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ピエール瀧@ファミリーヒストリー

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朝ドラ「とと姉ちゃん」に出演決定

キャスト:相楽樹、杉咲花、西島秀俊、木村多江、向井理、川栄李奈、坂口健太郎 など
(平岩紙ちゃんも出る! てか、「あさが来る」終わってほしくないなぁ。毎回、代わる時はそう思う。


『あまちゃん』もよかったねえ 現在48歳て哲さんと同年代!/驚

自らのルーツについてはほとんど知らない。



ピエール瀧の故郷は静岡
 

 

画家の祖父・秀治は、父・正臣さんが10歳の時に亡くなった。
秀治の実家は地元で有名な呉服屋。秀治は6男。
2階建ての倉が去年まで残っていた。

 


秀治は、実家を出て、東京の日本工科(絵画の基礎を教えていた)に入った
九州・熊本市へ。各地から画家の卵が集まっていた。
手取本町に住んでいて、近所には有名な画家石村珪堂さんがいた。その娘さん圭子を訪ねると、記念写真に一緒に写っていた。
当時、秀治ら画家の卵は、堅山南風のもとで学び画家を目指していた。

 


26歳で熊本の女性と結婚
 

絵画展に足を運んだ秀治は、博覧会を手伝っていた母・夕子(たね)と出会った。
夕子は粋で活発だった。タネの父は「売れない画家は飯が食えない」と猛反対、2人は駆け落ちして熊本で新生活を送る。

父・正臣さん誕生。
 

秀治の絵はなかなか売れない。古美術商人さんいわく、熊本には何十人の日本画家がいて最後まで絵を続けた人は一握り。
本山町に住んでいた場所にある古い寺を訪ねる。そこの天井画を任された。

 

当時の絵が残していた人がいた。祖母が気に入ってとっておいたそう。
「家族を養うため、あちこち訪ねて、絵を描いてなにがしか頂く感じだったのでは」(古美術商

ピ「なるほど。やっぱり駆け落ちだったんですね。有名じゃないのに、気に入ってくれる人がいるのは嬉しい」


10年後、静岡に戻る。


今は理髪店になっている加藤さんの祖父が、「2階が空いてるから住め」と秀治一家の面倒をみていた。
加藤「島田中の名士も来るため、交流もあったのでは」


昭和14年、静岡市へ。
娘さん宅にも当時売れなかった2枚絵がある。


昭和16年、太平洋戦争がはじまる。
絵の注文は減り、酒で紛らわせるようになる秀治。
秀治の腕を知る人が
「息子が出征するので、布に虎の絵を描いてもらえないか」と頼みにきた。
当時、「千人針」(布に1針ずつ縫い、腹巻にすると弾避けになると信じられていた)に虎の絵を描くことが多かった。

 

静岡平和資料センター

 

「虎は千里の道を走り 千里の道を帰る」という言い伝えがある。
当時は「ご無事にお帰りを」などというと「非国民」と言われた時代のため、虎に託した。
秀治も虎の絵を描き続けた。そんな父の姿を正臣さんも覚えているそう。

父「出征する人は、命を賭けて行くわけですから、手を抜いちゃいけないという気持ちだったのでは」



虎の絵を依頼した松野さんは、その虎の絵の千人針を巻いて戦地に赴いた

「俺の宝物だ。これを巻いていたから命が助かった」と言っていた。
しかし旧満州で終戦を向かえ、混乱の中で千人針を持ち帰ることは出来なかった。


昭和20年 静岡大空襲
 
約2000人が犠牲になった

当時8歳の正臣さんは空襲を呆然と見ていた。


「不気味なぐらいバカンバカン音がしてね。風がガソリン臭いような、焼夷弾の臭い」

その模様を正臣さんも絵に描いていた。防空壕を抜け出して見た悲惨な光景。
 




昭和20年 終戦
秀治は結核になり、妻と5人の子どもを残して死去。享年49歳。昭和23年。
ピ「俺もうすぐ49だ」

当時11歳だった正臣さん。

「棺を釜へ入れる時、その前に“親戚の方”て火葬場の方が言った時、年寄りらに“おい、あんただよ”て指差されてね。
 マッチを擦って棺おけに火をつける儀式を私がやったんですよ、11歳の。
 涙も出なかったんだけど、おじぎして。これをやるってことは、俺に任されたんだなってことで、
 それからあまり他のことでへなへなしなくなっちゃった」

中学を卒業後、正臣さんは就職。高校へ行く経済的余裕はなかった。
父の苦労を見て育ったため、安定したサラリーマンの道を選び、地元の印刷会社に就職。
同僚は真面目に働く姿を覚えている。「いつも帰りは遅かったですね」

 

25歳の時見合い話がくる。3枚の写真から1枚を選んだ。
「健康そうで、丈夫そうだなとw」


照子さん可愛いv

ピ:
なるほどw 両親の話になると急にこっ恥ずかしくなりますけどねw
いろんなことが起きてましたね。戦争がありましたもんね。虎の話も思い出しました。
で、うちの父がとにかく真面目に働くんですよ。親を反面教師で見てるっていうのがあるかもしれないですね。


*************母方・大隈家

実家は佐賀県の長女
 

よきちさんの胸にはたくさんの勲章

「とにかく厳しい方だったとしか聞いてない」


大正3年 陸軍に召集されたよきちさんは、第一次世界大戦に従軍
ドイツ軍と戦って武勲をたたえられた。

 

 

長男・光治さんは足が不自由で農業の手伝いが出来なかった。
照子「白いご飯を食べたことがない。麦はいいほう。大根などを入れて炊いてた。子ども心に惨めだなと思いました」


昭和29年 照子は高校進学を諦め看護師を目指し、2年後準看護師の資格をとり、結核療養所で働く。
幼い妹たちのために仕送りを続けた。

 


「姉は“自分のことは自分で考える”と言っていて、尊敬できる。根本は貧乏だったということ」

給料はなかなか上がらず、静岡に条件のよい職場をすすめられ、すぐ決めた。
19歳で静岡の精神科で働き始める。

先輩「よく慕われていた。真面目で、熱心、優しい」

5年目、「お見合いしてみない」と先輩に言われ、喫茶店での簡単な見合いだった。


正臣さんもハンサム

照子「(第一印象は)やせっぽでしたよ。52キロって聞いて、私のほうが重かったと思います」


昭和38年 結婚
 

昭和42年 正則(瀧さん)誕生
 
可愛い!


幼い頃の瀧さんは、高熱、気管支炎で体が弱かった。共働きの2人は必死に看病した。

瀧さんは健康を回復し、小学生になるとひょうきんさでクラスの人気にw
高校では野球部に入り、甲子園を目指す。残念ながら夢は叶わなかった。

 
ピ「こんな部分までやる番組でしたっけ?」w

 

父「その頃からワンテンポちょっと笑かしたりしてた」


高校卒業後、瀧さん上京
医療関係の専門学校に進むが中退、両親は子どもには好きな事をやらせたいと考えていた。
父「ある時、突然、ああいう音楽が聞こえるようになって」


平成3年メジャーデビュー


 

 
CD買ってるんだね~

両親には理解できる音楽ではなかった。
父「電気ビリビリなんてね、こっちが聴いててビリビリしちゃう」
母「少しは自分なりに理解しようと思いましたけど、理解の限界を超えるわと思って、それからはもう努力しないです」ww
ピ「ま、そうだろうね」


平成22年 大河ドラマ「龍馬伝」に出る

父「大河ドラマに出るなんて夢にも思わないので」



Q:瀧さんの魅力は?
味わいのあるおじさんが役者界にあんまりいないんですよね。
みなさん二枚目から入るじゃないですか。カッコイイってところから、いろいろ進化していくと思うんですけど、
ピエールさんは二枚目じゃないとは言わないですけど、味わいのあるおじさん顔の感じでいうと
本人の持っている風情が昭和感がある、昔の役者さんみたいなニオイがあるんですよね。

母:
今でも心配です。今のサラリーマンでもいつクビきられるか分からない時代ですけど、
ああいう世界はなおさら分からないものだから、今でも“あんた仕事あるよね”て聞くもんだから
“心配しなくていいんだよ”て言うんだけど、やっぱり今でも心配します。

ピ:
やっぱり戦争がなかったら、どうなったんだろうなとは思いますよね。
それを見ると、そういう世代にあたっちゃってますからね。

そうすると僕が生まれてない可能性がありますからねw

Q:ファミリーヒストリーを知って
僕は命のバトンていうんですけど、命のバトンをみんなが渡してきたから
ずっと途切れずにきているから、僕がいるわけじゃないですか
僕は娘がいるんですけども、バトンの可能性は渡していかなければと思います。

(前回の竹中直人さんと同じこと言ってるね

照子さんは同じ病院に40年間勤務して、看護師長になった。



「60歳の誕生日プレゼントに、お疲れさまってことで(瀧さんから)もらいました。
 “俺が買っても分からないから一緒に買いに行こう”て連れてってくれて(優しい!
 成長している子どもを実感しました。私にとっては大事な宝です。

(親にとっては子どもは、いつまでも子どものままなんだなぁ

父も60歳定年まで勤務した。
 
絵を描いていると亡き父のことをふと思い浮かぶという。

父:
父親は父親で短い時間を駆け巡った人だからね、父親と多くを語った時間が少ない反面、
描いているのを見ている時間が長いから、余計そうかもしれない。



今回の取材で秀治さんの絵が新たに見つかった。

望月「父が戦争行く時に絵を描いていただいて」

 

望月敏夫さんは、終戦後、復員し、千人針を持ち帰ることができた。
その後、額に飾り、亡くなるまでよく眺めていたという。



息子さん:
“俺はこれを戦地に持って行って、大事にしていたんだ”と言っていた記憶があります。
父にとっては大事なお守りだったと思う。

正臣さんは、ぜひ観たいと訪ねた。


正臣「完成品を観たのは生まれて初めてです。死ぬ前に本物を観れて感激してます。ありがとうございます」


ピ「いい虎の絵でしたね」



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