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『アウシュヴィッツの手紙 アウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館を訪ねて』

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『アウシュヴィッツの手紙 アウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館を訪ねて』
平和博物館を創る会/編 平和のアトリエ

読みながら、胸が圧迫されて吐き気がしてきて、とても一度に最後まで読めずに、分けて読んだ。
収容所にいる子どもと母親との手紙を見た現代の子どもが(どうして離れ離れなんだろう?)、
その謎を知るためにアウシュビッツの見学に参加するという設定。
見学の模様の写真、当時文字通り命懸けで撮った現場写真、解放後にソ連軍が撮った記録フィルムからの抜粋等、
さまざまな資料、生々しい写真、収容所にいた人が書いた詩や絵などが紹介されていて、どれも直視できないものばかり。



広島・長崎の原爆資料館と同様のショックを受けた。
大量に殺された事実を知っていただけで、具体的に何が行われていたのか、こうして写真で見る機会がなかったから。
これが本当に同じニンゲンが行ったことなのか、いまだに信じられないでいる。

なにより、ヒトラー個人だけじゃ成し得なかったということ。
収容所は最初から緻密な計画のもとに建設され、組織だった大量虐殺だったということ、
そして、諸外国に対しては人道的な施設として積極的にPRされていたこと、
戦争や貧困などが大勢のヒトのココロを狂気で歪ませていたことを考えなければならない。


【内容抜粋メモ】



広い強制収容所の敷地跡や建物が、そのまま保存されていて博物館になっている。
周囲に張り巡らされた鉄条網には、高圧電流が流されていた。

ドイツはヨーロッパに約1000ヶ所の強制収容所を作ったといわれる。
その中で最も大きい収容所がアウシュヴィッツ=ビルケナウだった。
この収容所は、最初ドイツの占領支配に反対したポーランド人を入れるところだった。

囚人らは新しい収容所建設のために働かされていた。
ドイツ兵であっても写真は固く禁止されていた。
ナチス新鋭隊員(SS)だけが命令に従って写すことが許されていた。

囚人だった人々の顔写真4万人分のネガとプリントが300枚近く残された。
ドイツ軍が慌てて置き忘れた写真やネガフィルムもあったが、囚人の必死の努力で残されたものもあった。
収容所の解放後の写真は、ソ連従軍カメラマンが写した映画『アウシュヴィッツ解放の記録』からコマ撮りしたものなど。

ヒトラーが政権をとった頃、ドイツには貧困、失業者が溢れていて、その不満をユダヤ人に向けてそらそうとした。
まず、ユダヤ人には、銀行家、商人、弁護士、軍人になることを禁止した。


●人々は家畜を運ぶ貨車で送られてきた
もちろんトイレもない。酷い臭気と人いきれ、暑さ、寒さ、屈辱感。病人も出た。
鉄道線路は収容所内に引きこまれていて、そこが終点になっていた。


●ビルケナウ収容所

いまも残る鉄製アーチの正門には「働けば自由になれる」と書かれている。
「絶滅収容所」と呼ばれ、ユダヤ人を消すことを目的に作られた施設。
収容人数は、多い時で14万人。
SSの指導下にあり、将校から看守まで選ばれた隊員だった。


●働けるか働けないかで「選別」された人々
「新しい移住地」と言われてやって来た人々は、働けそうなら小グループにまとめられ、柵の内側のバラックに入れられた。
病人、老人、そして大勢の子どもたちは、煙突のほうに選別された。死か労働後の死かの違いだけだった。
持っていた荷物は一時的に預けろと言われ、その後第三帝国の戦利品となってドイツに送られた。


●名前は番号に変わった
 
はじめは、髪の毛を切られ、3つの角度から顔写真をとられ、番号をつけられて登録された。
その後、写真の代わりに番号を左腕にイレズミさせた。身分証明書の代わりだった。

囚人たちは、三角形の色で分けられた。
赤は政治犯、緑は犯罪者、黒は反社会的行動をした者、そして、三角形を2つ組み合わせたマークがユダヤ人だった。
縦じまの囚人服の胸にマークがつけられた。


●死の労働
最初は「教練」を受けさせられた。
わずかな食事だけしか与えられず、行進したり、飛んだり、転がったり、そして、あらゆる理由で殴られ、蹴られた。
精神をボロボロにし、体力を奪うことが目的。

1日12時間の労働。
労働はおもに新しい収容所の建設と拡張。「シャワー室」と呼ぶガス室も、死体焼き場も、囚人自身によって作られた。
ドイツの軍需工場では、弾丸をつくったり、合成ゴムなどの化学製品の製造、炭鉱などでも働いた。
「カポ」と呼ばれた監視役は、刑務所から選んだ犯罪者集団だった。

「収容所の1日は、点呼ではじまり、点呼で終わる」
囚人の数をつねに正確につかむため。わざと何時間もかけて、ムチで叩き、体力を奪った。
重傷を負った者、死んだ者も囚人が引きずって連れて帰り、点呼にいなければならなかった。


収容所内には作業所に出かける時、戻る時、囚人によるオーケストラの音楽に合わせて行進させられた。
その写真は「娯楽施設あり」という宣伝にも利用された。


●ニンゲンでなくなっていく
「衛生のため」と称して、熱湯か水を浴びせられ、裸のまま中庭に追い立てられ、
汚れて、大きすぎるか、小さすぎる囚人服が与えられる。
使い古しの「木靴」はもうひとつの拷問だった。
元囚人の医師いわく「3〜4ヶ月以上生きていることは不可能だった。人々は疲労と過労で死んだ」


●11号棟は「死の号棟」
収容所内の刑務所の役割で、そこに入れられたら生きて出てこれなかった。
10号棟では、医師が非人道的な人体実験を繰り返していた。
11と10の間の中庭では、塀を背にして大勢が銃殺され「死の壁」と呼ばれた。
ほとんどSSの気まぐれで有罪になり、罰を与えた。狙いは囚人たちに恐怖心を与え、反抗心を抑えるため。


立ち牢。4人が狭い中に立ったまま閉じ込められる。


●「浴場」と書かれた棟
70〜80%の働けないと選別された人々は、シャワーで消毒すると言われて地下室に向かう。
脱衣所で服を脱がされ、気密のドアが閉まると、降り注いだのはお湯ではなく毒ガスだった。
ガス室には1500〜2000人が収容でき、24時間運転する高熱焼却炉では、1日に1100人を灰にできたという


チクロンB。ドイツ害虫駆除協会の製品。


●助け合う人々
抵抗の地下活動が出てきた。
SSの書類、支配者リスト、囚人名簿などは、反ナチ同盟諸国にまで届き、
情報を持って脱走する囚人を助けたり、クスリや食糧、写真フィルムなどが外側から秘密裏に持ち込まれた。
医者を組織したり、音楽家や作家は詩や小説を朗読して聞かせた。人々の精神を保つために。

ワルシャワ蜂起


●消されていった子どもたち

隊員は120cmの棒を吊るして、その下を通り抜けた子どもたちを焼却炉に送り込んだ。
小さな子どもは生き残れるグループに入るために一生懸命背を伸ばした。

収容所が解放された時、約200人の子どもたちが救出された。
その多くは遺伝研究のための双子や、最近収容された子どもたちだけだった。収容所で生まれた子どももいた。


●トイレは1人10秒ルール

1つの木造バラックに、多い時は1000人詰め込まれた。
バラックのほとんどが木造で、土の床はつねにぬかっていて、不衛生な悪臭でみちていた。
3段ベッドの1つの棚に男女が8人で眠る。
悪臭、カポの怒声、シラミやノミの攻撃・・・チフスやセキリ、皮膚病が蔓延した。
ほとんどの人が骨と皮ばかりにやせ細り、解放された時、23kgしかない女性もいた。


4つの病室は名ばかりで、健康な囚人を選んで、皮膚移植などさまざまな人体実験を行っていた。


●ソ連軍による解放はドイツ降伏の3ヶ月前
ソ連軍が近づき、冬に入ると、SSらは囚人を他の収容所に移動させ、バラックの一部を壊しはじめた。
もう列車はなく徒歩のため、雪道に行き倒れた人々が点々とつづいた。

ビルケナウ収容所は、1945年1月27日に解放された。
150万人がここで殺され、7000人近い囚人が残ったが、ほとんどが歩けず、無表情になっていた。
ポーランドに作られたナチスの絶滅収容所では、あわせて400万人が亡くなったといわれる。


●残った略奪品の山

宝石や各国通貨は中央銀行へ、金歯・プラチナの歯は溶かしてSSの衛生司令部へ、
女性の髪の毛は、服地や毛布を作るため、ババリアの紡績工場に送られていた。


『夜と霧』V.E.フランクル著
囚人の体験記として古典となっている名著。


冒頭に紹介された手紙の謎。

占領時代、子どもは学校でドイツ語を教えられ、ポーランド語は禁じられた。
収容所で書ける手紙はひと月に2通まで。収容所専用の便せんで1ページ以内。ドイツ語にかぎる。
ドイツの切手(ヒトラーが印刷された)、特別の郵便局を使うことがルール。

ドイツ語で書かれた上に、ポーランド語が書いてあるのは、囚人による翻訳。
手紙のやりとりが許されたのは、収容所とユダヤ人の皆殺しにウソの印象を作り出す宣伝が目的だった。



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