■ハンセン病を知っていますか@探検バクモン
まだ観ていないけれども、映画『あん』もこの病をテーマにしていなかっただろうか?
音楽はPE’Zなんだね/驚
【内容抜粋メモ】
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「ハンセン病の後遺症で、一番大きいのが知覚麻痺。手足の知覚がなくなってしまう。
視力を失うこともある。最後まで残るのは唇とか舌。それでも本が読みたいという執念が表れている」
ハンセン病は「らい菌」によって末しょう神経がおかされる感染症
かつては「らい病」と呼ばれて不治の病と恐れられた。
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明治に隔離する法律が施行された
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治っても一生外に出られない
国立ハンセン病資料館
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「この病になると、共同体から外されるため、諸国をお遍路した」
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「村八分という言葉がありますけど、死んでも家族が迎えに来てくれないので、人によっては“村全部”だと言った」
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12畳に8人が雑居していた。わずかな食事で囚人のような暮らし
「ここは比較的、軽症の人が入っている。病状が進んでいる方は病室にいる。
なので、ここにいても“いずれ自分たちも・・・”と思いながらの暮らしだった」
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「現金を持っていると外に出るから、ここに来たら、現金を替えさせられる」
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園内の作業を患者に強いていた。畑、ブタの飼育、土木工事も/驚
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重傷患者の24時間看護も患者がやっていた。重労働でも、日給はタバコ1箱程度
不満が募り、反抗すると監禁され、運用は酷かった
「療養施設なのに、監禁施設があるのはここだけ」
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「実態は刑務所みたいなもの」
草津には、全国からとくに反抗的とされた人が収容された
理由は、長靴を交換してほしい、外出したなどささいなことだった。
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「決まりでは3ヶ月までしか入れてはいけないが、500日以上入っていた人もいて、
草津では23人がここで亡くなっています」
中はまっくらで、細長い明り取りがあるだけ。
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日にちを書いた跡もある
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1947年、アメリカで特効薬ができて、回復しても帰れなかった
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法律は、形を変えながら1966年まで残った
元患者との対談
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「“1年で治る”と東大の先生が言うので、早く行って治療を受けようと思って入ったら、
そこは、地獄の先の地獄。入ったら外へは出られない。死んでも家に帰れない。
日本は『家』が中心だから、“平沢家はらいの血統だ”って言われて、
家族は仕事にも就けないし、子どもは学校で勉強させてもらえない。
患者も差別を受けたけど、我々は家族のことを思って、療養所では仮名を使っていた。
両親が眠るお墓も、お寺と檀家に反対されて、公式にお墓参りは未だに出来ない。
自分のお寺の檀家に“らい病患者”がいたことが嫌なんだろうね」
「断種」
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療養所内で知り合って結婚したが、それには条件があった。不妊手術をすること。
「他の人の子どもや、お孫さんを見せられると辛かった」
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「日本の有数な医学者たちは、“らいは治らない”と言い、こういう証言を医師が国会でしたんですよ。
やはり我々が生きているうちに『らい予防法』だけはなんとかしなくちゃいかんと思った」
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「仲間に反対されたんですよ。誰もが忘れかけているのに、昔に戻って、いろいろ展示するのは“逆行”だと」
太田「ほかにも今まで市民運動がいっぱいあるけど、対立して離れていきますもんね」
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「物事はケンカしちゃダメ」
「基本は、敵を味方にすること。
この地上に1回だけ、両親から選ばれて、奇跡的に人間として生きてきた。
らい病、結核、難病であろうと、命には変わりない。
どんなに差別を受けても、人間として生きることに価値がある。そこに常に光明がある」
多摩全生園
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現在暮らしているのは200人。高齢のためや、今も残る偏見のために故郷に帰れない
「一時期は、1300~1400人暮らしている方がいた。隔離されている環境ですが、1つの“村”だった」
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「部屋にはお風呂がないんです。
知覚麻痺があるので、熱湯が入っていても分からないから危険。
共同浴場があって、皆さんそこに行くんです」
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宗教地区には、さまざまな宗派のお寺や教会が建ち並んでいる/患者手づくりの神社もある
「一番重要なスポットは納骨堂です。療養所の敷地内に墓地がある。ここで暮らし、ここで死ぬということ」
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2600人が眠っている。故郷の墓に入れてもらえない現実が今も続いている
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まだ観ていないけれども、映画『あん』もこの病をテーマにしていなかっただろうか?
音楽はPE’Zなんだね/驚
【内容抜粋メモ】

「ハンセン病の後遺症で、一番大きいのが知覚麻痺。手足の知覚がなくなってしまう。
視力を失うこともある。最後まで残るのは唇とか舌。それでも本が読みたいという執念が表れている」

かつては「らい病」と呼ばれて不治の病と恐れられた。







治っても一生外に出られない



「この病になると、共同体から外されるため、諸国をお遍路した」


「村八分という言葉がありますけど、死んでも家族が迎えに来てくれないので、人によっては“村全部”だと言った」



12畳に8人が雑居していた。わずかな食事で囚人のような暮らし
「ここは比較的、軽症の人が入っている。病状が進んでいる方は病室にいる。
なので、ここにいても“いずれ自分たちも・・・”と思いながらの暮らしだった」

「現金を持っていると外に出るから、ここに来たら、現金を替えさせられる」


園内の作業を患者に強いていた。畑、ブタの飼育、土木工事も/驚

重傷患者の24時間看護も患者がやっていた。重労働でも、日給はタバコ1箱程度


「療養施設なのに、監禁施設があるのはここだけ」


「実態は刑務所みたいなもの」

理由は、長靴を交換してほしい、外出したなどささいなことだった。


「決まりでは3ヶ月までしか入れてはいけないが、500日以上入っていた人もいて、
草津では23人がここで亡くなっています」
中はまっくらで、細長い明り取りがあるだけ。


日にちを書いた跡もある





法律は、形を変えながら1966年まで残った



「“1年で治る”と東大の先生が言うので、早く行って治療を受けようと思って入ったら、
そこは、地獄の先の地獄。入ったら外へは出られない。死んでも家に帰れない。
日本は『家』が中心だから、“平沢家はらいの血統だ”って言われて、
家族は仕事にも就けないし、子どもは学校で勉強させてもらえない。
患者も差別を受けたけど、我々は家族のことを思って、療養所では仮名を使っていた。
両親が眠るお墓も、お寺と檀家に反対されて、公式にお墓参りは未だに出来ない。
自分のお寺の檀家に“らい病患者”がいたことが嫌なんだろうね」
「断種」


療養所内で知り合って結婚したが、それには条件があった。不妊手術をすること。
「他の人の子どもや、お孫さんを見せられると辛かった」


「日本の有数な医学者たちは、“らいは治らない”と言い、こういう証言を医師が国会でしたんですよ。
やはり我々が生きているうちに『らい予防法』だけはなんとかしなくちゃいかんと思った」


「仲間に反対されたんですよ。誰もが忘れかけているのに、昔に戻って、いろいろ展示するのは“逆行”だと」
太田「ほかにも今まで市民運動がいっぱいあるけど、対立して離れていきますもんね」

「物事はケンカしちゃダメ」
「基本は、敵を味方にすること。
この地上に1回だけ、両親から選ばれて、奇跡的に人間として生きてきた。
らい病、結核、難病であろうと、命には変わりない。
どんなに差別を受けても、人間として生きることに価値がある。そこに常に光明がある」


現在暮らしているのは200人。高齢のためや、今も残る偏見のために故郷に帰れない
「一時期は、1300~1400人暮らしている方がいた。隔離されている環境ですが、1つの“村”だった」


「部屋にはお風呂がないんです。
知覚麻痺があるので、熱湯が入っていても分からないから危険。
共同浴場があって、皆さんそこに行くんです」


宗教地区には、さまざまな宗派のお寺や教会が建ち並んでいる/患者手づくりの神社もある
「一番重要なスポットは納骨堂です。療養所の敷地内に墓地がある。ここで暮らし、ここで死ぬということ」


2600人が眠っている。故郷の墓に入れてもらえない現実が今も続いている

