■『母と子でみる日本の空襲』(草の根出版会)
早乙女勝元/編
図書館で平和図書コーナーを教えてもらったら、早乙女勝元さんのシリーズがたくさん並んでいたので、その中からのチョイス。
簡潔な文章と、豊富な写真資料で、目から直接、事実が入ってくる感じの1冊。
驚いたのは、島根県にまったく被害者がいないこと。米軍の記入漏れ?
京都・奈良ですら被害があったのに。
ちなみに長野は40人で、これも少ない。なにか理由でもあるのかな?
【内容抜粋メモ】
B29=超空の要塞(スーパー・フォートレス)と呼ばれた爆撃機
太平洋戦争の末期。1944年11月〜1945年8月15日までの9ヶ月の間、日本本土は米空軍に連日のごとく爆撃された。
学校教育は、戦争の惨禍を教えず、原爆に比べると空襲の報道も少なかった。
日本の首相が、日本は米国を守るための「不沈空母」になれと発言したことで再び過去に焦点が当たった。
戦争が始まった頃は、戦争仕掛け人の軍人らは「日本の空の守りは鉄桶である」と豪語していた。
米軍がサイパン基地を完成すれば、日本全域が爆撃圏内に入ることは必至だった。
米国の資料「米国戦略爆撃調査団報告」によると、B29の爆撃は3つの期間に区分できる。
第1期は、昼間に高々度からの軍事施設爆撃が中心だったのが、
第2期は、市街地に対する夜間低空からの焼夷弾空襲でとどめを刺された
第3期は、大都市住宅地に対する焼夷弾空襲だった。
日本人非戦闘員の受けた被害の総計は、死者だけでも約38万人。
沖縄戦では9万4000人、原爆後遺症でのちに亡くなった推定10万人を含めると60万人近いが、
その防衛は、国は守っても決して国民の命や財産を守るものではなかった。
1937年。ドイツがゲルニカを、日本は南京を爆撃して世界中を驚かせた。
基地や工場だけでなく、住民を無差別に、大量に殺し傷つける最初の空襲だった。
海外ではその残虐性が印象づけられた。
日本は満州から侵略をつづける。
事変=宣戦布告なしに国と国が争う武力行為。
日中戦争に転機をもたらそうと、日本軍がインドシナに進出した時、米、英、オランダの権益(権利と利益)と衝突した。
1941年。太平洋戦争が勃発。
日本軍は1機も撃墜できなかったのに「撃墜機数は9機」と嘘を発表。
中国に不時着・破損した機体を「撃墜敵機の残骸」として展示したりした。
本土への初空襲後、2年間は空襲がなかったため、防空訓練がさかんになり日常となった。
「焼夷弾は体当たりで消火できる」という想定で、主婦までがバケツリレー訓練に駆り出された。
防空壕でのもぐら生活がはじまる
1944年。B29は日本の迎撃機も高射砲も届かない高々度を飛んでいた。
航空写真撮影のため定期的に飛来する機体を「定期便」「お客さん」と呼ぶようになった。
B29と原爆は、第二次大戦中もっとも強力な新兵器だった。
本来は、2つともアメリカがドイツを対象に開発したが、ドイツが降伏したため、日本に振り向けられた。
はじめは軍需工場を狙ったが命中せず、大都市を低高度から焼夷弾無差別爆撃を行う作戦に変えたのは司令官カーチス・E.ルメー将軍。
夜間に、木造家屋の多い大都市を「じゅうたん爆撃」し、多くの非戦闘員を焼死させた
敗戦までのべ3万4790機が、353回、約16万トンの爆弾・焼夷弾を投下して、約200の都市町村を焼き払った。
●130回も空襲された東京
3月10日未明、江東地区は、300機のB29による空襲に2時間22分さらされた。
死者約10万人ほか大被害となり、広島の原爆禍(死者12万人)に次いだ。
「斜めに風をきって 逃げる人を直撃死させ
噴き出すガソリンで焼死させ
酸素をうばって酸欠死・中毒死させ
川に逃げる人を水死させた」
●4月15日 川崎大空襲
●5月29日 横浜大空襲
武蔵野市の中島飛行機工場は執拗に狙われ、11回の最多目標爆撃を受けた。
B29は、第一次目標地を爆撃できない時、第二次目標地を爆撃していた。「盲爆」
立川飛行機、日立航空機が併行して目標爆撃された。
●最初から最後まで狙われた名古屋
航空機工場を含め4000の軍需工場があった名古屋は、市街地が焼き払われた後も執拗に空襲された。
5月14日 名古屋大空襲 B29480機という本土空襲史上最高機数による無差別じゅうたん爆撃を受けた。
戦略爆撃
爆弾や焼夷弾(高熱を発して燃える)を雨のように降らせて焼き殺し、戦争がいやになる作戦を実行したのがB29。
浜松市は、目標都市に爆撃できない時の“身代わり”にされた。
手押し車を押す女性。浜松市。
●大阪 敗戦前日にも大空襲
はじめの10回は、港湾施設が狙われ、次は市街地が狙われた。
環状線京橋駅も爆撃を受け、駅には死者の肉片が飛び散り、すさまじい光景となった。
かろうじて形をとどめる大阪城
●近畿地方
1945年3月17日 神戸空襲
神戸の死者は8841人。五大都市中最悪の被害率だった。
古都京都を守るため爆撃目標からはずしていたが、1回の爆撃は誤爆だったと言われた。
奈良は古社寺の宝物や仏像を守ろうと必死だったが、「動かすとくだける」など対応はさまざまだった。
戦争は文化を破壊し、人を殺すのに容赦ない。
●北海道地方
1945年7月 艦砲射撃による室蘭空襲など
●東北地方
「臨機目標=オポチュニティ」が爆弾をいきあたりばったりに落としていく空襲が早くからあった。
米軍が空襲予告ビラを撒いて、避難・疎開した人も多かったが、県知事がこれをとがめて配給物資停止の通告が出て、
やむなく市内にもどった住民が空襲にあって焼死者を増やす悲劇もあった。
動くものは全て狙う一斉掃射で、宮城県では、林に逃げ込んだ子どもまで銃撃されて死んだ。
●空襲下の生活
「欲しがりません勝つまでは」のスローガンが初空襲から掲げられた。
主食の米は1日1人分が茶碗に約3杯分の配給で、45年にはさらに減らされた。
「本土決戦」「鬼畜米英」などの標語が勇ましく打ち出され、ついに「一億玉砕」と説かれた。
パーマも贅沢とみなされた/街角には贅沢をいましめる看板がたった
食糧不足で、道路も畑にかえられた/ガソリン不足で「木炭バス」が考案された
鉄不足で橋の手すりまで回収された/建物疎開
●発掘された遺骨
国債の購入もなかば強制的
焼夷弾は、地上に達する時、1平方mあたり3発以上になり、火が爆発的に燃え広がる
罹災者に発行された「罹災証明書」、命の次に大切な「配給通帳」などが生活の支え。
肌身はなさず持って歩いた国債や戦時債権は、日本の勝利を信じて購入したものだった。
40年近くたってボロボロになって掘り出された遺骨もある。
●中国・四国地方の空襲
呉は軍港で、海軍工廠などの軍需施設もあった。
4月1日からの沖縄作戦のため、下関海峡を封鎖して艦船の移動を不可能にするためだった
関門港の船は機雷で沈没し「船の墓場」と言われた。
●生き地獄となった広島・長崎
軍都広島市はなぜか忘れられたように静かだったが、
8月6日「エノラ・ゲイ号」はウラニウム爆弾を広島に投下。
9日「ボックス・カー」がプルトニウム爆弾を積んで小倉に向かったが曇っていたため第二目標の長崎に落とした。
広島で12万人、長崎は7万4000人が即死した。
●九州地方
B29が初めて日本本土に姿を現したのは、北九州市で、
最大の製鉄所「八幡製鉄所」に投弾したが5発しか命中せず、市内に落とされた。
東洋一の飛行機工場と言われた長崎県の大村海軍航空廠は5回も爆撃された。
国民学校が直撃弾を受け、教師・生徒127人が即死。校庭は血の海になった。
●沖縄 地上戦の前触れ
サイパン島陥落後、沖縄に老幼女子の疎開命令が出た。米軍上陸は間違いないと考えられたから。
10月10日 グラマン戦闘機約150機が沖縄一帯を襲った。
空襲警報が鳴っても、人々は軍の演習だと思っていた。
夜には米軍上陸の噂が広まり、北部へ避難する人で那覇市内は大混乱になった。
那覇市上空を飛ぶトンボ(偵察機)
B29のほかに、戦闘機による機銃掃射と爆撃、海上からの艦砲射撃が人々を震え上がらせた。
グラマンやムスタングは小まわりがきき、超低空飛行が可能。
●ビラが大量にまかれた
日本軍部の方針の甘さをからかうビラ
空襲後には、伝単(大量の宣伝ビラ)がまかれた。市民の絶望感をさらに揺さぶろうという心理作戦だった。
ビラは、ハワイ、サイパン基地、マニラなどでつくられ、終戦まで500万枚以上まかれた。
空襲予告、生命を助けるビラ、原爆投下を告げるものもあった。
プロレタリア漫画家で渡米していた若松淳も描いた。
●平和が戻った
B29による無差別爆撃は、日本人に戦争の悲惨さ、恐怖をいやというほど思い知らせるものだった。
冷たい戦争
1946年から世界は米ソの冷たい戦争に投げ込まれた。
1950年に朝鮮戦争、1961年にベトナム戦争が起こり、
米国はB29、B52を使ってナパーム弾を大量にばらまく焦土戦術をとった。
米ソにつづき、英、仏、中も核実験を行った。
【“空襲関係用語ミニ解説”抜粋メモ】
▼戦術爆撃=敵の軍隊、陣地を直接爆撃する
▼戦略爆撃=住民をまどわし産業を混乱させるため、都市、鉄道、道路、工場などを破壊する爆撃法
▼じゅうたん爆撃=カーペット・ボンビングの訳語。じゅうたんを敷くように爆弾、焼夷弾を落とす爆撃法
▼配給制
「世の中は星にいかりに闇に顔、馬鹿者のみが行列に立つ」と言われた。
星といかりは軍人、闇は闇商人、顔はボス官僚のこと。
▼疎開
空襲が起こると分かってようやく国の施策となった。それまでは、疎開は戦争回避、逃亡だと白眼視された(驚
日本では工場疎開が先で、学童や幼児はあとまわしだった。
▼国民学校
ドイツにならって、戦時教育体制の確立、国家主義、軍国主義の導入がなされた。
▼1943年9月4日
上野動物園でライオンなど猛獣が毒殺された。
早乙女勝元/編
図書館で平和図書コーナーを教えてもらったら、早乙女勝元さんのシリーズがたくさん並んでいたので、その中からのチョイス。
簡潔な文章と、豊富な写真資料で、目から直接、事実が入ってくる感じの1冊。
驚いたのは、島根県にまったく被害者がいないこと。米軍の記入漏れ?
京都・奈良ですら被害があったのに。
ちなみに長野は40人で、これも少ない。なにか理由でもあるのかな?
【内容抜粋メモ】
B29=超空の要塞(スーパー・フォートレス)と呼ばれた爆撃機
太平洋戦争の末期。1944年11月〜1945年8月15日までの9ヶ月の間、日本本土は米空軍に連日のごとく爆撃された。
学校教育は、戦争の惨禍を教えず、原爆に比べると空襲の報道も少なかった。
日本の首相が、日本は米国を守るための「不沈空母」になれと発言したことで再び過去に焦点が当たった。
戦争が始まった頃は、戦争仕掛け人の軍人らは「日本の空の守りは鉄桶である」と豪語していた。
米軍がサイパン基地を完成すれば、日本全域が爆撃圏内に入ることは必至だった。
米国の資料「米国戦略爆撃調査団報告」によると、B29の爆撃は3つの期間に区分できる。
第1期は、昼間に高々度からの軍事施設爆撃が中心だったのが、
第2期は、市街地に対する夜間低空からの焼夷弾空襲でとどめを刺された
第3期は、大都市住宅地に対する焼夷弾空襲だった。
日本人非戦闘員の受けた被害の総計は、死者だけでも約38万人。
沖縄戦では9万4000人、原爆後遺症でのちに亡くなった推定10万人を含めると60万人近いが、
その防衛は、国は守っても決して国民の命や財産を守るものではなかった。
1937年。ドイツがゲルニカを、日本は南京を爆撃して世界中を驚かせた。
基地や工場だけでなく、住民を無差別に、大量に殺し傷つける最初の空襲だった。
海外ではその残虐性が印象づけられた。
日本は満州から侵略をつづける。
事変=宣戦布告なしに国と国が争う武力行為。
日中戦争に転機をもたらそうと、日本軍がインドシナに進出した時、米、英、オランダの権益(権利と利益)と衝突した。
1941年。太平洋戦争が勃発。
日本軍は1機も撃墜できなかったのに「撃墜機数は9機」と嘘を発表。
中国に不時着・破損した機体を「撃墜敵機の残骸」として展示したりした。
本土への初空襲後、2年間は空襲がなかったため、防空訓練がさかんになり日常となった。
「焼夷弾は体当たりで消火できる」という想定で、主婦までがバケツリレー訓練に駆り出された。
防空壕でのもぐら生活がはじまる
1944年。B29は日本の迎撃機も高射砲も届かない高々度を飛んでいた。
航空写真撮影のため定期的に飛来する機体を「定期便」「お客さん」と呼ぶようになった。
B29と原爆は、第二次大戦中もっとも強力な新兵器だった。
本来は、2つともアメリカがドイツを対象に開発したが、ドイツが降伏したため、日本に振り向けられた。
はじめは軍需工場を狙ったが命中せず、大都市を低高度から焼夷弾無差別爆撃を行う作戦に変えたのは司令官カーチス・E.ルメー将軍。
夜間に、木造家屋の多い大都市を「じゅうたん爆撃」し、多くの非戦闘員を焼死させた
敗戦までのべ3万4790機が、353回、約16万トンの爆弾・焼夷弾を投下して、約200の都市町村を焼き払った。
●130回も空襲された東京
3月10日未明、江東地区は、300機のB29による空襲に2時間22分さらされた。
死者約10万人ほか大被害となり、広島の原爆禍(死者12万人)に次いだ。
「斜めに風をきって 逃げる人を直撃死させ
噴き出すガソリンで焼死させ
酸素をうばって酸欠死・中毒死させ
川に逃げる人を水死させた」
●4月15日 川崎大空襲
●5月29日 横浜大空襲
武蔵野市の中島飛行機工場は執拗に狙われ、11回の最多目標爆撃を受けた。
B29は、第一次目標地を爆撃できない時、第二次目標地を爆撃していた。「盲爆」
立川飛行機、日立航空機が併行して目標爆撃された。
●最初から最後まで狙われた名古屋
航空機工場を含め4000の軍需工場があった名古屋は、市街地が焼き払われた後も執拗に空襲された。
5月14日 名古屋大空襲 B29480機という本土空襲史上最高機数による無差別じゅうたん爆撃を受けた。
戦略爆撃
爆弾や焼夷弾(高熱を発して燃える)を雨のように降らせて焼き殺し、戦争がいやになる作戦を実行したのがB29。
浜松市は、目標都市に爆撃できない時の“身代わり”にされた。
手押し車を押す女性。浜松市。
●大阪 敗戦前日にも大空襲
はじめの10回は、港湾施設が狙われ、次は市街地が狙われた。
環状線京橋駅も爆撃を受け、駅には死者の肉片が飛び散り、すさまじい光景となった。
かろうじて形をとどめる大阪城
●近畿地方
1945年3月17日 神戸空襲
神戸の死者は8841人。五大都市中最悪の被害率だった。
古都京都を守るため爆撃目標からはずしていたが、1回の爆撃は誤爆だったと言われた。
奈良は古社寺の宝物や仏像を守ろうと必死だったが、「動かすとくだける」など対応はさまざまだった。
戦争は文化を破壊し、人を殺すのに容赦ない。
●北海道地方
1945年7月 艦砲射撃による室蘭空襲など
●東北地方
「臨機目標=オポチュニティ」が爆弾をいきあたりばったりに落としていく空襲が早くからあった。
米軍が空襲予告ビラを撒いて、避難・疎開した人も多かったが、県知事がこれをとがめて配給物資停止の通告が出て、
やむなく市内にもどった住民が空襲にあって焼死者を増やす悲劇もあった。
動くものは全て狙う一斉掃射で、宮城県では、林に逃げ込んだ子どもまで銃撃されて死んだ。
●空襲下の生活
「欲しがりません勝つまでは」のスローガンが初空襲から掲げられた。
主食の米は1日1人分が茶碗に約3杯分の配給で、45年にはさらに減らされた。
「本土決戦」「鬼畜米英」などの標語が勇ましく打ち出され、ついに「一億玉砕」と説かれた。
パーマも贅沢とみなされた/街角には贅沢をいましめる看板がたった
食糧不足で、道路も畑にかえられた/ガソリン不足で「木炭バス」が考案された
鉄不足で橋の手すりまで回収された/建物疎開
●発掘された遺骨
国債の購入もなかば強制的
焼夷弾は、地上に達する時、1平方mあたり3発以上になり、火が爆発的に燃え広がる
罹災者に発行された「罹災証明書」、命の次に大切な「配給通帳」などが生活の支え。
肌身はなさず持って歩いた国債や戦時債権は、日本の勝利を信じて購入したものだった。
40年近くたってボロボロになって掘り出された遺骨もある。
●中国・四国地方の空襲
呉は軍港で、海軍工廠などの軍需施設もあった。
4月1日からの沖縄作戦のため、下関海峡を封鎖して艦船の移動を不可能にするためだった
関門港の船は機雷で沈没し「船の墓場」と言われた。
●生き地獄となった広島・長崎
軍都広島市はなぜか忘れられたように静かだったが、
8月6日「エノラ・ゲイ号」はウラニウム爆弾を広島に投下。
9日「ボックス・カー」がプルトニウム爆弾を積んで小倉に向かったが曇っていたため第二目標の長崎に落とした。
広島で12万人、長崎は7万4000人が即死した。
●九州地方
B29が初めて日本本土に姿を現したのは、北九州市で、
最大の製鉄所「八幡製鉄所」に投弾したが5発しか命中せず、市内に落とされた。
東洋一の飛行機工場と言われた長崎県の大村海軍航空廠は5回も爆撃された。
国民学校が直撃弾を受け、教師・生徒127人が即死。校庭は血の海になった。
●沖縄 地上戦の前触れ
サイパン島陥落後、沖縄に老幼女子の疎開命令が出た。米軍上陸は間違いないと考えられたから。
10月10日 グラマン戦闘機約150機が沖縄一帯を襲った。
空襲警報が鳴っても、人々は軍の演習だと思っていた。
夜には米軍上陸の噂が広まり、北部へ避難する人で那覇市内は大混乱になった。
那覇市上空を飛ぶトンボ(偵察機)
B29のほかに、戦闘機による機銃掃射と爆撃、海上からの艦砲射撃が人々を震え上がらせた。
グラマンやムスタングは小まわりがきき、超低空飛行が可能。
●ビラが大量にまかれた
日本軍部の方針の甘さをからかうビラ
空襲後には、伝単(大量の宣伝ビラ)がまかれた。市民の絶望感をさらに揺さぶろうという心理作戦だった。
ビラは、ハワイ、サイパン基地、マニラなどでつくられ、終戦まで500万枚以上まかれた。
空襲予告、生命を助けるビラ、原爆投下を告げるものもあった。
プロレタリア漫画家で渡米していた若松淳も描いた。
●平和が戻った
B29による無差別爆撃は、日本人に戦争の悲惨さ、恐怖をいやというほど思い知らせるものだった。
冷たい戦争
1946年から世界は米ソの冷たい戦争に投げ込まれた。
1950年に朝鮮戦争、1961年にベトナム戦争が起こり、
米国はB29、B52を使ってナパーム弾を大量にばらまく焦土戦術をとった。
米ソにつづき、英、仏、中も核実験を行った。
【“空襲関係用語ミニ解説”抜粋メモ】
▼戦術爆撃=敵の軍隊、陣地を直接爆撃する
▼戦略爆撃=住民をまどわし産業を混乱させるため、都市、鉄道、道路、工場などを破壊する爆撃法
▼じゅうたん爆撃=カーペット・ボンビングの訳語。じゅうたんを敷くように爆弾、焼夷弾を落とす爆撃法
▼配給制
「世の中は星にいかりに闇に顔、馬鹿者のみが行列に立つ」と言われた。
星といかりは軍人、闇は闇商人、顔はボス官僚のこと。
▼疎開
空襲が起こると分かってようやく国の施策となった。それまでは、疎開は戦争回避、逃亡だと白眼視された(驚
日本では工場疎開が先で、学童や幼児はあとまわしだった。
▼国民学校
ドイツにならって、戦時教育体制の確立、国家主義、軍国主義の導入がなされた。
▼1943年9月4日
上野動物園でライオンなど猛獣が毒殺された。