをもつ、1894年作ながら、いまでも新鮮な印象を受ける物語。
一般説では、作者の自伝的作品とのこと。
ルピック家の夫婦、フェリックス(兄)、エルネスチーヌ(姉)、そして主人公のにんじん、
召使いのばあやオノリーヌ、その跡を継ぐ孫娘のアガート、名付け親等々。
それぞれが一癖も二癖もある人物ばかり。
それはひと言では言い表せないけれども、言ってみると、、、
父はいつも仕事に追われて、口数は少ないが、子どもたち、とくに末っ子のにんじんを愛している。
母は、平凡な専業主婦でよく喋る。子どもたちを愛しているけれど、しょっちゅうにんじんをからかい、ぶっている
兄は不精で気弱、姉は世間並みに優しく、にんじんはというと、、、説明できない。
小動物(ネコやモグラ)は平気で殺すのに、家族に対してはひどく気を遣って、とくに母を一番怖れている。
裕福な家らしく、2人の息子はサン・マル寮に入って勉強し、年に2度しか実家に帰らない。
勉強をする気になれば出来るのに、作文以外はからきしダメ。
ひどく変わった子どもに描かれているけれど、大人になって考えたら、
とくに小学生くらいまでは、誰でも奇怪なことをしているような気がする。
赤いほっぺのクラスメイトを「ホモ」呼ばわりして、謹慎を食らっても、
ガラスを割って、血だらけの拳で復讐している子どもなんて、ちょっと普通いないよなあ。
しっかりした考えも持っていながら、どこかすっとぼけていて、
あんなに家畜のような扱いを受けながらも家族を愛しているなんて。
エピソードの中でとくに良かったのは「名付け親」のおじさん。
ミミズを食べちゃう変わり者だけど、一度泉に落ちたにんじんにずっと自責の念を感じている、
本当はとても情の深い人なんだな。
にんじんと父との手紙のやりとり「にんじんからルピック氏への書簡一束。並びにルピック氏からにんじんへの返事数通」もイイ。
日々の学校の様子をいちいち書いてよこすにんじん、それを読むのが楽しみな父。
息子への期待、教育方針、何気ない忠告、その裏にある愛情。
ラスト近く、にんじんが生まれて初めて母の言いつけに反抗した「反旗」につづく、
「結末のことば」には、今まで散々コケにされ続けてきたにんじんの堪忍袋の緒が切れて、
「おっかさんなんか大嫌いだ」という宣言に対する父の言葉。
「そんなら、わしが、そいつを愛していると思うのか」
これはとても微妙だけれど、危険なくらい正直な男対男の会話だ。
けれど、その結末は「なにはともあれ、おまえのおっかさんだ」
家族間のやりとりは、同じ血で結ばれているだけに余計微妙でややこしい。
後で冷静に見返すと、単純なことでも、ストレートに言えなかったり、
逆に言わずにいたことがしこりになって残ったり、悪循環になって、
結局は「家族だから」と諦め、許さざるを得なくなる。
とにかく、その微妙な絡みあい、複雑な関係がここに鮮やかに描かれている。
でも、こんな受け売りなことばかり書いているとルピック氏から
「自分の意見を持て。最初はゆっくり1つずつでいいから」という言葉を思い出してしまう。
不思議なのは、作者の実父も実母も、晩年に不審な死に方をしていることだ。
歳をとってから自殺しなければならないとはどうう訳か?
愛する息子は作家として立派に大成したというのに。
この作品からは、父母の様子は、決して自然な愛情のやりとりには見受けられないけれども、
それほど悲惨な不幸も感じられない。
とにかく、作品全体、登場人物、それぞれの持つプライド、笑いのセンス、モラル等が
私たち日本人のもつそれらとはかなり違っていることが伝わってくる。
フツーの会話の途中で突然、傷ついて怒ったり、怒るべき場面、
たとえば、にんじんの釣り針が母の指に刺さって、1本指を失くしかねない騒ぎになった時は、
全然、予想はずれの優しい態度に、にんじんが泣き出してしまう場面、
オノリーヌがもう67歳で目がかすんできたんじゃないかということで、
母とやりあう会話も生き生きと描かれているが、使用人と女主人のやりとりにしても
そのギャップには、時々理解に困ってしまう。
というのも、訳が古いからかもしれない。
1950年代の訳で、もっと最近の現代語に訳したものを読めば、
「木の葉のあらし」みたいに難解なものも、会話文も、もう少し分かりやすく飲み込めたかも。
挿絵が、小見出し、エピソードごとについていて、味のある版画(たぶん)で、
にんじんだけがなぜかハゲに描いてあるのもなんとも変でイイ。
「母親が自分のほうを向いて笑っていると思い、
にんじんは、嬉しくなり、こっちからも笑ってみせる。
が、ルピック夫人は、ぼんやり、自分自身に笑いかけていたのだ。
それで、急に彼女の顔は、黒すぐりの目を並べた暗い林になる。
にんじんは、どぎまぎして、隠れる場所さえ分からずにいる」
(「にんじんのアルバム十九」より)
岸田国士/訳
(以下は読んだ当時のメモの転記
もっと違ったイメージを描いていたけれども、フランスのエスプリがいっぱい詰まった1冊だった。
二十編の出来事をタイトルにして、それにまつわる一家族のエピソードを描いた短編集という意表をつく構成と、
意表をつくオチをもつ、1894年作ながら、いまでも新鮮な印象を受ける物語。
一般説では、作者の自伝的作品とのこと。
ルピック家の夫婦、フェリックス(兄)、エルネスチーヌ(姉)、そして主人公のにんじん、
召使いのばあやオノリーヌ、その跡を継ぐ孫娘のアガート、名付け親等々。
それぞれが一癖も二癖もある人物ばかり。
それはひと言では言い表せないけれども、言ってみると、、、
父はいつも仕事に追われて、口数は少ないが、子どもたち、とくに末っ子のにんじんを愛している。
母は、平凡な専業主婦でよく喋る。子どもたちを愛しているけれど、しょっちゅうにんじんをからかい、ぶっている
兄は不精で気弱、姉は世間並みに優しく、にんじんはというと、、、説明できない。
小動物(ネコやモグラ)は平気で殺すのに、家族に対してはひどく気を遣って、とくに母を一番怖れている。
裕福な家らしく、2人の息子はサン・マル寮に入って勉強し、年に2度しか実家に帰らない。
勉強をする気になれば出来るのに、作文以外はからきしダメ。
ひどく変わった子どもに描かれているけれど、大人になって考えたら、
とくに小学生くらいまでは、誰でも奇怪なことをしているような気がする。
赤いほっぺのクラスメイトを「ホモ」呼ばわりして、謹慎を食らっても、
ガラスを割って、血だらけの拳で復讐している子どもなんて、ちょっと普通いないよなあ。
しっかりした考えも持っていながら、どこかすっとぼけていて、
あんなに家畜のような扱いを受けながらも家族を愛しているなんて。
エピソードの中でとくに良かったのは「名付け親」のおじさん。
ミミズを食べちゃう変わり者だけど、一度泉に落ちたにんじんにずっと自責の念を感じている、
本当はとても情の深い人なんだな。
にんじんと父との手紙のやりとり「にんじんからルピック氏への書簡一束。並びにルピック氏からにんじんへの返事数通」もイイ。
日々の学校の様子をいちいち書いてよこすにんじん、それを読むのが楽しみな父。
息子への期待、教育方針、何気ない忠告、その裏にある愛情。
ラスト近く、にんじんが生まれて初めて母の言いつけに反抗した「反旗」につづく、
「結末のことば」には、今まで散々コケにされ続けてきたにんじんの堪忍袋の緒が切れて、
「おっかさんなんか大嫌いだ」という宣言に対する父の言葉。
「そんなら、わしが、そいつを愛していると思うのか」
これはとても微妙だけれど、危険なくらい正直な男対男の会話だ。
けれど、その結末は「なにはともあれ、おまえのおっかさんだ」
家族間のやりとりは、同じ血で結ばれているだけに余計微妙でややこしい。
後で冷静に見返すと、単純なことでも、ストレートに言えなかったり、
逆に言わずにいたことがしこりになって残ったり、悪循環になって、
結局は「家族だから」と諦め、許さざるを得なくなる。
とにかく、その微妙な絡みあい、複雑な関係がここに鮮やかに描かれている。
でも、こんな受け売りなことばかり書いているとルピック氏から
「自分の意見を持て。最初はゆっくり1つずつでいいから」という言葉を思い出してしまう。
不思議なのは、作者の実父も実母も、晩年に不審な死に方をしていることだ。
歳をとってから自殺しなければならないとはどうう訳か?
愛する息子は作家として立派に大成したというのに。
この作品からは、父母の様子は、決して自然な愛情のやりとりには見受けられないけれども、
それほど悲惨な不幸も感じられない。
とにかく、作品全体、登場人物、それぞれの持つプライド、笑いのセンス、モラル等が
私たち日本人のもつそれらとはかなり違っていることが伝わってくる。
フツーの会話の途中で突然、傷ついて怒ったり、怒るべき場面、
たとえば、にんじんの釣り針が母の指に刺さって、1本指を失くしかねない騒ぎになった時は、
全然、予想はずれの優しい態度に、にんじんが泣き出してしまう場面、
オノリーヌがもう67歳で目がかすんできたんじゃないかということで、
母とやりあう会話も生き生きと描かれているが、使用人と女主人のやりとりにしても
そのギャップには、時々理解に困ってしまう。
というのも、訳が古いからかもしれない。
1950年代の訳で、もっと最近の現代語に訳したものを読めば、
「木の葉のあらし」みたいに難解なものも、会話文も、もう少し分かりやすく飲み込めたかも。
挿絵が、小見出し、エピソードごとについていて、味のある版画(たぶん)で、
にんじんだけがなぜかハゲに描いてあるのもなんとも変でイイ。
「母親が自分のほうを向いて笑っていると思い、
にんじんは、嬉しくなり、こっちからも笑ってみせる。
が、ルピック夫人は、ぼんやり、自分自身に笑いかけていたのだ。
それで、急に彼女の顔は、黒すぐりの目を並べた暗い林になる。
にんじんは、どぎまぎして、隠れる場所さえ分からずにいる」
(「にんじんのアルバム十九」より)