■『FOR BEGINNERS シリーズ63 歎異抄』(現代書館)
遠藤誠/著 小林敏也/イラスト 初版1993年 979円
※2001.5~のノートよりメモを抜粋しました。
※「読書感想メモリスト2」カテゴリーに追加しました。
(今作も、当時、『葉隠』とともに気に入っていた1冊
“FOR BEGINNERS シリーズ”は、イラストがふんだんで分かり易い 2016
【内容抜粋メモ】
『歎異抄』
親鸞聖人(鎌倉時代 1173~1262)
仏教の教えを弟子の唯円(ゆいえん)師が筆録したもの
“聖人の教えがねじ曲げられて伝えられるのを嘆き悲しんで書いた”ことからタイトルがついた
レヴェルの下がった「浄土真宗」、道元禅師の『曹洞宗』
「阿弥陀」
サンスクリット語の「アミターユス(無限の命)」、「アミターバ(無限の光)」
無始の過去から無終の未来への宇宙生命(意志)
死んでものこるmyself=霊
無量光・無量寿=阿弥陀如来と出会い、三途の川を越え、涅槃(死と最高の平和)に導かれる
「弥陀の誓願」衆生のすべてを救おうとする意志
「摂取不捨の利益」救っていただく利益(りやく)
●「南無阿弥陀仏」
「南無」
サンスクリット語の「ナマス」「ナモ」
すべてを任せ、身も心も投げ入れること=帰依
念仏を唱えようと思った時に、すでに救われているという教え
真っ先に救われるのは、信じきれた人
中でも罪や煩悩の深い者は、なにかの拍子に目覚めると、本物の信心を持てるから、念仏に勝る
善行はなく、本願に反するより以上の悪行はない
心・体・命もすべて預けて初めて救われる
●阿弥陀如来
お釈迦様→中国の善導大師→法然聖人→親鸞(流罪赦免後20年間、関東で布教し、京都へ)
長男・善鸞に関東を任せ、高慢な彼と高弟との間でもめて、直談判した時の答えは、
何の条件も駆け引きもなく信じる その選択は自分にある
恵信尼と結婚し、7人の子どもをもうける
絶対的幸福=居直り
●禅も「他力」
道元禅師(1200~1253)『正法眼蔵』にて
「こざかしい人の心で、ああでもない、こうでもないと思いはかってはならない
言葉では到底、表現できない世界だ
体も心も放ち忘れれば、自然に如来が働きかけ、迷い、苦しみから離れ、
生きたまま仏となる=悟り、救いという」
●「往生」
人が死して、極楽浄土に往(ゆ)き、生まれ変わること
聖人は、生きたまま往生できると説いた
中国の天台智覬の言う「十界」は、各界にそれぞれ10コ具っている
「娑婆即寂光土」
娑婆:生きている世界
寂光土:極楽浄土
<十界>
仏界(極楽浄土)
菩薩界
縁覚界
声聞界
六道
天界(神)
人界
修羅界(闘い続ける生物)
畜生界(動物)
飢餓界
地獄界
弥陀の本願
「世自在王仏」という仏(悟って如来と一体化した人)の弟子、法蔵菩薩の48の誓願のこと
18番
「悟って仏となっても、人々が皆10回念じて(“阿弥陀仏”を心の中で10回念ずること)極楽に行けなかったら、私も救われまい」
『無量寿経』で法蔵は悟り、阿弥陀仏となって西方浄土にいる
つまり、全人類はすでに皆救われている それに気づいていないだけ
善人より悪人が先に救われる
「自力作善の人」
富、名誉をもつ少数派 善を行っていると思っていても、悪を行う人
「他力を頼みたてまつる悪人」
貧しさ等の理由で善を行えない人、大多数
「自力作善の人」は、自分の力を越えた大いなる力を頼むようになれば、この世とあの世で救われる
「大慈悲心」
慈悲:慈(あわれみ)+悲(かなしみ)+はぐくむ
「聖道門」
真言宗(祈祷で人を救う)
天台宗=法華経に従い、心身を清め、自分より他人を救う 例:宮沢賢治
臨済宗・曹洞宗(坐禅)
「浄土門」
念仏の道
浄土門の慈悲
念仏を唱え、仏となって、人を思う通りに救うこと
「往相回向」念仏を唱え、死後、浄土で生まれること
「還相回向」浄土で仏となって、この世の衆生を助けに戻ること=「往還回向」
人の悩み、苦しみは、貧(むさぼり)+瞋(怒り)+痴(おろかさ)から生じる
人が人を救うのは、首尾一貫せず難しい
大いなる命にすべて任せて、うながされるままだとかえって結果がいい
親鸞の生い立ち
京都の下級公卿の子 幼くして母を亡くし、父は出家
9人の兄弟のうち、親鸞含め4人が口減らしに出家させられ、
その後、父も死去 親への思慕を生涯持ち続けた
「六道輪廻」
すべての生物(情のある者)は、六つの世界で必ず何度も生まれ変わる
「父母のために念仏を唱えたことはない」
地球上のすべての人間(生きている人も、死んだ人も)皆私の父母兄弟だからだ
両親2人×2×2・・・していくと40代目は1兆人となるが、実際は500万人
生きている間は自力を捨て、他力の念仏を唱え、死後いそいで仏になったら
神通力をもって、苦しむ者がいたら、まず縁のある父母兄弟から救ってあげよう
「相論」(「諍論」と同)
弟子が鞍替えして師が争うことは、論外 私には弟子は1人もいない 私は如来の取次ぎ役(御うながし)
弟子の信仰心は如来が与えたもの
因=無限の過去から現在まで積み重ねてきた行為
縁=原因を取りまく条件、周囲の状況
「つくべき縁あればともなひ、はなれるべき縁あればはなるる」
経典類を捨てたとしても「有情群類(獣、虫など)」が見て、ご利益により人に生まれ変わるだろう
「自然法爾(じねんほうに)」
親鸞が90年の生涯の最後に到達した世界
左脳の働きを止め、大宇宙の永遠のいのちに生死もお任せすること
何事も自然にゆだね、カラッポのラクになること
「念仏は、魔界・下道ほか何ものも妨げることのできないただ1本の道である」
親鸞「本当に信心決定(けつじょう)した念仏者は、諸仏に等しい」
本当の念仏は、他力、つまり如来が、その人の口を借りて唱える行為なので
その人自身の力とは無関係なわけだから、如来の善にはなるが、当人の善にはならない
「念仏して歓喜せず、すぐ死んで浄土に行きたいという気持ちもしないのはどうしてか?」
という唯円房の問いに「同感だ だからなお往生が決定しているのだ」
唯円房:
茨城の山中で猟師をしていた荒くれ者で、妻を殺した
煩悩の強い熾盛(しじょう)から救われる故に
釈迦いわく「自分は水しぶき、陽炎のようだと悟る者は、悪魔の花を破り、死神を見ることはない」
●諸行無常の鉄則
あらゆるものは移り変わるという宇宙の鉄則を感じとる人は
常に死を考え、現在を最高度に生きる者だ
今日の自分は、昨日の自分ではなく、明日の自分は、今日の自分ではない
劫(こう)=時間の単位
人間界は苦悩の世界なのに、馴染んで知ったる今世への執着が強く
浄土へは行ったことがないため、恋しいと思わない
人の記憶などに執着し、浄土を信じられないことこそ煩悩の仕業だ
六道には「生老病死」があるが、仏界に往生したら、人界に生まれ変わることはない
次の世
↑(中有)人によって転生は一瞬or数千年かかる 俗に言う「霊界」「仏界」へ行く場合は瞬間的
現世
念仏は「無義」をもて「義(意味、理屈)」とす
理由=不可思議な言語を超えた世界故に
遠藤誠/著 小林敏也/イラスト 初版1993年 979円
※2001.5~のノートよりメモを抜粋しました。
※「読書感想メモリスト2」カテゴリーに追加しました。
(今作も、当時、『葉隠』とともに気に入っていた1冊
“FOR BEGINNERS シリーズ”は、イラストがふんだんで分かり易い 2016
【内容抜粋メモ】
『歎異抄』
親鸞聖人(鎌倉時代 1173~1262)
仏教の教えを弟子の唯円(ゆいえん)師が筆録したもの
“聖人の教えがねじ曲げられて伝えられるのを嘆き悲しんで書いた”ことからタイトルがついた
レヴェルの下がった「浄土真宗」、道元禅師の『曹洞宗』
「阿弥陀」
サンスクリット語の「アミターユス(無限の命)」、「アミターバ(無限の光)」
無始の過去から無終の未来への宇宙生命(意志)
死んでものこるmyself=霊
無量光・無量寿=阿弥陀如来と出会い、三途の川を越え、涅槃(死と最高の平和)に導かれる
「弥陀の誓願」衆生のすべてを救おうとする意志
「摂取不捨の利益」救っていただく利益(りやく)
●「南無阿弥陀仏」
「南無」
サンスクリット語の「ナマス」「ナモ」
すべてを任せ、身も心も投げ入れること=帰依
念仏を唱えようと思った時に、すでに救われているという教え
真っ先に救われるのは、信じきれた人
中でも罪や煩悩の深い者は、なにかの拍子に目覚めると、本物の信心を持てるから、念仏に勝る
善行はなく、本願に反するより以上の悪行はない
心・体・命もすべて預けて初めて救われる
●阿弥陀如来
お釈迦様→中国の善導大師→法然聖人→親鸞(流罪赦免後20年間、関東で布教し、京都へ)
長男・善鸞に関東を任せ、高慢な彼と高弟との間でもめて、直談判した時の答えは、
何の条件も駆け引きもなく信じる その選択は自分にある
恵信尼と結婚し、7人の子どもをもうける
絶対的幸福=居直り
●禅も「他力」
道元禅師(1200~1253)『正法眼蔵』にて
「こざかしい人の心で、ああでもない、こうでもないと思いはかってはならない
言葉では到底、表現できない世界だ
体も心も放ち忘れれば、自然に如来が働きかけ、迷い、苦しみから離れ、
生きたまま仏となる=悟り、救いという」
●「往生」
人が死して、極楽浄土に往(ゆ)き、生まれ変わること
聖人は、生きたまま往生できると説いた
中国の天台智覬の言う「十界」は、各界にそれぞれ10コ具っている
「娑婆即寂光土」
娑婆:生きている世界
寂光土:極楽浄土
<十界>
仏界(極楽浄土)
菩薩界
縁覚界
声聞界
六道
天界(神)
人界
修羅界(闘い続ける生物)
畜生界(動物)
飢餓界
地獄界
弥陀の本願
「世自在王仏」という仏(悟って如来と一体化した人)の弟子、法蔵菩薩の48の誓願のこと
18番
「悟って仏となっても、人々が皆10回念じて(“阿弥陀仏”を心の中で10回念ずること)極楽に行けなかったら、私も救われまい」
『無量寿経』で法蔵は悟り、阿弥陀仏となって西方浄土にいる
つまり、全人類はすでに皆救われている それに気づいていないだけ
善人より悪人が先に救われる
「自力作善の人」
富、名誉をもつ少数派 善を行っていると思っていても、悪を行う人
「他力を頼みたてまつる悪人」
貧しさ等の理由で善を行えない人、大多数
「自力作善の人」は、自分の力を越えた大いなる力を頼むようになれば、この世とあの世で救われる
「大慈悲心」
慈悲:慈(あわれみ)+悲(かなしみ)+はぐくむ
「聖道門」
真言宗(祈祷で人を救う)
天台宗=法華経に従い、心身を清め、自分より他人を救う 例:宮沢賢治
臨済宗・曹洞宗(坐禅)
「浄土門」
念仏の道
浄土門の慈悲
念仏を唱え、仏となって、人を思う通りに救うこと
「往相回向」念仏を唱え、死後、浄土で生まれること
「還相回向」浄土で仏となって、この世の衆生を助けに戻ること=「往還回向」
人の悩み、苦しみは、貧(むさぼり)+瞋(怒り)+痴(おろかさ)から生じる
人が人を救うのは、首尾一貫せず難しい
大いなる命にすべて任せて、うながされるままだとかえって結果がいい
親鸞の生い立ち
京都の下級公卿の子 幼くして母を亡くし、父は出家
9人の兄弟のうち、親鸞含め4人が口減らしに出家させられ、
その後、父も死去 親への思慕を生涯持ち続けた
「六道輪廻」
すべての生物(情のある者)は、六つの世界で必ず何度も生まれ変わる
「父母のために念仏を唱えたことはない」
地球上のすべての人間(生きている人も、死んだ人も)皆私の父母兄弟だからだ
両親2人×2×2・・・していくと40代目は1兆人となるが、実際は500万人
生きている間は自力を捨て、他力の念仏を唱え、死後いそいで仏になったら
神通力をもって、苦しむ者がいたら、まず縁のある父母兄弟から救ってあげよう
「相論」(「諍論」と同)
弟子が鞍替えして師が争うことは、論外 私には弟子は1人もいない 私は如来の取次ぎ役(御うながし)
弟子の信仰心は如来が与えたもの
因=無限の過去から現在まで積み重ねてきた行為
縁=原因を取りまく条件、周囲の状況
「つくべき縁あればともなひ、はなれるべき縁あればはなるる」
経典類を捨てたとしても「有情群類(獣、虫など)」が見て、ご利益により人に生まれ変わるだろう
「自然法爾(じねんほうに)」
親鸞が90年の生涯の最後に到達した世界
左脳の働きを止め、大宇宙の永遠のいのちに生死もお任せすること
何事も自然にゆだね、カラッポのラクになること
「念仏は、魔界・下道ほか何ものも妨げることのできないただ1本の道である」
親鸞「本当に信心決定(けつじょう)した念仏者は、諸仏に等しい」
本当の念仏は、他力、つまり如来が、その人の口を借りて唱える行為なので
その人自身の力とは無関係なわけだから、如来の善にはなるが、当人の善にはならない
「念仏して歓喜せず、すぐ死んで浄土に行きたいという気持ちもしないのはどうしてか?」
という唯円房の問いに「同感だ だからなお往生が決定しているのだ」
唯円房:
茨城の山中で猟師をしていた荒くれ者で、妻を殺した
煩悩の強い熾盛(しじょう)から救われる故に
釈迦いわく「自分は水しぶき、陽炎のようだと悟る者は、悪魔の花を破り、死神を見ることはない」
●諸行無常の鉄則
あらゆるものは移り変わるという宇宙の鉄則を感じとる人は
常に死を考え、現在を最高度に生きる者だ
今日の自分は、昨日の自分ではなく、明日の自分は、今日の自分ではない
劫(こう)=時間の単位
人間界は苦悩の世界なのに、馴染んで知ったる今世への執着が強く
浄土へは行ったことがないため、恋しいと思わない
人の記憶などに執着し、浄土を信じられないことこそ煩悩の仕業だ
六道には「生老病死」があるが、仏界に往生したら、人界に生まれ変わることはない
次の世
↑(中有)人によって転生は一瞬or数千年かかる 俗に言う「霊界」「仏界」へ行く場合は瞬間的
現世
念仏は「無義」をもて「義(意味、理屈)」とす
理由=不可思議な言語を超えた世界故に