■『屠場』(平凡社)
本橋成一/写真
本橋成一さんの写真集シリーズ。
肉を食べるのが好きな人は、一度『屠場』の見学をするか、
自分でブタやウシやらを殺して、皮を剥いで、肉をさばいて、いのちを頂く過程を体験してみるといいと思うんだよなあ。
深夜にこの本を見て、想像以上に衝撃的過ぎて、しばらく眠れなかった。
ますます死んだ動物の肉を食べるのがイヤになった。
『アミ小さな宇宙人』シリーズでもゆってたよね。
※本書は、1986年「いのち・愛・人権」展(池袋西武百貨店)の写真展、
同年公開のドキュメンタリー映画『人間の街』のスチール写真、
1999~2009年、新たに撮影したものを加えた。
【いのちといのちをつなぐ人 本橋成一 内容抜粋メモ】
いつも場内の食堂で昼食をとった。「内臓場」で知り合ったおばちゃんたちがよくごちそうしてくれた。
いつも街のどこかで出会うのが犬と散歩中のSさん。
彼は、屠場で最初に牛と向かい合う技術員「屠夫」。
毎日、解体される何十頭の牛の眉間に、鉄の芯棒が飛び出すピストルを当てる。
夏のある日、蚊がたかっても手の平でそっと追い払い、決して叩かないことに気づいた。
たくさんのいのちと関わっている人の優しさなのだろう。
いつから僕たちは、いのちが見えなくなったのだろうか。
敗戦後、東中野のバラック住まいの我が家で、父は鶏を絞める時、餌係だった僕に必ず手伝わせた。
僕は1羽1羽に名前をつけて可愛がっていて、悲しかったが、
その日の夕食に出される何日かぶりの肉料理を想像すると、嬉しさに変わっていった。
かじり終えた手羽先に少しでも肉がついていると、父は
「成一が可愛がっていた○○ちゃんだろう。しっかり食べてあげなさい」と諭した。
いま、日本をはじめ、食にあふれた国々では、食する生き物たちを屠るために
機械や電気、ガスを使い、自らの手で殺さなくなった。
いま、編集にあたり、新旧屠場の写真を並べると、旧屠場のほうが中心になってしまう。
便利になり、合理化された分、いのちが見えにくくなっているからなのだろう。
【ブログ内関連記事】
『いのちの食べかた』(2008)
『ありあまるごちそう』(2005)
【写真解説メモ】
昼下がり、翌日処理される牛が運びこまれる
屠場の朝は8時から
1頭ずつ追い込み通路へ連れて行く
「屠蓄室」に入れられる前にヘタる牛もいる。
ここには「馬頭観音」が祀られている。
技術員の手で、鉄棒が3cmも飛び出る特殊なピストルで眉間を撃たれて牛は意識を失う
眉間にワイヤーを通され、脊髄を潰され、神経が麻痺した牛はもう立ち上がれない
ノドを切られ、トロリーコンベアで吊るされ、血抜きをしながら運ばれる。いかに早く放血するかが肉の良し悪しを決める
解体作業はナイフ1本
剥がされた皮は専門業者に引き取られる
新屠場には「ノッキング・ペン」(四方を鉄板で囲む狭いスペース)が取り入れられ、作業員の安全が確保された。
新屠場は「トロリーコンベア」が新設され、ナイフ→エアーナイフに変わった
新屠場では解体作業も「分業化」された
電動ノコギリで背割りし、2つの枝肉にされ、翌日の競りにむけ冷蔵室で保管される
カシラ(頭)もナイフ1本で解体される
2001年のBSE検査開始以来、カシラは頬肉を除いて焼却されるようになった。
解体終了後も「内臓処理室」の作業はつづく
「なかのもん(内臓)」は各部位に分けられ、商品になる。レバーは需要が高く、慎重に扱う
足骨もすべて再利用する。骨の脂は「ヘット」、乾燥させた骨粉は肥料に
1日の作業は洗浄で終わる
場内のコンベアスイッチは、脂でいつの間にか牛の顔になっていた
【鎌田慧 解説内容抜粋メモ】
●『炭鉱〈ヤマ〉』(1968)、『上野駅の幕間』(1983)
筑豊と上野は、ともに日本産業の「母郷」というべき存在。
底辺で産業社会を支えた膨大な低賃金労働者の排出口だ。
上野には、彼らを讃えた歌「あゝ上野駅」の歌碑がある。
成一は東京っ子だが、北九州と、北東北の貧農の子孫たちに限りない愛情を込めて2冊の写真集を出した。
昔は「屠殺場」と言われたが、働く人たちのイメージに合わないとして「屠場」となり、
「ほふる」も殺す意味なので、最近は「食肉市場」と言われる。
しかし、言い換えただけで、それに付与された差別はなくならない。
日本人は「殺生は悪」とし、食を生産する仕事ながらも眼をそむけられてきた。
「全芝浦屠場労組」のような労働組合もある。
パリ郊外には「屠場通り」という住所があり、市役所通りなどと同じ即物的な命名にすぎない。
イスラム教徒の男女が、ラマダンの終わりで気合いを入れて屠場の前に並んでいた。
係留場から、鉄カゴに追い込まれ、1回転すると、牛は仰向けで首を差し出す形になる。
そこに颯爽とした屠師が、短い祈りを捧げ、潔く牛の頚をかき切った。
イスラム教徒は、イスラム教徒が屠殺した牛しか食べないと聞く。
成一が撮影したのは、伝統的な大阪・松原屠場の記録。
顔を出したくない人もいて、カメラが入るのも嫌がられるので、写真になることは少なかった。
最初に屠場の写真集をつくった栄光は、その人柄が見込まれたからだろう。
「屠殺」は、生き物相手の労働であり、自動車工場のように画一化された部品に支配された労働ではない。
熟練と重労働という、相矛盾する労働が統一されている。
枝肉となって冷蔵庫にぶら下がるまで30分たらず。
農家から運ばれたいのちが、食肉に宿って街へ出ていく。
工場全体が動物と人間の体温で暖かいのが、機械相手の無機質な工場労働との大きな違いだった。
現代は、牛の眉間の穴にワイヤーが通される
トロリーコンベアに逆さに吊るし、血が肉にまわらないようにする
旧屠場では、1頭を丸ごと3人のチームで解体する
かつて、施盤工は自分で刃先を研いだ
「道具も研磨も会社もち」「怪我と弁当手前もち」になった頃から、労働者は会社に縛られるようになった。
食肉市場のパンフレットには
「1頭の牛や豚が、枝肉、内臓、原皮などの部位に分けられ、製品になる」と書かれている。
「コンベア労働」に分解された工場は、クルマの解体に似ていないこともない。
ハンガーコンベアの流れに従って、面皮剥ぎ、前肢切除、後肢切除、頭落し、舌出し、皮むき、胸割りとすすむ。
横浜屠場OBの話。
「おれなんか横浜の300万市民の台所預かってるって気持ちがあった」
大宮の屠場で10年働いた佐川光晴の『牛を屠る』。
「足もち3年、皮むき8年」と言われていた。
巨大な腹部に一太刀入れると、全内臓が雪崩をうって落下する。
内臓はすべてつながっている、という事実を知らされる瞬間。
内臓はすべて内臓処理工場へ突進する。
部位ごとに分けられ、ホルモン屋などへ直行する。新鮮なほど美味しい。
世界の屠畜事情については、内澤旬子『世界屠畜紀行』に詳しい。
“知ること”から差別的視点から解放される第一歩。この本はその第一歩。
【わしらは人間、わしらこそ人間 吉田明 解説内容抜粋メモ】
屠場と表すのにもってこいの歌詞がある。
昔、部落解放子ども会が家族から聞き取りをし、レコードになった歌詞だ。
「十年たってしもたけど」
1922年、「全国水平社(現部落解放同盟)」の宣言通り、
更池は、江戸時代から身分制度により、死牛馬処理をさせられてきた典型的なムラ。
明治時代、いわゆる「解放令」が出され、政府に仕事が奪われかけた時、
「死活問題だ」と決起した数少ないムラでもある。
私たちは、屠場の仕事に「誇り」を持ってきた。
「人の世の冷たさが、何んなに冷たいか、人間をいたわる事が何んであるかをよく知っている吾々は、
心から人生の熱と光を願求禮讃するものである」
生まれたばかりの新しい生命は、誰かを傷つけてやろう。
誰かを蔑み、差別してやろうなどと思いながら生まれてくるわけではない。
私が小学4年生の時、F君が、Oさんを「やっぱり、更池の子は、ガラが悪い!」と吐き捨てた。
私は先生に抗議した。
先生は顔面蒼白となり、涙をいっぱいためながら「部落差別です」と告げ、黒板に地図を描いた。
「ここからここまでが、江戸時代から身分制度により、差別されてきた更池です」
Oさんは
「お父さんも、お母さんも、近所のおっちゃんやおばちゃんも、
更池の子はガラが悪いから、一緒に遊んだりしたらアカンで!て言うたもん!」
そうなのだ。私や彼女の差別意識は、親や近所から植え付けられたものなのだ。
部落に生まれたことで、結婚を反対され、自殺した兄ちゃん姉ちゃん。
犯してもいない罪で逮捕され、牢獄で苦しむ兄ちゃんがいることを知った。
■本橋成一(ウィキ参照
まだまだ気になる写真集がある。
本橋成一/写真
本橋成一さんの写真集シリーズ。
肉を食べるのが好きな人は、一度『屠場』の見学をするか、
自分でブタやウシやらを殺して、皮を剥いで、肉をさばいて、いのちを頂く過程を体験してみるといいと思うんだよなあ。
深夜にこの本を見て、想像以上に衝撃的過ぎて、しばらく眠れなかった。
ますます死んだ動物の肉を食べるのがイヤになった。
『アミ小さな宇宙人』シリーズでもゆってたよね。
※本書は、1986年「いのち・愛・人権」展(池袋西武百貨店)の写真展、
同年公開のドキュメンタリー映画『人間の街』のスチール写真、
1999~2009年、新たに撮影したものを加えた。
【いのちといのちをつなぐ人 本橋成一 内容抜粋メモ】
いつも場内の食堂で昼食をとった。「内臓場」で知り合ったおばちゃんたちがよくごちそうしてくれた。
いつも街のどこかで出会うのが犬と散歩中のSさん。
彼は、屠場で最初に牛と向かい合う技術員「屠夫」。
毎日、解体される何十頭の牛の眉間に、鉄の芯棒が飛び出すピストルを当てる。
夏のある日、蚊がたかっても手の平でそっと追い払い、決して叩かないことに気づいた。
たくさんのいのちと関わっている人の優しさなのだろう。
いつから僕たちは、いのちが見えなくなったのだろうか。
敗戦後、東中野のバラック住まいの我が家で、父は鶏を絞める時、餌係だった僕に必ず手伝わせた。
僕は1羽1羽に名前をつけて可愛がっていて、悲しかったが、
その日の夕食に出される何日かぶりの肉料理を想像すると、嬉しさに変わっていった。
かじり終えた手羽先に少しでも肉がついていると、父は
「成一が可愛がっていた○○ちゃんだろう。しっかり食べてあげなさい」と諭した。
いま、日本をはじめ、食にあふれた国々では、食する生き物たちを屠るために
機械や電気、ガスを使い、自らの手で殺さなくなった。
いま、編集にあたり、新旧屠場の写真を並べると、旧屠場のほうが中心になってしまう。
便利になり、合理化された分、いのちが見えにくくなっているからなのだろう。
【ブログ内関連記事】
『いのちの食べかた』(2008)
『ありあまるごちそう』(2005)
【写真解説メモ】
昼下がり、翌日処理される牛が運びこまれる
屠場の朝は8時から
1頭ずつ追い込み通路へ連れて行く
「屠蓄室」に入れられる前にヘタる牛もいる。
ここには「馬頭観音」が祀られている。
技術員の手で、鉄棒が3cmも飛び出る特殊なピストルで眉間を撃たれて牛は意識を失う
眉間にワイヤーを通され、脊髄を潰され、神経が麻痺した牛はもう立ち上がれない
ノドを切られ、トロリーコンベアで吊るされ、血抜きをしながら運ばれる。いかに早く放血するかが肉の良し悪しを決める
解体作業はナイフ1本
剥がされた皮は専門業者に引き取られる
新屠場には「ノッキング・ペン」(四方を鉄板で囲む狭いスペース)が取り入れられ、作業員の安全が確保された。
新屠場は「トロリーコンベア」が新設され、ナイフ→エアーナイフに変わった
新屠場では解体作業も「分業化」された
電動ノコギリで背割りし、2つの枝肉にされ、翌日の競りにむけ冷蔵室で保管される
カシラ(頭)もナイフ1本で解体される
2001年のBSE検査開始以来、カシラは頬肉を除いて焼却されるようになった。
解体終了後も「内臓処理室」の作業はつづく
「なかのもん(内臓)」は各部位に分けられ、商品になる。レバーは需要が高く、慎重に扱う
足骨もすべて再利用する。骨の脂は「ヘット」、乾燥させた骨粉は肥料に
1日の作業は洗浄で終わる
場内のコンベアスイッチは、脂でいつの間にか牛の顔になっていた
【鎌田慧 解説内容抜粋メモ】
●『炭鉱〈ヤマ〉』(1968)、『上野駅の幕間』(1983)
筑豊と上野は、ともに日本産業の「母郷」というべき存在。
底辺で産業社会を支えた膨大な低賃金労働者の排出口だ。
上野には、彼らを讃えた歌「あゝ上野駅」の歌碑がある。
成一は東京っ子だが、北九州と、北東北の貧農の子孫たちに限りない愛情を込めて2冊の写真集を出した。
昔は「屠殺場」と言われたが、働く人たちのイメージに合わないとして「屠場」となり、
「ほふる」も殺す意味なので、最近は「食肉市場」と言われる。
しかし、言い換えただけで、それに付与された差別はなくならない。
日本人は「殺生は悪」とし、食を生産する仕事ながらも眼をそむけられてきた。
「全芝浦屠場労組」のような労働組合もある。
パリ郊外には「屠場通り」という住所があり、市役所通りなどと同じ即物的な命名にすぎない。
イスラム教徒の男女が、ラマダンの終わりで気合いを入れて屠場の前に並んでいた。
係留場から、鉄カゴに追い込まれ、1回転すると、牛は仰向けで首を差し出す形になる。
そこに颯爽とした屠師が、短い祈りを捧げ、潔く牛の頚をかき切った。
イスラム教徒は、イスラム教徒が屠殺した牛しか食べないと聞く。
成一が撮影したのは、伝統的な大阪・松原屠場の記録。
顔を出したくない人もいて、カメラが入るのも嫌がられるので、写真になることは少なかった。
最初に屠場の写真集をつくった栄光は、その人柄が見込まれたからだろう。
「屠殺」は、生き物相手の労働であり、自動車工場のように画一化された部品に支配された労働ではない。
熟練と重労働という、相矛盾する労働が統一されている。
枝肉となって冷蔵庫にぶら下がるまで30分たらず。
農家から運ばれたいのちが、食肉に宿って街へ出ていく。
工場全体が動物と人間の体温で暖かいのが、機械相手の無機質な工場労働との大きな違いだった。
現代は、牛の眉間の穴にワイヤーが通される
トロリーコンベアに逆さに吊るし、血が肉にまわらないようにする
旧屠場では、1頭を丸ごと3人のチームで解体する
かつて、施盤工は自分で刃先を研いだ
「道具も研磨も会社もち」「怪我と弁当手前もち」になった頃から、労働者は会社に縛られるようになった。
食肉市場のパンフレットには
「1頭の牛や豚が、枝肉、内臓、原皮などの部位に分けられ、製品になる」と書かれている。
「コンベア労働」に分解された工場は、クルマの解体に似ていないこともない。
ハンガーコンベアの流れに従って、面皮剥ぎ、前肢切除、後肢切除、頭落し、舌出し、皮むき、胸割りとすすむ。
横浜屠場OBの話。
「おれなんか横浜の300万市民の台所預かってるって気持ちがあった」
大宮の屠場で10年働いた佐川光晴の『牛を屠る』。
「足もち3年、皮むき8年」と言われていた。
巨大な腹部に一太刀入れると、全内臓が雪崩をうって落下する。
内臓はすべてつながっている、という事実を知らされる瞬間。
内臓はすべて内臓処理工場へ突進する。
部位ごとに分けられ、ホルモン屋などへ直行する。新鮮なほど美味しい。
世界の屠畜事情については、内澤旬子『世界屠畜紀行』に詳しい。
“知ること”から差別的視点から解放される第一歩。この本はその第一歩。
【わしらは人間、わしらこそ人間 吉田明 解説内容抜粋メモ】
屠場と表すのにもってこいの歌詞がある。
昔、部落解放子ども会が家族から聞き取りをし、レコードになった歌詞だ。
「十年たってしもたけど」
1922年、「全国水平社(現部落解放同盟)」の宣言通り、
更池は、江戸時代から身分制度により、死牛馬処理をさせられてきた典型的なムラ。
明治時代、いわゆる「解放令」が出され、政府に仕事が奪われかけた時、
「死活問題だ」と決起した数少ないムラでもある。
私たちは、屠場の仕事に「誇り」を持ってきた。
「人の世の冷たさが、何んなに冷たいか、人間をいたわる事が何んであるかをよく知っている吾々は、
心から人生の熱と光を願求禮讃するものである」
生まれたばかりの新しい生命は、誰かを傷つけてやろう。
誰かを蔑み、差別してやろうなどと思いながら生まれてくるわけではない。
私が小学4年生の時、F君が、Oさんを「やっぱり、更池の子は、ガラが悪い!」と吐き捨てた。
私は先生に抗議した。
先生は顔面蒼白となり、涙をいっぱいためながら「部落差別です」と告げ、黒板に地図を描いた。
「ここからここまでが、江戸時代から身分制度により、差別されてきた更池です」
Oさんは
「お父さんも、お母さんも、近所のおっちゃんやおばちゃんも、
更池の子はガラが悪いから、一緒に遊んだりしたらアカンで!て言うたもん!」
そうなのだ。私や彼女の差別意識は、親や近所から植え付けられたものなのだ。
部落に生まれたことで、結婚を反対され、自殺した兄ちゃん姉ちゃん。
犯してもいない罪で逮捕され、牢獄で苦しむ兄ちゃんがいることを知った。
■本橋成一(ウィキ参照
まだまだ気になる写真集がある。