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富岡製糸場 世界遺産へ~世界を魅了した少女たちのシルク~@歴史秘話ヒストリア

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富岡製糸場 世界遺産へ~世界を魅了した少女たちのシルク~@歴史秘話ヒストリア

明治5年、総費用600億円(今のお金に換算すると)をかけて完成した。
 

 

 
「日本のシルクは世界最高。贅沢なことですけど、まず軽い、しなやかさがある、何を作っても優雅さがある」


●工場見学

[東繭倉庫]
 
全長100m、煉瓦10万個を使った東繭倉庫

[集められたのは瓦職人]
当時はレンガ職人が少なく、試行錯誤して石を混ぜることで丈夫なレンガをつくった。


 
職人はそれぞれの屋号を入れた


[東繭倉庫2階]
村の森から木材を伐ろうとしたら、森の神様の天狗が怒ると反対した村人に「国の発展のため」と説得して木材を調達した。

 




[繰糸場]

300人の工女がここで働いた


[ブリュナ館]
フランス人技師を高待遇で呼んで指導させた。



[人気スポット~実演]



●生糸ができるまで
繭をお湯でほぐして、5本束ねて1本の糸にする。
 

ポイントは、糸がなくなる瞬間に別の繭をつぎ足す絶妙なタイミング。
 




●創業当時、工女を希望する少女は1人も集まらなかった
西洋人の飲むワインが「生き血」だと勘違いしたため。
 

初代場長・尾高惇忠は、知人を1軒1軒訪ねて頼んで回ったがダメだったため、
娘の尾高ゆう(14歳)に頼むと、快諾し、第一号の工女となる。
ゆうが始めたことで、噂は消え、各地から大勢の少女が面接に来るようになった。

当時188人の少女が集まった



●一等工女は、錦絵に描かれるほど憧れの存在
 
たすきと高草履がステイタスのシンボル


●長野から来た横田英が日記に克明に記録した工女の日常
明治6年、15歳で富岡製糸場に来た英。
 

[女性が働く環境は先進的だった]
 

・労働時間は8時間未満
・毎週日曜日は休み。夏と冬には10日間の休みがあった。
・1日4束の糸がとれるようになれば一等工女になれる。

※これは、後に書かれた『女工哀史』とはまったく異なる環境だった。


[工女たちの日曜日の過ごし方]
少女たちの興味は、やはりファッション。月払いで着物を買って、オシャレして出かけるのが楽しみだった。


進んだ働き方、最新の機械に驚き、英も一等工女目指すが、最初は見習いから。


しかし、山口から来た少女たちは、最初から糸とりを許された。元は長州藩。新政府内で大きな力を持っていたため。


英は「えこひいきだ」と上司に詰め寄り、女性が発言することが珍しかった時代、上司は驚いたという。
その5日後、英も糸とりを許されるが、その難しさは想像以上で、夜中も特訓した末、
8ヶ月目でやと1日4束の糸がとれるようになり、憧れの一等工女に昇格する。

 


●輸出は右肩上がり
一等工女になった少女たちは、地元に戻り、日本各地に造られた製糸場で技術指導にあたった。

クリーブランドにある博物館には、当時の日本の生糸で作られたドレスが残されている。
 

 

明治42年、日本は世界一のシルク輸出国となる。


●ストッキングの大流行
 

背景には、アメリカで女性の社会進出が進み、短いスカートにストッキングを履くのが流行った。
日本製は、安くて丈夫、薄い生地で、脚を美しく見せると大評判。


今見ると80デニールぐらいに厚そうだけど


●氷川丸の「シルクルーム」
 
昭和はじめには、シルク運搬専用の部屋が3つもあった

ほかの部屋の壁は鉄板だったが、シルクの部屋は板張り。
 
「湿気を防いだり、熱をこの木で抑えている」


●太平洋戦争勃発、戦時中の工女たち
明治の末、経営が民間に移った後も生産は増加。
昭和16年、アメリカは日本への石油の輸出を止めて経済を封鎖した。
機械には石油が必要なため、燃料不足で機械が止まる日が増え、代わりに薪拾いをさせられたりした。
太平洋戦争が勃発、最大の輸出国であるアメリカ向けの生産は“敵国”であるため完全に止まる。


●パラシュートをつくる
女工が集められ「今日から落下傘に使う絹糸を作ってもらう」と言われて困惑する(美しかったろうね・・・
 

当時のパラシュートが残されている。直径11m。「絹は武器」と言われた。
 
強度を増すため、通常の3倍の太さの糸を使用


[戦時中、富岡製糸場で働いていたミツノさん]
 
「私たちは、国のために軍隊には行けないから」

工場内で軍事訓練が行われるようになった。



[戦時中、製糸場の近所に住んでいた誠さん]


「ここには着剣と銃が置いてあった。背嚢(はいのう。軍人のリュックサック)もしまってあった。
 でも、ここにあることは隠密。子どもたちも喋ることはなかった」


●昭和19年の末、戦火は富岡にも

ミツノさん:
「なんでアメリカから日本にB29が来て、爆弾を落とすんだろう。日本が勝っているのにおかしいな、勝つと思っていたから」

 

 


ワイン倉庫なら爆弾が落ちても大丈夫だといって、後輩の女工を連れて隠れた

ミツノさん:
「B29の音は本当に覚えています。“ウウウォオオオオーーーー!!”てトラックが来るような音。
 爆弾落としたらダメになっちゃうって話は聞いてるけど、怖いけど、怖がったってどうにもならない」



終戦。製糸場は無傷のまま残った。


●その後、パラシュートは民間人に配給された
 
終戦の年、13歳の黒柳さんは、絹のパラシュートを配給品として受け取った

「そのころは木綿も下着もろくなのが無くて、とてもいいブラウスを母が作ってくれて、本当に嬉しかったし、誇らしかった。
 東京に帰ってきても、パフスリーブのブラウスはまだ長いこと着てました」
 



●時代とともに絹産業は衰退し、昭和62年、115年の歴史に幕を閉じた

 

その後、“売らない”“貸さない”“壊さない”をモットーに、
製糸場を20年間保存したのは、所有する民間企業だった。
年間1億円をかけて維持しつづけ、その後富岡市に引き継がれた。



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