■「知」のビジュアル百科 『写真が語る 第一次世界大戦』(あすなろ書房)
サイモン・アダムズ/著 猪口邦子/日本語版監修
【ブログ内関連記事】
『写真が語るベトナム戦争』(あすなろ書房)
・ロンドンの「英国戦争博物館(Imperial War Museums)」には、戦時中の様子がリアルに再現されている/驚
今年は、第二次世界大戦の特集がたくさん組まれているけれども、
実は、第一次世界大戦のことも全然知らないことに気づいて借りてみた。
これは、まさにロバート・ウェストールが描いた時代そのものだ。
そして、読みながら気づいた。
第一次世界大戦も、その前の戦争や紛争、対立から派生していること。
憎しみから、また次の憎しみが生まれ、愛する人・国を奪われた人々は復讐に燃え、
また新たな犠牲者を出して、こうして戦争はいつまでたっても終わらないんだ。
読めば読むほど、ヨーロッパの国々の関係が複雑すぎて、どっちが敵か味方か分からなくなる。
戦っている兵士たちも、そもそもなんで戦ってるんだっけ?と何度も自問したことだろう。
戦争は、時代が進むほど、軍備が新しく開発され、相手よりもより強く、頑丈で、破壊力のあるものへと進化していく。
近代戦になるほど、大量に人が死に、兵士と民間人の総力戦となって、戦争孤児、難民も増えてゆく。
『シリーズ戦争孤児2 混血孤児~ーエリザベス・サンダース・ホームへの道』(汐文社)
『スターウォーズ』が流行るくらいだから、ヒトは戦争が好きなのか?
カッコいい戦闘機、戦車、機関銃から、そのうちカッコいい宇宙船に発展していくんだろう。
上の“偉い人”たちは、もう未来の戦争に向けて着々と準備を進めている。
死んだ兵士にはたくさん勲章をあげて、自分たちは無傷のまま「もうそろそろ止めようか」と何度もウソの約束を交わして。
【内容抜粋メモ】
・はじめに
第一次世界大戦は、最初の総力戦といわれる。
20Cには、第一次世界大戦、第二次世界大戦、東西冷戦と、
広く世界を巻き込む大国間武力対立が相次ぎ、かつてない破戒の悲劇を経験した。
知ることは、超えることへの一歩。
分断されたヨーロッパ
オレンジ:同盟国、緑:連合国、紫:中立国
20C初め、ヨーロッパの国々は敵意を高めつつあった。
「英艦ドレドノート」戦艦設計において革命的な出来事となり、世界的な海軍の軍拡競争が始まった。
「ウィルヘルム2世」通称カイザー・ビル。わずか29歳でドイツ皇帝になった。障害を持ち、強い性格で英仏を困惑させた。
「ロシア皇帝ニコライ2世」妻アレクサンドラは、英国のジョージ5世&ウィルヘルムのいとこ。
ドイツのアルフレート・クルップ兵器会社の、クルップ一族は、世界最大の兵器供給業者だった。
1871年に統一国家の時、ドイツは農業国だったが、
30年後、鉄、石炭、鋼鉄、造船などによって、アメリカ、イギリスに次ぐ世界第3位の大工業国となった。
運命の銃弾
1914 オーストリア・ハンガリーの皇位継承者フランツ・フェルディナンド大公が、ボスニアのサラエボで暗殺された。
黒幕はセルビアだと非難し、宣戦布告。「第三次バルカン戦争」が始まり、急速にヨーロッパ全体に発展した。
ドイツの都市住民の多くは熱狂的に戦争を歓迎した。
フランスは、1870~71に負け、アルザス・ロレーヌを割譲させられたドイツに復讐するチャンスだった。
オーストリア・ハンガリーには3つの陸軍があり、10の主要言語が用いられ、とても複雑な構造だった。
西部の戦い
1890年以降、ドイツは、ロシアとフランスと戦えば勝てる可能性は低いと知っていたため、
陸軍元帥アルフレートは、フランスを素早く叩き潰し、全力をロシアに向ける計画を立てた。
そのためには、中立国ベルギーを通るのが必要。ベルギー軍は小さく、経験不足のため、ドイツ軍に抵抗できなかった。
機関銃を犬にひかせてアントワープに撤退する兵士
英派遣軍は、13ポンド速射砲で砲撃を加えた。
クリスマスの休戦
1914 クリスマスイヴ。西部戦線の両軍兵士は、休戦してキャロルを歌い、プレゼントを交換した者もいた
しかし、1年後には「同じことをしたら射殺せよ」と命令された。
兵士たち
1914年8月に始まった戦争は、何百万人の男たちの生活を一変させた。
「正規軍」、年長の「予備役兵士」、「新規補充兵」、嫌々ながら狩り出された「徴集兵」。
ほとんどライフルを持ったこともない者も多かった。
海外植民地で募集した軍隊にも大きく依存していた。
「植民地軍」彼らは母国を離れたことのない者が多かった/極東では、中国などに日本が侵攻した
ドイツ陸軍は、以前から戦争準備を整えており、ヨーロッパ最強だった。
フランス陸軍も、ヨーロッパ最大級の陸軍だった。
イギリスは、志願兵からなる小規模な軍隊しかなかった。
どの国も、大規模な軍隊、必需品のために、税金を引き揚げなければならず、「戦時債」を国民に強いた。
「ヤツらをやっつけるぞ!」と書かれたポスターで国債支援を呼びかけているポスター
イギリスの新徴集兵検査。視力、胸の病気などははねられた
「良心的兵役拒否者」入隊を拒否した人々は、臆病者のしるしとして白い羽を渡された。
塹壕での生活
長距離砲、発射速度の速い機関銃の使用で、予想に反して、戦力が拮抗し、膠着状態に陥った。
兵士らは、開けた地上戦を避け、防御用の塹壕に入っているほかに方法がなかった。
塹壕で危険なのは、土が崩れて生き埋めになること。ドイツでは壁を板で補強し、より深く掘った
連合国側は、占領地を奪い返すつもりだったため、塹壕はずっと簡素だった。
雨、雪、地下水などで、塹壕はすぐ水浸しになった。ネズミ、シラミの大群も仲間だった。
フランスの将校たちは、静かな後方地域で優雅な食事をしている
(モンティ・パイソンのネタみたいだ
昼間は、短時間だが敵の砲撃を受ける恐怖の時間と、なにもない長い退屈な時間が交互に来た。
読書、詩作、スケッチ、手紙や日記を書いたりする兵士も多く、戦後、衝撃的な読み物となった。
フランスの作家アンリ・バルビュスは『砲火』を書き、戦争を弾劾した。
ポール・ナッシュ:公式の戦争画家。前線を描いた。
塹壕での戦い
実際は、向かい合う塹壕の中から撃ち合うケースが多かった。
敵側に送られる「襲撃部隊」は危険な任務だった。前線には「従軍牧師」もいた。
「無人地帯」で負傷した兵士は、夜になるまで放置され、そのまま死んだ者もいた。
「連隊応急救護所」応急処置をして「野戦病院」へ移送する
【兵士の言葉】
「僕が撃ったドイツ兵はとても良さそうな男だった。気の毒だったが、僕がやられるか、彼がやられるか、どちらかだったのだ」
連絡と補給は前線部隊の最大の問題
前線に向かう補給トラック/「女子陸軍補助部隊(WAAC)」は膨大なパンを焼いたり、電話交換手などの働きをした
砲弾は1日50万発以上、これらの輸送には両軍とも苦労した。
「伝書バト」
電話がない所では、前線の間で伝書バトが用いられた。
実際は、騒音や混乱で、敵陣に飛ぶことも多かった。
ドイツ軍は、特別訓練を受けた「軍用犬」を用い、通信文を運ばせた。
監視と偵察
敵軍の情報収集は特に重要で、捕虜への尋問は大きな情報源となった。
危険な夜間偵察も行われ、鉄条網にかかったり、不発弾を破裂させたり、敵の銃撃を浴びたりした。
「無人地帯」では、目標となる森、丘さえ吹き飛ばされ、方向がすぐ分からなくなるため、コンパスが不可欠だった。
両軍とも精巧な展望鏡をつくって、塹壕の外を見ることができるようにした。
偵察、爆撃に使われた王立航空機工場製プレリオ・エクスペリメンタル(BE)2a機
砲撃
第一次世界大戦では、砲撃が最大の力だった。
もっとも効果的なのは「移動弾幕射撃」。移動する歩兵部隊のすぐ前を、弾幕が進むように砲撃するもの。
「警告標識」前線では砲弾に慣れてしまうため、頭を低くするようあちこちに看板があった
膨大な数の砲弾
・砲弾の種類
「榴弾」衝撃によって破裂する
「対人榴散弾」飛びながら破裂して兵士を殺傷する
・2種類の大砲
「軽野砲」馬でも引ける。
「榴弾砲」牽引車で引き、補強した土台上に置いた。
塹壕からの出撃
進撃(敵陣に向かって前進する)はきわめて危険。
「機関銃」は、最大で600発/1分間、発射可能。「マクシム3型中機関銃」
「ソンムの戦い」
1916年7月1日から始まり、11月18日、暴風雪・豪雨によるぬかるみのため攻撃がムリになるまで続いた。
英軍の新設軍は、若くて経験の浅い兵士ばかりで、これが初めての戦闘だった。
ドイツ軍陣地は砲撃で破戒されていると信じていた歩兵部隊は、長い列で前進し、
機関銃によって文字通りなぎ倒された。
【兵士の言葉】
「ぬかるんだ道路には・・・軍服の切れ端、兵器、たくさんの死体が転がっていた」
死傷者
この戦争でどれだけの兵士が負傷したかは誰にも分からない(数えることも出来なかったの!?
推定2100万人とも言われる。
「西部戦線」で戦った英軍兵士の78%以上は、再び現役の軍務に戻った。
メソポタミアでは、死者の50%以上が病気だった。
死なずにすんだ兵士も、生涯残るような重い傷を負った。
ドイツ軍の包帯。木綿や麻が不足したため、レースのカーテンを切ったものなどがリサイクルされた
手術道具。下のトレーには手脚を切断するための、のこぎりやメスが入っている
農家、廃工場などが負傷者収容所にされ、医療は最低限しか行われず、自分のことは自分でするしかなかった
「砲弾ショック」
震とう症、心理的ショック、神経症などの総称。
第一次世界大戦以前の戦争には見られなかったが、塹壕戦のため、多くがこの症状を起こし、
生涯、悪夢や後遺症に苦しんだ者もいた。
英国陸軍省委員会は、「砲弾ショックなど存在しない」と発表した。
戦時の女性たち
それまで家庭内労働、保育、農作業など、限られた仕事をしていた女性が
戦時中は、工場で働いたり、男性しかしなかった仕事をなんでもした。
多くの女性が、それまでの賃金・地位の低い仕事を辞め、
軍需品工場などでより賃金が高い仕事に就き、社会的地位を勝ち取ったが、
戦後は、そのような社会進出は長続きせず、ほとんどが家庭に戻った。
・2人の看護婦
エルジー・ノッカー:英国の看護婦
メイリ・チザム:スコットランド人
2人は、1918年に毒ガスにやられるまで、負傷兵の手当てをした。
前線では彼女たちだけだった。
英国では大勢の女性が「女子陸軍補助部隊(後にクイーン・メアリー陸軍補助部隊)」に参加した。
「女子農業支援部隊」
両軍とも敵の食料輸入を妨害したため、自国での食糧増産が課題だった。
中流・上流の女性を大勢参加したが、ヨーロッパの農村ですでに働いていた「労働者階級」に比べれば微々たるものだった。
・貧困な労働者
イタリアの女性たちは、軍需品工場の悲惨な状況下で働かされた。
年少者、靴さえ買えない者も多かったため、ストライキもたびたび起こった。
ロシアの女性兵士「死の軍団」
空の戦い
開戦初期は、動力飛行の歴史はまだ10年。
最初の軍用機は「偵察機」で、空から敵陣を調べたりしていた。
その後、敵の飛行機を撃ち落とすことを目的とした専用の「戦闘機」がつくられ始めた。
「ソッピース・キャメル」「フォッカー」など。
最初の爆弾は、パイロットが手で投げ落としていたが、専用の「爆撃機」が登場した。
空中戦の技術など知らず、実戦で学んだ。
「撃墜王」
約10機撃墜すると、国民の英雄となった。
英国の撃墜王アルバート・ボールは、1917年撃墜されて戦死。まだ20歳だった。
操縦席にはドアがなく、パイロットは防寒用の皮のコートなどを着た
飛行船
1915年、ドイツの飛行船が初めて英国の夜空を飛び、人々をパニックに陥れた。
しかし、戦争ではあまり大きな役割は果たせなかった。
・最初の首都爆撃
1915年、ドイツの飛行船がロンドンを爆撃した。
196トンの爆弾が投下され、557人の死者、1358人の負傷者を出した。
最初は、飛行機より上空を飛び、撃ち落せなかったが、
より高空を飛ぶ飛行機、発火弾により撃ち落されたため、
「Uボート」を探す海上での偵察行動に限られた。
ゴンドラ側面は開いているため、乗組員は風雨にさらされていた。
「シースカウト・ゼロ」最高時速72kmという驚異的スピードで、17時間飛ぶことができた。
海上の戦い
諸国は、大規模な軍艦造船計画を進めたが、戦争は主に陸上で行われ、互いに海軍の交戦は避けた。
「Uボート」
内部は窮屈で、粗末な換気装置のみで、とても蒸し暑かった。
「水上機」
海でも、陸でも離着陸可能。偵察、爆撃に使われた。
「英国大艦隊」
英国海軍は、世界最大・最強だったが、この大戦で果たした役割は、陸軍に比べ小さかった。
「英艦フュアリアス」
航空母艦は、この大戦で初めて参戦した。
英国海軍省は、商船に迷彩塗装をし、Uボートの魚雷から守ろうとした
ガリポリ
オスマン・トルコは、ダーダネルス海峡の支配権を握り続けた
「赤痢」
死体にたかったハエにより食べ物が汚染され、両軍とも赤痢が多発した。
オーストラリア駐屯地病院では、78%の兵士が治療を受けた。
前線の英軍将校の医療カバン
・手づくりの手榴弾
ガリポリの戦闘は接近戦で、手榴弾が有効だったため、
弾薬が不足する中、ジャムの空き缶で手榴弾を手づくりした。
「アンザック入り江」
「アンザック軍団」と呼ばれたオーストラリア・ニュージーランド軍団は、
ガリポリの西海岸に上陸したが、厳しい地形により占領できなかった。
「アンザック記念日」
オーストラリアとニュージーランドは、大勢の犠牲者を出した追悼として、
今も4月25日を記念日としている。「ハイドパーク記念堂」
ベルダン
1916.2.21、ドイツ軍は、フランスの要塞都市ベルダンを大規模に攻撃した。
ベルダン戦は特に激しく、開けた土地では、死者を連れ帰ることも不可能で、そのまま腐敗していった。
【兵士の言葉】
「何という虐殺、何という恐怖の映像、何という大量殺戮だろうか。
私には自分の気持ちを表す言葉が見つからない。
地獄もこれほど恐ろしいものではあり得ない」
・泥地獄
ベルダンは、森に覆われた丘陵地帯。豪雨と絶えない砲撃で、辺り一帯はすさまじい泥濘地帯と化した。
兵士らは、仲間の死体のすぐ横で食事をしたり、眠ったりしなければならなかった。「死者の谷」
・周辺の村
オルヌの村の荒廃ぶりはすさまじく、9つの村は戦後も再建されず、記憶に留めるため地図に位置が記されている
毒ガス攻撃
1915/4/22、ドイツ軍は、塩素ガスを戦争で初めて使って効果をあげた。
窒息性のガスに対する防御手段を持たない兵士は、両軍で120万人中、9万1198人が苦しみながら死んだ。
「一体型のマスク」
最初はフランネルのマスクなどで毒ガスを中和する化学薬品を染み込ませたが何の役にも立たないと分かった
「毒ガス弾」
破裂すると蒸発する液体ガスが入っていて、種類によりさまざまな損傷を与えた。
大量の涙を出したり、皮膚に触れると水ぶくれができ、一時的に目も見えなくなった。肺炎を起こして死ぬものもある
あらゆる動物が毒ガスの影響を受けた。この馬も、目は守られていない
東部戦線
第一次世界大戦といえば、西部戦線の塹壕戦を思い浮かべる人が多いが、
東部では、はるかに流動的で、大部隊が前進、後退を繰り返していた。
1916年、ドイツ軍が「東部戦線」を完全支配し、ロシア軍はすっかり士気を失い、
翌1917年の「ロシア革命」の一因となった。
・戦闘拒否
1916年の終わりには、大勢のロシア兵が戦闘を拒否し、何万という兵士たちは黙って抜け出し、家に帰った。
(最初からそうすればよかったね・・・
・イタリアの「山岳兵」
イタリアとオーストリア・ハンガリーの国境は、山岳地帯での戦闘のため、訓練を受けた「山岳兵」を用いた
砂漠の戦い
アラビアではT.E.ロレンスの指導するベドウィン族兵士が、トルコ支配者に対して反乱を起こし、
アラブ国家独立を求めてゲリラ戦を展開した。
トルコの支配するメソポタミアは、石油が豊富で、英国は石油を必要としていた。
英軍は、1917.3にバグダッドを占領した。
スパイ活動
両軍とも無線や電信での通信文に暗号を使っていたため、
暗号専門家は、高度に複雑な暗号を考案し、敵の通信を傍受し、暗号を解読しようとした。
英軍の情報部門は、ベルリン→ワシントンの電文を解読。
その結果、1917.4にアメリカが参戦した。
「伝書バト」
通信文を運ぶため、50万羽以上のハトが使われ、パラシュートをつけて、敵の占領地域におろされた
「マタ・ハリ」
牛タンに見せかけた缶詰。中には収容所から集団脱走を助ける地図などが入っていた
戦車戦
英国で発明された戦車は、戦争用機械の大きな技術革新だった。
戦車の中はきわめて居心地が悪く、乗組員の中には失神する者がいたり、
温度が上がりすぎて、弾薬が爆発することさえあった。「英国のMk.V重戦車」
戦車は、幅の広い塹壕でひっくり返ってしまうため、台を橋にしていた。
アメリカの参戦
1914.8から戦争が始まり、アメリカ国内は大きく2つに分かれたため、中立を保ってきた。
1917.2、ドイツはすべての外国船を攻撃すると決め、これがアメリカ政府を怒らせ、
ウィルソン大統領は、ドイツに宣戦布告し、世界戦争に発展した。「ルシタニア号」
ウィルソン大統領は、理想主義者でありすぎたため、戦後の講和条約や、
再び世界戦争が起こるのを防ぐために考えられた「国際連盟」について、
議会の支持を得ることができなかった。
『国際平和をめざして 国際連合』(ほるぷ出版)
どの国の兵も同じだが、アメリカ兵も、ほとんど故郷を離れたことはなかった。
言葉の通じないフランスに来て、兵士はひどいホームシックにおちいった。
敵戦線の地下で
塹壕戦の中、工兵部隊は地下にトンネルを掘ることを考えた。
両軍の穴掘り部隊がぶつかって、地下で戦闘になることもあった。
・水浸しの塹壕
イープル周辺は地下水位が高く、塹壕はつねに水浸しだった。
【兵士の言葉】
「惨憺たるものだ。自分が死んでいればよかったと思うことも何度もあった。
身を隠すものもなく、水の中に腹ばいになっている。服は乾く暇もない」
パシャンデール
メシーン丘陵にあるドイツ軍陣地の地下で、100万トンの爆薬を詰め込んだ19箇所の坑道が同時に爆破された。
パシャンデールは、激しい雨と、砲弾のために、恐るべき泥沼と化した。
担架で負傷兵を包帯所まで運ぶのもほとんど不可能だった。
「私は地獄で死んだ。彼らはそこをパシャンデールと呼んだ」(詩人ジーグフリード・サスーン
最後の年
1918はじめ。ロシアは戦争から手を引いた。
ドイツは物資が欠乏し、オスマン・トルコと、ブルガリアは敗れ、
イタリアはオーストリア・ハンガリーに勝った。
11月、ドイツは完全に孤立状態になり、7日、連合国側と休戦の条件について交渉するため、代表団が戦線を越えた。
「ウラジミル・レーニン」
1917、ロシアの新しい指導者。戦争に反対し、即時停戦を命令した。
・ロシア撤兵
東部戦線では、ロシア兵とドイツ兵が公然と友人同士のように行き来するようになった。
「マルヌの戦い」
1918.7.18、仏軍と米軍は、ドイツ軍に反撃。
ドイツ軍は16万8000人が死に、戦場で埋葬された者も多い。
停戦と講和
1918.11.11。4年以上にわたった戦争が終わった。
連合国は、ドイツが二度と戦争を起こさないという保証を得るため、
ヨーロッパの新しい国境線が定められ、巨額の賠償金を要求。
ドイツ軍は、規模と戦力を削減、多くの領土、海外植民地のすべてを失った。
「客車内会談」
「ベルサイユ条約」
1919.6.28、ベルサイユ宮殿の鏡の間で調印された。
「ビッグ4」
フランス首相ジョルジュ・クレマンソー
英国首相デビッド・ロイド・ジョージ
イタリア首相ビットリオ・オルランド
アメリカ大統領ウッドロー・ウィルソン
この4人が講和条件を決めた。
(全然、大戦後には見えない服装、丸々太ったおじいさんたち
戦争の代価
第一次世界大戦で亡くなった人数は想像を絶した。
6500万人以上の兵士が戦い、その半数以上が戦死、負傷。
戦闘で死んだ者は800万人、病死は200万人、負傷者は2120万人、捕虜・行方不明者780万人。
巻き込まれて死んだ一般民は、約660万人。
何万の兵士が、体の変形を生じ、障害者となった。
整形外科医は顔面など、恐ろしく変形した部分を補うため、マスクや人工の補装具が使われた。
その後の生涯を、ずっと療養所で過ごした兵士もいた。
いくつもの町や村が地図上からそっくり姿を消し、肥沃な農地は不毛の湿地と化した。
ヨーロッパ経済は破滅し、アメリカが世界大国として頭角を現した。
・赤いヒナゲシ
西部戦線には、赤いヒナゲシなど、たくさんの花が咲いた。
兵士はこれを押し花にして、故郷の愛する人に送った。
・戦争記念碑
西部戦線の至る所に、墓地と記念碑がある。
「フランス国立霊廟と納骨堂」には、13万人の身元不明の兵士の遺骨が納められている。
サイモン・アダムズ/著 猪口邦子/日本語版監修
【ブログ内関連記事】
『写真が語るベトナム戦争』(あすなろ書房)
・ロンドンの「英国戦争博物館(Imperial War Museums)」には、戦時中の様子がリアルに再現されている/驚
今年は、第二次世界大戦の特集がたくさん組まれているけれども、
実は、第一次世界大戦のことも全然知らないことに気づいて借りてみた。
これは、まさにロバート・ウェストールが描いた時代そのものだ。
そして、読みながら気づいた。
第一次世界大戦も、その前の戦争や紛争、対立から派生していること。
憎しみから、また次の憎しみが生まれ、愛する人・国を奪われた人々は復讐に燃え、
また新たな犠牲者を出して、こうして戦争はいつまでたっても終わらないんだ。
読めば読むほど、ヨーロッパの国々の関係が複雑すぎて、どっちが敵か味方か分からなくなる。
戦っている兵士たちも、そもそもなんで戦ってるんだっけ?と何度も自問したことだろう。
戦争は、時代が進むほど、軍備が新しく開発され、相手よりもより強く、頑丈で、破壊力のあるものへと進化していく。
近代戦になるほど、大量に人が死に、兵士と民間人の総力戦となって、戦争孤児、難民も増えてゆく。
『シリーズ戦争孤児2 混血孤児~ーエリザベス・サンダース・ホームへの道』(汐文社)
『スターウォーズ』が流行るくらいだから、ヒトは戦争が好きなのか?
カッコいい戦闘機、戦車、機関銃から、そのうちカッコいい宇宙船に発展していくんだろう。
上の“偉い人”たちは、もう未来の戦争に向けて着々と準備を進めている。
死んだ兵士にはたくさん勲章をあげて、自分たちは無傷のまま「もうそろそろ止めようか」と何度もウソの約束を交わして。
【内容抜粋メモ】
・はじめに
第一次世界大戦は、最初の総力戦といわれる。
20Cには、第一次世界大戦、第二次世界大戦、東西冷戦と、
広く世界を巻き込む大国間武力対立が相次ぎ、かつてない破戒の悲劇を経験した。
知ることは、超えることへの一歩。
分断されたヨーロッパ
オレンジ:同盟国、緑:連合国、紫:中立国
20C初め、ヨーロッパの国々は敵意を高めつつあった。
「英艦ドレドノート」戦艦設計において革命的な出来事となり、世界的な海軍の軍拡競争が始まった。
「ウィルヘルム2世」通称カイザー・ビル。わずか29歳でドイツ皇帝になった。障害を持ち、強い性格で英仏を困惑させた。
「ロシア皇帝ニコライ2世」妻アレクサンドラは、英国のジョージ5世&ウィルヘルムのいとこ。
ドイツのアルフレート・クルップ兵器会社の、クルップ一族は、世界最大の兵器供給業者だった。
1871年に統一国家の時、ドイツは農業国だったが、
30年後、鉄、石炭、鋼鉄、造船などによって、アメリカ、イギリスに次ぐ世界第3位の大工業国となった。
運命の銃弾
1914 オーストリア・ハンガリーの皇位継承者フランツ・フェルディナンド大公が、ボスニアのサラエボで暗殺された。
黒幕はセルビアだと非難し、宣戦布告。「第三次バルカン戦争」が始まり、急速にヨーロッパ全体に発展した。
ドイツの都市住民の多くは熱狂的に戦争を歓迎した。
フランスは、1870~71に負け、アルザス・ロレーヌを割譲させられたドイツに復讐するチャンスだった。
オーストリア・ハンガリーには3つの陸軍があり、10の主要言語が用いられ、とても複雑な構造だった。
西部の戦い
1890年以降、ドイツは、ロシアとフランスと戦えば勝てる可能性は低いと知っていたため、
陸軍元帥アルフレートは、フランスを素早く叩き潰し、全力をロシアに向ける計画を立てた。
そのためには、中立国ベルギーを通るのが必要。ベルギー軍は小さく、経験不足のため、ドイツ軍に抵抗できなかった。
機関銃を犬にひかせてアントワープに撤退する兵士
英派遣軍は、13ポンド速射砲で砲撃を加えた。
クリスマスの休戦
1914 クリスマスイヴ。西部戦線の両軍兵士は、休戦してキャロルを歌い、プレゼントを交換した者もいた
しかし、1年後には「同じことをしたら射殺せよ」と命令された。
兵士たち
1914年8月に始まった戦争は、何百万人の男たちの生活を一変させた。
「正規軍」、年長の「予備役兵士」、「新規補充兵」、嫌々ながら狩り出された「徴集兵」。
ほとんどライフルを持ったこともない者も多かった。
海外植民地で募集した軍隊にも大きく依存していた。
「植民地軍」彼らは母国を離れたことのない者が多かった/極東では、中国などに日本が侵攻した
ドイツ陸軍は、以前から戦争準備を整えており、ヨーロッパ最強だった。
フランス陸軍も、ヨーロッパ最大級の陸軍だった。
イギリスは、志願兵からなる小規模な軍隊しかなかった。
どの国も、大規模な軍隊、必需品のために、税金を引き揚げなければならず、「戦時債」を国民に強いた。
「ヤツらをやっつけるぞ!」と書かれたポスターで国債支援を呼びかけているポスター
イギリスの新徴集兵検査。視力、胸の病気などははねられた
「良心的兵役拒否者」入隊を拒否した人々は、臆病者のしるしとして白い羽を渡された。
塹壕での生活
長距離砲、発射速度の速い機関銃の使用で、予想に反して、戦力が拮抗し、膠着状態に陥った。
兵士らは、開けた地上戦を避け、防御用の塹壕に入っているほかに方法がなかった。
塹壕で危険なのは、土が崩れて生き埋めになること。ドイツでは壁を板で補強し、より深く掘った
連合国側は、占領地を奪い返すつもりだったため、塹壕はずっと簡素だった。
雨、雪、地下水などで、塹壕はすぐ水浸しになった。ネズミ、シラミの大群も仲間だった。
フランスの将校たちは、静かな後方地域で優雅な食事をしている
(モンティ・パイソンのネタみたいだ
昼間は、短時間だが敵の砲撃を受ける恐怖の時間と、なにもない長い退屈な時間が交互に来た。
読書、詩作、スケッチ、手紙や日記を書いたりする兵士も多く、戦後、衝撃的な読み物となった。
フランスの作家アンリ・バルビュスは『砲火』を書き、戦争を弾劾した。
ポール・ナッシュ:公式の戦争画家。前線を描いた。
塹壕での戦い
実際は、向かい合う塹壕の中から撃ち合うケースが多かった。
敵側に送られる「襲撃部隊」は危険な任務だった。前線には「従軍牧師」もいた。
「無人地帯」で負傷した兵士は、夜になるまで放置され、そのまま死んだ者もいた。
「連隊応急救護所」応急処置をして「野戦病院」へ移送する
【兵士の言葉】
「僕が撃ったドイツ兵はとても良さそうな男だった。気の毒だったが、僕がやられるか、彼がやられるか、どちらかだったのだ」
連絡と補給は前線部隊の最大の問題
前線に向かう補給トラック/「女子陸軍補助部隊(WAAC)」は膨大なパンを焼いたり、電話交換手などの働きをした
砲弾は1日50万発以上、これらの輸送には両軍とも苦労した。
「伝書バト」
電話がない所では、前線の間で伝書バトが用いられた。
実際は、騒音や混乱で、敵陣に飛ぶことも多かった。
ドイツ軍は、特別訓練を受けた「軍用犬」を用い、通信文を運ばせた。
監視と偵察
敵軍の情報収集は特に重要で、捕虜への尋問は大きな情報源となった。
危険な夜間偵察も行われ、鉄条網にかかったり、不発弾を破裂させたり、敵の銃撃を浴びたりした。
「無人地帯」では、目標となる森、丘さえ吹き飛ばされ、方向がすぐ分からなくなるため、コンパスが不可欠だった。
両軍とも精巧な展望鏡をつくって、塹壕の外を見ることができるようにした。
偵察、爆撃に使われた王立航空機工場製プレリオ・エクスペリメンタル(BE)2a機
砲撃
第一次世界大戦では、砲撃が最大の力だった。
もっとも効果的なのは「移動弾幕射撃」。移動する歩兵部隊のすぐ前を、弾幕が進むように砲撃するもの。
「警告標識」前線では砲弾に慣れてしまうため、頭を低くするようあちこちに看板があった
膨大な数の砲弾
・砲弾の種類
「榴弾」衝撃によって破裂する
「対人榴散弾」飛びながら破裂して兵士を殺傷する
・2種類の大砲
「軽野砲」馬でも引ける。
「榴弾砲」牽引車で引き、補強した土台上に置いた。
塹壕からの出撃
進撃(敵陣に向かって前進する)はきわめて危険。
「機関銃」は、最大で600発/1分間、発射可能。「マクシム3型中機関銃」
「ソンムの戦い」
1916年7月1日から始まり、11月18日、暴風雪・豪雨によるぬかるみのため攻撃がムリになるまで続いた。
英軍の新設軍は、若くて経験の浅い兵士ばかりで、これが初めての戦闘だった。
ドイツ軍陣地は砲撃で破戒されていると信じていた歩兵部隊は、長い列で前進し、
機関銃によって文字通りなぎ倒された。
【兵士の言葉】
「ぬかるんだ道路には・・・軍服の切れ端、兵器、たくさんの死体が転がっていた」
死傷者
この戦争でどれだけの兵士が負傷したかは誰にも分からない(数えることも出来なかったの!?
推定2100万人とも言われる。
「西部戦線」で戦った英軍兵士の78%以上は、再び現役の軍務に戻った。
メソポタミアでは、死者の50%以上が病気だった。
死なずにすんだ兵士も、生涯残るような重い傷を負った。
ドイツ軍の包帯。木綿や麻が不足したため、レースのカーテンを切ったものなどがリサイクルされた
手術道具。下のトレーには手脚を切断するための、のこぎりやメスが入っている
農家、廃工場などが負傷者収容所にされ、医療は最低限しか行われず、自分のことは自分でするしかなかった
「砲弾ショック」
震とう症、心理的ショック、神経症などの総称。
第一次世界大戦以前の戦争には見られなかったが、塹壕戦のため、多くがこの症状を起こし、
生涯、悪夢や後遺症に苦しんだ者もいた。
英国陸軍省委員会は、「砲弾ショックなど存在しない」と発表した。
戦時の女性たち
それまで家庭内労働、保育、農作業など、限られた仕事をしていた女性が
戦時中は、工場で働いたり、男性しかしなかった仕事をなんでもした。
多くの女性が、それまでの賃金・地位の低い仕事を辞め、
軍需品工場などでより賃金が高い仕事に就き、社会的地位を勝ち取ったが、
戦後は、そのような社会進出は長続きせず、ほとんどが家庭に戻った。
・2人の看護婦
エルジー・ノッカー:英国の看護婦
メイリ・チザム:スコットランド人
2人は、1918年に毒ガスにやられるまで、負傷兵の手当てをした。
前線では彼女たちだけだった。
英国では大勢の女性が「女子陸軍補助部隊(後にクイーン・メアリー陸軍補助部隊)」に参加した。
「女子農業支援部隊」
両軍とも敵の食料輸入を妨害したため、自国での食糧増産が課題だった。
中流・上流の女性を大勢参加したが、ヨーロッパの農村ですでに働いていた「労働者階級」に比べれば微々たるものだった。
・貧困な労働者
イタリアの女性たちは、軍需品工場の悲惨な状況下で働かされた。
年少者、靴さえ買えない者も多かったため、ストライキもたびたび起こった。
ロシアの女性兵士「死の軍団」
空の戦い
開戦初期は、動力飛行の歴史はまだ10年。
最初の軍用機は「偵察機」で、空から敵陣を調べたりしていた。
その後、敵の飛行機を撃ち落とすことを目的とした専用の「戦闘機」がつくられ始めた。
「ソッピース・キャメル」「フォッカー」など。
最初の爆弾は、パイロットが手で投げ落としていたが、専用の「爆撃機」が登場した。
空中戦の技術など知らず、実戦で学んだ。
「撃墜王」
約10機撃墜すると、国民の英雄となった。
英国の撃墜王アルバート・ボールは、1917年撃墜されて戦死。まだ20歳だった。
操縦席にはドアがなく、パイロットは防寒用の皮のコートなどを着た
飛行船
1915年、ドイツの飛行船が初めて英国の夜空を飛び、人々をパニックに陥れた。
しかし、戦争ではあまり大きな役割は果たせなかった。
・最初の首都爆撃
1915年、ドイツの飛行船がロンドンを爆撃した。
196トンの爆弾が投下され、557人の死者、1358人の負傷者を出した。
最初は、飛行機より上空を飛び、撃ち落せなかったが、
より高空を飛ぶ飛行機、発火弾により撃ち落されたため、
「Uボート」を探す海上での偵察行動に限られた。
ゴンドラ側面は開いているため、乗組員は風雨にさらされていた。
「シースカウト・ゼロ」最高時速72kmという驚異的スピードで、17時間飛ぶことができた。
海上の戦い
諸国は、大規模な軍艦造船計画を進めたが、戦争は主に陸上で行われ、互いに海軍の交戦は避けた。
「Uボート」
内部は窮屈で、粗末な換気装置のみで、とても蒸し暑かった。
「水上機」
海でも、陸でも離着陸可能。偵察、爆撃に使われた。
「英国大艦隊」
英国海軍は、世界最大・最強だったが、この大戦で果たした役割は、陸軍に比べ小さかった。
「英艦フュアリアス」
航空母艦は、この大戦で初めて参戦した。
英国海軍省は、商船に迷彩塗装をし、Uボートの魚雷から守ろうとした
ガリポリ
オスマン・トルコは、ダーダネルス海峡の支配権を握り続けた
「赤痢」
死体にたかったハエにより食べ物が汚染され、両軍とも赤痢が多発した。
オーストラリア駐屯地病院では、78%の兵士が治療を受けた。
前線の英軍将校の医療カバン
・手づくりの手榴弾
ガリポリの戦闘は接近戦で、手榴弾が有効だったため、
弾薬が不足する中、ジャムの空き缶で手榴弾を手づくりした。
「アンザック入り江」
「アンザック軍団」と呼ばれたオーストラリア・ニュージーランド軍団は、
ガリポリの西海岸に上陸したが、厳しい地形により占領できなかった。
「アンザック記念日」
オーストラリアとニュージーランドは、大勢の犠牲者を出した追悼として、
今も4月25日を記念日としている。「ハイドパーク記念堂」
ベルダン
1916.2.21、ドイツ軍は、フランスの要塞都市ベルダンを大規模に攻撃した。
ベルダン戦は特に激しく、開けた土地では、死者を連れ帰ることも不可能で、そのまま腐敗していった。
【兵士の言葉】
「何という虐殺、何という恐怖の映像、何という大量殺戮だろうか。
私には自分の気持ちを表す言葉が見つからない。
地獄もこれほど恐ろしいものではあり得ない」
・泥地獄
ベルダンは、森に覆われた丘陵地帯。豪雨と絶えない砲撃で、辺り一帯はすさまじい泥濘地帯と化した。
兵士らは、仲間の死体のすぐ横で食事をしたり、眠ったりしなければならなかった。「死者の谷」
・周辺の村
オルヌの村の荒廃ぶりはすさまじく、9つの村は戦後も再建されず、記憶に留めるため地図に位置が記されている
毒ガス攻撃
1915/4/22、ドイツ軍は、塩素ガスを戦争で初めて使って効果をあげた。
窒息性のガスに対する防御手段を持たない兵士は、両軍で120万人中、9万1198人が苦しみながら死んだ。
「一体型のマスク」
最初はフランネルのマスクなどで毒ガスを中和する化学薬品を染み込ませたが何の役にも立たないと分かった
「毒ガス弾」
破裂すると蒸発する液体ガスが入っていて、種類によりさまざまな損傷を与えた。
大量の涙を出したり、皮膚に触れると水ぶくれができ、一時的に目も見えなくなった。肺炎を起こして死ぬものもある
あらゆる動物が毒ガスの影響を受けた。この馬も、目は守られていない
東部戦線
第一次世界大戦といえば、西部戦線の塹壕戦を思い浮かべる人が多いが、
東部では、はるかに流動的で、大部隊が前進、後退を繰り返していた。
1916年、ドイツ軍が「東部戦線」を完全支配し、ロシア軍はすっかり士気を失い、
翌1917年の「ロシア革命」の一因となった。
・戦闘拒否
1916年の終わりには、大勢のロシア兵が戦闘を拒否し、何万という兵士たちは黙って抜け出し、家に帰った。
(最初からそうすればよかったね・・・
・イタリアの「山岳兵」
イタリアとオーストリア・ハンガリーの国境は、山岳地帯での戦闘のため、訓練を受けた「山岳兵」を用いた
砂漠の戦い
アラビアではT.E.ロレンスの指導するベドウィン族兵士が、トルコ支配者に対して反乱を起こし、
アラブ国家独立を求めてゲリラ戦を展開した。
トルコの支配するメソポタミアは、石油が豊富で、英国は石油を必要としていた。
英軍は、1917.3にバグダッドを占領した。
スパイ活動
両軍とも無線や電信での通信文に暗号を使っていたため、
暗号専門家は、高度に複雑な暗号を考案し、敵の通信を傍受し、暗号を解読しようとした。
英軍の情報部門は、ベルリン→ワシントンの電文を解読。
その結果、1917.4にアメリカが参戦した。
「伝書バト」
通信文を運ぶため、50万羽以上のハトが使われ、パラシュートをつけて、敵の占領地域におろされた
「マタ・ハリ」
牛タンに見せかけた缶詰。中には収容所から集団脱走を助ける地図などが入っていた
戦車戦
英国で発明された戦車は、戦争用機械の大きな技術革新だった。
戦車の中はきわめて居心地が悪く、乗組員の中には失神する者がいたり、
温度が上がりすぎて、弾薬が爆発することさえあった。「英国のMk.V重戦車」
戦車は、幅の広い塹壕でひっくり返ってしまうため、台を橋にしていた。
アメリカの参戦
1914.8から戦争が始まり、アメリカ国内は大きく2つに分かれたため、中立を保ってきた。
1917.2、ドイツはすべての外国船を攻撃すると決め、これがアメリカ政府を怒らせ、
ウィルソン大統領は、ドイツに宣戦布告し、世界戦争に発展した。「ルシタニア号」
ウィルソン大統領は、理想主義者でありすぎたため、戦後の講和条約や、
再び世界戦争が起こるのを防ぐために考えられた「国際連盟」について、
議会の支持を得ることができなかった。
『国際平和をめざして 国際連合』(ほるぷ出版)
どの国の兵も同じだが、アメリカ兵も、ほとんど故郷を離れたことはなかった。
言葉の通じないフランスに来て、兵士はひどいホームシックにおちいった。
敵戦線の地下で
塹壕戦の中、工兵部隊は地下にトンネルを掘ることを考えた。
両軍の穴掘り部隊がぶつかって、地下で戦闘になることもあった。
・水浸しの塹壕
イープル周辺は地下水位が高く、塹壕はつねに水浸しだった。
【兵士の言葉】
「惨憺たるものだ。自分が死んでいればよかったと思うことも何度もあった。
身を隠すものもなく、水の中に腹ばいになっている。服は乾く暇もない」
パシャンデール
メシーン丘陵にあるドイツ軍陣地の地下で、100万トンの爆薬を詰め込んだ19箇所の坑道が同時に爆破された。
パシャンデールは、激しい雨と、砲弾のために、恐るべき泥沼と化した。
担架で負傷兵を包帯所まで運ぶのもほとんど不可能だった。
「私は地獄で死んだ。彼らはそこをパシャンデールと呼んだ」(詩人ジーグフリード・サスーン
最後の年
1918はじめ。ロシアは戦争から手を引いた。
ドイツは物資が欠乏し、オスマン・トルコと、ブルガリアは敗れ、
イタリアはオーストリア・ハンガリーに勝った。
11月、ドイツは完全に孤立状態になり、7日、連合国側と休戦の条件について交渉するため、代表団が戦線を越えた。
「ウラジミル・レーニン」
1917、ロシアの新しい指導者。戦争に反対し、即時停戦を命令した。
・ロシア撤兵
東部戦線では、ロシア兵とドイツ兵が公然と友人同士のように行き来するようになった。
「マルヌの戦い」
1918.7.18、仏軍と米軍は、ドイツ軍に反撃。
ドイツ軍は16万8000人が死に、戦場で埋葬された者も多い。
停戦と講和
1918.11.11。4年以上にわたった戦争が終わった。
連合国は、ドイツが二度と戦争を起こさないという保証を得るため、
ヨーロッパの新しい国境線が定められ、巨額の賠償金を要求。
ドイツ軍は、規模と戦力を削減、多くの領土、海外植民地のすべてを失った。
「客車内会談」
「ベルサイユ条約」
1919.6.28、ベルサイユ宮殿の鏡の間で調印された。
「ビッグ4」
フランス首相ジョルジュ・クレマンソー
英国首相デビッド・ロイド・ジョージ
イタリア首相ビットリオ・オルランド
アメリカ大統領ウッドロー・ウィルソン
この4人が講和条件を決めた。
(全然、大戦後には見えない服装、丸々太ったおじいさんたち
戦争の代価
第一次世界大戦で亡くなった人数は想像を絶した。
6500万人以上の兵士が戦い、その半数以上が戦死、負傷。
戦闘で死んだ者は800万人、病死は200万人、負傷者は2120万人、捕虜・行方不明者780万人。
巻き込まれて死んだ一般民は、約660万人。
何万の兵士が、体の変形を生じ、障害者となった。
整形外科医は顔面など、恐ろしく変形した部分を補うため、マスクや人工の補装具が使われた。
その後の生涯を、ずっと療養所で過ごした兵士もいた。
いくつもの町や村が地図上からそっくり姿を消し、肥沃な農地は不毛の湿地と化した。
ヨーロッパ経済は破滅し、アメリカが世界大国として頭角を現した。
・赤いヒナゲシ
西部戦線には、赤いヒナゲシなど、たくさんの花が咲いた。
兵士はこれを押し花にして、故郷の愛する人に送った。
・戦争記念碑
西部戦線の至る所に、墓地と記念碑がある。
「フランス国立霊廟と納骨堂」には、13万人の身元不明の兵士の遺骨が納められている。