■NHKアーカイブス「チェルノブイリが語ること~原発事故30年の教訓~」
【ブログ内関連記事】
『無限抱擁 チェルノブイリ・いのちの大地』(リトル・モア)
『アラヤシキの住人たち』(農山漁村文化協会)
【内容抜粋メモ】
●廃墟と化した町 ウクライナ 旧プリピャチ市(原発事故現場から約4km
30年経った今も放射線量が高く、住民は帰ることができない
消防員、原発作業員が約30人死亡、13万人ほどの住民が避難
汚染はヨーロッパ全域に広がった
30年後。原発30km圏内は今も立ち入り禁止。10万人以上が故郷に帰れないまま
●東京電力福島第一原子力発電所
40年かけて廃炉にする計画だが、作業は始まったばかり
事故後、3回、チェルノブイリを訪れて取材した
「この悲惨な状況が、まさか日本でも起こるとは思わなかった
あの事故の教訓を生かせなかったことに今も悶々としている」
福島の原発を事故後、取材を続けている
「教訓は生かされなかった。政府、電力会社が対策を義務化していれば、被害は狭い範囲で済んだのでは
放射線が広がった範囲は、福島はチェルノブイリの1/6、避難範囲もチェルノブイリよりは狭いが、
チェルノブイリを見たら、福島と同じレヴェルの事故だなと思った」
*
■「世界わが心の旅 チェルノブイリ 家族の肖像」(1994年放送)
大石さんが4年前に会ったチェルノブイリの人々を再び訪ねる旅。
●首都キエフ
モスクワから電車で14時間乗って、首都キエフへ。
ソ連解体後、ウクライナは独立共和国になり、チェルノブイリ原発もウクライナのものとなった。
民俗楽器パンドゥーラで国歌を歌う老人
インフレに湧き、長年活躍した「放射能測定器」は使われていない。
団地には、事故後、脱出した住民が町ごと住んでいる。
ワレリさんは、事故の夜、4号炉でオペレーターとして働いていた。
娘「元気です」「前は甲状腺が大きかったのよね」
●チェルノブイリ原発事故が起こったのは、1986年4月26日未明
4号炉が爆発。
「爆発の瞬間は、ドーンというよりも、ウォーという音がだんだんと大きくなっていった
痛みはなかったが、爆風が吹きつけたようで、体が壁に叩きつけられた
顔には真っ赤に焼けた砂か針が当たったようだった
周りのものすべてがスローモーションのように崩れだした
屋根、壊れた配管、壁の半分が、あっという間でした
あたりは真っ暗で、数秒で非常照明がついたが、見上げると天井がなく夜空の星が見えました」
やっと避難命令が出たのは、爆発から3時間後
「班長から水漏れの報告をせよと命令された。持ち場の破壊状況の把握をしろと言われた
何が起こっているのか、私にはハッキリ分かっていた
放射能には、色もニオイもありません。でもあそこは原発で、ケーキ工場ではないのです」
3日後、真っ黒に放射線焼けした顔で、家族と再会。
いっしょに作業した60人のうち、30人が亡くなった。うち1人は今も石棺の中にいる。
●「石棺」
強化コンクリートで囲い、鉄板を張ったが、今では隙間ができ、放射能漏れを防げない状態。
直径2mほどの大穴があき、放射線量は9.9マイクロシーベルトを超え、測定不可能に。
大石さんは、10km地点で、靴や服を支給されたものにすべて着替えさせられた。
●かつては緑に囲まれた町
原発で働く人のためにつくられたニュータウンで、人口4万5000人。平均年齢27歳の若い町だった。
事故の4時間後、街を撮影した男性がいた
市民は何も知らないまま連休初日を楽しんでいた
翌日、緊急放送が流れ、1100台のバスで脱出が始まる。午後2時。
放射線を浴びて、人々はバスを待った。
持ち込みを許されたのは、パスポートと3日分の着替えと食事のみ
4万人の住民がいっせいに町から消えた。
人々は36時間放射線を浴びていた。
その影響は、大人より子ども、部屋にいた人より、外にいた人にハッキリと体調不良として現れた。
●破壊された学校~事故後に生まれた子どもたち
エフゲニーちゃんも事故後3日の夜に生まれた
町の子にとって甲状腺の張りは病気に入らない
大石「もう1人子どもが欲しいと思いますか?」
母「産めないの」
父「健康的な理由でね」
大石「若い頃から、原発で働きたいと思っていましたか?」
大石「事故後も原発を好きですか?」
「もちろんです。仕事がとても好きでした」
大石「健康になったら、また原発で働きたいですか?」
「(笑って首を振り)そういう可能性は、ひとかけらもないですね」
●病院~事故の2年後から甲状腺がんが急上昇
母親:
娘は、心臓、自律神経系の異常です。
それから、2人とも肝臓、胃腸など、消化器系全体が悪いんです
大石「事故当時、子どもたちはどこにいたんですか?」
母親:
一日中、外で砂遊びなどして遊んでいました。
うぶ毛のような髪が出ては、すぐに消えてしまいます
大石「お母さんは何か異常ありますか?」
母親:
プリピャチから来た中で、健康が正常な人は誰もいません
若い女性「日中ずっと頭痛がします」
大石「いつ頃から?」
「覚えているかぎりずっとです」
女性:
子どもをもう1人欲しいのですが、事故後、3回も流産しました。
事故が直接の原因なのかハッキリと教えてもらえませんが
大石「何ヶ月のお子さんだったんですか?」
「全員、妊娠初期です。一番長くて3ヶ月でした」
大石「事故の時、ずっと外にいましたか?」
「はい。最後の流産は3年前です。今では、もう子どもは諦めました」
思わず泣いてしまう大石さん。
ナターシャさん:
私はプリピャチ出身だと、外で言わないようになりました
病気を抱えていても、周囲の冷たい視線にさらされます
私たちは不必要な人間なんです
事故後、よく歌われる歌がある。
♪宿命的な黒い烙印を押され
真っ黒に汚れたけど この地上で自分の居場所を探してみた
でも何ひとつ希望が叶うことはない
薔薇色の物語りは現実にはあり得ない
だけど、天使はいるはずなのだ
輝ける未来は 日々の苦しみの中に消えていく
●「サマショール(勝手に住みついた人たち)」と呼ばれている人たち
政府は30km圏内に住む人々を強制的に疎開させた
30km圏内のイリエンチ村の740人が元の生活に戻っている。
「それなのに、なぜいじめられるの!? 大事な自然を壊しちゃって、涙が出てくるよ」
4年前に撮ったマラハさんと再会。
この日は選挙の日だったが、誰の選挙なのか
●放射能をおびた雨@ゴメリ
放射能は風と雲とともに移動し、その70%がベラルーシの大地に降った。
ベラルーシは第二次世界大戦でナチスドイツに人口の1/4を奪われ、今は国土の1/4を汚染された。
大地には小麦やリンゴが実った。
事故の翌日、ベラルーシの隣り町に雨が降った
ゴメリ市民に事故が知らされたのは1週間後。
「死の灰」は、セシウムが広島原爆の5000倍と言われる。
「とくに2~10歳の子どもに発病している
さらに特徴的なのは、事故後、0~3歳の子どもの白血病が非常に増えていること
子どもの甲状腺がんの発病率は、事故前は1~2件だったが、事故後、170人の子どもが発病した」
大石「将来、子どもたちはどうなると思いますか?」
「子どもたちは非常に免疫が低下しています。
通常なら7~10日で治る風邪や、軽い病気の治療でさえ、非常に長くかかる
いいことは1つもないのです」
ベラルーシの農村人口は40%。汚染地区では自給自足の暮らしが続いている
国には安全な食糧を与える余裕がない
老人:
去年は25人も亡くなった。若いもんのことが心配でたまらないよ
わたしらの年齢まで生きられるのか
●汚染度の高い町ブラーギンの子どもたち
当時、ソビエト政府は、この町を立ち退きの指定地にしないことで、30km圏外の安全性をアピールしようとした
町は洗われ、アスファルトで舗装された
サッカーの試合がテレビで放送され、アナウンサーは「ブラーギンは大丈夫です」と繰り返した。
(マスコミもあてにならないねえ
放射線測定器を個人で持つことは固く禁じられていた。
測ってみると正常値の10倍以上。
校長先生に学校の数値を話した。
「これは子どもたちに対する犯罪です
以前は新聞に毎日、汚染の数値が載っていましたが、1年半前から必要な情報は一切ありません
自給自足で食べていくしかないのです。ここには汚染された食べ物しかないんです
安全な食べ物が手に入るなら、誰が汚染された食べ物なんか食べますか?」
(この校長先生は、この事実を親御さんに伝えたかどうか。。。
国がどうであれ、この逞しく、明るい国民性が支えだな
その人にとってなにが幸せかなんて、ひとくくりには出来ないんだ
●ベトカ
幼稚園の年少組では、半分の9人が休んでいた
放射線が白血球を減らし、免疫力が弱くなり、次々といろんな病気にかかるという
給食は、外国からの救援物資でまかなわれている
年に数回、ドイツからベトカの幼稚園に救援物資が運ばれてくる
それを村人が聞きつけて集まり、ボランティアの人が手を止めると殴られることもある
「毎回奪い合いになります。そして救援物資をもらうと市場に売るんです
汚染されていないものを大人ではなく子どもたちに食べさせたいのに」
●立ち入り禁止区域「グロムイキ村」~2年前に無人となった
汚染度は30km圏内とあまり変わらない/南東一帯には広大な「立ち入り禁止区域」がある
「危険とは知っていましたが、私も、子どもたちも住み慣れた村を離れたくなかったんです」
●立ち入り禁止区域「ボーブーシェ村」に1人で住んでいるナボキンさん
20頭の牛を飼い、年金で2人の孫を大学に通わせている
「わしはもう年寄りだ。83才さ。どこへも行きたくはないよ
大石「この土地が放射能に汚染されていることは知ってます?」
「オレは気分爽快。この8年間病気知らずさ。全部の仕事をやって、忙しくて、首を吊りたいくらいさw」
「あれは汚染されてるからミルクを飲んではいけないが、オレは飲むよ」
大石「生活費はどうしてるの?」
「お前さんたちが食べる5年分くらいのジャガイモがあるよ
食べきれなくて、牛たちに食べさせているんだ
売ったりはしないよ。汚染されているんだから。
みんな怖がるが、オレは何でも手当たり次第食べるよ
私が変わり者だと? 人が生まれた土地に住めない。そのことのほうがよっぽどおかしいと思わんかね?」
大石さん:
この取材をしていて、とても頭痛がしていた。理由は高放射能の影響ではないかと思った。
この悲しみ、怒りを共有したいと思い、この旅を続けました。
*
大石さん:
22年経ったとは思えない、その時の状況が思い出される。
取材で涙がこらえられなくなったのは初めてだった。
いかに大きなものを失ったかと、突きつけられた。同じ地球に住む人間として辛かった。
すぐに情報が伝わっていたら、家で待機できたかもしれないし。
知らないっていうことは、覚悟が出来ないから、福島とつながるので辛いです。
水野:
当時、ソ連の当局は情報を隠蔽した。
日本は事故の発生を隠したわけではないが、事故を小さく見せようとしたのではないか、と疑わざるを得ないこともあった
放射線量は「メルトダウン」に間違いなかったが、「炉心損傷」と言い続けた。
最初から「メルトダウン」と認めていれば、深刻さが伝わり、応援も含めて対応が変わっていたかもしれない。
大石さんは、この取材の2年後にも取材に行った。
大石さん:
目が悪くなった子がとても増えているという話を随分聞いた。
チェルノブイリと福島は違うと言い切って、後でやっぱりそうでしたとなったら、もっと大きなショックを受けると思う。
もっと被災者に丁寧に向き合うことは、私たち全員にとって大切だと思う。
水野:
福島で事故当時18歳以下だった38万人を対象に甲状腺の検査を行い、116人が甲状腺がんと確定している。
福島県の見解は、事故からがんになるには、期間が短い、近い地域と、遠い地域の差がない、
被爆量はチェルノブイリと比べればはるかに少ない、などで、現段階では、放射線の影響とは考えにくいと言っている。
今後、長期的に検査する必要があるが、就職、就学で福島から離れてしまったりして、受診率が下がっている
県外への受診率を増やして、長期的にみて、寄り添うことが重要
【これまでの取材のまとめ】
■2006年『クローズアップ現代 終わらない放射能汚染』
パイプを並べて屋根をつくったが、高い熱や放射線で、溶接やボルト締めはほとんど行われなかった
突貫工事でつくられた石棺は、急速に老朽化が進んでいる。
強い放射線に汚染された塵が内部に蓄積している。
石棺には隙間があき、外の光がさしこむため、隙間を埋める作業が続けられた
調査が進み、西側の壁が傾き、崩れる可能性が出てきた。
日本、欧米諸国の資金援助を受けて、石棺を抜本的に補強するプロジェクトが発足。
石棺を20年調査してきた主任技師:
「最悪の事態を防ぐためには、一刻も早く手を打たなければならない」
壁の補強工事がようやく始まり、1年がかりで土台が完成
作業員の被爆が最小限になるよう工事を進める際、作業時間は厳しく制限されている
石棺内部は、1日わずか10分ほどしか作業できない場所もある
1時間あたり1,100レントゲン=約11,100ミリシーベルトが検出された。40分で致死量になる
■2014年「NHKスペシャル」
原発内部の映像
今も廃炉が進んでいない。爆発で「デブリ」が剥き出しとなり1時間あたり3000ミリシーベルトを出し続けている。
チェルノブイリでは、放射線量が下がるまで、さらに100年待ち、廃炉の方法を模索する予定。
周囲の町では除染が手つかずの場所も少なくない。
11万人の帰還のめどはまったく立っていない。
●ベラルーシの首都ミンスク(原発から350km
移住先のアパート
3日で故郷に帰れると言われた女性タチアナさん(当時48歳):
「でも、故郷に通じる道はもうありません。同郷の仲間がいることが今も私の唯一の支えなのです」
多くの村が地図から消え、墓標には200を超す村の名前が刻まれている
*
水野:
廃炉まで100年ということではなく、いつになるか分からないということなんです。
「廃炉」というのは、中の溶けた燃料を取り出して、建て屋を解体して、更地にすること。
今やっているのは、いまだに建て屋の中の燃料を封じ込める作業。まだまだ初期段階
福島がチェルノブイリと大きく違うのは、「事故から40年で廃炉にする」という工程表があること
当面の最大の目標は、溶けた燃料を取り出しを2021年から始める
チェルノブイリでは、溶けた燃料がどこにあるかを把握しているが、
福島第一の場合は3基でメルトダウンしたが、どんな状態なのか5年経ってもまったく分からない。
ロボットが入っても、放射線で10時間後には壊れてしまう状況。
計画通りにいくのか分からない。
大石:
家族がバラバラになり、農業や、酪農など、これまでやってきた生業を奪われている。
人生を放射能により奪われた。
ダメならダメで、どうダメなのかを知ることで、これからの対策をたてられると思う。
●チェルノブイリが残した教訓とは
水野:
原発事故に限らないが、事故があったら、対岸の火事にしないということ
「日本だけは大丈夫だ」と思わず、教訓として対策に生かしていく
廃炉ということは発電所なのに電気をつくるわけでもなく、原子力を学ぶ学生は減っている。
しかし、今後若い人材が必要になる(デカい負の財産をたくさん残したもんだな
放射線に強いロボット研究開発など、廃炉はやりがいのある現場だと発信していく(やりがいか・・・
大石:
私たちは科学技術の恩恵を受けて“豊かになろう”とずっと走り続けてきた、
その負の1つの形としてチェルノブイリや福島があることを謙虚に受け止めなければならない
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●廃墟と化した町 ウクライナ 旧プリピャチ市(原発事故現場から約4km
30年経った今も放射線量が高く、住民は帰ることができない
消防員、原発作業員が約30人死亡、13万人ほどの住民が避難
汚染はヨーロッパ全域に広がった
30年後。原発30km圏内は今も立ち入り禁止。10万人以上が故郷に帰れないまま
●東京電力福島第一原子力発電所
40年かけて廃炉にする計画だが、作業は始まったばかり
事故後、3回、チェルノブイリを訪れて取材した
「この悲惨な状況が、まさか日本でも起こるとは思わなかった
あの事故の教訓を生かせなかったことに今も悶々としている」
福島の原発を事故後、取材を続けている
「教訓は生かされなかった。政府、電力会社が対策を義務化していれば、被害は狭い範囲で済んだのでは
放射線が広がった範囲は、福島はチェルノブイリの1/6、避難範囲もチェルノブイリよりは狭いが、
チェルノブイリを見たら、福島と同じレヴェルの事故だなと思った」
*
■「世界わが心の旅 チェルノブイリ 家族の肖像」(1994年放送)
大石さんが4年前に会ったチェルノブイリの人々を再び訪ねる旅。
●首都キエフ
モスクワから電車で14時間乗って、首都キエフへ。
ソ連解体後、ウクライナは独立共和国になり、チェルノブイリ原発もウクライナのものとなった。
民俗楽器パンドゥーラで国歌を歌う老人
インフレに湧き、長年活躍した「放射能測定器」は使われていない。
団地には、事故後、脱出した住民が町ごと住んでいる。
ワレリさんは、事故の夜、4号炉でオペレーターとして働いていた。
娘「元気です」「前は甲状腺が大きかったのよね」
●チェルノブイリ原発事故が起こったのは、1986年4月26日未明
4号炉が爆発。
「爆発の瞬間は、ドーンというよりも、ウォーという音がだんだんと大きくなっていった
痛みはなかったが、爆風が吹きつけたようで、体が壁に叩きつけられた
顔には真っ赤に焼けた砂か針が当たったようだった
周りのものすべてがスローモーションのように崩れだした
屋根、壊れた配管、壁の半分が、あっという間でした
あたりは真っ暗で、数秒で非常照明がついたが、見上げると天井がなく夜空の星が見えました」
やっと避難命令が出たのは、爆発から3時間後
「班長から水漏れの報告をせよと命令された。持ち場の破壊状況の把握をしろと言われた
何が起こっているのか、私にはハッキリ分かっていた
放射能には、色もニオイもありません。でもあそこは原発で、ケーキ工場ではないのです」
3日後、真っ黒に放射線焼けした顔で、家族と再会。
いっしょに作業した60人のうち、30人が亡くなった。うち1人は今も石棺の中にいる。
●「石棺」
強化コンクリートで囲い、鉄板を張ったが、今では隙間ができ、放射能漏れを防げない状態。
直径2mほどの大穴があき、放射線量は9.9マイクロシーベルトを超え、測定不可能に。
大石さんは、10km地点で、靴や服を支給されたものにすべて着替えさせられた。
●かつては緑に囲まれた町
原発で働く人のためにつくられたニュータウンで、人口4万5000人。平均年齢27歳の若い町だった。
事故の4時間後、街を撮影した男性がいた
市民は何も知らないまま連休初日を楽しんでいた
翌日、緊急放送が流れ、1100台のバスで脱出が始まる。午後2時。
放射線を浴びて、人々はバスを待った。
持ち込みを許されたのは、パスポートと3日分の着替えと食事のみ
4万人の住民がいっせいに町から消えた。
人々は36時間放射線を浴びていた。
その影響は、大人より子ども、部屋にいた人より、外にいた人にハッキリと体調不良として現れた。
●破壊された学校~事故後に生まれた子どもたち
エフゲニーちゃんも事故後3日の夜に生まれた
町の子にとって甲状腺の張りは病気に入らない
大石「もう1人子どもが欲しいと思いますか?」
母「産めないの」
父「健康的な理由でね」
大石「若い頃から、原発で働きたいと思っていましたか?」
大石「事故後も原発を好きですか?」
「もちろんです。仕事がとても好きでした」
大石「健康になったら、また原発で働きたいですか?」
「(笑って首を振り)そういう可能性は、ひとかけらもないですね」
●病院~事故の2年後から甲状腺がんが急上昇
母親:
娘は、心臓、自律神経系の異常です。
それから、2人とも肝臓、胃腸など、消化器系全体が悪いんです
大石「事故当時、子どもたちはどこにいたんですか?」
母親:
一日中、外で砂遊びなどして遊んでいました。
うぶ毛のような髪が出ては、すぐに消えてしまいます
大石「お母さんは何か異常ありますか?」
母親:
プリピャチから来た中で、健康が正常な人は誰もいません
若い女性「日中ずっと頭痛がします」
大石「いつ頃から?」
「覚えているかぎりずっとです」
女性:
子どもをもう1人欲しいのですが、事故後、3回も流産しました。
事故が直接の原因なのかハッキリと教えてもらえませんが
大石「何ヶ月のお子さんだったんですか?」
「全員、妊娠初期です。一番長くて3ヶ月でした」
大石「事故の時、ずっと外にいましたか?」
「はい。最後の流産は3年前です。今では、もう子どもは諦めました」
思わず泣いてしまう大石さん。
ナターシャさん:
私はプリピャチ出身だと、外で言わないようになりました
病気を抱えていても、周囲の冷たい視線にさらされます
私たちは不必要な人間なんです
事故後、よく歌われる歌がある。
♪宿命的な黒い烙印を押され
真っ黒に汚れたけど この地上で自分の居場所を探してみた
でも何ひとつ希望が叶うことはない
薔薇色の物語りは現実にはあり得ない
だけど、天使はいるはずなのだ
輝ける未来は 日々の苦しみの中に消えていく
●「サマショール(勝手に住みついた人たち)」と呼ばれている人たち
政府は30km圏内に住む人々を強制的に疎開させた
30km圏内のイリエンチ村の740人が元の生活に戻っている。
「それなのに、なぜいじめられるの!? 大事な自然を壊しちゃって、涙が出てくるよ」
4年前に撮ったマラハさんと再会。
この日は選挙の日だったが、誰の選挙なのか
●放射能をおびた雨@ゴメリ
放射能は風と雲とともに移動し、その70%がベラルーシの大地に降った。
ベラルーシは第二次世界大戦でナチスドイツに人口の1/4を奪われ、今は国土の1/4を汚染された。
大地には小麦やリンゴが実った。
事故の翌日、ベラルーシの隣り町に雨が降った
ゴメリ市民に事故が知らされたのは1週間後。
「死の灰」は、セシウムが広島原爆の5000倍と言われる。
「とくに2~10歳の子どもに発病している
さらに特徴的なのは、事故後、0~3歳の子どもの白血病が非常に増えていること
子どもの甲状腺がんの発病率は、事故前は1~2件だったが、事故後、170人の子どもが発病した」
大石「将来、子どもたちはどうなると思いますか?」
「子どもたちは非常に免疫が低下しています。
通常なら7~10日で治る風邪や、軽い病気の治療でさえ、非常に長くかかる
いいことは1つもないのです」
ベラルーシの農村人口は40%。汚染地区では自給自足の暮らしが続いている
国には安全な食糧を与える余裕がない
老人:
去年は25人も亡くなった。若いもんのことが心配でたまらないよ
わたしらの年齢まで生きられるのか
●汚染度の高い町ブラーギンの子どもたち
当時、ソビエト政府は、この町を立ち退きの指定地にしないことで、30km圏外の安全性をアピールしようとした
町は洗われ、アスファルトで舗装された
サッカーの試合がテレビで放送され、アナウンサーは「ブラーギンは大丈夫です」と繰り返した。
(マスコミもあてにならないねえ
放射線測定器を個人で持つことは固く禁じられていた。
測ってみると正常値の10倍以上。
校長先生に学校の数値を話した。
「これは子どもたちに対する犯罪です
以前は新聞に毎日、汚染の数値が載っていましたが、1年半前から必要な情報は一切ありません
自給自足で食べていくしかないのです。ここには汚染された食べ物しかないんです
安全な食べ物が手に入るなら、誰が汚染された食べ物なんか食べますか?」
(この校長先生は、この事実を親御さんに伝えたかどうか。。。
国がどうであれ、この逞しく、明るい国民性が支えだな
その人にとってなにが幸せかなんて、ひとくくりには出来ないんだ
●ベトカ
幼稚園の年少組では、半分の9人が休んでいた
放射線が白血球を減らし、免疫力が弱くなり、次々といろんな病気にかかるという
給食は、外国からの救援物資でまかなわれている
年に数回、ドイツからベトカの幼稚園に救援物資が運ばれてくる
それを村人が聞きつけて集まり、ボランティアの人が手を止めると殴られることもある
「毎回奪い合いになります。そして救援物資をもらうと市場に売るんです
汚染されていないものを大人ではなく子どもたちに食べさせたいのに」
●立ち入り禁止区域「グロムイキ村」~2年前に無人となった
汚染度は30km圏内とあまり変わらない/南東一帯には広大な「立ち入り禁止区域」がある
「危険とは知っていましたが、私も、子どもたちも住み慣れた村を離れたくなかったんです」
●立ち入り禁止区域「ボーブーシェ村」に1人で住んでいるナボキンさん
20頭の牛を飼い、年金で2人の孫を大学に通わせている
「わしはもう年寄りだ。83才さ。どこへも行きたくはないよ
大石「この土地が放射能に汚染されていることは知ってます?」
「オレは気分爽快。この8年間病気知らずさ。全部の仕事をやって、忙しくて、首を吊りたいくらいさw」
「あれは汚染されてるからミルクを飲んではいけないが、オレは飲むよ」
大石「生活費はどうしてるの?」
「お前さんたちが食べる5年分くらいのジャガイモがあるよ
食べきれなくて、牛たちに食べさせているんだ
売ったりはしないよ。汚染されているんだから。
みんな怖がるが、オレは何でも手当たり次第食べるよ
私が変わり者だと? 人が生まれた土地に住めない。そのことのほうがよっぽどおかしいと思わんかね?」
大石さん:
この取材をしていて、とても頭痛がしていた。理由は高放射能の影響ではないかと思った。
この悲しみ、怒りを共有したいと思い、この旅を続けました。
*
大石さん:
22年経ったとは思えない、その時の状況が思い出される。
取材で涙がこらえられなくなったのは初めてだった。
いかに大きなものを失ったかと、突きつけられた。同じ地球に住む人間として辛かった。
すぐに情報が伝わっていたら、家で待機できたかもしれないし。
知らないっていうことは、覚悟が出来ないから、福島とつながるので辛いです。
水野:
当時、ソ連の当局は情報を隠蔽した。
日本は事故の発生を隠したわけではないが、事故を小さく見せようとしたのではないか、と疑わざるを得ないこともあった
放射線量は「メルトダウン」に間違いなかったが、「炉心損傷」と言い続けた。
最初から「メルトダウン」と認めていれば、深刻さが伝わり、応援も含めて対応が変わっていたかもしれない。
大石さんは、この取材の2年後にも取材に行った。
大石さん:
目が悪くなった子がとても増えているという話を随分聞いた。
チェルノブイリと福島は違うと言い切って、後でやっぱりそうでしたとなったら、もっと大きなショックを受けると思う。
もっと被災者に丁寧に向き合うことは、私たち全員にとって大切だと思う。
水野:
福島で事故当時18歳以下だった38万人を対象に甲状腺の検査を行い、116人が甲状腺がんと確定している。
福島県の見解は、事故からがんになるには、期間が短い、近い地域と、遠い地域の差がない、
被爆量はチェルノブイリと比べればはるかに少ない、などで、現段階では、放射線の影響とは考えにくいと言っている。
今後、長期的に検査する必要があるが、就職、就学で福島から離れてしまったりして、受診率が下がっている
県外への受診率を増やして、長期的にみて、寄り添うことが重要
【これまでの取材のまとめ】
■2006年『クローズアップ現代 終わらない放射能汚染』
パイプを並べて屋根をつくったが、高い熱や放射線で、溶接やボルト締めはほとんど行われなかった
突貫工事でつくられた石棺は、急速に老朽化が進んでいる。
強い放射線に汚染された塵が内部に蓄積している。
石棺には隙間があき、外の光がさしこむため、隙間を埋める作業が続けられた
調査が進み、西側の壁が傾き、崩れる可能性が出てきた。
日本、欧米諸国の資金援助を受けて、石棺を抜本的に補強するプロジェクトが発足。
石棺を20年調査してきた主任技師:
「最悪の事態を防ぐためには、一刻も早く手を打たなければならない」
壁の補強工事がようやく始まり、1年がかりで土台が完成
作業員の被爆が最小限になるよう工事を進める際、作業時間は厳しく制限されている
石棺内部は、1日わずか10分ほどしか作業できない場所もある
1時間あたり1,100レントゲン=約11,100ミリシーベルトが検出された。40分で致死量になる
■2014年「NHKスペシャル」
原発内部の映像
今も廃炉が進んでいない。爆発で「デブリ」が剥き出しとなり1時間あたり3000ミリシーベルトを出し続けている。
チェルノブイリでは、放射線量が下がるまで、さらに100年待ち、廃炉の方法を模索する予定。
周囲の町では除染が手つかずの場所も少なくない。
11万人の帰還のめどはまったく立っていない。
●ベラルーシの首都ミンスク(原発から350km
移住先のアパート
3日で故郷に帰れると言われた女性タチアナさん(当時48歳):
「でも、故郷に通じる道はもうありません。同郷の仲間がいることが今も私の唯一の支えなのです」
多くの村が地図から消え、墓標には200を超す村の名前が刻まれている
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水野:
廃炉まで100年ということではなく、いつになるか分からないということなんです。
「廃炉」というのは、中の溶けた燃料を取り出して、建て屋を解体して、更地にすること。
今やっているのは、いまだに建て屋の中の燃料を封じ込める作業。まだまだ初期段階
福島がチェルノブイリと大きく違うのは、「事故から40年で廃炉にする」という工程表があること
当面の最大の目標は、溶けた燃料を取り出しを2021年から始める
チェルノブイリでは、溶けた燃料がどこにあるかを把握しているが、
福島第一の場合は3基でメルトダウンしたが、どんな状態なのか5年経ってもまったく分からない。
ロボットが入っても、放射線で10時間後には壊れてしまう状況。
計画通りにいくのか分からない。
大石:
家族がバラバラになり、農業や、酪農など、これまでやってきた生業を奪われている。
人生を放射能により奪われた。
ダメならダメで、どうダメなのかを知ることで、これからの対策をたてられると思う。
●チェルノブイリが残した教訓とは
水野:
原発事故に限らないが、事故があったら、対岸の火事にしないということ
「日本だけは大丈夫だ」と思わず、教訓として対策に生かしていく
廃炉ということは発電所なのに電気をつくるわけでもなく、原子力を学ぶ学生は減っている。
しかし、今後若い人材が必要になる(デカい負の財産をたくさん残したもんだな
放射線に強いロボット研究開発など、廃炉はやりがいのある現場だと発信していく(やりがいか・・・
大石:
私たちは科学技術の恩恵を受けて“豊かになろう”とずっと走り続けてきた、
その負の1つの形としてチェルノブイリや福島があることを謙虚に受け止めなければならない