■『炭鉱(ヤマ) 本橋成一写真集』(現代書館)
本橋成一/写真・文章
【ブログ内関連記事】
『無限抱擁 チェルノブイリ・いのちの大地』(リトル・モア)
上記の写真集で知った写真家さんの作品を全部観てみたいと思って借りてみた。
炭坑と言えば、朝ドラ『あさが来た』で、九州・筑前にある蔵野炭坑の荒っぽく貧しい坑夫たちや、
落盤事故が描かれていたことで、厳しい職業だったんだな、と漠然と思っただけだった。
モデルとなった広岡浅子さんと炭坑のつながりは、以下参照
炭鉱ビジネスへの参入(実業家・広岡浅子の奮闘) - 広岡浅子の生涯
けれども、石炭→石油→原子力とエネルギーが変化し、危険と隣り合わせながらも生き生きと働いていた坑夫らは一気に生活の場を失う。
しかも、大勢が事故で亡くなっていて、その補償はほぼなかったため、
生活保護をもらい、極貧のまま、死んだような場所に住む人々を、
再版時、チェルノブイリの取材をしていた本橋さんは、似ていると感じたという。
「豊かさ」を追い求めた末に、取り残された人々のことを、私たちは全然知らない。
その生々しい現実を4年間撮り続けた本書にショックを受けた。
炭坑に関していかに無知だったかは、本書に出てくるたくさんの知らない言葉にも感じられた。
【内容抜粋メモ】
<まえがき 上野英信>
私は、本書の主な舞台の1つ「筑豊」の「閉山部落」の1棟に住んでいる。
無人の「坑夫長屋」を本橋くんが訪ねたのは1965年。
ものほしげにカメラを抱えた人種が、屍にたかる獣のように廃鉱を食い荒らして回っていた頃だ。
彼もそんな連中の1人に違いないと思った。
だが、彼は粘り強く足を運び続けた。
離職者の吹き溜まり、北九州工業地帯の「労働下宿」にもぐりこんだり、北海道の炭坑まで足を延ばした。
彼が通い続けた「小ヤマ」も1つ残らず潰れ、跡形もない。
孤独な「長欠児童(長期欠席)」にとって、なにより楽しい「落書き学校」だった廃屋も崩れ落ちた。
「エネルギー革命」の嵐の中、労働と生活を一挙に奪われた炭坑離職者ほど惨めなものはない。
他の民主主義社会に類をみない「大量棄民政策」といわれたのも当然だ。
最後の救いは「生活保護」。
しかし、わが国の生活保護は、現実には悲惨極まりない「生活破壊」以外の何ものでもない。
彼らは例外なく「高利金融業者」によって骨の髄まで吸い取られ、底無し沼に転落する。
今日の様々な悲劇は、過去100年にわたる石炭産業の苛烈な搾取に深く根ざしている。
20年前、坑夫の1人として入坑して以来、私は嫌というほど戦慄しつづけてきた。
特殊な一基幹産業の現象というより、日本の内臓そのものの暗黒の深さ。
信じがたいほどの無知と、貧困と、犠牲が労働者に強制され、
文字通り人間の生き血をすすって肥大した石炭産業の上に、わが国の独占資本体制は構築されたのだ。
いうまでもなく、傍観者の安易な同情からは、何も生まれない。百害あって一利なしである。
上野英信著書『地の底の笑い声』
<事故による死者数>
北海道の美唄炭坑では、昭和43年、2度も大きな事故を起こし、多くの坑夫たちを殺した。
地の底から出て来た坑夫たちは、畳を敷いたトラックに乗せられ、山を下りる。
同僚たちは、せめて温かい畳の上に寝かせてやりたいと思うのです。
2度目の事故では坑内火災が起き、くいとめるために7人の坑夫を救出しないまま
川をせきとめ、坑内に流し込んだ
炭坑では、焼けた衣類、バンドの金具など、主なき葬式がいつも繰り返されている。
<生活保護支給日>
月に1度の生活保護支給日は大変な騒ぎとなる。
筑豊地帯では、他の1つの県全体より多額な金を支給する町役場が少なくない。
なんの生産もない死んだ町に何千万円が転がりこむため、
多種雑多な人間が集まりお祭り騒ぎとなる。
叩き売りの露天、月賦の集金人、中でも執拗にお金を吸い上げるのは高利貸したち。
“生かさず殺さず”とことん絞り上げる。
「働かない坑夫に生活保護を与えるのは甘やかしている」という人もいる。
だが、この最低限のものさえ、受けるのを恥ずかしく思っているのは、他ならぬ坑夫たち自身なのです。
<ゴーストタウン>
炭坑は、計画的、無計画に閉山していく。
閉山すると、金目のものは全て取り去られ、残るのは、セメントのオブジェ、
先の丸くなった「ボタヤマ」、とり残された人たちが住む「炭住」。
人の住まない「炭住」は別世界になってしまう。
だが1軒1軒訪ねると、びっくりするほど人の臭いのする時がある。
それは、子どもたちが壁に書いた“落書き”。大半は男女の絵。
それは炭鉱独特の生活様式と、性に対する、実に陽気で、健康的なものなのです。
<日炭高松二坑の閉山跡で出会った老人>
老人は、「選炭場跡」のセメントのオブジェを1人で叩き割り、鉄くずを集めていた。
年老いた女房と生活保護だけでは、とてもやっていけないと話してくれた以外、心を開いてはくれなかった。
僕を最後まで、役場か会社の回し者としか思っていなかった。
長い間騙されつづけて、何も信じられなくなっていた。
炭鉱が閉山されるごとに、大勢がとり残され、貧困と差別が繰り返される。
<小ヤマも消える>
九州筑豊を流れる「炭層」には、すがりつくように小さな炭鉱がたくさんある。
多くて10人、少ないところは3人だけで掘り続ける「小ヤマ」。
高さ1mもない坑道を這いつくばるように入り、なんともいえない地の底の圧迫感に耐えられなくなった。
気味悪いほど蒼白く痩せこけた1人の坑夫は、薄暗いカーバイドの「カンテラ」を頼りに
曲がりくねった50mほどの坑道で、1本のツルハシで掘り続けていた。
これらなんの事故もない小ヤマも、いつのまにか消えてしまった。
<炭鉱を離れる若い坑夫>
毎年大きな事故を起こす炭鉱の多くは中小炭鉱。
そのほとんどが大手の会社から払い下げられた第2、第3の炭鉱。
これら坑内環境の悪い炭鉱は、ちょっと保安対策を怠るとすぐ大きな事故につながる。
そしていつも親会社への債務に追われ、炭鉱が潰れるまでつづく。
そんな炭鉱ばかりでは、若い坑夫らはどんどん炭鉱から離れていく。
残るのは年老いた坑夫ばかり。
北海道にある、ある炭鉱は若い坑夫がいて、親会社がない。
自分で掘った石炭が、思うままに売ることができ、事故もない。
これが本来の最低限の炭鉱の姿。
<悟平さん一家>
福岡県の閉山部落に住む一家。
悟平さんの父も、数年前までは大手炭鉱の坑夫だった。
朝早く「カンラク(陥落湖沼)」に魚をとりに行くか、
月に1度の生活保護の日以外は滅多に外に出ない。
年中、こたつの脇の布団の上で、1冊10円の古少年週刊誌を読み、焼酎を飲み、酔って寝る生活。
悟平さんの2人の子どもが若者になった時どうなっているのか真剣に考えなければならない。
<あとがき 重森弘淹~執念のカメラキャンペーン>
「石炭合理化法」は、まず中小炭鉱を潰し、“総資本対総労働の天王山対決”と言われた「三井三池争議」に発展。
1960年、土門拳氏が『筑豊のこどもたち』と題するカメラキャンペーンを展開。
1961年『るみえちゃんはお父さんが死んだ』で世論に衝撃を与えた。
これに刺激された写真家がルポしたが、実際に発表の機会を得た作品はほぼない。
そんな中、本橋氏の「太陽賞受賞」は、飽きっぽい世論やマスコミに対する反撃だといえる。
これはもともと卒業制作として始まったが、卒業後も続け、4年が経過した。
<あとがき 羽仁進>
太陽賞の審査の時に初めて観て、僕はこう書き留めた。
「生命を失った人の、生きている顔の写真」
死の支配する炭鉱の世界が心に深く喰いこむことにより、僕たちは、我が身の周りにある、
飾られ、仮構された生の世界の背後にあるものをハッキリ見ることができる。
<あとがき 本橋成一>
1980年の夏、筑豊在住の上野さんから「後藤静夫が死んだよ」と電話で知らされた。
静夫は自殺だった。川崎の路上で、その日のために買った出刃包丁での切腹。29歳だった。
僕が彼と知り合ったのはまだ小学生の頃。
すでに“問題児”とレッテルを貼られ、「児童センター(特殊学級)」に通っていた。
静夫は、上野さんらのはからいで中学途中で静岡県の舞阪に転校した。
しかし、中学を卒業することなく、自ら筑豊との関係を断ち切るかのように舞阪からも離れていった。
何度かの刑務所暮らしで、一匹狼の覚せい剤密売人となり、出所3日後の自殺の理由は誰にも分からない。
宮島重信さんは、僕と同じ1940年生まれ。
彼は1963年、死者458人、重軽傷者800人以上の「三井三池炭鉱事故」の生き残りの1人。
大勢が一酸化炭素中毒に冒され、家族、自分の記憶も喪失した植物状態となった。
宮島さんは、一番の重傷者として入院していた。
近代国家日本は、なぜもっと真剣に責任をとろうとしないのだろうか。
宮島さんを介護する年老いた父母。家庭までが破壊されてしまった。
宮島さんは、1974年、33歳で他界。父母も後を追うように亡くなった。
鼻先に“豊かさ”という人参をぶらさげられて経済発展、近代国家へつき進んだ四半世紀。
今、僕は、1986年に大事故を起こしたチェルノブイリ原発の写真を撮っている。
改めて『炭鉱』を観ると、同じに見えてくる。
いつも誰かが心と肉体を犠牲にした幻の“豊かさ”。
この写真集が再版され、4年前に亡くなった上野さんに初めて誉めてもらえそうな気がする。
本橋成一(ウィキ参照
本橋成一/写真・文章
【ブログ内関連記事】
『無限抱擁 チェルノブイリ・いのちの大地』(リトル・モア)
上記の写真集で知った写真家さんの作品を全部観てみたいと思って借りてみた。
炭坑と言えば、朝ドラ『あさが来た』で、九州・筑前にある蔵野炭坑の荒っぽく貧しい坑夫たちや、
落盤事故が描かれていたことで、厳しい職業だったんだな、と漠然と思っただけだった。
モデルとなった広岡浅子さんと炭坑のつながりは、以下参照
炭鉱ビジネスへの参入(実業家・広岡浅子の奮闘) - 広岡浅子の生涯
けれども、石炭→石油→原子力とエネルギーが変化し、危険と隣り合わせながらも生き生きと働いていた坑夫らは一気に生活の場を失う。
しかも、大勢が事故で亡くなっていて、その補償はほぼなかったため、
生活保護をもらい、極貧のまま、死んだような場所に住む人々を、
再版時、チェルノブイリの取材をしていた本橋さんは、似ていると感じたという。
「豊かさ」を追い求めた末に、取り残された人々のことを、私たちは全然知らない。
その生々しい現実を4年間撮り続けた本書にショックを受けた。
炭坑に関していかに無知だったかは、本書に出てくるたくさんの知らない言葉にも感じられた。
【内容抜粋メモ】
<まえがき 上野英信>
私は、本書の主な舞台の1つ「筑豊」の「閉山部落」の1棟に住んでいる。
無人の「坑夫長屋」を本橋くんが訪ねたのは1965年。
ものほしげにカメラを抱えた人種が、屍にたかる獣のように廃鉱を食い荒らして回っていた頃だ。
彼もそんな連中の1人に違いないと思った。
だが、彼は粘り強く足を運び続けた。
離職者の吹き溜まり、北九州工業地帯の「労働下宿」にもぐりこんだり、北海道の炭坑まで足を延ばした。
彼が通い続けた「小ヤマ」も1つ残らず潰れ、跡形もない。
孤独な「長欠児童(長期欠席)」にとって、なにより楽しい「落書き学校」だった廃屋も崩れ落ちた。
「エネルギー革命」の嵐の中、労働と生活を一挙に奪われた炭坑離職者ほど惨めなものはない。
他の民主主義社会に類をみない「大量棄民政策」といわれたのも当然だ。
最後の救いは「生活保護」。
しかし、わが国の生活保護は、現実には悲惨極まりない「生活破壊」以外の何ものでもない。
彼らは例外なく「高利金融業者」によって骨の髄まで吸い取られ、底無し沼に転落する。
今日の様々な悲劇は、過去100年にわたる石炭産業の苛烈な搾取に深く根ざしている。
20年前、坑夫の1人として入坑して以来、私は嫌というほど戦慄しつづけてきた。
特殊な一基幹産業の現象というより、日本の内臓そのものの暗黒の深さ。
信じがたいほどの無知と、貧困と、犠牲が労働者に強制され、
文字通り人間の生き血をすすって肥大した石炭産業の上に、わが国の独占資本体制は構築されたのだ。
いうまでもなく、傍観者の安易な同情からは、何も生まれない。百害あって一利なしである。
上野英信著書『地の底の笑い声』
<事故による死者数>
北海道の美唄炭坑では、昭和43年、2度も大きな事故を起こし、多くの坑夫たちを殺した。
地の底から出て来た坑夫たちは、畳を敷いたトラックに乗せられ、山を下りる。
同僚たちは、せめて温かい畳の上に寝かせてやりたいと思うのです。
2度目の事故では坑内火災が起き、くいとめるために7人の坑夫を救出しないまま
川をせきとめ、坑内に流し込んだ
炭坑では、焼けた衣類、バンドの金具など、主なき葬式がいつも繰り返されている。
<生活保護支給日>
月に1度の生活保護支給日は大変な騒ぎとなる。
筑豊地帯では、他の1つの県全体より多額な金を支給する町役場が少なくない。
なんの生産もない死んだ町に何千万円が転がりこむため、
多種雑多な人間が集まりお祭り騒ぎとなる。
叩き売りの露天、月賦の集金人、中でも執拗にお金を吸い上げるのは高利貸したち。
“生かさず殺さず”とことん絞り上げる。
「働かない坑夫に生活保護を与えるのは甘やかしている」という人もいる。
だが、この最低限のものさえ、受けるのを恥ずかしく思っているのは、他ならぬ坑夫たち自身なのです。
<ゴーストタウン>
炭坑は、計画的、無計画に閉山していく。
閉山すると、金目のものは全て取り去られ、残るのは、セメントのオブジェ、
先の丸くなった「ボタヤマ」、とり残された人たちが住む「炭住」。
人の住まない「炭住」は別世界になってしまう。
だが1軒1軒訪ねると、びっくりするほど人の臭いのする時がある。
それは、子どもたちが壁に書いた“落書き”。大半は男女の絵。
それは炭鉱独特の生活様式と、性に対する、実に陽気で、健康的なものなのです。
<日炭高松二坑の閉山跡で出会った老人>
老人は、「選炭場跡」のセメントのオブジェを1人で叩き割り、鉄くずを集めていた。
年老いた女房と生活保護だけでは、とてもやっていけないと話してくれた以外、心を開いてはくれなかった。
僕を最後まで、役場か会社の回し者としか思っていなかった。
長い間騙されつづけて、何も信じられなくなっていた。
炭鉱が閉山されるごとに、大勢がとり残され、貧困と差別が繰り返される。
<小ヤマも消える>
九州筑豊を流れる「炭層」には、すがりつくように小さな炭鉱がたくさんある。
多くて10人、少ないところは3人だけで掘り続ける「小ヤマ」。
高さ1mもない坑道を這いつくばるように入り、なんともいえない地の底の圧迫感に耐えられなくなった。
気味悪いほど蒼白く痩せこけた1人の坑夫は、薄暗いカーバイドの「カンテラ」を頼りに
曲がりくねった50mほどの坑道で、1本のツルハシで掘り続けていた。
これらなんの事故もない小ヤマも、いつのまにか消えてしまった。
<炭鉱を離れる若い坑夫>
毎年大きな事故を起こす炭鉱の多くは中小炭鉱。
そのほとんどが大手の会社から払い下げられた第2、第3の炭鉱。
これら坑内環境の悪い炭鉱は、ちょっと保安対策を怠るとすぐ大きな事故につながる。
そしていつも親会社への債務に追われ、炭鉱が潰れるまでつづく。
そんな炭鉱ばかりでは、若い坑夫らはどんどん炭鉱から離れていく。
残るのは年老いた坑夫ばかり。
北海道にある、ある炭鉱は若い坑夫がいて、親会社がない。
自分で掘った石炭が、思うままに売ることができ、事故もない。
これが本来の最低限の炭鉱の姿。
<悟平さん一家>
福岡県の閉山部落に住む一家。
悟平さんの父も、数年前までは大手炭鉱の坑夫だった。
朝早く「カンラク(陥落湖沼)」に魚をとりに行くか、
月に1度の生活保護の日以外は滅多に外に出ない。
年中、こたつの脇の布団の上で、1冊10円の古少年週刊誌を読み、焼酎を飲み、酔って寝る生活。
悟平さんの2人の子どもが若者になった時どうなっているのか真剣に考えなければならない。
<あとがき 重森弘淹~執念のカメラキャンペーン>
「石炭合理化法」は、まず中小炭鉱を潰し、“総資本対総労働の天王山対決”と言われた「三井三池争議」に発展。
1960年、土門拳氏が『筑豊のこどもたち』と題するカメラキャンペーンを展開。
1961年『るみえちゃんはお父さんが死んだ』で世論に衝撃を与えた。
これに刺激された写真家がルポしたが、実際に発表の機会を得た作品はほぼない。
そんな中、本橋氏の「太陽賞受賞」は、飽きっぽい世論やマスコミに対する反撃だといえる。
これはもともと卒業制作として始まったが、卒業後も続け、4年が経過した。
<あとがき 羽仁進>
太陽賞の審査の時に初めて観て、僕はこう書き留めた。
「生命を失った人の、生きている顔の写真」
死の支配する炭鉱の世界が心に深く喰いこむことにより、僕たちは、我が身の周りにある、
飾られ、仮構された生の世界の背後にあるものをハッキリ見ることができる。
<あとがき 本橋成一>
1980年の夏、筑豊在住の上野さんから「後藤静夫が死んだよ」と電話で知らされた。
静夫は自殺だった。川崎の路上で、その日のために買った出刃包丁での切腹。29歳だった。
僕が彼と知り合ったのはまだ小学生の頃。
すでに“問題児”とレッテルを貼られ、「児童センター(特殊学級)」に通っていた。
静夫は、上野さんらのはからいで中学途中で静岡県の舞阪に転校した。
しかし、中学を卒業することなく、自ら筑豊との関係を断ち切るかのように舞阪からも離れていった。
何度かの刑務所暮らしで、一匹狼の覚せい剤密売人となり、出所3日後の自殺の理由は誰にも分からない。
宮島重信さんは、僕と同じ1940年生まれ。
彼は1963年、死者458人、重軽傷者800人以上の「三井三池炭鉱事故」の生き残りの1人。
大勢が一酸化炭素中毒に冒され、家族、自分の記憶も喪失した植物状態となった。
宮島さんは、一番の重傷者として入院していた。
近代国家日本は、なぜもっと真剣に責任をとろうとしないのだろうか。
宮島さんを介護する年老いた父母。家庭までが破壊されてしまった。
宮島さんは、1974年、33歳で他界。父母も後を追うように亡くなった。
鼻先に“豊かさ”という人参をぶらさげられて経済発展、近代国家へつき進んだ四半世紀。
今、僕は、1986年に大事故を起こしたチェルノブイリ原発の写真を撮っている。
改めて『炭鉱』を観ると、同じに見えてくる。
いつも誰かが心と肉体を犠牲にした幻の“豊かさ”。
この写真集が再版され、4年前に亡くなった上野さんに初めて誉めてもらえそうな気がする。
本橋成一(ウィキ参照