■アッキーがゆく もっと知りたい!沖縄II@あさイチ
6月23日“慰霊の日”に、平和祈念公園で毎年、式典が11:30から行われる。
きょう「沖縄慰霊の日」 戦後71年、平和の祈り
沖縄タイムス
【ブログ内関連記事】
NHKスペシャル「沖縄戦 全記録」
【内容抜粋メモ】
オレンジ色がアメリカ軍施設。日本全国にある施設の74%が沖縄に集中している。
●「ガマ」(自然洞窟)
南城市糸数にある観光案内センターでは、「ガマ」(自然洞窟)のガイドをしている。
住宅街の下にもあり、この看板の下にもあるという
地下5mおりていくと、中の天井はだんだんと広くなるが、
戦時中はここに日本軍と住民約1000人がひしめきあって隠れていた。
岩には、砲撃で吹き飛んだトタン屋根の跡がいまだ残されている。
野戦病院としても使われた。
「ガソリンの入ったドラム缶、20缶ほどを投げ込んで火をつけた
わが子を守るために、タオルを井戸で濡らして口を塞いだり
年寄りや動けない人には、毛布を濡らして上からかぶせて
なんとか助けようと必死になって家族を守ろうとしたそうです」
ガイドの當山さんは、このガマの生存者である義理の母から証言を聞いたことがガイドをするきっかけになった。
週5回、県内外からくる観光客にここで起きた出来事を伝えている。
「沖縄の人は、家族の中で必ず誰かが亡くなっています
母たちは、伝えたくても、伝えきれない悔しさがある
伝えたいけど、戦争のことを思い出してしまうと、涙が出て、事実が伝えきれない
やっぱり事実を伝えないと、それはなかったことになってしまう」
「何回もガマに入って説明して辛くないですか?」
「辛いです。
最初の頃はクタクタで、伝えることで自分自身がいっぱいいっぱいになる
何度も止めたくもなった。
ただ、私たちが今止めたら、誰が伝えるの?といった時にやっぱりとどまってしまう」
●糸満市の平和祈念公園
沖縄復帰の前から追悼の場としてあった。
「平和の礎(いしじ)」
第二次世界大戦で亡くなった国内外の戦没者24万1414人の名前が刻まれている。
沖縄戦で亡くなった県民は約9万4000人。4人に1人。
今もなお、遺族の申告等をもとに新たに追加されている。
碑には「長男」「長女」と刻まれているだけのものもある。
戦時中に生まれた赤ちゃん、戸籍がハッキリしていない人々が名前も記されないまま
(一家全滅してしまうと確かめようがないしね
ア「資料館とか見て、どう思いました?」
学生「酷いなと思いました。想像が出来ない」
アッキー:
1人1人のかけがえのない人生が失われたことを、どう想像できるのか、
ここに来た今の人たちに問われるんじゃないかと思う。
小島よしおさんは沖縄出身だが、すぐ引っ越した。
母から「祖父が戦争に行き、怪我をして戻ったから、今お前がいるんだよ」という話を聞いた
自分から伝えるのは心が痛いから、若い世代から聞かないといけないなと思った
<FAX>
「父は沖縄戦の生き残り兵でした。85歳で亡くなるまでトラウマで悩んでいた
右手を怪我して陸軍病院に行ったが、どこも一杯で追い出された
糸数の川まで自力でたどり着いたが食べるものもなく死を覚悟したが、住民が食べ物を食べさせてくれて助かった
私たちは双子で産まれたが、未熟児で生死をさまよった
父は命が助かるように、糸子、数子と名前をつけた。数子は1週間の命だった。
沖縄の人たちの苦しみを本土の人は忘れてはいけないと思います」
「沖縄を離れて20年以上。沖縄出身というと、“リゾート地でうらやましい”と言われ、
嬉しい半面、基地問題などにも目を向けて、と心の中で叫ぶ毎日。
先の事件でも、米兵の中にはいい人がいるのは重々承知です
しかしながら事件が多過ぎると思います
現地に実際足を運んで、自分の目で確かめていただきたいなと思います」
アッキー
「ガマに実際入ってみて、じめじめした暗さ、天井の低さなど、戦時中いかに沖縄の人たちが
劣悪で、凄惨な場所で暮らさなければいけなかったか。
戦後も基地として接収されたり、新しい問題に直面した
ガマはそういうことを想像できる重要な場所だと思った」
室井佑月さん
「正しい戦争なんてない」
ヤナギー
「子どもを抱えた母親が投降しようとしても、日本軍に止められてしまったり、
自決を強いられたということもある」
内藤剛志さん
「碑に刻まれた名前だけじゃなくて、その名前を付けた方々も何万人もいらっしゃるということ
だって、名前って自分でつけないから。その事実を知らなければならない」
<FAX>
「私たちは、教科書、授業、報道などでしか沖縄を知らない
よりよい安全な環境にするためにもっと知りたいし、協力したいが、どうしたらよいのか分からない」
ヤナギー「ぜひ足を運んでいただきたいな」
●沖縄戦を感じるモノ
カンカラ三線(さんしん)
レプリカ
戦時中はすべて焼け、作ることが出来なかった中で、人々が作ったのは“カンカラ三線”
ボディ部分は、アメリカ軍が食料品などで使っていた空き缶、竿部分は廃材、
弦はパラシュートのヒモなどを使って作った
琉球ガラス
アメリカ軍が飲んでいたコーラやビールなどの色つきの瓶を再利用して湯のみとして使ったり、
溶かしてガラス製品とすることで文化、名品として定着した
小島:
母親は沖縄料理屋をやっていて、カンカラ三線は見たことがあって、
弾いてるところも何回も見ていたけれども、こういう話は今日初めて知りました。
アッキー
6月23日が“慰霊の日”って、ぶっちゃけ、沖縄の人以外知らなくないですか?
ヤナギー
沖縄県の条例で、今日は休日だってことも分からない。
アッキー
広島、長崎の原爆投下の日、8月15日の終戦記念日は知っていても、
6月23日を知らないってことが、本土と沖縄の距離感を如実にあらわしていると思った。
ヤナギー
この日の式典を放送されるようになったのは2008年から
全国放送されなかった理由は、沖縄県が条例で定めたこと、8月15日は国がやる式典ということで
性格づけの意味合いの違いもあったではないかと思う。
NHKでは、「平成28年 沖縄全戦没者追悼式」を12:20~12:45に放送。
アッキーの母は沖縄出身。
「僕は東京で生まれたので、沖縄のことはものすごい遠いことだと思っていた。
でも、去年、今年と取材させてもらって、身近に感じることができた
戦後71年、沖縄はずっと同じ構造でいて、今でも人が亡くなる事件が起きたり、
怒りの声をあげている人たちがいらっしゃる。
他人事では許されない。知ることができてよかったと思う」
<FAX>
ヤナギー
5年間沖縄勤務をしていて、当時はパスポートを持って「国外」扱いだった。
慰霊の日を全国放送にしたいと思っても、当時はそういう機運がなかった
6月23日“慰霊の日”に、平和祈念公園で毎年、式典が11:30から行われる。
きょう「沖縄慰霊の日」 戦後71年、平和の祈り
沖縄タイムス
【ブログ内関連記事】
NHKスペシャル「沖縄戦 全記録」
【内容抜粋メモ】
オレンジ色がアメリカ軍施設。日本全国にある施設の74%が沖縄に集中している。
●「ガマ」(自然洞窟)
南城市糸数にある観光案内センターでは、「ガマ」(自然洞窟)のガイドをしている。
住宅街の下にもあり、この看板の下にもあるという
地下5mおりていくと、中の天井はだんだんと広くなるが、
戦時中はここに日本軍と住民約1000人がひしめきあって隠れていた。
岩には、砲撃で吹き飛んだトタン屋根の跡がいまだ残されている。
野戦病院としても使われた。
「ガソリンの入ったドラム缶、20缶ほどを投げ込んで火をつけた
わが子を守るために、タオルを井戸で濡らして口を塞いだり
年寄りや動けない人には、毛布を濡らして上からかぶせて
なんとか助けようと必死になって家族を守ろうとしたそうです」
ガイドの當山さんは、このガマの生存者である義理の母から証言を聞いたことがガイドをするきっかけになった。
週5回、県内外からくる観光客にここで起きた出来事を伝えている。
「沖縄の人は、家族の中で必ず誰かが亡くなっています
母たちは、伝えたくても、伝えきれない悔しさがある
伝えたいけど、戦争のことを思い出してしまうと、涙が出て、事実が伝えきれない
やっぱり事実を伝えないと、それはなかったことになってしまう」
「何回もガマに入って説明して辛くないですか?」
「辛いです。
最初の頃はクタクタで、伝えることで自分自身がいっぱいいっぱいになる
何度も止めたくもなった。
ただ、私たちが今止めたら、誰が伝えるの?といった時にやっぱりとどまってしまう」
●糸満市の平和祈念公園
沖縄復帰の前から追悼の場としてあった。
「平和の礎(いしじ)」
第二次世界大戦で亡くなった国内外の戦没者24万1414人の名前が刻まれている。
沖縄戦で亡くなった県民は約9万4000人。4人に1人。
今もなお、遺族の申告等をもとに新たに追加されている。
碑には「長男」「長女」と刻まれているだけのものもある。
戦時中に生まれた赤ちゃん、戸籍がハッキリしていない人々が名前も記されないまま
(一家全滅してしまうと確かめようがないしね
ア「資料館とか見て、どう思いました?」
学生「酷いなと思いました。想像が出来ない」
アッキー:
1人1人のかけがえのない人生が失われたことを、どう想像できるのか、
ここに来た今の人たちに問われるんじゃないかと思う。
小島よしおさんは沖縄出身だが、すぐ引っ越した。
母から「祖父が戦争に行き、怪我をして戻ったから、今お前がいるんだよ」という話を聞いた
自分から伝えるのは心が痛いから、若い世代から聞かないといけないなと思った
<FAX>
「父は沖縄戦の生き残り兵でした。85歳で亡くなるまでトラウマで悩んでいた
右手を怪我して陸軍病院に行ったが、どこも一杯で追い出された
糸数の川まで自力でたどり着いたが食べるものもなく死を覚悟したが、住民が食べ物を食べさせてくれて助かった
私たちは双子で産まれたが、未熟児で生死をさまよった
父は命が助かるように、糸子、数子と名前をつけた。数子は1週間の命だった。
沖縄の人たちの苦しみを本土の人は忘れてはいけないと思います」
「沖縄を離れて20年以上。沖縄出身というと、“リゾート地でうらやましい”と言われ、
嬉しい半面、基地問題などにも目を向けて、と心の中で叫ぶ毎日。
先の事件でも、米兵の中にはいい人がいるのは重々承知です
しかしながら事件が多過ぎると思います
現地に実際足を運んで、自分の目で確かめていただきたいなと思います」
アッキー
「ガマに実際入ってみて、じめじめした暗さ、天井の低さなど、戦時中いかに沖縄の人たちが
劣悪で、凄惨な場所で暮らさなければいけなかったか。
戦後も基地として接収されたり、新しい問題に直面した
ガマはそういうことを想像できる重要な場所だと思った」
室井佑月さん
「正しい戦争なんてない」
ヤナギー
「子どもを抱えた母親が投降しようとしても、日本軍に止められてしまったり、
自決を強いられたということもある」
内藤剛志さん
「碑に刻まれた名前だけじゃなくて、その名前を付けた方々も何万人もいらっしゃるということ
だって、名前って自分でつけないから。その事実を知らなければならない」
<FAX>
「私たちは、教科書、授業、報道などでしか沖縄を知らない
よりよい安全な環境にするためにもっと知りたいし、協力したいが、どうしたらよいのか分からない」
ヤナギー「ぜひ足を運んでいただきたいな」
●沖縄戦を感じるモノ
カンカラ三線(さんしん)
レプリカ
戦時中はすべて焼け、作ることが出来なかった中で、人々が作ったのは“カンカラ三線”
ボディ部分は、アメリカ軍が食料品などで使っていた空き缶、竿部分は廃材、
弦はパラシュートのヒモなどを使って作った
琉球ガラス
アメリカ軍が飲んでいたコーラやビールなどの色つきの瓶を再利用して湯のみとして使ったり、
溶かしてガラス製品とすることで文化、名品として定着した
小島:
母親は沖縄料理屋をやっていて、カンカラ三線は見たことがあって、
弾いてるところも何回も見ていたけれども、こういう話は今日初めて知りました。
アッキー
6月23日が“慰霊の日”って、ぶっちゃけ、沖縄の人以外知らなくないですか?
ヤナギー
沖縄県の条例で、今日は休日だってことも分からない。
アッキー
広島、長崎の原爆投下の日、8月15日の終戦記念日は知っていても、
6月23日を知らないってことが、本土と沖縄の距離感を如実にあらわしていると思った。
ヤナギー
この日の式典を放送されるようになったのは2008年から
全国放送されなかった理由は、沖縄県が条例で定めたこと、8月15日は国がやる式典ということで
性格づけの意味合いの違いもあったではないかと思う。
NHKでは、「平成28年 沖縄全戦没者追悼式」を12:20~12:45に放送。
アッキーの母は沖縄出身。
「僕は東京で生まれたので、沖縄のことはものすごい遠いことだと思っていた。
でも、去年、今年と取材させてもらって、身近に感じることができた
戦後71年、沖縄はずっと同じ構造でいて、今でも人が亡くなる事件が起きたり、
怒りの声をあげている人たちがいらっしゃる。
他人事では許されない。知ることができてよかったと思う」
<FAX>
ヤナギー
5年間沖縄勤務をしていて、当時はパスポートを持って「国外」扱いだった。
慰霊の日を全国放送にしたいと思っても、当時はそういう機運がなかった