■『みなまたの木』(創英社)
三枝三七子/絵と文
公害病についていろいろ知りたくなって借りてみた。
水俣病が発生した水俣市にたつ1本の松の木の視点から、ある漁師の家族と、町の変わる様が描かれている。
三枝さんは、2008年に「熊本県水俣市水俣病資料館」を訪ねたことをきっかけにして、取材を重ね、
本書が初めてのノンフィクション絵本となったとのこと。
高度経済成長の光の裏に公害病がある。
1つ歯車が狂うと、どれだけ長い年月をかけて修復しなければならないかがよく分かる。
埋立地は58.2haに及ぶ
▼あらすじ(ネタバレ注意
家族は毎日、海でとれた魚を売って暮らしていた。ご飯のおかずも魚だった。
魚がとれないと、おかずは山でとれる野菜だけ。お腹が減ってしかたない日が続く時もあった。
落ち着いた暮らしをさせたいと考えた町は、大企業に大きな工場をつくってもらい、皆そこで働いた。
もう、海の機嫌をうかがわなくても、ご飯がお腹いっぱい食べられるようになった。
大きな工場は、便利な暮らしに欠かせないビニールやプラスチックをつくっていた。
町は賑わったが、気づかない間に、冬でもないのに山の木が枯れ始めた。
空からは鳥が落ちてきた。
魚が口をパクパクさせて浮いてきた。
「大漁じゃ!」と喜ぶ人。気味が悪くて捨てて帰る人もいた。
隣りの家の犬が、塀に頭を打ちつけて死んだ。
猫も、突然、竈に飛び込んで死んだ。
それは町中で見られた。
「箸が持てん! 手が痛い! 体が痛い!」
妹はひと晩中泣きとおした。
翌朝、母は妹を町の病院にみせたが、なんの病気か分からず、もっと大きな町の病院に連れて行った。
しばらくして、妹はそこで死んだ。
原因が分からず、妹の体は、検査のために解剖されていた。
電車に乗ることも許されず、父は妹をおぶって、線路を歩いて帰った。
町中で、同じように、苦しみもがき死んでいく。
「あの工場ができてからじゃ!」
「海がまっくろじゃ! ぬらぬらしとる!」
「魚がおらん! わしたち生きられんぞ!」
それは、難しい話し合いのはじまりだった。
毎日続く、何人もの葬式の列。
この家のお父さん、お母さんも、同じ病気で死んでいった。
お姉ちゃんが大人になる頃、すべてが分かった。
「あの工場が川や海に流した水のせいじゃって。そん水なかに、有機水銀ちゅう毒がはいっとったって・・・」
町の人はふたたび立ち上がった。
お姉ちゃんは、今、2人の孫をもつおばあちゃんだ。
私から見える海は、あの頃と変わらない美しい海だ。
【ミナマタからのメッセージ~原田正純(鹿児島出身の医師。水俣病にもっとも詳しい)】
まず、村人を驚かせたのはネコの死だった。
突然、転げまわって痙攣を起こし、ヨダレを流して、そのうちいなくなった。
ネズミが増え、魚網をかじって困るという苦情が出たほど。
当時の新聞には「ネコがてんかん」という記事として載った。
ニワトリ、ブタ、イヌ、カラス、そして、ついに幼い子どもたちが病気になった。
水俣湾の入江にある船大工の娘2人が病気になり、保健所に届け出たのが1956/5/1。
その日を今は「水俣病発見の日」として慰霊祭が行われている。
医師は、水俣湾でとれた魚や貝を食べたのが原因とすぐ分かったが、何がまでは分からなかった。
魚や貝を食べないよう禁止し、熊本大学医学部に調査を依頼。
研修者は、魚介類に含まれる「有機水銀」が原因だと突き止めたのが1959の夏ごろ。
「有機水銀」は、湾に廃水を流していた「チッソ水俣工場」が流していた。
原因がわかっても、工場は水銀を流しつづけた。
水俣病の恐怖で、魚が売れなくなり、漁師は貧しくなり、怒って工場に押しかけ、
工場廃水を止めること、「きれいな海にしてくれ」という補償の要求をした。「漁民騒動」
しかし、工場はわずかなお金を払って、工場廃水は止めなかったため、
水銀被害は、不知火海全体に広がった
私は、まだ新米の医者で、先輩について患者さんを診察したり、相談にのったりしていた。
ある2人の兄弟に同じ症状があったが、彼らの母親は「兄は小児水俣病だが、弟は違う」と言って驚いた。
「弟は魚介を食べていないが、お腹にいる時、私は水俣湾でとれた魚やカキをたくさん食べた」
同じ状況が他の集落にも大勢いると分かった。
私たちは、子どもたちが母の胎盤を通じて水俣病にかかったことを証明しようと考えた。
そして、世界で初めて母の胎盤を通じて水俣病にかかった「メチル水銀中毒(胎児性水俣病)」と分かった。
水俣病のメッセージとは、私たちの周りの「小さな命」も「私たちの命」と繋がっていることを示している。
便利さを求めて自然を汚せば、私たち人間に帰ってくる。
【水俣病関連年表】
1908 「日本窒素肥料株式会社(現在のチッソ)」が水俣に工場を建てた
1932 チッソが「メチル水銀」を水俣湾に流し始める
(ビニールなどの原料となる「アセトアルデヒド」を作る時、水銀を使い、工場廃水に混ざった)
1956 伝染病を疑い、患者の家を消毒
1957 ネコ実験を行い、水俣湾の魚介を与えると水俣病になると分かり、食べないよう呼びかけた
1959 チッソは、ネコ実験を行い、工場廃液との関連性を知ったが公表しなかった。
水俣病で死亡した人に30万円の「見舞金契約」が支払われたが、とても補償とはいえないものだった。
1968 チッソが「アセトアルデヒド」の生産停止。「メチル水銀」の廃水を止めたが、不知火海も汚染していた。
政府はチッソ工場の廃水が原因の公害病だと断定。
1969 第一次訴訟が開始
1973 第二次訴訟が開始。第一次訴訟で患者が勝訴。補償協定が結ばれる
1977 水俣湾公害防止事業が始まる
1990 水俣湾埋立地「エコパーク水俣」が完成
1997 水俣湾の安全宣言
2004 最高裁判所が国と熊本県にも水俣病の責任があると認めた
三枝三七子/絵と文
公害病についていろいろ知りたくなって借りてみた。
水俣病が発生した水俣市にたつ1本の松の木の視点から、ある漁師の家族と、町の変わる様が描かれている。
三枝さんは、2008年に「熊本県水俣市水俣病資料館」を訪ねたことをきっかけにして、取材を重ね、
本書が初めてのノンフィクション絵本となったとのこと。
高度経済成長の光の裏に公害病がある。
1つ歯車が狂うと、どれだけ長い年月をかけて修復しなければならないかがよく分かる。
埋立地は58.2haに及ぶ
▼あらすじ(ネタバレ注意
家族は毎日、海でとれた魚を売って暮らしていた。ご飯のおかずも魚だった。
魚がとれないと、おかずは山でとれる野菜だけ。お腹が減ってしかたない日が続く時もあった。
落ち着いた暮らしをさせたいと考えた町は、大企業に大きな工場をつくってもらい、皆そこで働いた。
もう、海の機嫌をうかがわなくても、ご飯がお腹いっぱい食べられるようになった。
大きな工場は、便利な暮らしに欠かせないビニールやプラスチックをつくっていた。
町は賑わったが、気づかない間に、冬でもないのに山の木が枯れ始めた。
空からは鳥が落ちてきた。
魚が口をパクパクさせて浮いてきた。
「大漁じゃ!」と喜ぶ人。気味が悪くて捨てて帰る人もいた。
隣りの家の犬が、塀に頭を打ちつけて死んだ。
猫も、突然、竈に飛び込んで死んだ。
それは町中で見られた。
「箸が持てん! 手が痛い! 体が痛い!」
妹はひと晩中泣きとおした。
翌朝、母は妹を町の病院にみせたが、なんの病気か分からず、もっと大きな町の病院に連れて行った。
しばらくして、妹はそこで死んだ。
原因が分からず、妹の体は、検査のために解剖されていた。
電車に乗ることも許されず、父は妹をおぶって、線路を歩いて帰った。
町中で、同じように、苦しみもがき死んでいく。
「あの工場ができてからじゃ!」
「海がまっくろじゃ! ぬらぬらしとる!」
「魚がおらん! わしたち生きられんぞ!」
それは、難しい話し合いのはじまりだった。
毎日続く、何人もの葬式の列。
この家のお父さん、お母さんも、同じ病気で死んでいった。
お姉ちゃんが大人になる頃、すべてが分かった。
「あの工場が川や海に流した水のせいじゃって。そん水なかに、有機水銀ちゅう毒がはいっとったって・・・」
町の人はふたたび立ち上がった。
お姉ちゃんは、今、2人の孫をもつおばあちゃんだ。
私から見える海は、あの頃と変わらない美しい海だ。
【ミナマタからのメッセージ~原田正純(鹿児島出身の医師。水俣病にもっとも詳しい)】
まず、村人を驚かせたのはネコの死だった。
突然、転げまわって痙攣を起こし、ヨダレを流して、そのうちいなくなった。
ネズミが増え、魚網をかじって困るという苦情が出たほど。
当時の新聞には「ネコがてんかん」という記事として載った。
ニワトリ、ブタ、イヌ、カラス、そして、ついに幼い子どもたちが病気になった。
水俣湾の入江にある船大工の娘2人が病気になり、保健所に届け出たのが1956/5/1。
その日を今は「水俣病発見の日」として慰霊祭が行われている。
医師は、水俣湾でとれた魚や貝を食べたのが原因とすぐ分かったが、何がまでは分からなかった。
魚や貝を食べないよう禁止し、熊本大学医学部に調査を依頼。
研修者は、魚介類に含まれる「有機水銀」が原因だと突き止めたのが1959の夏ごろ。
「有機水銀」は、湾に廃水を流していた「チッソ水俣工場」が流していた。
原因がわかっても、工場は水銀を流しつづけた。
水俣病の恐怖で、魚が売れなくなり、漁師は貧しくなり、怒って工場に押しかけ、
工場廃水を止めること、「きれいな海にしてくれ」という補償の要求をした。「漁民騒動」
しかし、工場はわずかなお金を払って、工場廃水は止めなかったため、
水銀被害は、不知火海全体に広がった
私は、まだ新米の医者で、先輩について患者さんを診察したり、相談にのったりしていた。
ある2人の兄弟に同じ症状があったが、彼らの母親は「兄は小児水俣病だが、弟は違う」と言って驚いた。
「弟は魚介を食べていないが、お腹にいる時、私は水俣湾でとれた魚やカキをたくさん食べた」
同じ状況が他の集落にも大勢いると分かった。
私たちは、子どもたちが母の胎盤を通じて水俣病にかかったことを証明しようと考えた。
そして、世界で初めて母の胎盤を通じて水俣病にかかった「メチル水銀中毒(胎児性水俣病)」と分かった。
水俣病のメッセージとは、私たちの周りの「小さな命」も「私たちの命」と繋がっていることを示している。
便利さを求めて自然を汚せば、私たち人間に帰ってくる。
【水俣病関連年表】
1908 「日本窒素肥料株式会社(現在のチッソ)」が水俣に工場を建てた
1932 チッソが「メチル水銀」を水俣湾に流し始める
(ビニールなどの原料となる「アセトアルデヒド」を作る時、水銀を使い、工場廃水に混ざった)
1956 伝染病を疑い、患者の家を消毒
1957 ネコ実験を行い、水俣湾の魚介を与えると水俣病になると分かり、食べないよう呼びかけた
1959 チッソは、ネコ実験を行い、工場廃液との関連性を知ったが公表しなかった。
水俣病で死亡した人に30万円の「見舞金契約」が支払われたが、とても補償とはいえないものだった。
1968 チッソが「アセトアルデヒド」の生産停止。「メチル水銀」の廃水を止めたが、不知火海も汚染していた。
政府はチッソ工場の廃水が原因の公害病だと断定。
1969 第一次訴訟が開始
1973 第二次訴訟が開始。第一次訴訟で患者が勝訴。補償協定が結ばれる
1977 水俣湾公害防止事業が始まる
1990 水俣湾埋立地「エコパーク水俣」が完成
1997 水俣湾の安全宣言
2004 最高裁判所が国と熊本県にも水俣病の責任があると認めた