■『ローカル・カラー/観察記録 犬は吠える』(早川書房)
トルーマン・カポーティ/著
※「作家別」カテゴリーに追加しました。
すでに読んだものは、メモ省略。
「犬は吠える、がキャラヴァンは進む」(アラブの諺)
読んでいて、一体彼はどこまで顔が広いんだ!と思うほど、世界中に知り合いがいて、
羨ましいほど、さまざまな場所で、さまざまな体験をし、日記に書いたメモを通して書いた。
ほんとうは、マリリンや、サッチモなど、著名人の素顔をもっと聞きたかったんだけど、
本書の2/3は旅先の話だった。
ページを開いた瞬間に、当時のその国に自分も居合わせているようで、
エキゾティックな異国を次から次へと旅を追体験できる。
本文中に、知人からカポーティは酷評するが天才だ、みたいに言われている件がある。
たしかに、街、人物描写でも、彼独特の毒がある。
読者は、実際行ったことがない場所、会ったことのない人だから、実際のところどうなのかは分からない。
または、著者が読者を惹きつけるための演出とも考えられるし。
それに、以前読んだ作品内で、異国をあてもなく彷徨うアメリカ人ほど悲惨なものはない、
というようなことを書いていたのを思い出すと、これはパートナーとしたプライベートな旅なのか
仕事や招待といった用事のついでのことなのか、旅をしている著者自身は幸せなのかが気になってくる。
【内容抜粋メモ】
「序文」
アンドレ・ジッドと護岸に座って話すTC。
本書は1942~1972年までの私の人生の散文地図、文章による地誌学で、
すべて事実に基づいているが、真実を意味するものではない。
再び活字にした理由の1つはノスタルジア。
もう1つはノンフィクションへの関心の開きかけた最初の試みだったから。
『詩神の声聞こゆ』は、滅多に喜びとは結びつかない書くという作業を、本当に楽しみながらやったと言い得る唯一の著作だ。
モデルの中でもっとも心を痛めたのは「お山の大将」のM.ブランドー。
彼はその文章を思いやりのない、裏切りとさえ言える、不法侵入だと思っていた。
「ルポルタージュ」といえどもほかの散文学と同様、洗練された高尚な芸術たりうる。
ジャーナリズムのもっとも低次元のものはなにか?
映画スターのインタビューだ。これほど高尚にすることが困難なものはあるまい。
実験材料にブランドを選んで、私は自分の能力を点検した。
私が学んだのは、“スタティック”な文体、つまりストーリーの助けによらずに人物の性格を明らかにし、
情調を持続する文章の書き方だった。
「雲からの声」(1969)
『遠い声 遠い部屋』というタイトルは私が考えた。これは処女作ではなく2作目。
処女作は、人目に触れることなく散逸してしまったが『夏の交差点』という題だった。
『遠い声 遠い部屋』は、笑い事では済まされないまでに自伝的だということに私は気づいていなかった。
この小説は私を解放してくれた。
それまで私にとって大切だった作家は、アメリカではジェームズ、トゥエーン、、、
海外では、ジェーン・オースティン、ディケンズ、プルースト、チェーホフ、エミリー・ブロンテ、、、
私はニューオリンンズに一人息子として生まれ、両親は私が4歳の時に離婚した。
学校に通うのは無駄で、17歳で辞めた。
「ニューヨーカー」で2年ほどマンガの整理と新聞の切り抜きの仕事をした。
大志を抱く芸術家にとって反響板のないことほど孤独なものはない。
私は勇をふるい、職を棄て、NYを去り、親類の家に落ち着いた。
そこで、新しい小説のことで眩暈がした。
それは、生まれてくる時は、怒り狂う虎の子どものようで、なんとかなだめ飼い慣らさなければならない。
それは芸術家の主要な仕事だ。
服を着たままベッドにもぐりこみ、パセティック(哀れをさそうさま。また、感動的なさま。)なオプティミズムをもって書いたのが『遠い声 遠い部屋』。
まるで雲からの声の言葉を書き写す書記にでもなったみたいに。
生活が昼夜逆転し、親類を困らせ、私はニューオリンズに行った。
私は一人も知り合いに会わなかった。偶然、私の父に会ったことを別にすれば。
今作の中心テーマは、この本質的には想像上の人物を捜し求めることだったのだから。
市場のカフェで、私はジョッキーと呼ばれた。
従兄ランドルフの原型となる男スケッチャーに会った。小太りの金髪男で、白血病で死にかけていた。
これはすべてひと夏の間に起こったことで、その秋、私は東部の学校に行き、
再び店を訪ねてスケッチャーのことを尋ねると「ああ、死んだよ」と言われた。
私には自分の小説を熱心に読み返す習慣はないが、『遠い声 遠い部屋』をやっと読み通してみた。
難破した水夫が瓶に詰めて海に投ずるメッセージのような、一種の苦悩と喜びに満ちた緊張があった。
「白バラ」(19670)
23年前、私はパリのパレ・ロワイヤルの中庭に立ち、フランス文学の大女流作家コレットを訪ねた。
女主人は滅多にベッドを離れない年をとった半病人だった。
私は彼女をまともに見られず、魔法の展示品に集中した。
それは古いクリスタルグラスの文鎮のコレクションだった。
「どうやら私の雪に興味がおありのようね」
それはクリスタルグラス芸術の極致、フランス最高のクリスタルグラス工房の一流の職人が発明したガラスの宝石だと説明した
「もっとも素晴らしいものは1840~1880年に作られたの」
「ジャン(コクトー)が言ったことは本当だと分かったわ。あの人はこう言ったの。
“騙されてはいけないよ、あの男(TC)は10歳の天使のように見えるが、実は年齢を超越してるんだ。
それに非常に意地悪な心を持っている”
その瞬間からTCもクリスタルグラスの収集家となる。
イースト・ハンプトンの競売場で掘り出し物をゲットする。
旅に出る時、私は小さな黒い袋を持って行く。中には6個の文鎮がフランネルの布に包まれて入っている。
コレットから、大事にしている1つをもらい、そんな大事なものを受け取るわけにはいかないと断った時、こう言った。
「ねえ、あなた、自分でも大事にしているものでなければ、贈り物として差し上げたってしようがないでしょう」
【ローカル・カラー】
「ニューオーリンズ」(1946)
TCは、中庭の泉にある柳の木に男がぶらさがっているのを見る。
腕には「フランシー」と入墨があった。その女のためか、彼が自殺したのは? 私は逃げた。
ニューオーリンズは神秘の町だ。
この町では食事の話を耳にすることが多い。ニューオーリンズの料理の美点は素朴さに由来する
「太った大きなママが欲しい、欲しいんだ!」
「ニグロ・カフェ」では、ディル・ピクルズのように太い指がキーを叩き、床を打つ足がカフェを震わせる。
「ニューヨーク」(1946)
ほかの現実世界からここに入りこむと、人がひたすら捜し求めるのは、自分を隠し、見失い、発見する町だ。
先週、ガルボに2度出会った。
彼女に知性があるかないか気にする者がいるだろうか? あのような顔がこの世に存在し得るというだけで充分じゃないか。
ガルボ自身は孤独になりたいと言った。
人と異なる道を歩む者は、常にある悲しみをもち続ける。
そして、それを人前で欺いて見せたりはしないものである。
今日、Mと昼食。彼女はとうとう一文なしになったという。
彼女はNYという罠にあっという間に捕らえられてしまった一派だ。
才能に恵まれずして才能を生かそうとする人々の一人だ。
田舎の空気を受け入れるにはあまりに鋭敏すぎ、憧れの都会の空気を自由に吸えるほどには鋭敏でなく、
やむなくノイローゼになりながらNY周辺に棲息している。
アメリカの中産階級は感受性を持つ若者に対し、彼らの仕事が直接現金で成果をもたらさないと、
枯死させるような言葉しかかけないからだ。
だが、文明が滅びた時に、後世の人たちが廃墟に見い出すのは現金だろうか? それとも彫刻、詩、戯曲だろうか?
ヒラリーは、もっとも陽気な人々には伝説を生む輝きが備わっていると思い込んでいる。
世界中の人々がみんな自分を愛してくれるわけではないと悟る瞬間に、無心から知恵への移行が起こる。
私はNYを離れたらはるかに多くの仕事ができるかもしれない。
ある年齢に達するまでは、田舎は退屈なものだし、私が好きなのは自然一般ではなく、特殊な自然だ。
探索・探検は不吉なまでに慌しく、汗ばむほど不安なものになり、覚せい剤のハードル競争のようになる。
捜し回っていたものはどこにある? ついでに聞けば、一体何を捜し回っている?
セルマは、47年間、私の3人の叔母の家で料理女をしていた。
彼女の理解するところによれば、NYは1本の樹も花もなく、みんな地下に住んでいる。滋養のある食べ物はない。
セルマをNYに連れていこうとして、停車場で泣き出した。
「行くのはいやだ、そんなに故郷から離れたら死んでしまう!」
「ブルックリン」(1946)
果てしなく続く同じ外観のけばけばしい赤褐色砂岩造りの平屋の列。
私が住んでいるのはその2部屋である。
ミセスQと私の間には快い信頼関係ができている。
それは主として2人とも身の毛もよだつほどの頭痛に悩まされるという事実に根ざしている。
「また2家族だよ。引越し用のトラックで通って行った。アフリカ人のさ。
この界隈は黒い悪夢になっちまう。最初はユダヤ人、今度はこれだろう、泥棒たちだよ、みんな」
ブルックリン人は集団として迫害された少数を形成している。
彼らが洗練されない田舎者ぶりに固執するため、いやおうなく大笑いの種にされている。
プロパガンダによって、現代生活のもっとも粗野で低俗な面と同義語になっている。
私は地下鉄に関して学位を得るほどになった。トンネルを揺られていると、目隠しをされたような気持ちになる。
私は1人の少女を見た。「孤独な心を買って下さい」と書かれたハート型の赤い紙をバスケットいっぱいに持っていた。
ミセスT.T.ヒュット・スミスが食堂に入ってくる様は、ファンファーレが鳴らないのが物足りないくらいだ。
私は彼女の秘密を知っている。彼女は盗人だ。
もう何年もチェロキーホテルの安物銀器をハンドバッグにすべりこませている。
「ハリウッド」(1947)
飛行機で隣りに座ったテルマは若いニグロで、可愛らしく、カリフォルニアへの旅は彼女にとってこの上なく素晴らしい出来事だった。
「あたしにはちゃんと分かってるの。きっとステキな旅になるだろうって。
3年間劇場で案内ガールをやり、やっと旅費を貯めたのよ。
叔母が占いをやっててこう言ったの。ハリウッドに行くといいよ、映画女優の個人秘書の口が待ってるからって」
タクシーにも同乗し、ハリウッドの“中心地”に行くよう言った。
そこは月の表面であり、アメリカの象徴であるゴミ捨て場しか見い出せなかった。
中古車の並ぶ街路、スーパーマーケット、モーテル、、、
降りる時にテルマは言った。
「あんた、あたしの言うこと覚えていて。お腹がすくかどうかしたら、あたしのいるところを見つければいいのよ。
では、あんたも頑張ってね」
クリスマスはハリウッドでは場違いだ。大体、子どものいないクリスマスって何だろう。
先週ある男が言った。「要するにここは子どものいない町なんだな」
この町の第一の苦情は「人口過剰」だ。
先祖代々この地を護っている人たちは、退役兵士の群れや、大戦中に移住してきた労働者、若い放浪癖にかぶれたオクラホマ移民とか。
あるプロデューサーの妻「そりゃあ、私たち、芸術のことはよく存じておりますわ」
私の持っていたクレーのリトグラフを見て、「楽しい絵ですこと。あなたがご自分でお描きになったの?」
「ハイチ」(1948)
ハイチでもっとも人気のある独学の絵描き、イポリトの生後8ヶ月の娘が夜中に亡くなった。
彼の絵には秘密も慰めも必要ないからこそ、私は彼を素晴らしいと思う。
彼は、自分の赤い帆船で世界一周をする計画をしている。
教えてほしい。どうしてここにはこんなにたくさん犬がいるのか?
誰のもので、何の目的で飼っているのか?
疥癬でつぶれかかった目をして群れをなして通りをうろついている(ネパールもそうだったな・・・
車の警笛以上にイライラさせる騒音はない。ハイチ人たちは警笛を鳴らすのが大好きのようだ。
できるなら、私はここで映画を撮りたい
エスティメ政府は、靴なしで街路を歩くことを禁止する法案を通過させた。
この国を観光地としてさらに魅力あるものにすることにのみ熱心で、民衆の貧しさを表に出してはならないと思っている。
Rから聞いた話。みすぼらしいなりをした少女が木の幹に縛りつけられていた。
彼が縄を解いてやろうとすると、何人かの子どもが棒で彼をぶちはじめた。
老人は涙で目を曇らせて言った。「こいつはこんなに悪い子だから仕方ないんですよ」
私はエステルが好きだ。Sを好きでなくなったのは、エステルを好きじゃないから。
自身にもある欠点を責めることほどうんざりする偏見はあるまい。
週末は3日間続くカーニヴァル前の「ラーラー」に行った。
カーニヴァルのただなかに若いホーンガン(ブードゥー教の司祭の儀式)を見に行く。
「あんたは空を知っとるか? あれを作ったのはこのわしだ。それに星もだ。星たちはわしの孫だよ」
ブードゥー教は非常に複雑な宗教だが、ハイチのブルジョアジーからヒンシュクをかっている。
彼らはカトリックを信じている。ブードゥー教の中には「カトリシズム」が浸透している。
ブードゥー教の主な機能は基本的にほかの宗教と違わないように思われる。
生者と死者の間に国境がない、死者が立ち上がって、生者の中を歩いたりもする。
祭壇室から3人の少年が出てきた。彼の顔は雌雄同体の、ほんとうに美しい、青黒い肌、、、
若い司祭は、開かれていないドアに駆け寄りざまぶつかった。歌いながら、叫びながら、ついには血の跡がそこに記された。
その障害の向こうに、真実の秘密、純粋な平和があるのだから。
そう彼が信じていることだけが大事なのだ。
*
「ヨーロッパへ」(1948)既読
「イスキア」(1949)既読
*
「タンジール」(1950)
人々は午後中ずっと午睡をとり、10時か11時に夕食をとる。
ここに来る前に3つのことをしておかなければならない。
腸チフスの予防接種、銀行から貯金をおろす、友だちに別れを告げる。
束の間の休暇に訪れ、何年も過ごしてしまった旅行者の数はビックリするほどだ。
修道院とタンジールの共通分母は「自己充足」。
平均的アラブ人は、ヨーロッパとアメリカが同じ場所にあると思っている、それがどこにあろうと構わない。
人が多くの時間を過ごすのはプティ・ソコという、カスバのふもとにあるカフェでごったがえした広場。
嘆かわしいのは、アラブ女性の間で広まっているサングラスへの情熱だ。
彼女たちの目は、ヴェールの上からわずかにのぞいている時のほうが、つねに挑発的だった。
グラン・ソコは大きなアラブの市場。
タンジールで1晩以上過ごす者は、ナイサの話を聞かされる。
12歳で彼女はあるオーストラリア人に拾われ、『マイ・フェア・レディ』のように教養ある優雅な娘に仕上げられた。
そのために、ヨーロッパ人も、アラブ人も誰一人彼女を心から許そうとしない。
彼女は最大の罪を犯したと映っているのだ。「クリスチャン」になるという。
オーストラリア人はもう年寄りだ。ある日、ナイサの家のベルを鳴らすと、彫像のように立ち尽くしていた。
その夜、オーストラリア人は発作に襲われたのだ。
アラブ人にとって「ラマダン」は禁欲の月だ。
ラマダンの終わりの頃、モロッコ中からアラブ人たちがシディ・カチェムにやって来る。
私たちは、ごった返す人の波でたちまち離れ離れになった。
髭を生やした老人たちがリズムをとり、踊り手たちは、針を刺されても気づかぬほど熱中していた。
アラブ暦で、今年は1370年だ。
踊り手にもまれ、フルートの音を聞いていると、簡単に信じられてくる。
自分が1370年に生き、時がけっして前進しないことを。
我々は近づく朝日に身を震わせた。
それに触れられた時、我々の世紀に戻るだろうとわかっていたから。
*
「スペイン縦断の車中」(1950)既読
「フォンターナ・ヴェッキア」(1951)既読
「ローラ」(1964)既読
*
「高台の家」(1959)
私はブルックリンに住んでいる。みずから選んで。
「ブルックリンハイツ」と呼ばれる一帯だ。
そこでもっとも古く、なお実用に供されている家は、私の裏庭に面するフィリップ・ブロートン夫妻の邸だ。
1790年、ある船長の家として建てられた。
ある文書によれば、この一帯は帆船の出入りの激しい港町だったと描写されている。
ヘンリー・ウォード・ビーチャーの教会は、19C後半、高台の精神生活を支配した。
港は拡張され、耳障りな音をたてる大企業になり、牧草地から子どもたちを追い出し、枯らせ、叩き潰して、
腐ったバナナの悪臭がたちこめる黒い宮殿のように巨大な倉庫用地とした。
1910年までに移民たちが集団でどっと侵入してきた。
この一帯は、絵描きやトマス・ウルフら作家が住んだ。
ジョージ・デーヴィスの家は、ある馬鹿げた都市計画のために、戦時中に打ち壊された。
多くの古い家は軍隊に徴発された。戦後、箒とペンキバケツを持った野心的な若いカップルたち、
ほとんどは医師、弁護士、ウォール街、その他の職業の卵が高台を修復した。
ある友人がウイロー通りに家を買った。
部屋が28もあり、床は素晴らしく、本物で、堅いツヤのある材木を使っていた。そして壁も!
1820年、その家が建てられた時、人々は壁の作り方を知っていた。
水牛のように分厚く、どんな過酷な寒さ、激しい暑さにも耐えられる作り方を。
そうして私は、その家で暮らすようになった。
この辺の人たちは「マンハッタン」に行くことを「町に行く」「橋を渡る」と言う。
胸をワクワクさせるのは、ナップという百貨店に新しい船荷が届くことだ。
そこの主人は、世界旅行家で、あらゆる国からハガキが届く。
ミセス・コーネリアス・オーストゥイゼンはこの辺一帯の女王だった。
主人は亡くなり、彼女はある新興宗教の計画に反対する嘆願書へのサインを集めていた。
彼らは高台の家々を買い占め、信者のための宿舎を建てようとしていた。
オーストゥイゼンの家には拾ってきた犬猫の一団がいた
ここではペット総数の高いパーセンテージが道で拾われたものだ。
「今放したら、またセント・ジョージ小路のひどい生活に戻るでしょう」
セント・ジョージ小路の小さな映画館のそばに浮浪者のための暗い小屋がある。
TCは日記になぐり書きした昔のメモを頼りにこの原稿を書いている。
「ついに見た、幽霊ホテルに1つの顔を!」の意味は、ある廃墟と化したホテルに男の姿を一度だけ見た時のこと。
子どもの頃、我々はミステリーに敏感である。閉ざされたドアの背後の囁き声など。
だが年をとるにつれすべてはあまりに説明可能になり、楽しい驚きを創り出す能力は衰えていく。
これは酷すぎる、残念なことだ。我々は生涯、幽霊ホテルの存在を信じるべきだ。
ブルックリンがブルックリンになろうとする所に「ジプシー街」がある。
「コブラ通りの雷様」というメモのことを思い出すTC。
非行少年の一味にカメラを狙われ、「ヘイ、白ん坊、おれの写真撮ってくれねえか?」と言われた。
TCは勇敢ではないため脅えきっていたところ、雷がとどろき、「雨だ!」と言いながら高台目指して走りまくった。
わが家! しあわせなわが家。
「ギリシア断章」(19568)
イタリアの友人が優美なヨットに乗っていくギリシア諸島めぐりに招待してくれたが、
突然の訃報で一緒に行けないから、一人で出るよう言ってくれた。その記録。
桃
キング・ミノスという酒と大きな桃を食べている。
乗組員らは、村に上陸した。TCもロバで行き、港や星のかがり火を見た。
メルテミ
7~8月にかけてこの忌々しい風が吹きまくる。船は沈みかけ、メルテミはやみ、急いで入江に隠れた。
こわい話
イタリア人の船長はヨットが嫌い。乗るにはロマンティックだが、乗組員にとっては仕事が多すぎるから。
彼は17歳の時に起きた事件の話をする。
イギリス貴族のヨットの乗組員として乗っていた。8月、未亡人で40歳くらいの婦人に貸した。
16歳くらいの息子を溺愛していて、彼は足が悪かったが学者だった。
息子はある奇妙な島の古い寺院を訪ねたいと言い、母子はピクニックの用意をして島に行き1泊過ごした。
明け方2人を迎えに行くと少年は肉をそがれて骸骨になっていて、
母親は半狂乱で、恐ろしいほど傷だらけになって、水の中を歩いていた。
数ヶ月後、病院で取り調べを受け、話を聞くと、はじめはステキだったのだが、
夕暮れになり、夕食の包みを広げると、大きなネズミが寺院から吐き出され、歯を剥き出しにして夕食にとびかかってきたという。
息子のエリックは逃げようとして倒れ、ネズミは母子の体中に食いついてきた。
「ネズミは海岸まで追ってきて、ひと晩中私の叫びを聞いてくれる人はいませんでした」
目にふれたもの
どんな貧しい村にも、手、心臓などの小さな複製を売る商人がいる。
悪いところの部分を身につけていると病を治すと信じられている。
青い入江
ささやかでもいい、小高いところがあれば、私はそこに家を買うか建てるかすることを考える。
カフェで
世界漫遊家でタンジールを歩き回った者は、ほとんど今はアテネに出没している。
vol.2につづく・・・
トルーマン・カポーティ/著
※「作家別」カテゴリーに追加しました。
すでに読んだものは、メモ省略。
「犬は吠える、がキャラヴァンは進む」(アラブの諺)
読んでいて、一体彼はどこまで顔が広いんだ!と思うほど、世界中に知り合いがいて、
羨ましいほど、さまざまな場所で、さまざまな体験をし、日記に書いたメモを通して書いた。
ほんとうは、マリリンや、サッチモなど、著名人の素顔をもっと聞きたかったんだけど、
本書の2/3は旅先の話だった。
ページを開いた瞬間に、当時のその国に自分も居合わせているようで、
エキゾティックな異国を次から次へと旅を追体験できる。
本文中に、知人からカポーティは酷評するが天才だ、みたいに言われている件がある。
たしかに、街、人物描写でも、彼独特の毒がある。
読者は、実際行ったことがない場所、会ったことのない人だから、実際のところどうなのかは分からない。
または、著者が読者を惹きつけるための演出とも考えられるし。
それに、以前読んだ作品内で、異国をあてもなく彷徨うアメリカ人ほど悲惨なものはない、
というようなことを書いていたのを思い出すと、これはパートナーとしたプライベートな旅なのか
仕事や招待といった用事のついでのことなのか、旅をしている著者自身は幸せなのかが気になってくる。
【内容抜粋メモ】
「序文」
アンドレ・ジッドと護岸に座って話すTC。
本書は1942~1972年までの私の人生の散文地図、文章による地誌学で、
すべて事実に基づいているが、真実を意味するものではない。
再び活字にした理由の1つはノスタルジア。
もう1つはノンフィクションへの関心の開きかけた最初の試みだったから。
『詩神の声聞こゆ』は、滅多に喜びとは結びつかない書くという作業を、本当に楽しみながらやったと言い得る唯一の著作だ。
モデルの中でもっとも心を痛めたのは「お山の大将」のM.ブランドー。
彼はその文章を思いやりのない、裏切りとさえ言える、不法侵入だと思っていた。
「ルポルタージュ」といえどもほかの散文学と同様、洗練された高尚な芸術たりうる。
ジャーナリズムのもっとも低次元のものはなにか?
映画スターのインタビューだ。これほど高尚にすることが困難なものはあるまい。
実験材料にブランドを選んで、私は自分の能力を点検した。
私が学んだのは、“スタティック”な文体、つまりストーリーの助けによらずに人物の性格を明らかにし、
情調を持続する文章の書き方だった。
「雲からの声」(1969)
『遠い声 遠い部屋』というタイトルは私が考えた。これは処女作ではなく2作目。
処女作は、人目に触れることなく散逸してしまったが『夏の交差点』という題だった。
『遠い声 遠い部屋』は、笑い事では済まされないまでに自伝的だということに私は気づいていなかった。
この小説は私を解放してくれた。
それまで私にとって大切だった作家は、アメリカではジェームズ、トゥエーン、、、
海外では、ジェーン・オースティン、ディケンズ、プルースト、チェーホフ、エミリー・ブロンテ、、、
私はニューオリンンズに一人息子として生まれ、両親は私が4歳の時に離婚した。
学校に通うのは無駄で、17歳で辞めた。
「ニューヨーカー」で2年ほどマンガの整理と新聞の切り抜きの仕事をした。
大志を抱く芸術家にとって反響板のないことほど孤独なものはない。
私は勇をふるい、職を棄て、NYを去り、親類の家に落ち着いた。
そこで、新しい小説のことで眩暈がした。
それは、生まれてくる時は、怒り狂う虎の子どものようで、なんとかなだめ飼い慣らさなければならない。
それは芸術家の主要な仕事だ。
服を着たままベッドにもぐりこみ、パセティック(哀れをさそうさま。また、感動的なさま。)なオプティミズムをもって書いたのが『遠い声 遠い部屋』。
まるで雲からの声の言葉を書き写す書記にでもなったみたいに。
生活が昼夜逆転し、親類を困らせ、私はニューオリンズに行った。
私は一人も知り合いに会わなかった。偶然、私の父に会ったことを別にすれば。
今作の中心テーマは、この本質的には想像上の人物を捜し求めることだったのだから。
市場のカフェで、私はジョッキーと呼ばれた。
従兄ランドルフの原型となる男スケッチャーに会った。小太りの金髪男で、白血病で死にかけていた。
これはすべてひと夏の間に起こったことで、その秋、私は東部の学校に行き、
再び店を訪ねてスケッチャーのことを尋ねると「ああ、死んだよ」と言われた。
私には自分の小説を熱心に読み返す習慣はないが、『遠い声 遠い部屋』をやっと読み通してみた。
難破した水夫が瓶に詰めて海に投ずるメッセージのような、一種の苦悩と喜びに満ちた緊張があった。
「白バラ」(19670)
23年前、私はパリのパレ・ロワイヤルの中庭に立ち、フランス文学の大女流作家コレットを訪ねた。
女主人は滅多にベッドを離れない年をとった半病人だった。
私は彼女をまともに見られず、魔法の展示品に集中した。
それは古いクリスタルグラスの文鎮のコレクションだった。
「どうやら私の雪に興味がおありのようね」
それはクリスタルグラス芸術の極致、フランス最高のクリスタルグラス工房の一流の職人が発明したガラスの宝石だと説明した
「もっとも素晴らしいものは1840~1880年に作られたの」
「ジャン(コクトー)が言ったことは本当だと分かったわ。あの人はこう言ったの。
“騙されてはいけないよ、あの男(TC)は10歳の天使のように見えるが、実は年齢を超越してるんだ。
それに非常に意地悪な心を持っている”
その瞬間からTCもクリスタルグラスの収集家となる。
イースト・ハンプトンの競売場で掘り出し物をゲットする。
旅に出る時、私は小さな黒い袋を持って行く。中には6個の文鎮がフランネルの布に包まれて入っている。
コレットから、大事にしている1つをもらい、そんな大事なものを受け取るわけにはいかないと断った時、こう言った。
「ねえ、あなた、自分でも大事にしているものでなければ、贈り物として差し上げたってしようがないでしょう」
【ローカル・カラー】
「ニューオーリンズ」(1946)
TCは、中庭の泉にある柳の木に男がぶらさがっているのを見る。
腕には「フランシー」と入墨があった。その女のためか、彼が自殺したのは? 私は逃げた。
ニューオーリンズは神秘の町だ。
この町では食事の話を耳にすることが多い。ニューオーリンズの料理の美点は素朴さに由来する
「太った大きなママが欲しい、欲しいんだ!」
「ニグロ・カフェ」では、ディル・ピクルズのように太い指がキーを叩き、床を打つ足がカフェを震わせる。
「ニューヨーク」(1946)
ほかの現実世界からここに入りこむと、人がひたすら捜し求めるのは、自分を隠し、見失い、発見する町だ。
先週、ガルボに2度出会った。
彼女に知性があるかないか気にする者がいるだろうか? あのような顔がこの世に存在し得るというだけで充分じゃないか。
ガルボ自身は孤独になりたいと言った。
人と異なる道を歩む者は、常にある悲しみをもち続ける。
そして、それを人前で欺いて見せたりはしないものである。
今日、Mと昼食。彼女はとうとう一文なしになったという。
彼女はNYという罠にあっという間に捕らえられてしまった一派だ。
才能に恵まれずして才能を生かそうとする人々の一人だ。
田舎の空気を受け入れるにはあまりに鋭敏すぎ、憧れの都会の空気を自由に吸えるほどには鋭敏でなく、
やむなくノイローゼになりながらNY周辺に棲息している。
アメリカの中産階級は感受性を持つ若者に対し、彼らの仕事が直接現金で成果をもたらさないと、
枯死させるような言葉しかかけないからだ。
だが、文明が滅びた時に、後世の人たちが廃墟に見い出すのは現金だろうか? それとも彫刻、詩、戯曲だろうか?
ヒラリーは、もっとも陽気な人々には伝説を生む輝きが備わっていると思い込んでいる。
世界中の人々がみんな自分を愛してくれるわけではないと悟る瞬間に、無心から知恵への移行が起こる。
私はNYを離れたらはるかに多くの仕事ができるかもしれない。
ある年齢に達するまでは、田舎は退屈なものだし、私が好きなのは自然一般ではなく、特殊な自然だ。
探索・探検は不吉なまでに慌しく、汗ばむほど不安なものになり、覚せい剤のハードル競争のようになる。
捜し回っていたものはどこにある? ついでに聞けば、一体何を捜し回っている?
セルマは、47年間、私の3人の叔母の家で料理女をしていた。
彼女の理解するところによれば、NYは1本の樹も花もなく、みんな地下に住んでいる。滋養のある食べ物はない。
セルマをNYに連れていこうとして、停車場で泣き出した。
「行くのはいやだ、そんなに故郷から離れたら死んでしまう!」
「ブルックリン」(1946)
果てしなく続く同じ外観のけばけばしい赤褐色砂岩造りの平屋の列。
私が住んでいるのはその2部屋である。
ミセスQと私の間には快い信頼関係ができている。
それは主として2人とも身の毛もよだつほどの頭痛に悩まされるという事実に根ざしている。
「また2家族だよ。引越し用のトラックで通って行った。アフリカ人のさ。
この界隈は黒い悪夢になっちまう。最初はユダヤ人、今度はこれだろう、泥棒たちだよ、みんな」
ブルックリン人は集団として迫害された少数を形成している。
彼らが洗練されない田舎者ぶりに固執するため、いやおうなく大笑いの種にされている。
プロパガンダによって、現代生活のもっとも粗野で低俗な面と同義語になっている。
私は地下鉄に関して学位を得るほどになった。トンネルを揺られていると、目隠しをされたような気持ちになる。
私は1人の少女を見た。「孤独な心を買って下さい」と書かれたハート型の赤い紙をバスケットいっぱいに持っていた。
ミセスT.T.ヒュット・スミスが食堂に入ってくる様は、ファンファーレが鳴らないのが物足りないくらいだ。
私は彼女の秘密を知っている。彼女は盗人だ。
もう何年もチェロキーホテルの安物銀器をハンドバッグにすべりこませている。
「ハリウッド」(1947)
飛行機で隣りに座ったテルマは若いニグロで、可愛らしく、カリフォルニアへの旅は彼女にとってこの上なく素晴らしい出来事だった。
「あたしにはちゃんと分かってるの。きっとステキな旅になるだろうって。
3年間劇場で案内ガールをやり、やっと旅費を貯めたのよ。
叔母が占いをやっててこう言ったの。ハリウッドに行くといいよ、映画女優の個人秘書の口が待ってるからって」
タクシーにも同乗し、ハリウッドの“中心地”に行くよう言った。
そこは月の表面であり、アメリカの象徴であるゴミ捨て場しか見い出せなかった。
中古車の並ぶ街路、スーパーマーケット、モーテル、、、
降りる時にテルマは言った。
「あんた、あたしの言うこと覚えていて。お腹がすくかどうかしたら、あたしのいるところを見つければいいのよ。
では、あんたも頑張ってね」
クリスマスはハリウッドでは場違いだ。大体、子どものいないクリスマスって何だろう。
先週ある男が言った。「要するにここは子どものいない町なんだな」
この町の第一の苦情は「人口過剰」だ。
先祖代々この地を護っている人たちは、退役兵士の群れや、大戦中に移住してきた労働者、若い放浪癖にかぶれたオクラホマ移民とか。
あるプロデューサーの妻「そりゃあ、私たち、芸術のことはよく存じておりますわ」
私の持っていたクレーのリトグラフを見て、「楽しい絵ですこと。あなたがご自分でお描きになったの?」
「ハイチ」(1948)
ハイチでもっとも人気のある独学の絵描き、イポリトの生後8ヶ月の娘が夜中に亡くなった。
彼の絵には秘密も慰めも必要ないからこそ、私は彼を素晴らしいと思う。
彼は、自分の赤い帆船で世界一周をする計画をしている。
教えてほしい。どうしてここにはこんなにたくさん犬がいるのか?
誰のもので、何の目的で飼っているのか?
疥癬でつぶれかかった目をして群れをなして通りをうろついている(ネパールもそうだったな・・・
車の警笛以上にイライラさせる騒音はない。ハイチ人たちは警笛を鳴らすのが大好きのようだ。
できるなら、私はここで映画を撮りたい
エスティメ政府は、靴なしで街路を歩くことを禁止する法案を通過させた。
この国を観光地としてさらに魅力あるものにすることにのみ熱心で、民衆の貧しさを表に出してはならないと思っている。
Rから聞いた話。みすぼらしいなりをした少女が木の幹に縛りつけられていた。
彼が縄を解いてやろうとすると、何人かの子どもが棒で彼をぶちはじめた。
老人は涙で目を曇らせて言った。「こいつはこんなに悪い子だから仕方ないんですよ」
私はエステルが好きだ。Sを好きでなくなったのは、エステルを好きじゃないから。
自身にもある欠点を責めることほどうんざりする偏見はあるまい。
週末は3日間続くカーニヴァル前の「ラーラー」に行った。
カーニヴァルのただなかに若いホーンガン(ブードゥー教の司祭の儀式)を見に行く。
「あんたは空を知っとるか? あれを作ったのはこのわしだ。それに星もだ。星たちはわしの孫だよ」
ブードゥー教は非常に複雑な宗教だが、ハイチのブルジョアジーからヒンシュクをかっている。
彼らはカトリックを信じている。ブードゥー教の中には「カトリシズム」が浸透している。
ブードゥー教の主な機能は基本的にほかの宗教と違わないように思われる。
生者と死者の間に国境がない、死者が立ち上がって、生者の中を歩いたりもする。
祭壇室から3人の少年が出てきた。彼の顔は雌雄同体の、ほんとうに美しい、青黒い肌、、、
若い司祭は、開かれていないドアに駆け寄りざまぶつかった。歌いながら、叫びながら、ついには血の跡がそこに記された。
その障害の向こうに、真実の秘密、純粋な平和があるのだから。
そう彼が信じていることだけが大事なのだ。
*
「ヨーロッパへ」(1948)既読
「イスキア」(1949)既読
*
「タンジール」(1950)
人々は午後中ずっと午睡をとり、10時か11時に夕食をとる。
ここに来る前に3つのことをしておかなければならない。
腸チフスの予防接種、銀行から貯金をおろす、友だちに別れを告げる。
束の間の休暇に訪れ、何年も過ごしてしまった旅行者の数はビックリするほどだ。
修道院とタンジールの共通分母は「自己充足」。
平均的アラブ人は、ヨーロッパとアメリカが同じ場所にあると思っている、それがどこにあろうと構わない。
人が多くの時間を過ごすのはプティ・ソコという、カスバのふもとにあるカフェでごったがえした広場。
嘆かわしいのは、アラブ女性の間で広まっているサングラスへの情熱だ。
彼女たちの目は、ヴェールの上からわずかにのぞいている時のほうが、つねに挑発的だった。
グラン・ソコは大きなアラブの市場。
タンジールで1晩以上過ごす者は、ナイサの話を聞かされる。
12歳で彼女はあるオーストラリア人に拾われ、『マイ・フェア・レディ』のように教養ある優雅な娘に仕上げられた。
そのために、ヨーロッパ人も、アラブ人も誰一人彼女を心から許そうとしない。
彼女は最大の罪を犯したと映っているのだ。「クリスチャン」になるという。
オーストラリア人はもう年寄りだ。ある日、ナイサの家のベルを鳴らすと、彫像のように立ち尽くしていた。
その夜、オーストラリア人は発作に襲われたのだ。
アラブ人にとって「ラマダン」は禁欲の月だ。
ラマダンの終わりの頃、モロッコ中からアラブ人たちがシディ・カチェムにやって来る。
私たちは、ごった返す人の波でたちまち離れ離れになった。
髭を生やした老人たちがリズムをとり、踊り手たちは、針を刺されても気づかぬほど熱中していた。
アラブ暦で、今年は1370年だ。
踊り手にもまれ、フルートの音を聞いていると、簡単に信じられてくる。
自分が1370年に生き、時がけっして前進しないことを。
我々は近づく朝日に身を震わせた。
それに触れられた時、我々の世紀に戻るだろうとわかっていたから。
*
「スペイン縦断の車中」(1950)既読
「フォンターナ・ヴェッキア」(1951)既読
「ローラ」(1964)既読
*
「高台の家」(1959)
私はブルックリンに住んでいる。みずから選んで。
「ブルックリンハイツ」と呼ばれる一帯だ。
そこでもっとも古く、なお実用に供されている家は、私の裏庭に面するフィリップ・ブロートン夫妻の邸だ。
1790年、ある船長の家として建てられた。
ある文書によれば、この一帯は帆船の出入りの激しい港町だったと描写されている。
ヘンリー・ウォード・ビーチャーの教会は、19C後半、高台の精神生活を支配した。
港は拡張され、耳障りな音をたてる大企業になり、牧草地から子どもたちを追い出し、枯らせ、叩き潰して、
腐ったバナナの悪臭がたちこめる黒い宮殿のように巨大な倉庫用地とした。
1910年までに移民たちが集団でどっと侵入してきた。
この一帯は、絵描きやトマス・ウルフら作家が住んだ。
ジョージ・デーヴィスの家は、ある馬鹿げた都市計画のために、戦時中に打ち壊された。
多くの古い家は軍隊に徴発された。戦後、箒とペンキバケツを持った野心的な若いカップルたち、
ほとんどは医師、弁護士、ウォール街、その他の職業の卵が高台を修復した。
ある友人がウイロー通りに家を買った。
部屋が28もあり、床は素晴らしく、本物で、堅いツヤのある材木を使っていた。そして壁も!
1820年、その家が建てられた時、人々は壁の作り方を知っていた。
水牛のように分厚く、どんな過酷な寒さ、激しい暑さにも耐えられる作り方を。
そうして私は、その家で暮らすようになった。
この辺の人たちは「マンハッタン」に行くことを「町に行く」「橋を渡る」と言う。
胸をワクワクさせるのは、ナップという百貨店に新しい船荷が届くことだ。
そこの主人は、世界旅行家で、あらゆる国からハガキが届く。
ミセス・コーネリアス・オーストゥイゼンはこの辺一帯の女王だった。
主人は亡くなり、彼女はある新興宗教の計画に反対する嘆願書へのサインを集めていた。
彼らは高台の家々を買い占め、信者のための宿舎を建てようとしていた。
オーストゥイゼンの家には拾ってきた犬猫の一団がいた
ここではペット総数の高いパーセンテージが道で拾われたものだ。
「今放したら、またセント・ジョージ小路のひどい生活に戻るでしょう」
セント・ジョージ小路の小さな映画館のそばに浮浪者のための暗い小屋がある。
TCは日記になぐり書きした昔のメモを頼りにこの原稿を書いている。
「ついに見た、幽霊ホテルに1つの顔を!」の意味は、ある廃墟と化したホテルに男の姿を一度だけ見た時のこと。
子どもの頃、我々はミステリーに敏感である。閉ざされたドアの背後の囁き声など。
だが年をとるにつれすべてはあまりに説明可能になり、楽しい驚きを創り出す能力は衰えていく。
これは酷すぎる、残念なことだ。我々は生涯、幽霊ホテルの存在を信じるべきだ。
ブルックリンがブルックリンになろうとする所に「ジプシー街」がある。
「コブラ通りの雷様」というメモのことを思い出すTC。
非行少年の一味にカメラを狙われ、「ヘイ、白ん坊、おれの写真撮ってくれねえか?」と言われた。
TCは勇敢ではないため脅えきっていたところ、雷がとどろき、「雨だ!」と言いながら高台目指して走りまくった。
わが家! しあわせなわが家。
「ギリシア断章」(19568)
イタリアの友人が優美なヨットに乗っていくギリシア諸島めぐりに招待してくれたが、
突然の訃報で一緒に行けないから、一人で出るよう言ってくれた。その記録。
桃
キング・ミノスという酒と大きな桃を食べている。
乗組員らは、村に上陸した。TCもロバで行き、港や星のかがり火を見た。
メルテミ
7~8月にかけてこの忌々しい風が吹きまくる。船は沈みかけ、メルテミはやみ、急いで入江に隠れた。
こわい話
イタリア人の船長はヨットが嫌い。乗るにはロマンティックだが、乗組員にとっては仕事が多すぎるから。
彼は17歳の時に起きた事件の話をする。
イギリス貴族のヨットの乗組員として乗っていた。8月、未亡人で40歳くらいの婦人に貸した。
16歳くらいの息子を溺愛していて、彼は足が悪かったが学者だった。
息子はある奇妙な島の古い寺院を訪ねたいと言い、母子はピクニックの用意をして島に行き1泊過ごした。
明け方2人を迎えに行くと少年は肉をそがれて骸骨になっていて、
母親は半狂乱で、恐ろしいほど傷だらけになって、水の中を歩いていた。
数ヶ月後、病院で取り調べを受け、話を聞くと、はじめはステキだったのだが、
夕暮れになり、夕食の包みを広げると、大きなネズミが寺院から吐き出され、歯を剥き出しにして夕食にとびかかってきたという。
息子のエリックは逃げようとして倒れ、ネズミは母子の体中に食いついてきた。
「ネズミは海岸まで追ってきて、ひと晩中私の叫びを聞いてくれる人はいませんでした」
目にふれたもの
どんな貧しい村にも、手、心臓などの小さな複製を売る商人がいる。
悪いところの部分を身につけていると病を治すと信じられている。
青い入江
ささやかでもいい、小高いところがあれば、私はそこに家を買うか建てるかすることを考える。
カフェで
世界漫遊家でタンジールを歩き回った者は、ほとんど今はアテネに出没している。
vol.2につづく・・・