■中川翔子~近代化に賭けた先祖 お台場建設とクラークの教え@ファミリーヒストリー
しょこたんの星空ツアー@池袋サンシャイン
しょこたんの遠縁は星の本を書いた野尻抱影さんと知って、そちらの話を期待していたら、
クラーク博士やら、勝海舟さんまで出て来て、さすが、持ってます/驚×5000
『星の方言集 日本の星』野尻抱影/著
北海道に行った時、御先祖さまの写真を見せられて「いやいやそんなはずは・・・」と思ったという。
家系図
5代前の先祖:平野弥十郎
4代前の高祖父・伊藤一隆
祖父・中川勝夫
祖母:栄子
父・中川勝彦(ミュージシャン・俳優)
母・中川桂子
幕末、お台場建設に関わった5代前の先祖、平野弥十郎
浅草で雪駄業を営み、中古を安売りして儲け、お金を貯め、時代を読んで土木工事に携わる。
時代は幕末。黒船来航。勝海舟が教示して台場を完成し、その技量は高く評価された。
専門家「とくに日本の築城技術は世界に劣らぬものだったと思う」
次に、品川に日本初の鉄道開通のため、山を切り崩すことを命じられる。
ロシア侵攻に備えて、北海道の中心地を函館→札幌にうつす開拓事業を任される。
49歳。妻は反対したが、東京に妻と子どもと残して、明治5年「東京丸」で未開拓の地に行く際、もう少しで岸という時に座礁。
濃い霧の中、弥十郎は自ら小舟を出して、地元の漁師に助けを頼み、1人も死傷者が出なかった。
妻
当時の有名な写真家が、土木工事の記念写真を撮った。
明治6年に本道は完成。今でも便利に使われている。
記念写真
サケのふ化事業に貢献した4代前の高祖父、伊藤一隆
北海道の学校に入り、成績優秀。札幌農学校の第一期生となり、あのクラーク博士に近代農業を学んだ。
キリスト教の洗礼も受ける。クラーク博士が母国に帰る時に、有名なセリフを託した。
専門家:
明治時代に青年の立派な生き方というのは立身出世です。
立身出世というのは、世に出て、有名になって、金持ちになって、出世するということ。
クラーク氏は、逆の発想であの言葉を残した。“私利私欲を忘れ、大きな志を抱け”と言いたかったんだと思います。
(大河ドラマの寅兄みたい
この学校には、後に紙幣に印刷される新渡戸もいた。
大学卒業後、開拓使で働き、水産業の仕事が与えられた。
当時はサケの乱獲が問題となっていたため、明治19年にアメリカに視察に行くと、その最新技術に驚き、早速日本でも指導を始める。
専門家:
明治14年、15年頃は、石狩川にサケが18万尾ぐらいいた記録があるが、2~3万尾まで減っていた。
スケッチ上手い!
この孵化の方法は今もそのままの形で引き継がれて、当時の何倍ものサケが獲れ、観光客も見物できる
一隆は、これからは石炭から石油の時代になると確信し、石油会社に転職する。
技術者ダンから教わった技術・機械を導入。63歳まで働いて、『日本石油史』を書いた。71歳で死去。
「自分も絵を描くのが好きです」
長女アイ
次女ケイ
女流ミステリー作家として活躍
栄子
中川勝夫
勝夫は戦後すぐ出版社を立ち上げた
何度も映画化された
notes and movies(2002.5~ part2)
中野に家を建てたが、出版社が倒産して多額の借金も残ったが、
栄子は、家を下宿として貸したり、貸本屋を営んだりして支えた。
父・勝彦
飲食店で働いていた桂子は、9歳年下で、歌手デビューを目指していた勝彦と運命の出会いを経て結婚、翔子が産まれる
急性白血病で32歳の若さで亡くなる。翔子はまだ9歳だった。
中川桂子
翔子「ガッと前に進んでいく原動力になった。
御先祖さまを知ることができたお陰で、きっと変わります、心の選択肢が」
地元の子どもたちは答えを知っていた!
しょこたんの星空ツアー@池袋サンシャイン
しょこたんの遠縁は星の本を書いた野尻抱影さんと知って、そちらの話を期待していたら、
クラーク博士やら、勝海舟さんまで出て来て、さすが、持ってます/驚×5000
『星の方言集 日本の星』野尻抱影/著
北海道に行った時、御先祖さまの写真を見せられて「いやいやそんなはずは・・・」と思ったという。
家系図
5代前の先祖:平野弥十郎
4代前の高祖父・伊藤一隆
祖父・中川勝夫
祖母:栄子
父・中川勝彦(ミュージシャン・俳優)
母・中川桂子
幕末、お台場建設に関わった5代前の先祖、平野弥十郎
浅草で雪駄業を営み、中古を安売りして儲け、お金を貯め、時代を読んで土木工事に携わる。
時代は幕末。黒船来航。勝海舟が教示して台場を完成し、その技量は高く評価された。
専門家「とくに日本の築城技術は世界に劣らぬものだったと思う」
次に、品川に日本初の鉄道開通のため、山を切り崩すことを命じられる。
ロシア侵攻に備えて、北海道の中心地を函館→札幌にうつす開拓事業を任される。
49歳。妻は反対したが、東京に妻と子どもと残して、明治5年「東京丸」で未開拓の地に行く際、もう少しで岸という時に座礁。
濃い霧の中、弥十郎は自ら小舟を出して、地元の漁師に助けを頼み、1人も死傷者が出なかった。
妻
当時の有名な写真家が、土木工事の記念写真を撮った。
明治6年に本道は完成。今でも便利に使われている。
記念写真
サケのふ化事業に貢献した4代前の高祖父、伊藤一隆
北海道の学校に入り、成績優秀。札幌農学校の第一期生となり、あのクラーク博士に近代農業を学んだ。
キリスト教の洗礼も受ける。クラーク博士が母国に帰る時に、有名なセリフを託した。
専門家:
明治時代に青年の立派な生き方というのは立身出世です。
立身出世というのは、世に出て、有名になって、金持ちになって、出世するということ。
クラーク氏は、逆の発想であの言葉を残した。“私利私欲を忘れ、大きな志を抱け”と言いたかったんだと思います。
(大河ドラマの寅兄みたい
この学校には、後に紙幣に印刷される新渡戸もいた。
大学卒業後、開拓使で働き、水産業の仕事が与えられた。
当時はサケの乱獲が問題となっていたため、明治19年にアメリカに視察に行くと、その最新技術に驚き、早速日本でも指導を始める。
専門家:
明治14年、15年頃は、石狩川にサケが18万尾ぐらいいた記録があるが、2~3万尾まで減っていた。
スケッチ上手い!
この孵化の方法は今もそのままの形で引き継がれて、当時の何倍ものサケが獲れ、観光客も見物できる
一隆は、これからは石炭から石油の時代になると確信し、石油会社に転職する。
技術者ダンから教わった技術・機械を導入。63歳まで働いて、『日本石油史』を書いた。71歳で死去。
「自分も絵を描くのが好きです」
長女アイ
次女ケイ
女流ミステリー作家として活躍
栄子
中川勝夫
勝夫は戦後すぐ出版社を立ち上げた
何度も映画化された
notes and movies(2002.5~ part2)
中野に家を建てたが、出版社が倒産して多額の借金も残ったが、
栄子は、家を下宿として貸したり、貸本屋を営んだりして支えた。
父・勝彦
飲食店で働いていた桂子は、9歳年下で、歌手デビューを目指していた勝彦と運命の出会いを経て結婚、翔子が産まれる
急性白血病で32歳の若さで亡くなる。翔子はまだ9歳だった。
中川桂子
翔子「ガッと前に進んでいく原動力になった。
御先祖さまを知ることができたお陰で、きっと変わります、心の選択肢が」
地元の子どもたちは答えを知っていた!