■『猫の建築家』(光文社)
森博嗣/作 佐久間真人/画
以前、「あさイチ」のエンタメコーナーで紹介していて気になっていた1冊。
そこで言っていた通り、日本語の文章の下に、なぜか英語の文章もある。
最後には「index」として、1枚1枚の挿画が改めて紹介され、タイトルがついている。
図らずも、『天才のら犬』の次は、ネコの哲学本だった。
いつでも真面目な顔をしているネコなら、こんな哲学的なことを日々考えているかもしれないな
主人公と思われるグレーのネコの顔はずっと最後まで分からないままなのかと思ったら、途中で出た。
しかも、突然白ネコに変わったのはなぜ? 自分ソックリなネコに出会う場面と関係があるのか、謎。
こんなにネコがたくさんいる街ってヘヴン・・・
しかも、鉄道、廃墟好きにもたまらない。
外国なのか? それともネコの国?
明かりが灯っていたりしてヒトの暮らす気配はあるけど、ヒトはただ1人も描かれていないのもフシギ。
とても細密で、ノスタルジックな色使いの画。
佐久間真人さんは1998年から、銀座にある画廊「ボザール・ミュー」で定期的に個展を開催しているそう。
ボザール・ミューからシャトン ド ミューへ : STRAY CAT'S DIARY
日本初の猫アート専門ギャラリー「シャトン ド ミュー」
こちらも閉廊してしまったのか、残念・・・
主人公は、世の中を「猫」とそれ以外の「自然」とに分けている。
その「自然」は、ヒトの呼ぶ意味と少し違っていて、
むしろ、無機質な人工物、忘れられたモノのことを指しているのも面白い。
今、使われているモノではなく、すでに遠い昔に忘れられて、自然に還りつつある姿。
私がツイッタでフォローしている「Abandoned Pictures」の世界と同じ。
【内容抜粋メモ】
猫は建築家だった。
何度か生まれ変わったけれど、そのたびに建築家になる。
いつも「造形」「共生」というものを意識している。
まず、「思慮」が必要であることを猫は知っている。
次に大切なことは「観察」であることを猫は知っている。
理由もなく形が造られ、機能もなく存在するものは、おそらくこの世界にない。
そう考えるとき、猫はいつも「美」という理由を思い出す。
建築家仲間が集まって、学会が開かれる。
「美」を舐めたことも誰もない。
「そんなものが本当にあるのだろうか?」
みんなそれぞれに仕事をもっている。(どんな仕事だろう?
我々を取り巻く環境から目を背けることはできない、と猫は考える。
自然の中には、どうやら、内側と外側があるようだ。
「動き」にもいろいろある。
「猫」以外のものは、単に同じところを行ったり来たりするだけではないか
謙虚さは「猫」の羨望である。
どうも、既に「機能」を失っているものが多過ぎるな、と猫は思った。
自分が造ろうとするものは、残るべき「形」であってほしい。
その「孤独な継続」こそ「猫」が待ち望んでいるものだ。
(真っ二つに切られて、忘れられている電車を見て、
懐かしい「形」だな、と猫は思い出した。
何回かまえの誕生の頃、生まれたときの場所が、ここだった。
同じような形のものが、この世には多い。
自然が、同じことを繰り返すからだ。
「猫」はそれを望まない。「猫」はすべて微妙に形が違うのだ。
どのような理由で、消えたり、現れたりするのか、猫は理解できなかった。
しかし、こうした自然の中に埋もれていると、自分の存在の小ささに気づかされる。
造ることは、立ち向かうことではなく、なにかを許すことなのだ。
理由もなく存在するものが、もしかして、あるのだろうか。
もしかして、それが「美」だろうか。
「気づいたか?」
「君は誰だ? そこで何をしている?」
「美を感じているだけだ」
「そこに美があるのか?」
「地面が真っ白じゃないか」
自分によく似ていたな、と猫は思った。
相変わらず夜は規則的に訪れる。
少しだけでも、確かなものがあると、嬉しい。
森博嗣/作 佐久間真人/画
以前、「あさイチ」のエンタメコーナーで紹介していて気になっていた1冊。
そこで言っていた通り、日本語の文章の下に、なぜか英語の文章もある。
最後には「index」として、1枚1枚の挿画が改めて紹介され、タイトルがついている。
図らずも、『天才のら犬』の次は、ネコの哲学本だった。
いつでも真面目な顔をしているネコなら、こんな哲学的なことを日々考えているかもしれないな
主人公と思われるグレーのネコの顔はずっと最後まで分からないままなのかと思ったら、途中で出た。
しかも、突然白ネコに変わったのはなぜ? 自分ソックリなネコに出会う場面と関係があるのか、謎。
こんなにネコがたくさんいる街ってヘヴン・・・
しかも、鉄道、廃墟好きにもたまらない。
外国なのか? それともネコの国?
明かりが灯っていたりしてヒトの暮らす気配はあるけど、ヒトはただ1人も描かれていないのもフシギ。
とても細密で、ノスタルジックな色使いの画。
佐久間真人さんは1998年から、銀座にある画廊「ボザール・ミュー」で定期的に個展を開催しているそう。
ボザール・ミューからシャトン ド ミューへ : STRAY CAT'S DIARY
日本初の猫アート専門ギャラリー「シャトン ド ミュー」
こちらも閉廊してしまったのか、残念・・・
主人公は、世の中を「猫」とそれ以外の「自然」とに分けている。
その「自然」は、ヒトの呼ぶ意味と少し違っていて、
むしろ、無機質な人工物、忘れられたモノのことを指しているのも面白い。
今、使われているモノではなく、すでに遠い昔に忘れられて、自然に還りつつある姿。
私がツイッタでフォローしている「Abandoned Pictures」の世界と同じ。
【内容抜粋メモ】
猫は建築家だった。
何度か生まれ変わったけれど、そのたびに建築家になる。
いつも「造形」「共生」というものを意識している。
まず、「思慮」が必要であることを猫は知っている。
次に大切なことは「観察」であることを猫は知っている。
理由もなく形が造られ、機能もなく存在するものは、おそらくこの世界にない。
そう考えるとき、猫はいつも「美」という理由を思い出す。
建築家仲間が集まって、学会が開かれる。
「美」を舐めたことも誰もない。
「そんなものが本当にあるのだろうか?」
みんなそれぞれに仕事をもっている。(どんな仕事だろう?
我々を取り巻く環境から目を背けることはできない、と猫は考える。
自然の中には、どうやら、内側と外側があるようだ。
「動き」にもいろいろある。
「猫」以外のものは、単に同じところを行ったり来たりするだけではないか
謙虚さは「猫」の羨望である。
どうも、既に「機能」を失っているものが多過ぎるな、と猫は思った。
自分が造ろうとするものは、残るべき「形」であってほしい。
その「孤独な継続」こそ「猫」が待ち望んでいるものだ。
(真っ二つに切られて、忘れられている電車を見て、
懐かしい「形」だな、と猫は思い出した。
何回かまえの誕生の頃、生まれたときの場所が、ここだった。
同じような形のものが、この世には多い。
自然が、同じことを繰り返すからだ。
「猫」はそれを望まない。「猫」はすべて微妙に形が違うのだ。
どのような理由で、消えたり、現れたりするのか、猫は理解できなかった。
しかし、こうした自然の中に埋もれていると、自分の存在の小ささに気づかされる。
造ることは、立ち向かうことではなく、なにかを許すことなのだ。
理由もなく存在するものが、もしかして、あるのだろうか。
もしかして、それが「美」だろうか。
「気づいたか?」
「君は誰だ? そこで何をしている?」
「美を感じているだけだ」
「そこに美があるのか?」
「地面が真っ白じゃないか」
自分によく似ていたな、と猫は思った。
相変わらず夜は規則的に訪れる。
少しだけでも、確かなものがあると、嬉しい。