■『イアラ』楳図かずお著 (小学館文庫)
すごいな・・・。
漫画本を神棚に奉りたくなる。
ずっと『漂流教室』が最高傑作だと思っていたイメージを、『14歳』も『わたしは真悟』もどんどん塗り替えていく。
たった数ページの短編もどれも傑作。
それが、まだまだ山ほどあるんだから、この当時の漫画家さんたちの才能って神がかってる
楳図さんが乗り物恐怖症だと初めて知って、さらに共感を抱いてしまった。
高田馬場から吉祥寺に引っ越したのかな? あの「まことちゃんハウス」からはあまり出ないのだろうか?
でも、映画『マザー』も公開されたことだし、いろんなメディアにも出ているから、その度、電車内を歩き回ってるの???
【内容抜粋メモ】(ネタバレ注意
第1章 さなめ
地球の誕生から物語は始まる。
そして天平の世。
代々、短命の血筋に生まれた土麻呂は、唯一の肉親である祖母に育てられた。
祖母はある日、土麻呂を見つめ「お前も、いつまでもひとりでさみしい思いをするじゃろう・・・」と言ったのが忘れられない一言となる。
土麻呂は、奴婢の娘・小菜女(さなめ)と恋に落ちる。
だが、大仏を建立するために土麻呂は都に狩り出されてしまう。建立には10年かかるという。
土麻呂に逢いたい一心で、都まで歩いてきた小菜女を救ったのは、建立の指揮官・国中公麻呂だった。
公麻呂はさなめの美しさに気づき妻にする。
土麻呂に脱走を企てた罪を着せ、妻になるなら大仏ができあがった日に土麻呂を解放してやる、と約束する。
公麻呂は、さなめに冷たくあたったが、さなめは耐え抜いた。
大仏ができあがった日、公麻呂は「本当に美しく、心底優しい女を大仏の中に入れる。お前は大仏の魂となるのじゃ!」
第2章 しるし
さなめが生贄となって死ぬ瞬間に言った言葉「イアラ」の意味が分からずに苦しむ土麻呂。
歴史は、生贄の奴婢のことも、彼女を愛して死んだ公麻呂のことも書き換えられて美化され伝わった。
時代は文永。
蒙古襲来によって村人は女子どももすべてが無残に殺された。
浜辺に倒れていた美しい高麗の女に惹かれ、トラジと呼んで妻にした加藤次は、村人からそしられ、村はずれに住む。
ふたたび蒙古来襲に備えて石築地を積み上げ、海を監視する村人。
吉野山から来た行者・土達は、トラジがさなめにそっくりだと驚く。
加藤次が病んだ際、薬草をもらいに来たトラジの肩にホクロがあることで確かめるが、トラジは何も思い出さない。
再度、蒙古はやって来た。トラジは村人に知らせるが、無視され、また惨劇が繰り返された。
領主は怠慢を知られるのを恐れ、生き残った村人を全員切り殺す。
トラジは海に入り、北を目指して泳いでいった。
第3章 わび
天正の時代。
農村に暮らすりえは、ある日、眼光の鋭い男が自分を見ていたと祖父に言うと、
りえの母、祖母もまた美しく、同じ男を見たと言っていたことを話す。
りえは嫁いで女児はなを産み、夫の嫉妬に苦しみ、実家に戻り、娘にも不思議な男の話を聞かせる。
はなもまた男を見たが、その後、嫁いで、夫の罪で村はじきにされ、実家に戻る。
はなの娘・ゆきは、母らのように美しい容貌ではなかったが、ある日、怪我を負った男を助け、この男が母の言っていた人ではと思う。
男は、ゆきに「いっしょにゆかぬか?」と自分の里に連れてくる。
わび助は、利休の弟子で、割腹の最期を看取った。
利休「見るがよい。無作為の作為じゃ。平凡な中に果てしない大きさがある。当たり前であることこそ、どれだけ難しいか分かるか?
会うことは別れることでもあり、別れることは、会うことともいえる。
終わることは始まることでもあれば、高い山を低くも見れる。
あることは、ないことでもあり、内とおもえば、外でもあり、それが外だと思えば、まだそれの外側がある。
これからも時は永く続くなれば、それはすぐ終わるともいえるのじゃ」
わび助「生きることは、ただ生きることで、それがいちばんむずかしく、利休の場合、形に現されたのが茶であったとすれば、私の場合は・・・」
ゆきが世話した男は細井新助という武将で、ゆきを妻に迎えるが、戦で討ち死にする。
夫亡き後、ゆきの身辺は一転し、冷遇されるも、耐え抜いた。
ある日、秀吉と千利休のもとに呼ばれるゆき。
北政所に届ける壷を割った罪を着せられ、酷い拷問を受けても変わらぬゆきの元に関白らが来て、
もとは身分の高い出だったゆきに試練を与え続けたのは関白だと明かす。わび助=新助も生きていた。
すべては、荒野に暮らす不細工な女を美しいといった利休に秀吉が思いついたこと。
秀吉「利休は、茶の道は仏法の意味で、数寄とは隠遁の心第一に、侘びとは正直に慎み深く驕らぬ様を侘びといった。
この世は人と人との戦いによりつくられていくならば、人の一生も人により作られているということもいえる。
女がより美しく見せるために着飾ることもまた美しいといえる。
それが自然でないというなら、あの不細工な女がつくられた自然を与えた時、
はたしてあの女はそれでも美しく見えるであろうかということじゃった」
ゆきは、また荒野の一軒家に戻る。
わび助は、ゆきの家の代々の女たちにさなめに似たものを感じながらもどこか違っていると悩む。
「利休にいわせれば、無意味なことが意味のあることともいえる。
私の今の行為は目的を探すためでもあり、行為自体が目的ともとれる」
わび助はゆきの元に戻ることを決意する。
第4章 かげろう
さなめを求めて彷徨う男・曾良は、旅の途中で「履きふるしたものでも、どうか使って下さい」と俳句を結んだわらじを見つけて心打たれる。
「これは、さなめの匂いだ!」
男は女を追って走るが、川を渡ってしまい、大雨となったので宿をとると、芭蕉と出会う。
「旅はあわてるものではない。人はみな旅をしておるのじゃ。それぞれ自分にあった旅を。
あわてたからといって目的に到達するとも限らない。道は限りなくあるものじゃ。
旅は自然の小さなひとつひとつに心をうつし、感じながら行くものじゃ」
曾良が女を見つけた時には、労咳(結核)で弱った体で吐血し、短刀で首を切って自害していた。
曾良は芭蕉と共に俳句の旅を続け、芭蕉が病床についた時、「あの時、わらじなどを置いたのは自分だった」と告白する。
女は江戸で有名な遊女だったが、旅の途中で曾良が女人を探していることを知り、自分がその女人になれたらと思いなりすましていたのだと。
「旅に病んで 夢は枯野をかけめぐる」
第5章 うつろい
明和時代。全国的なひでり、江戸の大火、水害、安永と年号を改めても天災は続き、
疫病、京都日向の大洪水、伊豆大島の噴火、桜島の大噴火、天明の大飢饉、浅間山の大爆発・・・
百姓は犬猫だけでなく、人肉を食べる者もあとをたたなかったが、武士・町人の暮らしは、逆に享楽的に華美となった
津椰姫は年を追う毎に美しく育ち、徳川家の者に嫁ぎ、夫は完全に尻に敷かれていた。
津椰姫は、若い家臣・忠兵衛と強く惹かれ合い、二人の逢引が続く。
ところがある日を境に姫は引きこもり、どんな医者も治せず、水ごり、逆さづりなど、あらゆる苦行をした末、
ある有名な歌舞伎役者と言葉を交わした日から、ふたたび人前に出た時は、さらに美しさを増していた。
年月が経ち、ある日、姫はまた人を寄せ付けなくなる。心配した夫が見たのは、姫の老いた姿だった。
歌舞伎役者の化粧をして誤魔化していたこと、忠兵衛を真剣に愛していたこと、
そして、彼が老いた細工をしていただけで、まったく歳をとっていないと気づき、気も狂わんばかりに悩んだことを明かす。
その日から忠兵衛は、どこへともなく姿を消した。
第6章 望郷
昭和。
鳥内靖子は美しい少女で、ありふれた生活をしていたが、店先で古いつぼに魅入られてから、骨董品の収集にとり憑かれる。
「イアラ」について調べていると知人に明かす。
平安のつぼ、江戸の器にも「イアラ」と彫られ、鑑定の結果、同じ筆跡だと分かったという。
靖子は新聞に「連絡ください」と広告を出し、電話がくる。
奈良でその男に会い、すべてのいきさつを聞く。靖子もさなめと似ているがやはり違うと分かる。
男の部屋は洞穴で、地下噴火が起こり、靖子だけ路上で倒れているのが発見される。
“窓から見上げる空が、どんよりと澱んで見えることに気づいた。
道は埃とクルマの排気ガスで窒息しそうに見え、海や川には油が浮き、死んだ魚が浮いているのに気づいた
靖子が古いものに突然関心を持つようになったのは、失われつつある過去への望郷の心といっていい。
それはだれにでもあるものだなのだ。ただ、人間は慣れすぎていて、ふりかえることを忘れているのだ”
第7章 終焉
未来。
人間とはかけ離れた醜怪な姿をした女児が生まれ、母を亡くしてからは、人々から虐待を受け、
包帯で顔を隠して洞窟でひっそり暮らすようになる。
その頃から天変地異が増加し、人々は原因を彼女に向け、激しく憎み、迫害した。
科学者の男は、人家から離れた場所で研究をしていた。
「科学は、どんな神秘なベールも白日のもとにさらさずにはおかない。まさに偉大な存在だ。
人類はすべてに挑戦し、すべてを打ち倒していった。人類に恐れるものはなく、人類に知らないものはなくなった。
科学を恐れる時もあった。公害、核問題、人口過剰・・・だがどれもみんな大昔の出来事のワンカットにすぎない。
だが、やはり人類は自然の力のもとには敵わなかった。まさに自然の摂理に導かれたにすぎない。
人類はかろうじて生息する許しを与えられた。だが今はそれも昔となりつつある。
人は頂点をすぎて退化しはじめる。だが、だれも自分ではそれを退化とは思わぬものだ。
だがそれはそれでよい。そのおかげで平和を取り戻すことができたのだ。
人類は、その頂点でおそるべき事実を計算することに成功した。
それよりも私はあまりにも長く生きすぎた。
そして母なる大地の変貌をこの目で見ることは恐ろしいことだ。
それは昔、地球が丸いということを知った時の不安定にも似ている」
科学者は、人々の迫害から逃げて倒れている女を見つける。「さめなだ!」
男を見て驚く女に「お前は、いわば祖先がえりだ。だからもう昔の姿など知るはずのない人々から見れば異様に見えたに違いない」
「ごらん、あの太陽を。いまにあいつがおしまいにしてくれるのだよ。
月を人が不自然な三日月につくり変えた時からバランスは崩れた・・・」
女は「イ・ア・ラ!!」と叫ぶ。
その時、私はやっとイアラの意味が分かった。
再び会いましょう。いつかどこかで! そういう意味だったのだ。意味のない、ただの言葉だったのだ。
こんどそのことばを聞くのは、いつのことだろう。
「イアラ連作短編シリーズ」
ねむり
眠りから醒めた男。
人類最後の男女は、外の放射能から隔離され、最後の望みとして冬眠していた。
“彼女が目覚めた時、地球上から放射能は消えているだろう。だが、彼女ひとりでは、子孫を増やすことはできないではないか”
雪の夜の童話
美しい妻と、平凡な夫は、とても幸せに暮らしていた。
ある雪の夜、妻が他の男を家に入れているところを見て、池で溺死する選択をする。
が、本当は、アパートの外で凍死していた。
指
雅美は、兄の友人・章一に片思いしていた。
カルタとりに誘われ、みなで手を重ね合わせた時、章一の上が雅美で、その感覚は電流のように体中に広がる。
想いは伝えられないまま、雅美は嫁ぎ、苦労がたて続けに襲い、年老いたある日、久々に昔の仲間で集まろうと手紙が来る。
章一も来て、またカルタとりをし、雅美は順番を間違えたフリをして章一の手に自分の手を重ねてみたが、
あんなに期待していた感覚は何も起こらなかった。
[エッセイ抜粋メモ 二階堂黎人~この揺るぎなき時の流れ]
『イアラ』を隠れた名作などと言うと、ひどく語弊があるだろう。
楳図かずおファンや一介のマンガマニアなら、これが氏の一、二を争う傑作だということは明白だからだ。
私は1980年頃に、ある場所で頻繁に楳図かずおの姿を見かけている。
当時私は、手塚治虫ファンクラブの会長を務めていて、高田馬場にある手塚プロダクションへ顔を出していた。
地下鉄東西線に乗って行くのだが、その車両の中で、モジャモジャの長い髪に、極彩色の恐ろしく派手な洋服を着た、
たいそう痩せた男に遭遇した。
しかもその男は、椅子にまったく座らず、車内の通路を端から端まで早足で駆けている。時には何往復もする。
その異様な風体の男こそ、楳図かずおだったのである。
楳図かずおが極度の乗り物恐怖症であることは、彼のファンにとって有名な話だ。
乗り物の中でじっとしているのが怖いので、常に歩き回っているわけなのだ。
その頃の氏は、高田馬場に居を構え、絶対に山手線の外側には出ないと宣言していたらしい。
高田馬場と竹橋の間を往復する地下鉄だけが、自分に許せる唯一の乗り物だった
竹橋には、「少年サンデー」の発行元の小学館があったからだ。
恐怖の本質を本能的に熟知しているからこそ、生半可な怯えを優に超える真の恐怖を、
マンガという虚構上の手段によって構築することが可能なのだろう。
長編『イアラ』は、読み切り型短編を積み上げて、一つの大きな物語を作り上げるオムニバス形式をとっている。
その他の青年誌では、実験的な作品を数多く執筆していた。
氏の最も脂の乗りきった時期の、最も充実した内容を持つ作品と言えよう。
ほぼ同時期に手塚治虫が『火の鳥』、石ノ森章太郎が『リュウの道』、里中満智子が『海のオーロラ』を描いている。
1970年代と言えば、公害が日本ならびに地球全体を蝕み、滅亡思想が人々の上に大きく覆い被さっていた時代である(そうなの
一流のマンガ家たちが、マンガという形式媒体を用いて、人類そのものの存在意義を突き詰めようとしていたのが興味深い。
1960年代後半には、月刊・週刊の少年誌の世界で3つの大きなマンガブームが起きている。
『ウルトラマン』『マグマ大使』などを代表とするSF特撮ヒーローブーム。
水木しげるの『ゲゲゲの鬼太郎』を代表とする妖怪ブーム。
手塚治虫の『バンパイヤ』などを代表とするホラーブーム。
楳図かずおは、妖怪ブームでは『猫目小僧』、ホラーブームでは『おろち』が強力な牽引車の役割を担っていた。
1970年代に入ると、貸本劇画から進出してきた劇画家たちの台頭が著しく、マンガ文化全体が大きく変貌した。
マンガは劇画を、劇画はマンガを取り入れ、両者は区別が難しくなった。
読者層の高年齢化によって、少年マンガと青年マンガの境界を低くした。
その中で楳図かずおは、青年マンガにも手をつける。
『闇のアルバム』シリーズのように、構図、視点、描法に斬新な手法を用いた実験的作品も多く手がける。
『イアラ』は、過去に3度、単行本化されている。
新書版ゴールデンコミックス『イアラ』全6巻(1974):『楳図かずお劇場シリーズ』と銘打たれた。
小学館文庫版『イアラ』全5巻(1980)
箱入りの豪華版『イアラ』全1巻(1984):「愛は凶器だ」という帯の惹句(じゃっく。キャッチフレーズ)がファンの間で話題になった。
追。
2005年の映画『楳図かずお恐怖劇場』シリーズも気になってきた。
追2。
チキン・ジョージ博士Tシャツ・・・かっけー
すごいな・・・。
漫画本を神棚に奉りたくなる。
ずっと『漂流教室』が最高傑作だと思っていたイメージを、『14歳』も『わたしは真悟』もどんどん塗り替えていく。
たった数ページの短編もどれも傑作。
それが、まだまだ山ほどあるんだから、この当時の漫画家さんたちの才能って神がかってる
楳図さんが乗り物恐怖症だと初めて知って、さらに共感を抱いてしまった。
高田馬場から吉祥寺に引っ越したのかな? あの「まことちゃんハウス」からはあまり出ないのだろうか?
でも、映画『マザー』も公開されたことだし、いろんなメディアにも出ているから、その度、電車内を歩き回ってるの???
【内容抜粋メモ】(ネタバレ注意
第1章 さなめ
地球の誕生から物語は始まる。
そして天平の世。
代々、短命の血筋に生まれた土麻呂は、唯一の肉親である祖母に育てられた。
祖母はある日、土麻呂を見つめ「お前も、いつまでもひとりでさみしい思いをするじゃろう・・・」と言ったのが忘れられない一言となる。
土麻呂は、奴婢の娘・小菜女(さなめ)と恋に落ちる。
だが、大仏を建立するために土麻呂は都に狩り出されてしまう。建立には10年かかるという。
土麻呂に逢いたい一心で、都まで歩いてきた小菜女を救ったのは、建立の指揮官・国中公麻呂だった。
公麻呂はさなめの美しさに気づき妻にする。
土麻呂に脱走を企てた罪を着せ、妻になるなら大仏ができあがった日に土麻呂を解放してやる、と約束する。
公麻呂は、さなめに冷たくあたったが、さなめは耐え抜いた。
大仏ができあがった日、公麻呂は「本当に美しく、心底優しい女を大仏の中に入れる。お前は大仏の魂となるのじゃ!」
第2章 しるし
さなめが生贄となって死ぬ瞬間に言った言葉「イアラ」の意味が分からずに苦しむ土麻呂。
歴史は、生贄の奴婢のことも、彼女を愛して死んだ公麻呂のことも書き換えられて美化され伝わった。
時代は文永。
蒙古襲来によって村人は女子どももすべてが無残に殺された。
浜辺に倒れていた美しい高麗の女に惹かれ、トラジと呼んで妻にした加藤次は、村人からそしられ、村はずれに住む。
ふたたび蒙古来襲に備えて石築地を積み上げ、海を監視する村人。
吉野山から来た行者・土達は、トラジがさなめにそっくりだと驚く。
加藤次が病んだ際、薬草をもらいに来たトラジの肩にホクロがあることで確かめるが、トラジは何も思い出さない。
再度、蒙古はやって来た。トラジは村人に知らせるが、無視され、また惨劇が繰り返された。
領主は怠慢を知られるのを恐れ、生き残った村人を全員切り殺す。
トラジは海に入り、北を目指して泳いでいった。
第3章 わび
天正の時代。
農村に暮らすりえは、ある日、眼光の鋭い男が自分を見ていたと祖父に言うと、
りえの母、祖母もまた美しく、同じ男を見たと言っていたことを話す。
りえは嫁いで女児はなを産み、夫の嫉妬に苦しみ、実家に戻り、娘にも不思議な男の話を聞かせる。
はなもまた男を見たが、その後、嫁いで、夫の罪で村はじきにされ、実家に戻る。
はなの娘・ゆきは、母らのように美しい容貌ではなかったが、ある日、怪我を負った男を助け、この男が母の言っていた人ではと思う。
男は、ゆきに「いっしょにゆかぬか?」と自分の里に連れてくる。
わび助は、利休の弟子で、割腹の最期を看取った。
利休「見るがよい。無作為の作為じゃ。平凡な中に果てしない大きさがある。当たり前であることこそ、どれだけ難しいか分かるか?
会うことは別れることでもあり、別れることは、会うことともいえる。
終わることは始まることでもあれば、高い山を低くも見れる。
あることは、ないことでもあり、内とおもえば、外でもあり、それが外だと思えば、まだそれの外側がある。
これからも時は永く続くなれば、それはすぐ終わるともいえるのじゃ」
わび助「生きることは、ただ生きることで、それがいちばんむずかしく、利休の場合、形に現されたのが茶であったとすれば、私の場合は・・・」
ゆきが世話した男は細井新助という武将で、ゆきを妻に迎えるが、戦で討ち死にする。
夫亡き後、ゆきの身辺は一転し、冷遇されるも、耐え抜いた。
ある日、秀吉と千利休のもとに呼ばれるゆき。
北政所に届ける壷を割った罪を着せられ、酷い拷問を受けても変わらぬゆきの元に関白らが来て、
もとは身分の高い出だったゆきに試練を与え続けたのは関白だと明かす。わび助=新助も生きていた。
すべては、荒野に暮らす不細工な女を美しいといった利休に秀吉が思いついたこと。
秀吉「利休は、茶の道は仏法の意味で、数寄とは隠遁の心第一に、侘びとは正直に慎み深く驕らぬ様を侘びといった。
この世は人と人との戦いによりつくられていくならば、人の一生も人により作られているということもいえる。
女がより美しく見せるために着飾ることもまた美しいといえる。
それが自然でないというなら、あの不細工な女がつくられた自然を与えた時、
はたしてあの女はそれでも美しく見えるであろうかということじゃった」
ゆきは、また荒野の一軒家に戻る。
わび助は、ゆきの家の代々の女たちにさなめに似たものを感じながらもどこか違っていると悩む。
「利休にいわせれば、無意味なことが意味のあることともいえる。
私の今の行為は目的を探すためでもあり、行為自体が目的ともとれる」
わび助はゆきの元に戻ることを決意する。
第4章 かげろう
さなめを求めて彷徨う男・曾良は、旅の途中で「履きふるしたものでも、どうか使って下さい」と俳句を結んだわらじを見つけて心打たれる。
「これは、さなめの匂いだ!」
男は女を追って走るが、川を渡ってしまい、大雨となったので宿をとると、芭蕉と出会う。
「旅はあわてるものではない。人はみな旅をしておるのじゃ。それぞれ自分にあった旅を。
あわてたからといって目的に到達するとも限らない。道は限りなくあるものじゃ。
旅は自然の小さなひとつひとつに心をうつし、感じながら行くものじゃ」
曾良が女を見つけた時には、労咳(結核)で弱った体で吐血し、短刀で首を切って自害していた。
曾良は芭蕉と共に俳句の旅を続け、芭蕉が病床についた時、「あの時、わらじなどを置いたのは自分だった」と告白する。
女は江戸で有名な遊女だったが、旅の途中で曾良が女人を探していることを知り、自分がその女人になれたらと思いなりすましていたのだと。
「旅に病んで 夢は枯野をかけめぐる」
第5章 うつろい
明和時代。全国的なひでり、江戸の大火、水害、安永と年号を改めても天災は続き、
疫病、京都日向の大洪水、伊豆大島の噴火、桜島の大噴火、天明の大飢饉、浅間山の大爆発・・・
百姓は犬猫だけでなく、人肉を食べる者もあとをたたなかったが、武士・町人の暮らしは、逆に享楽的に華美となった
津椰姫は年を追う毎に美しく育ち、徳川家の者に嫁ぎ、夫は完全に尻に敷かれていた。
津椰姫は、若い家臣・忠兵衛と強く惹かれ合い、二人の逢引が続く。
ところがある日を境に姫は引きこもり、どんな医者も治せず、水ごり、逆さづりなど、あらゆる苦行をした末、
ある有名な歌舞伎役者と言葉を交わした日から、ふたたび人前に出た時は、さらに美しさを増していた。
年月が経ち、ある日、姫はまた人を寄せ付けなくなる。心配した夫が見たのは、姫の老いた姿だった。
歌舞伎役者の化粧をして誤魔化していたこと、忠兵衛を真剣に愛していたこと、
そして、彼が老いた細工をしていただけで、まったく歳をとっていないと気づき、気も狂わんばかりに悩んだことを明かす。
その日から忠兵衛は、どこへともなく姿を消した。
第6章 望郷
昭和。
鳥内靖子は美しい少女で、ありふれた生活をしていたが、店先で古いつぼに魅入られてから、骨董品の収集にとり憑かれる。
「イアラ」について調べていると知人に明かす。
平安のつぼ、江戸の器にも「イアラ」と彫られ、鑑定の結果、同じ筆跡だと分かったという。
靖子は新聞に「連絡ください」と広告を出し、電話がくる。
奈良でその男に会い、すべてのいきさつを聞く。靖子もさなめと似ているがやはり違うと分かる。
男の部屋は洞穴で、地下噴火が起こり、靖子だけ路上で倒れているのが発見される。
“窓から見上げる空が、どんよりと澱んで見えることに気づいた。
道は埃とクルマの排気ガスで窒息しそうに見え、海や川には油が浮き、死んだ魚が浮いているのに気づいた
靖子が古いものに突然関心を持つようになったのは、失われつつある過去への望郷の心といっていい。
それはだれにでもあるものだなのだ。ただ、人間は慣れすぎていて、ふりかえることを忘れているのだ”
第7章 終焉
未来。
人間とはかけ離れた醜怪な姿をした女児が生まれ、母を亡くしてからは、人々から虐待を受け、
包帯で顔を隠して洞窟でひっそり暮らすようになる。
その頃から天変地異が増加し、人々は原因を彼女に向け、激しく憎み、迫害した。
科学者の男は、人家から離れた場所で研究をしていた。
「科学は、どんな神秘なベールも白日のもとにさらさずにはおかない。まさに偉大な存在だ。
人類はすべてに挑戦し、すべてを打ち倒していった。人類に恐れるものはなく、人類に知らないものはなくなった。
科学を恐れる時もあった。公害、核問題、人口過剰・・・だがどれもみんな大昔の出来事のワンカットにすぎない。
だが、やはり人類は自然の力のもとには敵わなかった。まさに自然の摂理に導かれたにすぎない。
人類はかろうじて生息する許しを与えられた。だが今はそれも昔となりつつある。
人は頂点をすぎて退化しはじめる。だが、だれも自分ではそれを退化とは思わぬものだ。
だがそれはそれでよい。そのおかげで平和を取り戻すことができたのだ。
人類は、その頂点でおそるべき事実を計算することに成功した。
それよりも私はあまりにも長く生きすぎた。
そして母なる大地の変貌をこの目で見ることは恐ろしいことだ。
それは昔、地球が丸いということを知った時の不安定にも似ている」
科学者は、人々の迫害から逃げて倒れている女を見つける。「さめなだ!」
男を見て驚く女に「お前は、いわば祖先がえりだ。だからもう昔の姿など知るはずのない人々から見れば異様に見えたに違いない」
「ごらん、あの太陽を。いまにあいつがおしまいにしてくれるのだよ。
月を人が不自然な三日月につくり変えた時からバランスは崩れた・・・」
女は「イ・ア・ラ!!」と叫ぶ。
その時、私はやっとイアラの意味が分かった。
再び会いましょう。いつかどこかで! そういう意味だったのだ。意味のない、ただの言葉だったのだ。
こんどそのことばを聞くのは、いつのことだろう。
「イアラ連作短編シリーズ」
ねむり
眠りから醒めた男。
人類最後の男女は、外の放射能から隔離され、最後の望みとして冬眠していた。
“彼女が目覚めた時、地球上から放射能は消えているだろう。だが、彼女ひとりでは、子孫を増やすことはできないではないか”
雪の夜の童話
美しい妻と、平凡な夫は、とても幸せに暮らしていた。
ある雪の夜、妻が他の男を家に入れているところを見て、池で溺死する選択をする。
が、本当は、アパートの外で凍死していた。
指
雅美は、兄の友人・章一に片思いしていた。
カルタとりに誘われ、みなで手を重ね合わせた時、章一の上が雅美で、その感覚は電流のように体中に広がる。
想いは伝えられないまま、雅美は嫁ぎ、苦労がたて続けに襲い、年老いたある日、久々に昔の仲間で集まろうと手紙が来る。
章一も来て、またカルタとりをし、雅美は順番を間違えたフリをして章一の手に自分の手を重ねてみたが、
あんなに期待していた感覚は何も起こらなかった。
[エッセイ抜粋メモ 二階堂黎人~この揺るぎなき時の流れ]
『イアラ』を隠れた名作などと言うと、ひどく語弊があるだろう。
楳図かずおファンや一介のマンガマニアなら、これが氏の一、二を争う傑作だということは明白だからだ。
私は1980年頃に、ある場所で頻繁に楳図かずおの姿を見かけている。
当時私は、手塚治虫ファンクラブの会長を務めていて、高田馬場にある手塚プロダクションへ顔を出していた。
地下鉄東西線に乗って行くのだが、その車両の中で、モジャモジャの長い髪に、極彩色の恐ろしく派手な洋服を着た、
たいそう痩せた男に遭遇した。
しかもその男は、椅子にまったく座らず、車内の通路を端から端まで早足で駆けている。時には何往復もする。
その異様な風体の男こそ、楳図かずおだったのである。
楳図かずおが極度の乗り物恐怖症であることは、彼のファンにとって有名な話だ。
乗り物の中でじっとしているのが怖いので、常に歩き回っているわけなのだ。
その頃の氏は、高田馬場に居を構え、絶対に山手線の外側には出ないと宣言していたらしい。
高田馬場と竹橋の間を往復する地下鉄だけが、自分に許せる唯一の乗り物だった
竹橋には、「少年サンデー」の発行元の小学館があったからだ。
恐怖の本質を本能的に熟知しているからこそ、生半可な怯えを優に超える真の恐怖を、
マンガという虚構上の手段によって構築することが可能なのだろう。
長編『イアラ』は、読み切り型短編を積み上げて、一つの大きな物語を作り上げるオムニバス形式をとっている。
その他の青年誌では、実験的な作品を数多く執筆していた。
氏の最も脂の乗りきった時期の、最も充実した内容を持つ作品と言えよう。
ほぼ同時期に手塚治虫が『火の鳥』、石ノ森章太郎が『リュウの道』、里中満智子が『海のオーロラ』を描いている。
1970年代と言えば、公害が日本ならびに地球全体を蝕み、滅亡思想が人々の上に大きく覆い被さっていた時代である(そうなの
一流のマンガ家たちが、マンガという形式媒体を用いて、人類そのものの存在意義を突き詰めようとしていたのが興味深い。
1960年代後半には、月刊・週刊の少年誌の世界で3つの大きなマンガブームが起きている。
『ウルトラマン』『マグマ大使』などを代表とするSF特撮ヒーローブーム。
水木しげるの『ゲゲゲの鬼太郎』を代表とする妖怪ブーム。
手塚治虫の『バンパイヤ』などを代表とするホラーブーム。
楳図かずおは、妖怪ブームでは『猫目小僧』、ホラーブームでは『おろち』が強力な牽引車の役割を担っていた。
1970年代に入ると、貸本劇画から進出してきた劇画家たちの台頭が著しく、マンガ文化全体が大きく変貌した。
マンガは劇画を、劇画はマンガを取り入れ、両者は区別が難しくなった。
読者層の高年齢化によって、少年マンガと青年マンガの境界を低くした。
その中で楳図かずおは、青年マンガにも手をつける。
『闇のアルバム』シリーズのように、構図、視点、描法に斬新な手法を用いた実験的作品も多く手がける。
『イアラ』は、過去に3度、単行本化されている。
新書版ゴールデンコミックス『イアラ』全6巻(1974):『楳図かずお劇場シリーズ』と銘打たれた。
小学館文庫版『イアラ』全5巻(1980)
箱入りの豪華版『イアラ』全1巻(1984):「愛は凶器だ」という帯の惹句(じゃっく。キャッチフレーズ)がファンの間で話題になった。
追。
2005年の映画『楳図かずお恐怖劇場』シリーズも気になってきた。
追2。
チキン・ジョージ博士Tシャツ・・・かっけー