図書館で借りたCDシリーズ。
ブラックミュージックへの旅はつづく。いずれも初聴きのアルバムばかり。
●Three Great Swing Saxophones/Coleman Hawking, Ben Webster, Benny Carter
いわゆる「ジャズ」な1枚。正直、よほどじゃないと、ジャズマンの名前と顔は何度聞いても覚えきれない
【ライナー抜粋メモ~ダグ・ラムゼイ 坂口紀三和/訳】
サウンド再生におけるデジタル革命の最も目覚しい貢献の1つは、
レコードを聴く上で大きな障害となっていたクリックノイズ、パチパチ、ブツブツ音、ヒスノイズなどを除去したことだ(それが味なのにね
統計では、現在のジャズファンの大半は、70~80年代にジャズを聴き始めている。
78回転のシェラック盤、その後の33回転のビニール盤に封じ込められた芳香な名演の数々を我々はクリアに聴けるのである。
当時は風変わりで幼稚なものだと誤解してきたが、1920及び1930年代のレコーディングテクニックとテクノロジーは
デジタル以前のレコード盤が示しているより、かなり良好なものだったことが明らかになった。
コールマン・ホーキンス
テナーサックスの演奏に大きな影響を及ぼした最初の人物。情熱、がむしゃらさ、攻撃性、豊かなトーン。
初期のプレーの特徴は、ヴォードヴィル風のスラップ・タンギング(舌を使ってスタッカート効果を出す方法)で人々を喜ばせた。
ルイ・アームストロングは、ジャズソロにおける真の音楽的可能性に気づきつつあり、
ホーキンスもすぐにアームストロングに肩を並べるまでに自己を開発し、“スイング”し始めた。
土着的で無骨なリズムのコンセプトからジャズを解放し、拍子の支配から自由になった。
スイングすること、それはバッハ以来、最も重要なリズム上の進展だった。
ルイ以後、ホーキンスは、ジャズ界で最も注目すべき“ソロイスト”になっていた。
♪One Hour の有名なソロは、ダブルタイム(倍速)の効果的な使用などをマスターした証拠となる録音。
1931年のフレッチャー・ヘンダーソン楽団のセッションでは、ホークは稀に見る調子の良さだった。
♪Dinah では、楽器を確実にコントロールし、頭に浮かんだものをそのまま音にできる完全に成熟した姿がある。
♪Body And Soul では「私は最後まで音を出し続けただけで、メロディを奏しようとはしなかった」と言っている。
ホーキンスは、その後も長年にわたりパワフルな演奏を続け、ビバップの創生に関与したことも含まれる。
ベン・ウェブスター
彼がリード楽器奏者としてやっていけるところまで導いたのは、レスター・ヤングの父W.H.ヤングだった。
ウィリー・ブラントは、ベンのことを最初に公に“フロッグ(蛙)”と呼んだ。他のニックネームは“ザ・ブルート(獣)”。
彼の特質は強靭なアップテンポのヴィブラート、気息を混じえたアタックなど。
♪Cotton Tail のソロは最も有名。ビバップの微風は、今やジャズを吹きぬける烈風となっていた。
ベニー・カーター
そのキャリアの頂点において、彼はアルト、テナー、クラリネット、トランペットを演奏し、作曲、編曲、時にはピアノを弾き、歌も歌った。
生まれながらのリーダーであり、教師であり、ジャズ史上最も重要な触媒的存在の一人だった。
彼自身は過去の偉業について語ることを拒み、シンプルに説明する。「私はノスタルジーには、さほど興味がないんだ」
この3人のサックス奏者の生涯と活動は、ジャズがソロイストの芸術だと定義されるのに大きく役立っている。
●The Jazz Message of Hank Mobley, Vol. 2/Hank Mobley
疲れて眠っているのか、なにか思い悩んでいるのか、何気ない素の瞬間をとらえたジャケ写が印象的。
【ライナー抜粋メモ~「永遠のハード・バッパー」宇久須康】
モブレーの写真は悩んでいる表情のものが多い。
ジャズ界での評価はB級プレイヤー、ミドル級チャンピオンとしての位置が定着している。
それにも関わらずモブレーは良い。歌心があり、黒人特有のダルさ、音色も暖かい。
本アルバムは、サヴォイの第1集に続く第2集。
モブレーは1954年にアート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズの発足メンバとして参加した。
1956年には、サヴォイで初リーダー・アルバムを出している。
モブレーはこの後、ブルーノートの専属アーティストとなる。
有名な♪Recado Bossa Nova を演奏し、人気を得たのも束の間、次第に人気は薄れ、1970年代には活動休止状態。
16、7年前にはNYでホームレスをしていたなんて悲しい噂もあったが、真偽は定かではない。
1985年にチラリとステージに顔を出して一時復帰も伝えられたが、1986年にはとうとう亡くなってしまった。
●Free Soul - the Classic Of Ernestin。e Anderson/Ernestine Anderson
♪It Don't Mean a Thing (If It Ain't Got That Swing) などスタンダードの他にも
♪The 59Th Street Bridge Song (Feelin' Groovy) /Simon & Garfunkel ほかもすっかりジャズに変身させてるのはステキ/驚
ライヴ録音とスタジオ録音が混ざっているのかもしれないけど、どれもライヴに聴こえるほど生々しく、
叫ぶほどうるさすぎず、私好みなブラック感の味わいもあって気に入ったv
【ライナー抜粋メモ~橋本徹 2002.9】
「美しい女の子とデューク・エリントンの音楽さえあれば他に何も要らない」と語ったボリス・ヴィアンを思い出す。
レーベル・オーナーで良き理解者カール・E・ジェファーソンの助力もあり、
水を得た魚のように最も輝きを放った、コンコード時代の魂の記録だ。
♪Days of wine and roses はレイ・ブラウンの推薦で参加し、長いブランクを経てのカムバックの契機となった
1976年の「コンコード・ジャズ・フェスティヴァル」の実況録音。
躍動感、歌心、メロウネスとソフィスティケイションを併せ持つ類稀な存在。
「down to earth」現実的な,実際的な
【ライナー抜粋メモ~出田圭 2002.9】
Tボーン・ウォーカー、チャールズ・ブラウン、ピー・ウィー・クレイトン、エディ“クリーンヘッド”ヴィンソン、
エイモス・ミルバーンなど、当時LAなど西海岸のアーバンR&Bシーンを強力に引っ張っていたのは
テキサス出身のアーティストだったといっても過言ではないだろう。
当時の西海岸は、太平洋戦争の防衛人員強化という戦時特需的な好景気みたいな状況もあったらしく、
大勢のテキサン・ミュージシャンがLAに移ってきたと思われる。
セクシーで、洒落た、アーバニズムとブルーズ感覚がアーネスティンには染みついている。
彼女の看板ソングでもある♪Never make your move too soon にもぜひ触れてみてほしい。
メルバ・ムーアが歌った♪I AM HIS LADY、♪ALL BLUESはマリーナ・ショウなどにも通じるものを感じさせる。
「快哉(かいさい)」胸がすっとするように気持ちがいいこと。痛快なこと。
●Legend- The Best of Bob Marley and the Wailers/Bob Marley and the Wailers
まさにこないだヨーキンさんが歌った♪Is This Love から始まる。
これだけ世界に影響を与えた人なのに、キッチリ聴いたことがなかったから、ベストを借りてみた。
ライナーはなし。
●Milton/Milton Nascimento
私の好きな70年代前後ながら、新しい感覚。歌詞に惹かれた。
【ライナー抜粋メモ~ケペル木村 2002.6】
1969年、ブラジルのベロ・オリゾンチの一室で、19歳のロー・ボルジェスが「この曲に歌詞を書いて」と兄マルシオに頼んだ。
「テーマは何だ?」「もしも僕がジョンとポールの共作者だったら、僕らはブラジル人だけど、ビートルズも大好きだ。
でも、彼らは僕らのことなんて知る由もないんだよね」
ミルトン・ナシメントが初めて一緒に曲を作った作詞家マルシオ・ボルジェスが著作の中でそう書いている。
♪Para Lennon E McCartney
なぜなら君たちは知らない
この西洋のゴミ溜を
もう怖れることはない
孤独を必要とすることも
毎日は 生きるための日
ついに日本でCD化された1969年の『ミルトン・ナシメント』と『ミルトン』の2枚は、
まだ20代だった彼の瑞々しい感性によって生み出された。
ケリオ・ホドリゲスというグラフィックデザイナーが作ったこのジャケットデザインを
ミルトンはとても気に入り、当時のステージでも使っていたという。
3枚のアルバムをEMI-ODEONからリリースして、ブラジルのプログレッシヴ・ロックグループとして有名になった。
♪偉大なる父 は本アルバム中唯一ミルトン自身の作詞作曲で、おそらく会ったことのない実父のことを歌っているのでは?
前年リリースしたアルバムにも入っていて、2年続けて同じ曲を収録するなんて、よほどの理由があるに違いない。
ラストの曲は、ボサノヴァの名曲♪ア・フェリシダーヂ コード進行はオリジナルと異なるが、
ブラジルのミュージシャンたちはよくこういうことをして、カバーでも独自性を打ち出している。
9曲がオリジナルで、4曲のボーナストラックは、サッカーをテーマにした映画のサントラ。
ナナ・ヴァスコンセロスが最も得意とする楽器「ビリンバウ」の素晴らしい演奏がフィーチャーされている。
「風雲急を告げる」情勢が不穏で,大変動が起こりそうな状態である。
3.Maria Tres Filhos(マリアと3人の子どもたち)
黒い腹部から 色なくして生まれてきた3人の息子たち
今日、私は83だ
輝きもなければ 奴隷制もなく
息子たちの行方を尋ねもしない
ラジオをつけて マットレスで寝る
4.Clube Da Esquina(クルービ・ダ・エスキーナ、または街角クラブ)
新たな陽が昇ろうとしている
そして人生は あの街角でくたびれている
別の場所へ 逃げようと 逃げようとしながらも
5.Canto Latino
自分の太陽は 影から救う
そして歌の紐でもって
どの一歩も逃亡ではなく 防御でもなく
鉄錆でもなく 別の美しさなのだという確信を縛りつける
裂傷や切り傷でできた 別の美しさなのだという確信を
なぜなら このラテンの歌を
アメリカに向けて 僕は歌うからだ
誇らしげに飢餓にまたがり
死地へ赴く少年
その短い生涯の時は
百年以上にも値しよう
死が生きられる時
6.Durango Kid
強いて言えば なぜなら 今日の僕は昨日の僕だ
自分の過去を否定などしない
この新聞は 僕の銃だ
この新聞は 僕の微笑みだ
7.偉大なる父
偉大なる父
僕にもあなたの勇気があれば
語りたい 戦士たちの物語を
遠くから連れてこられた彼らの
連れてこられ 平和を知らない彼らの物語を
自身の子がみな 歩み続けているのを
そして死ぬための場所を見つけるのを
どこへ行くことになろうと
私は泣かない
もうどこへも行きたくはないが
わが民は今ここに
私は携えてきた
嘘からはほど遠い愛を
私を愛したいと思う人々に捧げるために
8.Alunar
母さん あなたの不安など僕は要らない
死ぬことだけが 安心だ すべては平和に 良好に
僕は問題の片を付けたい
9.A Felicidade
一年中働き通し
一瞬の夢のために
王の 海賊の 庭師の衣装をまとい
水曜日には跡形もなく散ってしまう
夢のために
悲しみには終わりがない
幸せには終わりがあるのに
10.Tema De Tostao(支社の男)
勤務を終えて
家に帰る
昔はよかったのに
佳き時代を思い出す
ブラックミュージックへの旅はつづく。いずれも初聴きのアルバムばかり。
●Three Great Swing Saxophones/Coleman Hawking, Ben Webster, Benny Carter
いわゆる「ジャズ」な1枚。正直、よほどじゃないと、ジャズマンの名前と顔は何度聞いても覚えきれない
【ライナー抜粋メモ~ダグ・ラムゼイ 坂口紀三和/訳】
サウンド再生におけるデジタル革命の最も目覚しい貢献の1つは、
レコードを聴く上で大きな障害となっていたクリックノイズ、パチパチ、ブツブツ音、ヒスノイズなどを除去したことだ(それが味なのにね
統計では、現在のジャズファンの大半は、70~80年代にジャズを聴き始めている。
78回転のシェラック盤、その後の33回転のビニール盤に封じ込められた芳香な名演の数々を我々はクリアに聴けるのである。
当時は風変わりで幼稚なものだと誤解してきたが、1920及び1930年代のレコーディングテクニックとテクノロジーは
デジタル以前のレコード盤が示しているより、かなり良好なものだったことが明らかになった。
コールマン・ホーキンス
テナーサックスの演奏に大きな影響を及ぼした最初の人物。情熱、がむしゃらさ、攻撃性、豊かなトーン。
初期のプレーの特徴は、ヴォードヴィル風のスラップ・タンギング(舌を使ってスタッカート効果を出す方法)で人々を喜ばせた。
ルイ・アームストロングは、ジャズソロにおける真の音楽的可能性に気づきつつあり、
ホーキンスもすぐにアームストロングに肩を並べるまでに自己を開発し、“スイング”し始めた。
土着的で無骨なリズムのコンセプトからジャズを解放し、拍子の支配から自由になった。
スイングすること、それはバッハ以来、最も重要なリズム上の進展だった。
ルイ以後、ホーキンスは、ジャズ界で最も注目すべき“ソロイスト”になっていた。
♪One Hour の有名なソロは、ダブルタイム(倍速)の効果的な使用などをマスターした証拠となる録音。
1931年のフレッチャー・ヘンダーソン楽団のセッションでは、ホークは稀に見る調子の良さだった。
♪Dinah では、楽器を確実にコントロールし、頭に浮かんだものをそのまま音にできる完全に成熟した姿がある。
♪Body And Soul では「私は最後まで音を出し続けただけで、メロディを奏しようとはしなかった」と言っている。
ホーキンスは、その後も長年にわたりパワフルな演奏を続け、ビバップの創生に関与したことも含まれる。
ベン・ウェブスター
彼がリード楽器奏者としてやっていけるところまで導いたのは、レスター・ヤングの父W.H.ヤングだった。
ウィリー・ブラントは、ベンのことを最初に公に“フロッグ(蛙)”と呼んだ。他のニックネームは“ザ・ブルート(獣)”。
彼の特質は強靭なアップテンポのヴィブラート、気息を混じえたアタックなど。
♪Cotton Tail のソロは最も有名。ビバップの微風は、今やジャズを吹きぬける烈風となっていた。
ベニー・カーター
そのキャリアの頂点において、彼はアルト、テナー、クラリネット、トランペットを演奏し、作曲、編曲、時にはピアノを弾き、歌も歌った。
生まれながらのリーダーであり、教師であり、ジャズ史上最も重要な触媒的存在の一人だった。
彼自身は過去の偉業について語ることを拒み、シンプルに説明する。「私はノスタルジーには、さほど興味がないんだ」
この3人のサックス奏者の生涯と活動は、ジャズがソロイストの芸術だと定義されるのに大きく役立っている。
●The Jazz Message of Hank Mobley, Vol. 2/Hank Mobley
疲れて眠っているのか、なにか思い悩んでいるのか、何気ない素の瞬間をとらえたジャケ写が印象的。
【ライナー抜粋メモ~「永遠のハード・バッパー」宇久須康】
モブレーの写真は悩んでいる表情のものが多い。
ジャズ界での評価はB級プレイヤー、ミドル級チャンピオンとしての位置が定着している。
それにも関わらずモブレーは良い。歌心があり、黒人特有のダルさ、音色も暖かい。
本アルバムは、サヴォイの第1集に続く第2集。
モブレーは1954年にアート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズの発足メンバとして参加した。
1956年には、サヴォイで初リーダー・アルバムを出している。
モブレーはこの後、ブルーノートの専属アーティストとなる。
有名な♪Recado Bossa Nova を演奏し、人気を得たのも束の間、次第に人気は薄れ、1970年代には活動休止状態。
16、7年前にはNYでホームレスをしていたなんて悲しい噂もあったが、真偽は定かではない。
1985年にチラリとステージに顔を出して一時復帰も伝えられたが、1986年にはとうとう亡くなってしまった。
●Free Soul - the Classic Of Ernestin。e Anderson/Ernestine Anderson
♪It Don't Mean a Thing (If It Ain't Got That Swing) などスタンダードの他にも
♪The 59Th Street Bridge Song (Feelin' Groovy) /Simon & Garfunkel ほかもすっかりジャズに変身させてるのはステキ/驚
ライヴ録音とスタジオ録音が混ざっているのかもしれないけど、どれもライヴに聴こえるほど生々しく、
叫ぶほどうるさすぎず、私好みなブラック感の味わいもあって気に入ったv
【ライナー抜粋メモ~橋本徹 2002.9】
「美しい女の子とデューク・エリントンの音楽さえあれば他に何も要らない」と語ったボリス・ヴィアンを思い出す。
レーベル・オーナーで良き理解者カール・E・ジェファーソンの助力もあり、
水を得た魚のように最も輝きを放った、コンコード時代の魂の記録だ。
♪Days of wine and roses はレイ・ブラウンの推薦で参加し、長いブランクを経てのカムバックの契機となった
1976年の「コンコード・ジャズ・フェスティヴァル」の実況録音。
躍動感、歌心、メロウネスとソフィスティケイションを併せ持つ類稀な存在。
「down to earth」現実的な,実際的な
【ライナー抜粋メモ~出田圭 2002.9】
Tボーン・ウォーカー、チャールズ・ブラウン、ピー・ウィー・クレイトン、エディ“クリーンヘッド”ヴィンソン、
エイモス・ミルバーンなど、当時LAなど西海岸のアーバンR&Bシーンを強力に引っ張っていたのは
テキサス出身のアーティストだったといっても過言ではないだろう。
当時の西海岸は、太平洋戦争の防衛人員強化という戦時特需的な好景気みたいな状況もあったらしく、
大勢のテキサン・ミュージシャンがLAに移ってきたと思われる。
セクシーで、洒落た、アーバニズムとブルーズ感覚がアーネスティンには染みついている。
彼女の看板ソングでもある♪Never make your move too soon にもぜひ触れてみてほしい。
メルバ・ムーアが歌った♪I AM HIS LADY、♪ALL BLUESはマリーナ・ショウなどにも通じるものを感じさせる。
「快哉(かいさい)」胸がすっとするように気持ちがいいこと。痛快なこと。
●Legend- The Best of Bob Marley and the Wailers/Bob Marley and the Wailers
まさにこないだヨーキンさんが歌った♪Is This Love から始まる。
これだけ世界に影響を与えた人なのに、キッチリ聴いたことがなかったから、ベストを借りてみた。
ライナーはなし。
●Milton/Milton Nascimento
私の好きな70年代前後ながら、新しい感覚。歌詞に惹かれた。
【ライナー抜粋メモ~ケペル木村 2002.6】
1969年、ブラジルのベロ・オリゾンチの一室で、19歳のロー・ボルジェスが「この曲に歌詞を書いて」と兄マルシオに頼んだ。
「テーマは何だ?」「もしも僕がジョンとポールの共作者だったら、僕らはブラジル人だけど、ビートルズも大好きだ。
でも、彼らは僕らのことなんて知る由もないんだよね」
ミルトン・ナシメントが初めて一緒に曲を作った作詞家マルシオ・ボルジェスが著作の中でそう書いている。
♪Para Lennon E McCartney
なぜなら君たちは知らない
この西洋のゴミ溜を
もう怖れることはない
孤独を必要とすることも
毎日は 生きるための日
ついに日本でCD化された1969年の『ミルトン・ナシメント』と『ミルトン』の2枚は、
まだ20代だった彼の瑞々しい感性によって生み出された。
ケリオ・ホドリゲスというグラフィックデザイナーが作ったこのジャケットデザインを
ミルトンはとても気に入り、当時のステージでも使っていたという。
3枚のアルバムをEMI-ODEONからリリースして、ブラジルのプログレッシヴ・ロックグループとして有名になった。
♪偉大なる父 は本アルバム中唯一ミルトン自身の作詞作曲で、おそらく会ったことのない実父のことを歌っているのでは?
前年リリースしたアルバムにも入っていて、2年続けて同じ曲を収録するなんて、よほどの理由があるに違いない。
ラストの曲は、ボサノヴァの名曲♪ア・フェリシダーヂ コード進行はオリジナルと異なるが、
ブラジルのミュージシャンたちはよくこういうことをして、カバーでも独自性を打ち出している。
9曲がオリジナルで、4曲のボーナストラックは、サッカーをテーマにした映画のサントラ。
ナナ・ヴァスコンセロスが最も得意とする楽器「ビリンバウ」の素晴らしい演奏がフィーチャーされている。
「風雲急を告げる」情勢が不穏で,大変動が起こりそうな状態である。
3.Maria Tres Filhos(マリアと3人の子どもたち)
黒い腹部から 色なくして生まれてきた3人の息子たち
今日、私は83だ
輝きもなければ 奴隷制もなく
息子たちの行方を尋ねもしない
ラジオをつけて マットレスで寝る
4.Clube Da Esquina(クルービ・ダ・エスキーナ、または街角クラブ)
新たな陽が昇ろうとしている
そして人生は あの街角でくたびれている
別の場所へ 逃げようと 逃げようとしながらも
5.Canto Latino
自分の太陽は 影から救う
そして歌の紐でもって
どの一歩も逃亡ではなく 防御でもなく
鉄錆でもなく 別の美しさなのだという確信を縛りつける
裂傷や切り傷でできた 別の美しさなのだという確信を
なぜなら このラテンの歌を
アメリカに向けて 僕は歌うからだ
誇らしげに飢餓にまたがり
死地へ赴く少年
その短い生涯の時は
百年以上にも値しよう
死が生きられる時
6.Durango Kid
強いて言えば なぜなら 今日の僕は昨日の僕だ
自分の過去を否定などしない
この新聞は 僕の銃だ
この新聞は 僕の微笑みだ
7.偉大なる父
偉大なる父
僕にもあなたの勇気があれば
語りたい 戦士たちの物語を
遠くから連れてこられた彼らの
連れてこられ 平和を知らない彼らの物語を
自身の子がみな 歩み続けているのを
そして死ぬための場所を見つけるのを
どこへ行くことになろうと
私は泣かない
もうどこへも行きたくはないが
わが民は今ここに
私は携えてきた
嘘からはほど遠い愛を
私を愛したいと思う人々に捧げるために
8.Alunar
母さん あなたの不安など僕は要らない
死ぬことだけが 安心だ すべては平和に 良好に
僕は問題の片を付けたい
9.A Felicidade
一年中働き通し
一瞬の夢のために
王の 海賊の 庭師の衣装をまとい
水曜日には跡形もなく散ってしまう
夢のために
悲しみには終わりがない
幸せには終わりがあるのに
10.Tema De Tostao(支社の男)
勤務を終えて
家に帰る
昔はよかったのに
佳き時代を思い出す