ドラマは広岡浅子を基にしたフィクション。
1865.4.3 生まれ育った京都を離れ、17歳で嫁いだ(昔だからもっと年少だと思ってた
その後、九州で炭坑ビジネス、大阪で生命保険会社の設立に関わり、東京で日本初の女子大学設立にも貢献した。
主演2人のあさの印象
「逞しい。力強さだけでなく、女性ならではのしなやかさが強味だったのでは」
「この時代には珍しい行動力。真面目、お家のために猪突猛進して頼もしい」
実際のあさとは?
豪商三井家から加島屋へ。相手は2歳から言いなづけが決まっていた御曹司
浅子の豊かな商才は加島屋で目覚めた
大阪の中心地を流れる土佐堀川のほとりに加島屋があった。今は巨大ビルに様変わり
あさが設立に貢献した生命保険会社!
この会社の倉庫から4年前、浅子にまつわる資料が多数見つかった。
加島屋から大同生命になるまでの資料約2500点が収められている。
加島屋本家の見取り図。浅子が嫁ぐ25年前に作られた。
部屋数は約30! 1つずつが8畳以上。当時としては珍しく風呂もある。竈の数は10
加島屋の正月献立をプロに再現してもらった
料理人は、浅子の子孫と旧知の間柄/驚
白みそ雑煮、焼き物、ま鴨が使われていたことに驚いたという。「当時の流通で出回ってなかったもの」
ランチはパンとコーヒーのみ。元日から来客がひっきりなしだったため。
当時の就業規則は意外
「商いは人」という会社の雰囲気が伝わる
2015.11 さらなる発見が話題に
朝ドラの時代考証を務める教授・宮本さんと高槻さんのもとに情報がきた。
宮本さん:
ある方から“白岡家の文書を戦時中に預かっていた”と言われて行くと、たくさんの資料が出てきた。
奈良県の旧家・岡橋家。白岡家の親戚筋。その蔵から約1万点の資料が見つかった。
浅子直筆の手紙。体調を崩したため、会合に行けないことを詫びたもの。浅子は達筆だった!
「病中にて大乱筆候」と追記されている
お詫びの品には女性らしい気遣いの細かさがあった。
寒紅:寒中に作られた紅で、色が鮮明で美しい。
明治時代は和服が普通だったが、浅子は洋装を好んだ
白い洋装はアメリカで大流行したデザイン。青はアールヌーボー
原案となった小説を書いた古川さん
ドラマは27年前に書いた小説が基
9年間の結婚が破綻してどん底状態の時に書いた。
素晴らしい生き方をした女性を調べた。
女性史の権威が著した
「ここだけ浮き上がって見え、広岡浅子が呼んだのかもしれない。
当時はこの著者以外は知らないくらいの感じで、まさか朝ドラになるとは思わなかった」
わずか14行の中で「ピストル」という文字にひきつけられた。
「今だって大変だろうが、当時は尋常ではないと思った。ドラマのある人だと思って書いた」
京都、大阪に通い、ゆかりのある人々を訪ね、5年がかりで小説を書いたデビュー作。
浅子は飯塚市の潤野炭坑を買った。全然資料がなく北九州にあるということしか分からなかった。
明治19年。38歳の浅子は炭坑を経営
かつての炭坑は今は高校に
かつて、石炭は主要なエネルギー源。黒いダイヤと呼ばれ、炭坑がいっぱいあった。
昭和30年代、石油に代わり、炭坑は次々に閉鎖。
潤野炭坑もその1つで、現在は県立の高校になり、炭坑の面影はない。
浅子・未亡人説
資料館には浅子に関する謎めいた言い伝えが残っていた。
1963年に書かれた『鎮西村誌』地元の村誌に浅子の記述がある。
“古老の話によると、潤野炭坑に後家さんが来て、炭坑を開いた”
女だてらに事業をするのは、きっと未亡人なのに違いないという憶測からか? 洋装姿も話題になった。
浅子のおかげで潤野炭坑の産出量は一気に増加、加島屋の経営も立て直した。
これは古川さんの人生も変えた。
「若い女性が炭坑を買うってただごとではない。思想にのめりこみ、自分も立ち直った。
浅子は私にとっても1人の師だった」
浅子の性格
明治41年の東京朝日新聞に政財界の囲碁好きがプロに挑戦するとい名物企画に浅子も挑戦していた。
囲碁には性格が出る。女流棋士・井澤さんに分析してもらった。
「腕前はぐらいあると思う。女性で3、4段は今でも強いので、当時はトップクラスだと思う。
性格おてんばで勝気なイメージがあったが、堅実で落ち着いている。ムリのない損のない打ち方に商売への応用も感じた」
晩年の女子教育への熱意
毎年、夏には、別荘に女子を集めて勉強会を開催。そこには、後に活躍する錚々たるメンバーがいた。
花子さんまで!
浅子と花子
東京に花子の孫が住んでいる。作家(!)の村岡恵理さん。
この写真の3ヶ月後に祖母(花子)は亡くなったので、直接の思い出は覚えていない。
恵理さん:
私が村岡花子の生涯を1冊の本をまとめようと思って、資料を整理していた時、
祖母はポートレートを大事にしていた中で、一番大事にしていたのは浅子さんの写真だった。
すごくインパクトがあった。ただものではないオーラがあった。その時は苗字が分からないままだった。
読書を禁じられた13歳の浅子
「しかし、傍らで見ている私は、女だから学問は不要だと言われて、つくづく残念に思っていました。
なぜ、女は男のすることをしてはいけないのかと、考えれば考えるほど、一向に訳が分からない。
女子といえども人間である。学問の必要がないという道理はない」
明治34年 日本女子大学校開校
御殿場での勉強会
花子は『赤毛のアン』など英米文学を世に送り出した。
既出の写真は23歳の時。女学校を卒業後、教師となったが、文学への夢を捨てきれずにいた。
迷っていた時、浅子の言葉が後押ししたという。
恵理さん:
自己実現のためだけではなくて、もっと社会に還元しなさい。
とくに、あとに次ぐ女性たちのために。その言葉を聞いて、自分の文学に落とし込んだ。
花子は、女性や子どものための良質な本を紹介していこうとし、そのきっかけは浅子との出会いだった。
勉強会に参加した市川房枝は、のちに婦人参政権獲得の立役者に
浅子は自らの生涯を振り返り、この言葉を残した
「斯くの如く、転んで起き上がって、歩くのではなければ、本当にしっかりした歩みではない」
大正8年に自宅で静かに亡くなる。71歳
新聞各紙は14日夜に亡くなった浅子の訃報を伝えた。
告別式には2000人余りが参列したそう。
はる:
浅子さんのおかげで、私たちが当たり前に働ける社会になって、
そういう風にスタートをきってくれる人がいたから、有り難いし、
体当たりで時代を切り開いてくれた人がいて、今の世の中があるのではと思う。
人生の最期に残した言葉。
「私は遺言をのこしません。常日頃話していたことが、すべて私の遺言です」
1865.4.3 生まれ育った京都を離れ、17歳で嫁いだ(昔だからもっと年少だと思ってた
その後、九州で炭坑ビジネス、大阪で生命保険会社の設立に関わり、東京で日本初の女子大学設立にも貢献した。
主演2人のあさの印象
「逞しい。力強さだけでなく、女性ならではのしなやかさが強味だったのでは」
「この時代には珍しい行動力。真面目、お家のために猪突猛進して頼もしい」
実際のあさとは?
豪商三井家から加島屋へ。相手は2歳から言いなづけが決まっていた御曹司
浅子の豊かな商才は加島屋で目覚めた
大阪の中心地を流れる土佐堀川のほとりに加島屋があった。今は巨大ビルに様変わり
あさが設立に貢献した生命保険会社!
この会社の倉庫から4年前、浅子にまつわる資料が多数見つかった。
加島屋から大同生命になるまでの資料約2500点が収められている。
加島屋本家の見取り図。浅子が嫁ぐ25年前に作られた。
部屋数は約30! 1つずつが8畳以上。当時としては珍しく風呂もある。竈の数は10
加島屋の正月献立をプロに再現してもらった
料理人は、浅子の子孫と旧知の間柄/驚
白みそ雑煮、焼き物、ま鴨が使われていたことに驚いたという。「当時の流通で出回ってなかったもの」
ランチはパンとコーヒーのみ。元日から来客がひっきりなしだったため。
当時の就業規則は意外
「商いは人」という会社の雰囲気が伝わる
2015.11 さらなる発見が話題に
朝ドラの時代考証を務める教授・宮本さんと高槻さんのもとに情報がきた。
宮本さん:
ある方から“白岡家の文書を戦時中に預かっていた”と言われて行くと、たくさんの資料が出てきた。
奈良県の旧家・岡橋家。白岡家の親戚筋。その蔵から約1万点の資料が見つかった。
浅子直筆の手紙。体調を崩したため、会合に行けないことを詫びたもの。浅子は達筆だった!
「病中にて大乱筆候」と追記されている
お詫びの品には女性らしい気遣いの細かさがあった。
寒紅:寒中に作られた紅で、色が鮮明で美しい。
明治時代は和服が普通だったが、浅子は洋装を好んだ
白い洋装はアメリカで大流行したデザイン。青はアールヌーボー
原案となった小説を書いた古川さん
ドラマは27年前に書いた小説が基
9年間の結婚が破綻してどん底状態の時に書いた。
素晴らしい生き方をした女性を調べた。
女性史の権威が著した
「ここだけ浮き上がって見え、広岡浅子が呼んだのかもしれない。
当時はこの著者以外は知らないくらいの感じで、まさか朝ドラになるとは思わなかった」
わずか14行の中で「ピストル」という文字にひきつけられた。
「今だって大変だろうが、当時は尋常ではないと思った。ドラマのある人だと思って書いた」
京都、大阪に通い、ゆかりのある人々を訪ね、5年がかりで小説を書いたデビュー作。
浅子は飯塚市の潤野炭坑を買った。全然資料がなく北九州にあるということしか分からなかった。
明治19年。38歳の浅子は炭坑を経営
かつての炭坑は今は高校に
かつて、石炭は主要なエネルギー源。黒いダイヤと呼ばれ、炭坑がいっぱいあった。
昭和30年代、石油に代わり、炭坑は次々に閉鎖。
潤野炭坑もその1つで、現在は県立の高校になり、炭坑の面影はない。
浅子・未亡人説
資料館には浅子に関する謎めいた言い伝えが残っていた。
1963年に書かれた『鎮西村誌』地元の村誌に浅子の記述がある。
“古老の話によると、潤野炭坑に後家さんが来て、炭坑を開いた”
女だてらに事業をするのは、きっと未亡人なのに違いないという憶測からか? 洋装姿も話題になった。
浅子のおかげで潤野炭坑の産出量は一気に増加、加島屋の経営も立て直した。
これは古川さんの人生も変えた。
「若い女性が炭坑を買うってただごとではない。思想にのめりこみ、自分も立ち直った。
浅子は私にとっても1人の師だった」
浅子の性格
明治41年の東京朝日新聞に政財界の囲碁好きがプロに挑戦するとい名物企画に浅子も挑戦していた。
囲碁には性格が出る。女流棋士・井澤さんに分析してもらった。
「腕前はぐらいあると思う。女性で3、4段は今でも強いので、当時はトップクラスだと思う。
性格おてんばで勝気なイメージがあったが、堅実で落ち着いている。ムリのない損のない打ち方に商売への応用も感じた」
晩年の女子教育への熱意
毎年、夏には、別荘に女子を集めて勉強会を開催。そこには、後に活躍する錚々たるメンバーがいた。
花子さんまで!
浅子と花子
東京に花子の孫が住んでいる。作家(!)の村岡恵理さん。
この写真の3ヶ月後に祖母(花子)は亡くなったので、直接の思い出は覚えていない。
恵理さん:
私が村岡花子の生涯を1冊の本をまとめようと思って、資料を整理していた時、
祖母はポートレートを大事にしていた中で、一番大事にしていたのは浅子さんの写真だった。
すごくインパクトがあった。ただものではないオーラがあった。その時は苗字が分からないままだった。
読書を禁じられた13歳の浅子
「しかし、傍らで見ている私は、女だから学問は不要だと言われて、つくづく残念に思っていました。
なぜ、女は男のすることをしてはいけないのかと、考えれば考えるほど、一向に訳が分からない。
女子といえども人間である。学問の必要がないという道理はない」
明治34年 日本女子大学校開校
御殿場での勉強会
花子は『赤毛のアン』など英米文学を世に送り出した。
既出の写真は23歳の時。女学校を卒業後、教師となったが、文学への夢を捨てきれずにいた。
迷っていた時、浅子の言葉が後押ししたという。
恵理さん:
自己実現のためだけではなくて、もっと社会に還元しなさい。
とくに、あとに次ぐ女性たちのために。その言葉を聞いて、自分の文学に落とし込んだ。
花子は、女性や子どものための良質な本を紹介していこうとし、そのきっかけは浅子との出会いだった。
勉強会に参加した市川房枝は、のちに婦人参政権獲得の立役者に
浅子は自らの生涯を振り返り、この言葉を残した
「斯くの如く、転んで起き上がって、歩くのではなければ、本当にしっかりした歩みではない」
大正8年に自宅で静かに亡くなる。71歳
新聞各紙は14日夜に亡くなった浅子の訃報を伝えた。
告別式には2000人余りが参列したそう。
はる:
浅子さんのおかげで、私たちが当たり前に働ける社会になって、
そういう風にスタートをきってくれる人がいたから、有り難いし、
体当たりで時代を切り開いてくれた人がいて、今の世の中があるのではと思う。
人生の最期に残した言葉。
「私は遺言をのこしません。常日頃話していたことが、すべて私の遺言です」