■学校では教えてくれない本当のアメリカの歴史 上(1492-1901年)(あすなろ書房)
ハワード・ジン/著 レベッカ・ステフォフ/編著 鳥見真生/訳
図書館でとても気になるタイトルの本を見つけた。
これまで抱いていた疑問の答えが、あふれんばかりの情報量で書かれていた。
コロンブスや、リンカーン、エジソン、ロックフェラーなど、これまで「偉人」として教えられてきた歴史上の有名な
人物たちの見方が180度変わってしまった。
そして、その歴史は、アメリカの少年少女にすら教えられてこなかったという。
最初、大人向けに書かれた本書を子ども向けに編集して出版する際には反対の声もあったそう。
読み進めながら、ヨーロッパの人々がアメリカに土地と金を求めて“移住”した際、
どれほどの“ネイティヴ・アメリカン(原住民)”が無惨に大量虐殺されたかは、
これまで読んできた本や情報から、ある程度予測していたけれども、それ以上のおぞましいショックを受けた。
18、19、20世紀に繰り返されてきた、これらの負の歴史は、これまでの日本の歴史にも酷似している。
もっと言えば、昨日、今日のニュースで読む記事とさほど変わらないことに気づいて唖然とした。
「歴史は繰り返す」と言うけれど、富裕層と貧困層の格差は、最初からあって、
それは国、政治、裁判所、企業家らが組んで、ずーーーっと守りぬかれ、国民は巧みに操作されてきた。
そして、貧困層よりさらに下に見られていた、いや「存在を消されていた」のが、女性、黒人、他国からの移民だった。
どれほど「科学は進歩した」「文明は進化した」と言っても、
この確固としたピラミッドのシステムが継続するかぎり、
戦争も差別もなくなりようがないことが分かる。
また、1つ1つの章ごとに思い浮かぶ映画があることにも気づいた。
“インディアン”と戦う物語、西部開拓の英雄物語、『風と共に去りぬ』の南北戦争、黒人奴隷、
ストライキを起こす民衆の物語、人権問題を取り上げた作品の数々・・・
映画を通じて、私は一般市民の本当の声を無意識に学んでいたのかもしれない。
いつものように【内容抜粋メモ】に書こうと思っても、1ページごと、1行ごとに、
漏れてはいけない情報が詰め込まれているため、個人的なメモを連ねることにした。
ぜひ、本書を手に取ってもらいたいと思う。
【内容抜粋メモ】
本書は『民衆のアメリカ史』の若い世代向けバージョンである。
[はじめに]
私の考える愛国心とは、政府のすることをなんでも無批判に受け入れることではない。
「民主主義」の根本原理は、1776年『独立宣言』ではこう書かれている。
“政府が責任を果たさない場合には、その政府を改変、廃止して、新政府を設立することは人々の権利である”
私たちには、模範となる「英雄」が必要だ。
私なら、16Cの歴史家バルトロメー・デ・ラス・カサス、ヘレン・ケラー、マーク・トウェインらをあげたい。
「戦争」「人種差別」「経済的不正義」は、ずっとアメリカを悩ませ続けている。
[目次]
1.コロンブスがはじめた征服の歴史
ヨーロッパ人は東インドに金があることを知っていた。
コロンブスは、「黄金」と「香辛料」を持ち帰れば、利益の1割をもらえる約束で航海に出た
強烈な金銭欲をもってコロンブスがバハマ諸島に船でやって来た時、
アラワク族は、馬などの「役畜」を使わず、武器というものを知らなかった。
コロンブスは、は彼らを捕虜にし、500人をスペインに送り、航海の途中200人が死に、残りは地元の教会役員により競りにかけられた。
「彼らは立派な召使いになるだろう」
アラワク族は、集団自決をはじめた。
スペインで無理矢理働かされ、虐待され、千人単位で死んでいき、とうとう1人もいなくなった。
バルトロメー・デ・ラス・カサスは『インディアス史』で記した。
「母親が過労と飢えのため乳が出ず、赤ん坊はすぐに死んだ」
ところが、アメリカの歴史には、英雄が活躍する冒険ストーリーだけが語られ、虐待は書かれなかった。
歴史学者サミュエル・エリオット・モリソンは、インディアンの「完全な大量殺戮」があったと
『大航海者コロンブス』にチラっと書いただけで、主にその「航海術」に焦点をあてた。
ジェノサイド【genocide】ある人種・民族を、計画的に絶滅させようとすること。集団殺害。集団殺戮(さつりく)。
歴史家は、事実から、どれを研究課題とし、どれを省略するか決めなければならない。
歴史には、政府、征服者、指導者たちの物語のことが主に描かれる。
エルナン・コルテスとフランシスコ・ピサロは、「アステカ文明」と「インカ文明」を滅ぼした。
1607年
ポーハタン族は、イギリス人が入植するのを攻撃しなかった。
「なぜあなたたちは、愛によって静かに与えられるものを、力ずくで奪いとろうとするのか。
あなたたちに食べ物を提供している我々を、なぜ滅ぼそうとするのか? 戦いで何が得られるというのだろう。
なぜあなたたちは、我々を妬むのか?」
1609年
ジェームズタウンのイギリス人は、墓を掘り起こして死体を食らうほどの「飢餓期」にあった。
「ピルグリム・ファーザーズ」が入植。ピクォート族の土地を欲して、小屋に火を放ち、出てきた彼らを刀剣でバラバラにした。
メキシコより北にいた1000万人のインディアンは、白人のもちこんだ疫病により100万人以下になった。
コロンブス以前、南北アメリカには、7500万人のインディアンが住み、多くは「遊牧民」だった。
土地は、共同体全体のもの、食べ物も分け合い、女性は尊重され、子どもは自立するよう育てられた。
2.アメリカの大問題、人種差別と奴隷制のはじまり
アメリカほど「人種差別」がずっと大問題だった国は他にない。
「奴隷制」により黒人は白人と同等でない、劣っているという考えと、不平等な扱いとが結びついた。
入植者が増えるにつれ、食料を育てる労働力が不足。
インディアンからタバコの栽培法を習い、イギリスに高く売れていた
入植者は、インディアンのほうが大勢のため「報復」をなにより恐れていた。
白人は「文明人」、インディアンは「野蛮人」と思いつつ、自給自足で生活する彼らが妬ましかった。
そうした妬みは、「奴隷を使う立場になりたい」と思わせた。
1619年「奴隷貿易」
南アメリカ、ポルトガル、スペインが支配するプランテーションには、すでに100万人の黒人がアフリカから運ばれていた。
「奴隷貿易」を盛んに行ったのはまずオランダ人、次がイギリス人。
アフリカ文明は、ヨーロッパと同様進歩していた。アフリカにも奴隷はいたが、ある程度の権利を持っていた。
黒人は、自分たちの土地、文化から切り離され、鎖につながれ1000マイルも歩く「死の行進」で40%が死んだ。
私たちが「西洋近代文明のはじまり」と呼ぶ数世紀の間、総計約5000万人が連れ去られて死亡、または奴隷にされた。
黒人は「無気力状態」に陥った。
入植者は、白人の奉公人ももっていたが、黒人との扱いには差があった。そこには「人種的嫌悪感」があった。
逃亡した奴隷は、火で焼かれ、手足を切られて死刑にされた。入植者は、奴隷の反乱を恐れていた。
白人奉公人と黒人奴隷の反乱計画は密告され、死刑で終わった。
入植者は、貧しい白人に少しの恩恵を与えて、反乱を防ごうとした。
(こうした「恐怖」が銃を1家に1丁って国にしたんだ
3.ひと握りの金持ちのための社会
1676年
バージニアで開拓の最前線にいた白人の辺境(フロンティア)民が反乱を起こした。「ベーコンの反乱」
リーダーは、ナサニエル・ベーコン、敵はインディアンと、特権階級の指導者。
ベーコンは土地持ちで、インディアンを倒すことに執心したが、病に倒れて29歳で死去。
辺境民は特権階級の指導者に支配され植民地全体はイギリス政府に搾取されていた。
多大な利益を得ていたのは、イギリス国王だった
イギリスでは、「土地法の改正」により、都市に路上生活者があふれ、アメリカに夢を抱いて渡った多くは「年季奉公人」となった。
“航海中の船内は、悪臭、嘔吐、下痢、壊血病、食料不足、寒さや炎暑が蔓延していた。
出産間近の妊婦は、船窓から海に押し出された”
新聞にはこう書かれた。“約100人の健康な男女、子どもを乗せたジャスティシア号、ただいま到着”
奉公人は鞭に打たれ、女性はレイプされたが、主人たちは奉公人の反乱に脅えながら暮らしていた。
植民地時代に、階級の境界線は固定された。
“いかなる時代も、ある者は富み、ある者は貧しくあらねばならない”
彼らは、北アメリカに、イギリスそっくりの社会を作ろうとした。
農業、造船業、貿易が発達、上流階級が利得の大半を手にして、政治権力を握った。
1730年
「たくさんの乞食をどこかへ収容しろ」という声に、未亡人、老人、身障者、孤児、移民らは「貧民収容施設」に入れられ満員になった。
1713年
ボストンはひどい飢饉となったが、商人は儲けが多いという理由でカリブ海へ穀物を輸出した。
イギリスはいくつもの戦争をして、少数の造船業者と商人は儲けた。
富裕層は、インディアン、奴隷、プアホワイトの反乱を恐れていた。
インディアンの村では多くの逃亡奴隷がかくまわれていた。
彼らが手を組むのを阻止するべく、黒人への否定的見方をことさら強調し、「人種差別主義」が使われた。
アメリカ社会には、「白人の中流階級」が成長してきた。
支配者らは「自由と平等」という道具を見つけた。
4.「建国の父」たちの素顔~「アメリカ独立革命」
各植民地には「エリート」が出現。政治的、社会的指導者で、大半が弁護士、医師、作家。
彼らは、入植者の反抗的なエネルギーを、イギリス本国に向けるよう考えた。
「七年戦争」
「印紙税法」は、「七年戦争」にかかったイギリスの戦費をまかなうための重い税金だった。
ボストンでは、商人、船主、職人の親方からなる「ロイヤル・ナイン」という政治集団ができ、抗議デモが行われた。
・「既得権」を守りたい指導者たち
1770年「ボストン虐殺事件」
1773年「ボストン茶会事件」
1776年『コモン・センス』トマス・ペイン著が出版され、植民地アメリカは、イギリス支配から解放されるべきとうたった。
「今こそ独立せよ!」
トマスはいざ革命がはじまると下層集団と距離を置くが、後に神話の1つとなる。
1775年 「アメリカ独立戦争」がはじまる。トマス・ジェファーソンが『独立宣言』を起草。
「すべての人間は平等に作られて、権利を与えられ、その権利には、生命、自由、幸福の追究が含まれる」
これは互いに反目するものたちの気持ちを、イギリス打倒へとまとめたが、ここにはインディアン、黒人奴隷、女性は含まれていなかった。
政治の世界では、「女性は目に見えない存在」だった。
「大陸会議」は宣言から奴隷制をやめるべきという部分を宣言から削除した。
宣言に署名した者の2/3以上は、イギリス統治下の植民地政府の役人だったのだ。
ある大義に対し、多くの支持を得たい時、人の心を高揚させる言葉が使われるが、
同じ言葉は、深刻な利害対立を隠したり、多数を切り捨てることは、現代にも起きている。
インディアンの虐殺は、頭皮を剥いで持ってきた者に賞金を出すほど悪化していた。
富裕層が徴兵を大金を払って免れたことが判明し、暴動が起きた。
5.合衆国憲法は本当に画期的だったのか?~独立戦争は富裕層を儲けさせた
植民地では、白人男性のほとんどが銃を持ち、使うことができた。
兵役に「報酬」を出すと約束することで下層階級を納得させた。
戦ったのは貧しい者、それも強制徴募、強制入隊で。
「七年戦争」でイギリスに負けたフランスは、復讐のためアメリカに加担した。
独立戦争中、ずっと富裕層vs貧民層は衝突し、暴動が起きていた。
政府は「国王派」から土地をとりあげ、いくらかを小作人に売ったが、農民らは土地を買うために借りた金を銀行に払わねばならなかった。
「国王派」からとりあげた財産の大半は、軍の指導者らを潤わせた。
まだまだインディアンの土地が欲しいイギリス人は、「細菌戦」に出た。インディアンに毛布を渡して「天然痘」を流行らせた。
自由を求める黒人奴隷は入隊を申し出る者も出た。
独立戦争後、北部で「奴隷制は廃止」されたが、米と綿花のプランテーションのある南では奴隷制はますます拡大する。
復員兵の中には俸給を受け取れず、家畜、土地を取り上げる法ができたため、裁判所まで行進した。
「アメリカ合衆国憲法」の起草者には、反乱の恐怖があった。
起草者55人の大半は富裕層だった。しかも、女性、奴隷、年季奉公人、貧民は加わっていなかった。
国民が直接選挙で選べるのは下院議員のみで、女性、インディアン、奴隷に投票資格はなかった。
少数の者だけが、莫大な富、影響力、土地、財貨、新聞、教会、教育施設を所有した。
憲法を擁護する者は「フェデラリスト(連邦主義者)」と呼ばれ「社会は階級別に分かれるもの」と言った。
連邦議会は『権利章典』という修正条項を可決。言論、出版の自由、公正な裁判を受ける権利の保障などがもりこまれた。
そのわずか7年後の1798年、「治安法」ができ、連邦政府を批判する者は処罰するという内容だった。
「ウイスキー税」
富裕層が持つ公債の債務を返すため、一般国民に税がかけられた1つ。
6.初期アメリカの女性たち
法律には「女は男と対等ではない」と書かれ、父、夫には、女性を支配する権利が認められていた。
主人は、自分の妻を監督するには、体罰などどんな手段を使ってもよいとされた。
入植地の女性は、妻、乳母、召使いとして連れてこられた。
彼女たちは、渡航費とひきかえに、一度も会ったことのない男と結婚することを承諾させられていた。
黒人女性は、白人女性の2倍苦しんだ。
病気になっても満足な治療は受けられない時代に、出産と育児は大変で命を落とす者も多かった。
信仰心の篤いアン・ハッチンソンは、教会の長老に挑んで、2度裁判にかけられ、異端で罪深いとされ、
植民地から追放され、土地を騙し取った一味と誤解され、インディアンに家族ごと殺された。
・辺境では、女性は男に負けない専門的な技能を発揮した
工業が経済の中心となり、女性は工場で働くようになると同時に「家から出るな」と圧力をかけられる。
読書を制限され、大学へ進めず、男と同じ仕事をしても賃金が安く、女性の役割は「夫の要求を満たすこと」とされた。
(今とあまり変わらないような・・・
紡績産業の労働者の8~9割は15~30歳の女性で、アメリカ初期の工場ストライキは彼女たちが起こした。例:キャサリン・ビーチャー
中産階級の女性は、小学校教師になることはできた。
1821年 エマ・ウィラードが最初の少女専門の教育施設を作った(大河ドラマ『花燃ゆ』みたい
女性は奴隷制反対運動にも参加した。
ロンドンでの会議では「公的な場に姿をさらすことは女性にふさわしくない」として、カーテンの後ろに座らされた。
スタントン&モットは、歴史上初の「女性の権利拡張」を訴える大会を開催した。
『諸原則の宣言』には「すべての男と女は平等につくられている」とうたった。
黒人女性を白人女性と同じように遇することも含まれた。
元奴隷で、奴隷制廃止論者のソウジャナー・トルースは語った。
“女は馬車に乗る時、手を添えたりする必要があると言っていたが、
私はこれまでぬかるみを越える時も誰にも助けてもらわなかった。私は女じゃないんでしょうか?
子どもを13人産み、ほぼ全員が奴隷として売り飛ばされるのを見ました。私は女じゃないんでしょうか?”
女性たちは各地で、刑務所や、医療改革活動も開始した。
(イギリスの「紳士道」は、最初から女性は弱い者だから助けなければならないとする「女性蔑視」の1つなんだ
7.欲深き指導者たち
アメリカ人はもっと土地を欲しがり、インディアンの領地に侵入した。
独立革命後、富裕層は土地の「投機買い」をはじめる。
初期アメリカ史でもっとも無慈悲なインディアン政策をしたアンドリュー・ジャクソンもその1人。
ジャクソンは、クリーク族と戦い国民的英雄となる。チェロキー族に「加勢してくれたら友好的に遇する」と約束して、クリーク族に勝つ。
そもそも、インディアンには「個人が土地を所有する」という考えはなかったが、その伝統は壊れ、インディアン同士が対立するようになった。
1828年 ジャクソンは第7代大統領に選出。アメリカ政府は「インディアン移住政策」を決定。
「あの野蛮人どもは、文明社会と接触しては生きていけないから」
1820年代、南部では、白人とインディアンは穏やかに暮らして、さかんに行き来していた。
インディアンを追い出す圧力は、政治家、大事業家、土地投機業者、人口増加からうまれた。
インディアンが同意するなら、財政的に援助すると約束。部族別に圧力がかけられた。
1831年
13,000人の旅がはじまり、何千人ものインディアンは飢え、寒さ、病気で死んだ。
政府は約束を破り、移動先に殺到した白人からクリーク族を守らなかった。
フロリダのセミノール族は戦うことを選んだ 戦争は8年続き、多額の戦費、大勢の兵士の死で終結した。
ジョージア州では、チェロキー族は、農民、鉄工、大工になることで白人社会に適応しようとした。
州は彼らから土地をとりあげ、1838年、のちに「涙の旅路」と呼ばれる旅に出た。
4000人のチェロキー族が、風雨にさらされながら歩かされ、飢え、渇き、病気で死んだ。
8.メキシコ戦争
1821年 メキシコはスペインから独立。
当時のメキシコはテキサス、ニューメキシコ、ユタ、ネバダ、アリゾナ、カリフォルニア、コロラド、ワイオミングまでを含んでいた。
第11代大統領ジェームズ・ポークの最大の目標は、カリフォルニアをアメリカに加えること。
1845年 イーサン・アレン・ヒッチコック大佐は日誌に書いた。
“暴力は暴力を呼ぶ。本音を言えばこんなことにはかかわりたくない。だが軍人として、私には命令を遂行する義務がある。”
アメリカ国民の多数は戦争に沸き立ち、志願兵が殺到した。
作家ヘンリー・デビッド・ソローは「メキシコ戦争」に反対し、『市民的不服従』を著す。
“法はけっして人をより正しくするものではない。法を遵守することで、善意の者まで不正義の実践者となる。”
メキシコ戦争を奴隷所有者による陰謀という者も現れ、志願兵は減った。軍は新兵に報酬を約束した。
兵士は、戦争の血生臭さにショックを受け、前線に向かう途中、病気で死ぬ兵士もいた。
兵士の中には酔って、村落を掠奪、女性の暴行件数は増える一方。脱走兵も増えた。
アメリカ軍は血みどろの戦いの末、1846年ロサンジェルスを奪還。
勝利の栄光は、大統領、将軍が独占し、戦死者、負傷者も顧みられなかった。
1848年。メキシコとアメリカは「グアダルーペ・イダルゴ条約」を結ぶ。
のちに、1500ドルを支払ったため、アメリカ人は「メキシコを購入した」と言えるようになった。
「我々は征服で何一つ奪わなかった。まったく喜ばしい結果ではないか」と新聞は報じた。
9.アメリカ政府が黒人奴隷にしたこと
綿花の生産量
1790年 千トン/年1860年 100万トンに急増
歴史家ジョン・ホープ・フランクリン著『奴隷制から自由へ』では、南北戦争前に25万人の奴隷が輸入されたと推定している。
元奴隷のジョン・リトル:
奴隷はよく笑い、陽気で幸せそうだと言われた。
200回鞭で打たれ、足枷をはめられても、夜になると、歌って踊り、鎖をガチャガチャさせてみんなを笑わせたからだ。
(こうして「ブルース」が生まれたんだな
1811年 アメリカ最大の奴隷暴動がニューオリンズ近郊で起こる。
1850年代
約千人/年の奴隷が北部の自由州、カナダ、メキシコに逃亡した。
北部の自由州に住む黒人は、1830年には約13万人1850年には約20万人に増加
白人の中には「奴隷制廃止論者」もいた。
奴隷に生まれたフレデリック・ダグラスは「奴隷制はアメリカ国民全体の恥だ」と演説した。
1850年 「逃亡奴隷法」を強化。奴隷所有者は、逃亡した奴隷を取り戻せるようになる。
1857年 アメリカ最高裁判所は、南部から奴隷制廃止論派の新聞を締め出した。
「彼らは人間ではなく“財産”だから」
1860年 リンカーンが第16代大統領になり、「南北戦争」がはじまる。
「南北戦争」は、歴史上、もっとも多くの血が流された戦争になる
軍では、黒人兵はもっとも過酷で、不潔な仕事を仕事をあてがわれた。
エイブラハム・リンカーンは、奴隷制は不当だと思いつつ、黒人と白人が同等とは考えていなかった。
最初「これは奴隷解放の戦争ではない」とつっぱねたが、戦局が厳しくなり、
1863年 リンカーンは、「奴隷解放宣言」を発表したが、彼らが自立する機会までは提供しなかった。
(図書館には、リンカーンを英雄、偉人として描いている本もたくさんある。そして、学校でもそう教わる。
・奴隷制廃止は政治に新勢力を生んだ
人種的平等を実現しようとする白人たち
自由を確固たるものにしたい黒人たち
共和党
[KKK(クー・クラックス・クラン)]
1866年 南北戦争終結後まもなく、白人らが46人の黒人を殺し、家、教会、学校を焼き討ちにした。
アメリカ最高裁判所は、人種隔離を認める法律を合憲と判断。
元奴隷所有者で、唯一これに反対したジョン・ハーラン判事は「我々の憲法は色覚異常」だと非難した。
南部の黒人らは自衛しはじめる。
黒人の学者W.E.B.デュボイスは「巨大資本という独裁政権が、白人票の影響力を制限している」と説いた。
10.政府はだれのもの?
南北戦争と同時に「階級間の闘争」も進行。
「ミリオネア(富豪)」という新たな階級が儲け、兵役を逃れた。
「モリル関税法」は、外国から労働者を雇う「契約労働法」も制定。
州法も、連邦法も、労働者を保護する気はなかった。
1828年 アンドリュー・ジャクソン大統領の「ジャクソニアン・デモクラシー」という神話は、
「共和党」か「民主党」を選ぶ機会を与え、民主的なほうを選ばせて、国民をコントロールする巧妙な方法だった。
アメリカは急速に「都市型国家」となる。都市に住む大半はとても貧しかった。
運河、鉄道、電信装置により経済は急成長するが、企業家の利潤追求により経済は不安定に変動していた。
企業家らは、競争を減らそうと手を組む。
牧師セオドア・パーカーいわく「今、この国でもっとも強い力を持っているのは“お金”です」
職人は「どれだけ物を作っても少しの賃金しかもらえない。雇い主の気分次第だ」と語った。
1828年 フィラデルフィアの労働者団体の会合で、スコットランド人女性フランシス・ライトが招かれた。
「新型工業機械は、働く児童の心や体を蝕んでいる」
労働者は「組合」をつくり、労働時間を10時間/日に減らそうとストライキを続けた。
労働者階級の組合活動家のほとんどは黒人を無視していた。
1837年 アメリカは金融恐慌となる。アイルランドではジャガイモの疫病で飢饉となりアメリカに逃れ、差別された。
1850年 大半はまだ農業に従事していたが、女性は織物工場で働き、労働運動に積極的に参加した。
女性は、葉巻職人、印刷工にもなっていた。
ニュージャージー州の織物工場で働く子どもが始めてストライキを起こした。
1873年 アメリカはまた経済危機となる。
1877年 不況のどん底期、鉄道会社の労働者が大ストライキを起こし、国は大きく揺らいだ。
労働者の反乱は、ピッツバーグ、レディング、シカゴ、セントルイス、NYにも広がるが、実際には何1つ変わらなかった。
労働者は、「私的資本」と「政府権力」の結託に対抗できるほどの団結力はないと気づかされた。
11.格差のピラミッド
人々の代わりに蒸気機関、電気、タイプライターなどが仕事をスピードアップさせ、石油、石炭が工場機械を動かした(朝ドラ『あさが来た』みたい
トマス・エジソンは、発明と同時に巧みにそれを売りさばいた
19C後半、新しい大富豪「マルチミリオネア(億万長者)」が頂点に立った。
石油王ジョン・D・ロックフェラー、鉄鋼王アンドリュー・カーネギーらは、政府と裁判所の力を借りて巨万と富を築いた
進歩は労働力を求め、移民が増えた。新参の中国人、ユダヤ人は、人種差別のターゲットにされた。
小説家ブレット・ハートは、中国人の友人ウォン・リーを悼んだ。
「わが敬愛すべき友が死んだ。1869年、少年や、キリスト教学校の生徒の群れに、石に打たれて殺された」
歴史本では、「最初の大陸横断鉄道は、アメリカの偉大な業績」として賞賛している。
それはセントラル・パシフィック鉄道と、ユニオン・パシフィックという2つの鉄道会社の政略と盗みに等しい行為で造られた。
19Cのやり手の実業家は「泥棒貴族」と呼ばれた。
商品価格は高く維持し、労働者への賃金は低く抑えて市場競争に勝ち、政府から援助を受けた(今もある話だ
第22代大統領クリーブランドは、当選するや、国庫には十分な資金があるのに、干ばつで苦しむテキサスの農民の補助金を拒んだ。
上院議員のジョン・シャーマンは「シャーマン反トラスト法」を提案し可決されたが、20年後、法を骨抜きにする解釈をして大企業を保護。
・シャーマンは「危険思想」を恐れていた。
社会主義
共産主義
無政府主義
最高裁判事デイビッド・J・ブリュワーいわく
「社会の富が少数者の手に委ねられることは不変の法則である。貧困は個人的な怠慢の結果で、資本主義は適切だ」
資本主義を激しく糾弾した新聞記者ヘンリー・ジョージは『進歩と貧困』を著す。
「土地は富の基礎。土地への課税で貧困問題を解決する財源が政府にもたらされる」
弁護士エドワード・ベラミーは、ユートピア小説『かえりみれば』で西暦2000年の世界を描いた。
そこは社会主義体制で、人々はともに協力して暮らしていた。
1883年 ピッツバーグで無政府主義者の大会が開催。1848年の『共産党宣言』も引用された。
1888年 ついに労働時間を8時間/日にするよう、約35万人がストに入る。
「ヘイマーケット事件」では爆弾が破裂、市民が死亡する大騒動に発展。
1886年は、「労働者蜂起の偉大な年」となる。
1893年 アメリカはかつてない経済危機となる(しょっちゅう不景気になってるな
ユージン・デブスはストを支援したとして逮捕された。
「金は、文明にふさわしい土台を構成するものではない」
ポピュリズム
農民連合から生まれた、農民の政治的、経済的利益を追求する急進的な運動。
だが、白人ポピュリズムの多くは、根強い差別意識を持っていた。
ポピュリストは勝てる公算の高い民主党と組む。
1896年 企業、出版界が共和党候補ウィリアム・マッキンリーを支援。
これは巨額の資金が投じられた最初の選挙戦だった。彼は第25代大統領になる。
「金は愛国心と同じく神聖にして重要である」「国民が我が国の財政を維持しようという思いに触れ、なにより喜ばしい」
12.軍事介入好きな国、アメリカ誕生
「どんな戦争でも、私は歓迎する。この国には戦争が必要だ」セオドア・ローズベルト大統領
上院議員アルバート・ビバリッジ:
「アメリカの工場は、アメリカ人が使う以上に製造している。世界の通商は我々のものでなければならない。
もし“余剰生産物”を海外に売れたら、階級闘争を起こした経済危機を避けられるのではないか」
外国という敵がいれば、国民は軍隊に協力し、経済が潤う
戦争という答えは、「資本主義」と「国家主義」という2つの思想から自然に出てきたはずだ。
1823年 第5代大統領ジェームズ・モンローの「モンロー主義」
「アメリカは、西半球全域(北アメリカ、中央アメリカ、南アメリカ)に関心を持っている」
1798~1895年 アメリカは103回、軍隊を他国へ送った。
1850年 日本を力ずくで開国させた。
『ワシントン・ポスト』
「我々は、新たな生理的欲求“力を誇示したい”という自覚が芽生えたようだ」
ある国の国民がその政府を倒そうとして、国民側に味方するのが正義だと思われる場合、アメリカ人は積極的に干渉する傾向があった。
[キューバ]
キューバは長いことスペイン植民地だったが反旗をひるがえした。
キューバには、黒人と白人が住んでいた。キューバ人が勝てば「黒人と白人の共和国」が生まれるのではないかとあやぶんだ。
後のイギリス首相で若き「帝国主義者」ウィンストン・チャーチルも同じ考えだった。
[ハイチ]
ハイチは、黒人が統治するアメリカで最初の国で、1804年にフランスから独立していた。
1898年 アメリカ軍はキューバ入りして「アメリカ・スペイン戦争」がはじまる
アメリカ兵の約5500人は、軍が食肉加工業者から仕入れた肉が着色され、腐敗していたための食中毒が原因で死んだ(日本にもそんなニュースがあったな
プラット修正条項
アメリカは必要な時はいつでも、キューバの内政に深く関与できる権利を認めたもの。
スペイン軍が降伏しても、アメリカの支配がはじまり、「ラディカル(急進派)」などから非難がふきだした。
「アメリカ反帝国主義同盟」もその1つ。
「アメリカ・スペイン戦争」は、スペイン支配下の他の領土を併合する道を開いた。
アメリカはハワイ諸島を女王からすでに奪っていたが、プエルトリコ、グアム、フィリピン、ウェーク島も手に入れる。
マッキンリー大統領いわく「フィリピンを文明化させてキリスト教に改心させるしか我々に道はない」
「文明教化」には「金儲け」も混じっていた
上院議員ビバリッジ「フィリピンのすぐ先には、中国という限りない市場が控えています」(これは今の話なのか?
1899年 フィリピンはアメリカに対して蜂起した
マーク・トウェイン「我々は何千人もの島民を葬り去った。“神の摂理により”これは政府の言い回しで、私のものではない」
反帝国主義同盟は、兵士の手紙を出版した。
フィリピンでも人種は大問題だった。白人アメリカ兵には、フィリピン人を劣るとみなす差別主義者もいた。
フロリダ州では、酔った白人兵が、黒人の子どもを射撃練習の的にしたと人種暴動が起きた。
(下巻につづく)
ハワード・ジン/著 レベッカ・ステフォフ/編著 鳥見真生/訳
図書館でとても気になるタイトルの本を見つけた。
これまで抱いていた疑問の答えが、あふれんばかりの情報量で書かれていた。
コロンブスや、リンカーン、エジソン、ロックフェラーなど、これまで「偉人」として教えられてきた歴史上の有名な
人物たちの見方が180度変わってしまった。
そして、その歴史は、アメリカの少年少女にすら教えられてこなかったという。
最初、大人向けに書かれた本書を子ども向けに編集して出版する際には反対の声もあったそう。
読み進めながら、ヨーロッパの人々がアメリカに土地と金を求めて“移住”した際、
どれほどの“ネイティヴ・アメリカン(原住民)”が無惨に大量虐殺されたかは、
これまで読んできた本や情報から、ある程度予測していたけれども、それ以上のおぞましいショックを受けた。
18、19、20世紀に繰り返されてきた、これらの負の歴史は、これまでの日本の歴史にも酷似している。
もっと言えば、昨日、今日のニュースで読む記事とさほど変わらないことに気づいて唖然とした。
「歴史は繰り返す」と言うけれど、富裕層と貧困層の格差は、最初からあって、
それは国、政治、裁判所、企業家らが組んで、ずーーーっと守りぬかれ、国民は巧みに操作されてきた。
そして、貧困層よりさらに下に見られていた、いや「存在を消されていた」のが、女性、黒人、他国からの移民だった。
どれほど「科学は進歩した」「文明は進化した」と言っても、
この確固としたピラミッドのシステムが継続するかぎり、
戦争も差別もなくなりようがないことが分かる。
また、1つ1つの章ごとに思い浮かぶ映画があることにも気づいた。
“インディアン”と戦う物語、西部開拓の英雄物語、『風と共に去りぬ』の南北戦争、黒人奴隷、
ストライキを起こす民衆の物語、人権問題を取り上げた作品の数々・・・
映画を通じて、私は一般市民の本当の声を無意識に学んでいたのかもしれない。
いつものように【内容抜粋メモ】に書こうと思っても、1ページごと、1行ごとに、
漏れてはいけない情報が詰め込まれているため、個人的なメモを連ねることにした。
ぜひ、本書を手に取ってもらいたいと思う。
【内容抜粋メモ】
本書は『民衆のアメリカ史』の若い世代向けバージョンである。
[はじめに]
私の考える愛国心とは、政府のすることをなんでも無批判に受け入れることではない。
「民主主義」の根本原理は、1776年『独立宣言』ではこう書かれている。
“政府が責任を果たさない場合には、その政府を改変、廃止して、新政府を設立することは人々の権利である”
私たちには、模範となる「英雄」が必要だ。
私なら、16Cの歴史家バルトロメー・デ・ラス・カサス、ヘレン・ケラー、マーク・トウェインらをあげたい。
「戦争」「人種差別」「経済的不正義」は、ずっとアメリカを悩ませ続けている。
[目次]
1.コロンブスがはじめた征服の歴史
ヨーロッパ人は東インドに金があることを知っていた。
コロンブスは、「黄金」と「香辛料」を持ち帰れば、利益の1割をもらえる約束で航海に出た
強烈な金銭欲をもってコロンブスがバハマ諸島に船でやって来た時、
アラワク族は、馬などの「役畜」を使わず、武器というものを知らなかった。
コロンブスは、は彼らを捕虜にし、500人をスペインに送り、航海の途中200人が死に、残りは地元の教会役員により競りにかけられた。
「彼らは立派な召使いになるだろう」
アラワク族は、集団自決をはじめた。
スペインで無理矢理働かされ、虐待され、千人単位で死んでいき、とうとう1人もいなくなった。
バルトロメー・デ・ラス・カサスは『インディアス史』で記した。
「母親が過労と飢えのため乳が出ず、赤ん坊はすぐに死んだ」
ところが、アメリカの歴史には、英雄が活躍する冒険ストーリーだけが語られ、虐待は書かれなかった。
歴史学者サミュエル・エリオット・モリソンは、インディアンの「完全な大量殺戮」があったと
『大航海者コロンブス』にチラっと書いただけで、主にその「航海術」に焦点をあてた。
ジェノサイド【genocide】ある人種・民族を、計画的に絶滅させようとすること。集団殺害。集団殺戮(さつりく)。
歴史家は、事実から、どれを研究課題とし、どれを省略するか決めなければならない。
歴史には、政府、征服者、指導者たちの物語のことが主に描かれる。
エルナン・コルテスとフランシスコ・ピサロは、「アステカ文明」と「インカ文明」を滅ぼした。
1607年
ポーハタン族は、イギリス人が入植するのを攻撃しなかった。
「なぜあなたたちは、愛によって静かに与えられるものを、力ずくで奪いとろうとするのか。
あなたたちに食べ物を提供している我々を、なぜ滅ぼそうとするのか? 戦いで何が得られるというのだろう。
なぜあなたたちは、我々を妬むのか?」
1609年
ジェームズタウンのイギリス人は、墓を掘り起こして死体を食らうほどの「飢餓期」にあった。
「ピルグリム・ファーザーズ」が入植。ピクォート族の土地を欲して、小屋に火を放ち、出てきた彼らを刀剣でバラバラにした。
メキシコより北にいた1000万人のインディアンは、白人のもちこんだ疫病により100万人以下になった。
コロンブス以前、南北アメリカには、7500万人のインディアンが住み、多くは「遊牧民」だった。
土地は、共同体全体のもの、食べ物も分け合い、女性は尊重され、子どもは自立するよう育てられた。
2.アメリカの大問題、人種差別と奴隷制のはじまり
アメリカほど「人種差別」がずっと大問題だった国は他にない。
「奴隷制」により黒人は白人と同等でない、劣っているという考えと、不平等な扱いとが結びついた。
入植者が増えるにつれ、食料を育てる労働力が不足。
インディアンからタバコの栽培法を習い、イギリスに高く売れていた
入植者は、インディアンのほうが大勢のため「報復」をなにより恐れていた。
白人は「文明人」、インディアンは「野蛮人」と思いつつ、自給自足で生活する彼らが妬ましかった。
そうした妬みは、「奴隷を使う立場になりたい」と思わせた。
1619年「奴隷貿易」
南アメリカ、ポルトガル、スペインが支配するプランテーションには、すでに100万人の黒人がアフリカから運ばれていた。
「奴隷貿易」を盛んに行ったのはまずオランダ人、次がイギリス人。
アフリカ文明は、ヨーロッパと同様進歩していた。アフリカにも奴隷はいたが、ある程度の権利を持っていた。
黒人は、自分たちの土地、文化から切り離され、鎖につながれ1000マイルも歩く「死の行進」で40%が死んだ。
私たちが「西洋近代文明のはじまり」と呼ぶ数世紀の間、総計約5000万人が連れ去られて死亡、または奴隷にされた。
黒人は「無気力状態」に陥った。
入植者は、白人の奉公人ももっていたが、黒人との扱いには差があった。そこには「人種的嫌悪感」があった。
逃亡した奴隷は、火で焼かれ、手足を切られて死刑にされた。入植者は、奴隷の反乱を恐れていた。
白人奉公人と黒人奴隷の反乱計画は密告され、死刑で終わった。
入植者は、貧しい白人に少しの恩恵を与えて、反乱を防ごうとした。
(こうした「恐怖」が銃を1家に1丁って国にしたんだ
3.ひと握りの金持ちのための社会
1676年
バージニアで開拓の最前線にいた白人の辺境(フロンティア)民が反乱を起こした。「ベーコンの反乱」
リーダーは、ナサニエル・ベーコン、敵はインディアンと、特権階級の指導者。
ベーコンは土地持ちで、インディアンを倒すことに執心したが、病に倒れて29歳で死去。
辺境民は特権階級の指導者に支配され植民地全体はイギリス政府に搾取されていた。
多大な利益を得ていたのは、イギリス国王だった
イギリスでは、「土地法の改正」により、都市に路上生活者があふれ、アメリカに夢を抱いて渡った多くは「年季奉公人」となった。
“航海中の船内は、悪臭、嘔吐、下痢、壊血病、食料不足、寒さや炎暑が蔓延していた。
出産間近の妊婦は、船窓から海に押し出された”
新聞にはこう書かれた。“約100人の健康な男女、子どもを乗せたジャスティシア号、ただいま到着”
奉公人は鞭に打たれ、女性はレイプされたが、主人たちは奉公人の反乱に脅えながら暮らしていた。
植民地時代に、階級の境界線は固定された。
“いかなる時代も、ある者は富み、ある者は貧しくあらねばならない”
彼らは、北アメリカに、イギリスそっくりの社会を作ろうとした。
農業、造船業、貿易が発達、上流階級が利得の大半を手にして、政治権力を握った。
1730年
「たくさんの乞食をどこかへ収容しろ」という声に、未亡人、老人、身障者、孤児、移民らは「貧民収容施設」に入れられ満員になった。
1713年
ボストンはひどい飢饉となったが、商人は儲けが多いという理由でカリブ海へ穀物を輸出した。
イギリスはいくつもの戦争をして、少数の造船業者と商人は儲けた。
富裕層は、インディアン、奴隷、プアホワイトの反乱を恐れていた。
インディアンの村では多くの逃亡奴隷がかくまわれていた。
彼らが手を組むのを阻止するべく、黒人への否定的見方をことさら強調し、「人種差別主義」が使われた。
アメリカ社会には、「白人の中流階級」が成長してきた。
支配者らは「自由と平等」という道具を見つけた。
4.「建国の父」たちの素顔~「アメリカ独立革命」
各植民地には「エリート」が出現。政治的、社会的指導者で、大半が弁護士、医師、作家。
彼らは、入植者の反抗的なエネルギーを、イギリス本国に向けるよう考えた。
「七年戦争」
「印紙税法」は、「七年戦争」にかかったイギリスの戦費をまかなうための重い税金だった。
ボストンでは、商人、船主、職人の親方からなる「ロイヤル・ナイン」という政治集団ができ、抗議デモが行われた。
・「既得権」を守りたい指導者たち
1770年「ボストン虐殺事件」
1773年「ボストン茶会事件」
1776年『コモン・センス』トマス・ペイン著が出版され、植民地アメリカは、イギリス支配から解放されるべきとうたった。
「今こそ独立せよ!」
トマスはいざ革命がはじまると下層集団と距離を置くが、後に神話の1つとなる。
1775年 「アメリカ独立戦争」がはじまる。トマス・ジェファーソンが『独立宣言』を起草。
「すべての人間は平等に作られて、権利を与えられ、その権利には、生命、自由、幸福の追究が含まれる」
これは互いに反目するものたちの気持ちを、イギリス打倒へとまとめたが、ここにはインディアン、黒人奴隷、女性は含まれていなかった。
政治の世界では、「女性は目に見えない存在」だった。
「大陸会議」は宣言から奴隷制をやめるべきという部分を宣言から削除した。
宣言に署名した者の2/3以上は、イギリス統治下の植民地政府の役人だったのだ。
ある大義に対し、多くの支持を得たい時、人の心を高揚させる言葉が使われるが、
同じ言葉は、深刻な利害対立を隠したり、多数を切り捨てることは、現代にも起きている。
インディアンの虐殺は、頭皮を剥いで持ってきた者に賞金を出すほど悪化していた。
富裕層が徴兵を大金を払って免れたことが判明し、暴動が起きた。
5.合衆国憲法は本当に画期的だったのか?~独立戦争は富裕層を儲けさせた
植民地では、白人男性のほとんどが銃を持ち、使うことができた。
兵役に「報酬」を出すと約束することで下層階級を納得させた。
戦ったのは貧しい者、それも強制徴募、強制入隊で。
「七年戦争」でイギリスに負けたフランスは、復讐のためアメリカに加担した。
独立戦争中、ずっと富裕層vs貧民層は衝突し、暴動が起きていた。
政府は「国王派」から土地をとりあげ、いくらかを小作人に売ったが、農民らは土地を買うために借りた金を銀行に払わねばならなかった。
「国王派」からとりあげた財産の大半は、軍の指導者らを潤わせた。
まだまだインディアンの土地が欲しいイギリス人は、「細菌戦」に出た。インディアンに毛布を渡して「天然痘」を流行らせた。
自由を求める黒人奴隷は入隊を申し出る者も出た。
独立戦争後、北部で「奴隷制は廃止」されたが、米と綿花のプランテーションのある南では奴隷制はますます拡大する。
復員兵の中には俸給を受け取れず、家畜、土地を取り上げる法ができたため、裁判所まで行進した。
「アメリカ合衆国憲法」の起草者には、反乱の恐怖があった。
起草者55人の大半は富裕層だった。しかも、女性、奴隷、年季奉公人、貧民は加わっていなかった。
国民が直接選挙で選べるのは下院議員のみで、女性、インディアン、奴隷に投票資格はなかった。
少数の者だけが、莫大な富、影響力、土地、財貨、新聞、教会、教育施設を所有した。
憲法を擁護する者は「フェデラリスト(連邦主義者)」と呼ばれ「社会は階級別に分かれるもの」と言った。
連邦議会は『権利章典』という修正条項を可決。言論、出版の自由、公正な裁判を受ける権利の保障などがもりこまれた。
そのわずか7年後の1798年、「治安法」ができ、連邦政府を批判する者は処罰するという内容だった。
「ウイスキー税」
富裕層が持つ公債の債務を返すため、一般国民に税がかけられた1つ。
6.初期アメリカの女性たち
法律には「女は男と対等ではない」と書かれ、父、夫には、女性を支配する権利が認められていた。
主人は、自分の妻を監督するには、体罰などどんな手段を使ってもよいとされた。
入植地の女性は、妻、乳母、召使いとして連れてこられた。
彼女たちは、渡航費とひきかえに、一度も会ったことのない男と結婚することを承諾させられていた。
黒人女性は、白人女性の2倍苦しんだ。
病気になっても満足な治療は受けられない時代に、出産と育児は大変で命を落とす者も多かった。
信仰心の篤いアン・ハッチンソンは、教会の長老に挑んで、2度裁判にかけられ、異端で罪深いとされ、
植民地から追放され、土地を騙し取った一味と誤解され、インディアンに家族ごと殺された。
・辺境では、女性は男に負けない専門的な技能を発揮した
工業が経済の中心となり、女性は工場で働くようになると同時に「家から出るな」と圧力をかけられる。
読書を制限され、大学へ進めず、男と同じ仕事をしても賃金が安く、女性の役割は「夫の要求を満たすこと」とされた。
(今とあまり変わらないような・・・
紡績産業の労働者の8~9割は15~30歳の女性で、アメリカ初期の工場ストライキは彼女たちが起こした。例:キャサリン・ビーチャー
中産階級の女性は、小学校教師になることはできた。
1821年 エマ・ウィラードが最初の少女専門の教育施設を作った(大河ドラマ『花燃ゆ』みたい
女性は奴隷制反対運動にも参加した。
ロンドンでの会議では「公的な場に姿をさらすことは女性にふさわしくない」として、カーテンの後ろに座らされた。
スタントン&モットは、歴史上初の「女性の権利拡張」を訴える大会を開催した。
『諸原則の宣言』には「すべての男と女は平等につくられている」とうたった。
黒人女性を白人女性と同じように遇することも含まれた。
元奴隷で、奴隷制廃止論者のソウジャナー・トルースは語った。
“女は馬車に乗る時、手を添えたりする必要があると言っていたが、
私はこれまでぬかるみを越える時も誰にも助けてもらわなかった。私は女じゃないんでしょうか?
子どもを13人産み、ほぼ全員が奴隷として売り飛ばされるのを見ました。私は女じゃないんでしょうか?”
女性たちは各地で、刑務所や、医療改革活動も開始した。
(イギリスの「紳士道」は、最初から女性は弱い者だから助けなければならないとする「女性蔑視」の1つなんだ
7.欲深き指導者たち
アメリカ人はもっと土地を欲しがり、インディアンの領地に侵入した。
独立革命後、富裕層は土地の「投機買い」をはじめる。
初期アメリカ史でもっとも無慈悲なインディアン政策をしたアンドリュー・ジャクソンもその1人。
ジャクソンは、クリーク族と戦い国民的英雄となる。チェロキー族に「加勢してくれたら友好的に遇する」と約束して、クリーク族に勝つ。
そもそも、インディアンには「個人が土地を所有する」という考えはなかったが、その伝統は壊れ、インディアン同士が対立するようになった。
1828年 ジャクソンは第7代大統領に選出。アメリカ政府は「インディアン移住政策」を決定。
「あの野蛮人どもは、文明社会と接触しては生きていけないから」
1820年代、南部では、白人とインディアンは穏やかに暮らして、さかんに行き来していた。
インディアンを追い出す圧力は、政治家、大事業家、土地投機業者、人口増加からうまれた。
インディアンが同意するなら、財政的に援助すると約束。部族別に圧力がかけられた。
1831年
13,000人の旅がはじまり、何千人ものインディアンは飢え、寒さ、病気で死んだ。
政府は約束を破り、移動先に殺到した白人からクリーク族を守らなかった。
フロリダのセミノール族は戦うことを選んだ 戦争は8年続き、多額の戦費、大勢の兵士の死で終結した。
ジョージア州では、チェロキー族は、農民、鉄工、大工になることで白人社会に適応しようとした。
州は彼らから土地をとりあげ、1838年、のちに「涙の旅路」と呼ばれる旅に出た。
4000人のチェロキー族が、風雨にさらされながら歩かされ、飢え、渇き、病気で死んだ。
8.メキシコ戦争
1821年 メキシコはスペインから独立。
当時のメキシコはテキサス、ニューメキシコ、ユタ、ネバダ、アリゾナ、カリフォルニア、コロラド、ワイオミングまでを含んでいた。
第11代大統領ジェームズ・ポークの最大の目標は、カリフォルニアをアメリカに加えること。
1845年 イーサン・アレン・ヒッチコック大佐は日誌に書いた。
“暴力は暴力を呼ぶ。本音を言えばこんなことにはかかわりたくない。だが軍人として、私には命令を遂行する義務がある。”
アメリカ国民の多数は戦争に沸き立ち、志願兵が殺到した。
作家ヘンリー・デビッド・ソローは「メキシコ戦争」に反対し、『市民的不服従』を著す。
“法はけっして人をより正しくするものではない。法を遵守することで、善意の者まで不正義の実践者となる。”
メキシコ戦争を奴隷所有者による陰謀という者も現れ、志願兵は減った。軍は新兵に報酬を約束した。
兵士は、戦争の血生臭さにショックを受け、前線に向かう途中、病気で死ぬ兵士もいた。
兵士の中には酔って、村落を掠奪、女性の暴行件数は増える一方。脱走兵も増えた。
アメリカ軍は血みどろの戦いの末、1846年ロサンジェルスを奪還。
勝利の栄光は、大統領、将軍が独占し、戦死者、負傷者も顧みられなかった。
1848年。メキシコとアメリカは「グアダルーペ・イダルゴ条約」を結ぶ。
のちに、1500ドルを支払ったため、アメリカ人は「メキシコを購入した」と言えるようになった。
「我々は征服で何一つ奪わなかった。まったく喜ばしい結果ではないか」と新聞は報じた。
9.アメリカ政府が黒人奴隷にしたこと
綿花の生産量
1790年 千トン/年1860年 100万トンに急増
歴史家ジョン・ホープ・フランクリン著『奴隷制から自由へ』では、南北戦争前に25万人の奴隷が輸入されたと推定している。
元奴隷のジョン・リトル:
奴隷はよく笑い、陽気で幸せそうだと言われた。
200回鞭で打たれ、足枷をはめられても、夜になると、歌って踊り、鎖をガチャガチャさせてみんなを笑わせたからだ。
(こうして「ブルース」が生まれたんだな
1811年 アメリカ最大の奴隷暴動がニューオリンズ近郊で起こる。
1850年代
約千人/年の奴隷が北部の自由州、カナダ、メキシコに逃亡した。
北部の自由州に住む黒人は、1830年には約13万人1850年には約20万人に増加
白人の中には「奴隷制廃止論者」もいた。
奴隷に生まれたフレデリック・ダグラスは「奴隷制はアメリカ国民全体の恥だ」と演説した。
1850年 「逃亡奴隷法」を強化。奴隷所有者は、逃亡した奴隷を取り戻せるようになる。
1857年 アメリカ最高裁判所は、南部から奴隷制廃止論派の新聞を締め出した。
「彼らは人間ではなく“財産”だから」
1860年 リンカーンが第16代大統領になり、「南北戦争」がはじまる。
「南北戦争」は、歴史上、もっとも多くの血が流された戦争になる
軍では、黒人兵はもっとも過酷で、不潔な仕事を仕事をあてがわれた。
エイブラハム・リンカーンは、奴隷制は不当だと思いつつ、黒人と白人が同等とは考えていなかった。
最初「これは奴隷解放の戦争ではない」とつっぱねたが、戦局が厳しくなり、
1863年 リンカーンは、「奴隷解放宣言」を発表したが、彼らが自立する機会までは提供しなかった。
(図書館には、リンカーンを英雄、偉人として描いている本もたくさんある。そして、学校でもそう教わる。
・奴隷制廃止は政治に新勢力を生んだ
人種的平等を実現しようとする白人たち
自由を確固たるものにしたい黒人たち
共和党
[KKK(クー・クラックス・クラン)]
1866年 南北戦争終結後まもなく、白人らが46人の黒人を殺し、家、教会、学校を焼き討ちにした。
アメリカ最高裁判所は、人種隔離を認める法律を合憲と判断。
元奴隷所有者で、唯一これに反対したジョン・ハーラン判事は「我々の憲法は色覚異常」だと非難した。
南部の黒人らは自衛しはじめる。
黒人の学者W.E.B.デュボイスは「巨大資本という独裁政権が、白人票の影響力を制限している」と説いた。
10.政府はだれのもの?
南北戦争と同時に「階級間の闘争」も進行。
「ミリオネア(富豪)」という新たな階級が儲け、兵役を逃れた。
「モリル関税法」は、外国から労働者を雇う「契約労働法」も制定。
州法も、連邦法も、労働者を保護する気はなかった。
1828年 アンドリュー・ジャクソン大統領の「ジャクソニアン・デモクラシー」という神話は、
「共和党」か「民主党」を選ぶ機会を与え、民主的なほうを選ばせて、国民をコントロールする巧妙な方法だった。
アメリカは急速に「都市型国家」となる。都市に住む大半はとても貧しかった。
運河、鉄道、電信装置により経済は急成長するが、企業家の利潤追求により経済は不安定に変動していた。
企業家らは、競争を減らそうと手を組む。
牧師セオドア・パーカーいわく「今、この国でもっとも強い力を持っているのは“お金”です」
職人は「どれだけ物を作っても少しの賃金しかもらえない。雇い主の気分次第だ」と語った。
1828年 フィラデルフィアの労働者団体の会合で、スコットランド人女性フランシス・ライトが招かれた。
「新型工業機械は、働く児童の心や体を蝕んでいる」
労働者は「組合」をつくり、労働時間を10時間/日に減らそうとストライキを続けた。
労働者階級の組合活動家のほとんどは黒人を無視していた。
1837年 アメリカは金融恐慌となる。アイルランドではジャガイモの疫病で飢饉となりアメリカに逃れ、差別された。
1850年 大半はまだ農業に従事していたが、女性は織物工場で働き、労働運動に積極的に参加した。
女性は、葉巻職人、印刷工にもなっていた。
ニュージャージー州の織物工場で働く子どもが始めてストライキを起こした。
1873年 アメリカはまた経済危機となる。
1877年 不況のどん底期、鉄道会社の労働者が大ストライキを起こし、国は大きく揺らいだ。
労働者の反乱は、ピッツバーグ、レディング、シカゴ、セントルイス、NYにも広がるが、実際には何1つ変わらなかった。
労働者は、「私的資本」と「政府権力」の結託に対抗できるほどの団結力はないと気づかされた。
11.格差のピラミッド
人々の代わりに蒸気機関、電気、タイプライターなどが仕事をスピードアップさせ、石油、石炭が工場機械を動かした(朝ドラ『あさが来た』みたい
トマス・エジソンは、発明と同時に巧みにそれを売りさばいた
19C後半、新しい大富豪「マルチミリオネア(億万長者)」が頂点に立った。
石油王ジョン・D・ロックフェラー、鉄鋼王アンドリュー・カーネギーらは、政府と裁判所の力を借りて巨万と富を築いた
進歩は労働力を求め、移民が増えた。新参の中国人、ユダヤ人は、人種差別のターゲットにされた。
小説家ブレット・ハートは、中国人の友人ウォン・リーを悼んだ。
「わが敬愛すべき友が死んだ。1869年、少年や、キリスト教学校の生徒の群れに、石に打たれて殺された」
歴史本では、「最初の大陸横断鉄道は、アメリカの偉大な業績」として賞賛している。
それはセントラル・パシフィック鉄道と、ユニオン・パシフィックという2つの鉄道会社の政略と盗みに等しい行為で造られた。
19Cのやり手の実業家は「泥棒貴族」と呼ばれた。
商品価格は高く維持し、労働者への賃金は低く抑えて市場競争に勝ち、政府から援助を受けた(今もある話だ
第22代大統領クリーブランドは、当選するや、国庫には十分な資金があるのに、干ばつで苦しむテキサスの農民の補助金を拒んだ。
上院議員のジョン・シャーマンは「シャーマン反トラスト法」を提案し可決されたが、20年後、法を骨抜きにする解釈をして大企業を保護。
・シャーマンは「危険思想」を恐れていた。
社会主義
共産主義
無政府主義
最高裁判事デイビッド・J・ブリュワーいわく
「社会の富が少数者の手に委ねられることは不変の法則である。貧困は個人的な怠慢の結果で、資本主義は適切だ」
資本主義を激しく糾弾した新聞記者ヘンリー・ジョージは『進歩と貧困』を著す。
「土地は富の基礎。土地への課税で貧困問題を解決する財源が政府にもたらされる」
弁護士エドワード・ベラミーは、ユートピア小説『かえりみれば』で西暦2000年の世界を描いた。
そこは社会主義体制で、人々はともに協力して暮らしていた。
1883年 ピッツバーグで無政府主義者の大会が開催。1848年の『共産党宣言』も引用された。
1888年 ついに労働時間を8時間/日にするよう、約35万人がストに入る。
「ヘイマーケット事件」では爆弾が破裂、市民が死亡する大騒動に発展。
1886年は、「労働者蜂起の偉大な年」となる。
1893年 アメリカはかつてない経済危機となる(しょっちゅう不景気になってるな
ユージン・デブスはストを支援したとして逮捕された。
「金は、文明にふさわしい土台を構成するものではない」
ポピュリズム
農民連合から生まれた、農民の政治的、経済的利益を追求する急進的な運動。
だが、白人ポピュリズムの多くは、根強い差別意識を持っていた。
ポピュリストは勝てる公算の高い民主党と組む。
1896年 企業、出版界が共和党候補ウィリアム・マッキンリーを支援。
これは巨額の資金が投じられた最初の選挙戦だった。彼は第25代大統領になる。
「金は愛国心と同じく神聖にして重要である」「国民が我が国の財政を維持しようという思いに触れ、なにより喜ばしい」
12.軍事介入好きな国、アメリカ誕生
「どんな戦争でも、私は歓迎する。この国には戦争が必要だ」セオドア・ローズベルト大統領
上院議員アルバート・ビバリッジ:
「アメリカの工場は、アメリカ人が使う以上に製造している。世界の通商は我々のものでなければならない。
もし“余剰生産物”を海外に売れたら、階級闘争を起こした経済危機を避けられるのではないか」
外国という敵がいれば、国民は軍隊に協力し、経済が潤う
戦争という答えは、「資本主義」と「国家主義」という2つの思想から自然に出てきたはずだ。
1823年 第5代大統領ジェームズ・モンローの「モンロー主義」
「アメリカは、西半球全域(北アメリカ、中央アメリカ、南アメリカ)に関心を持っている」
1798~1895年 アメリカは103回、軍隊を他国へ送った。
1850年 日本を力ずくで開国させた。
『ワシントン・ポスト』
「我々は、新たな生理的欲求“力を誇示したい”という自覚が芽生えたようだ」
ある国の国民がその政府を倒そうとして、国民側に味方するのが正義だと思われる場合、アメリカ人は積極的に干渉する傾向があった。
[キューバ]
キューバは長いことスペイン植民地だったが反旗をひるがえした。
キューバには、黒人と白人が住んでいた。キューバ人が勝てば「黒人と白人の共和国」が生まれるのではないかとあやぶんだ。
後のイギリス首相で若き「帝国主義者」ウィンストン・チャーチルも同じ考えだった。
[ハイチ]
ハイチは、黒人が統治するアメリカで最初の国で、1804年にフランスから独立していた。
1898年 アメリカ軍はキューバ入りして「アメリカ・スペイン戦争」がはじまる
アメリカ兵の約5500人は、軍が食肉加工業者から仕入れた肉が着色され、腐敗していたための食中毒が原因で死んだ(日本にもそんなニュースがあったな
プラット修正条項
アメリカは必要な時はいつでも、キューバの内政に深く関与できる権利を認めたもの。
スペイン軍が降伏しても、アメリカの支配がはじまり、「ラディカル(急進派)」などから非難がふきだした。
「アメリカ反帝国主義同盟」もその1つ。
「アメリカ・スペイン戦争」は、スペイン支配下の他の領土を併合する道を開いた。
アメリカはハワイ諸島を女王からすでに奪っていたが、プエルトリコ、グアム、フィリピン、ウェーク島も手に入れる。
マッキンリー大統領いわく「フィリピンを文明化させてキリスト教に改心させるしか我々に道はない」
「文明教化」には「金儲け」も混じっていた
上院議員ビバリッジ「フィリピンのすぐ先には、中国という限りない市場が控えています」(これは今の話なのか?
1899年 フィリピンはアメリカに対して蜂起した
マーク・トウェイン「我々は何千人もの島民を葬り去った。“神の摂理により”これは政府の言い回しで、私のものではない」
反帝国主義同盟は、兵士の手紙を出版した。
フィリピンでも人種は大問題だった。白人アメリカ兵には、フィリピン人を劣るとみなす差別主義者もいた。
フロリダ州では、酔った白人兵が、黒人の子どもを射撃練習の的にしたと人種暴動が起きた。
(下巻につづく)