丸木位里・俊夫妻をもっと知りたくて予録した
その他の2人の画家を知れたことも貴重
『ふたりの画家 丸木位里・丸木俊の世界』(晶文社)
『ふたりの画家 丸木位里・丸木俊の世界 本橋成一写真展』@丸木美術館
本橋成一さんについては※「作家別」参照
平塚市美術館に、戦後を代表する3つのシリーズが初めて一堂に会した
黒い油絵、モノクロ写真、黒い屏風画、どれも1945年敗戦の果てに生まれた
館長代理・土方さん:
発表当時から衝撃的で半ば伝説化している作品群
現在の視点で改めて見直すことで、戦争という時代の大きな悲劇を考えることに通じるのではと考えている
香月泰男:
兵士として体験した戦争と抑留の記憶を「シベリアシリーズ」として描き続けた 57点の多くは黒が基調
丸木位里・俊夫妻:
原子爆弾を描いた画家 「原爆の図」と呼ばれる15点のシリーズには悲しみが満ちている
川田喜久治:
原爆ドームに現れたシミを撮り、現代日本を映し出した写真家
展覧会を訪れた80代女性:
ゲームの中の戦争じゃないってことをみんなに感じて欲しい
20代美大生:
ほんとかなっていろいろと考えちゃう リアルのようで、リアルじゃない
30代・3児の母:
実際に戦争になった時、子どもたちが関わっていかなければならないのかなっていうのが気になる
小学生の男子:
死んだ人たちがあの世に行く時の絵かなっと思った(涙
死の意味、戦の果てに何を見たか、黒い作品に耳をすます
土方さん:
4人の共通点はない 作品は黒が共通する そして、それぞれ「沈黙の時間」がある
香月は抑留以降、丸木は原爆を絵にするまで、川田はシミを見てから
観る方に相乗して違った見方が出るかもしれない
小栗康平さん(映画監督):
意図して企画しないかぎり3つの作者が一堂に会することはまずない
つないでいるのは1945年という1点ですからフシギな組み合わせ
●香月の「シベリアシリーズ」57点
黒の表現が圧倒的な中で異彩を放つのは「埋葬」
1人の男が過酷な抑留生活で死んだ戦友を弔う光景
日本に戻った翌年1948年、最初に描いた
香月インタビュー:
死んだ戦友のために明るい雰囲気に描いてやろうと思って
それは可哀相だと思う気持ちもあるし、これで日本に帰れるのかという羨望の気持ちもあった
弔う者が死者を羨むほど厳しい抑留生活
この絵の男の顔は描けなかったという
この後、シベリヤを10年近く封印する
満州に出征したのは32歳の時
戦地で2年、敗戦後は捕虜となり、2年間強制労働を強いられた
氷点下30度を下回るシベリヤの冬 寒さと飢えで収容所の仲間
250人のうち30人余りが半年後に亡くなった
なんとか帰国し、故郷で高校教師をしながら再び筆をとる
シベリヤを封印し、身近な草花を描くことに熱中した
(なんて素晴らしい自然が残っているんだ/驚
台所には香月が願う色鮮やかな宇宙が出現
しかし、次第にアトリエにこもり、シベリアの夢をよく見るようになる
(自然に心を癒されて、やっと表現できる準備が出来たのかも
板倉さん:
心の葛藤というか、泣きながら描いていることもあった
先生は、シベリアのことを話すのが嫌いでした しまいこんでいた
婦美子さん:
ときどきポツポツと木の根を食べたとかは話した
ものすごく辛かったんでしょうね
この頃の絵んお人物の多くは影か後姿
「もはや戦後ではない」と言われた1950年代半ば
ハトの足をつかんだ青年の姿を描いた
香月の一文:
戦争という膨大な犠牲の代償として唯一与えられたものは
戦争への憎悪による平和への願望だったはずなのに
日本人は今、それを忘却しようとしている
私も耽美的な仕事ばかりしているわけにはいかない
鳩が飛ぶ時ではない
中東、朝鮮半島などでは戦争がまた起きていた
画家として自分ができることはなにか シベリアと向き合う覚悟をする
それは自分の顔を探すことから始まる
亡くなった戦友たちの顔 個性が削ぎ落とされていく 香月自身の顔 そして黒
抑留中、絵の具代わりの煤を手がかりに、シベリアの色を木炭に見つけた
封印して10年後、描き始めた
『私のシベリヤ』より
シベリヤのことなんか思い出したくはない
しかし、白い画布を前に絵の具をねっていると
そこにシベリヤが浮かび上がってくる
絵にしようと思って、絵にするのではない
絵はすでにそこにある
香月に戦友の弔いの記憶が甦る 生ける者も、死ぬ者も包み込む悟りの境地
『私のシベリヤ』より
シベリヤを描きながら、私はもう一度シベリヤを体験している
私にとってシベリヤは、一体何であったのか
私に襲いかかり、私を飲み込み、私を押し流していったシベリヤを
今度は私が画布の中に飛び込み、ねじ伏せることによって、それをとらえようとする
シベリアを描くことは香月にとって果てしない格闘だった
土方さん:
特徴は、この黒と顔 おそらく香月さんは復員直後「埋葬」を描いた
とにかく早く絵が描きたい一念だったと思うが、自身は描いた後、納得できなかった
あまりに強烈な4年間が表現できていない
「涅槃」のほうはまったく違う 記憶、イメージを抽象させる時間があった
(伊藤アナ泣いてる?
小栗:
生き延びた香月が屍を描けるか、その問いはとても深くて大きいと思う
人物を描く時に、希望的な抽象化をもっていることと
とにかく遠くへ置いて、風景の一点にしている 近寄る強さを持てないから
結果として面白い風景画が誕生したところが香月の面白さだなと思う
どんな絵画でも、永遠性、持続性があると思うが、香月の場合「祈り」にも置き換えられる画業だったのではないか
『雨』(1968)
●丸木位里・俊夫妻
第1作目「幽霊」は、原爆投下直後の人々の姿
丸木夫妻は絶望を絵にすることに敢えて挑んだ
原爆投下から3年後に始まり、30年余りにわたって描かれた「原爆の図」
水墨の滲みが人々の苦しみをより際立てている
位里は日本画家、俊は洋画家
人物は俊が描き、構図や水墨の表現は位里が受け持った
俊:
「お前のはリアルに出過ぎる 生々し過ぎる」って、墨かけるんですよデ~って
あら、消えちゃったあと思ってね 困ったなあと思ってると
墨色っていうのがあって、その色の強弱が私は分からなかった、はじめ
真っ黒けになった それがずーっと乾いてくると ちょうどいい按配なんですね
1945年8月6日 広島で原子爆弾が炸裂し、無数の命が一瞬で奪われた
広島は位里の故郷だった
「殺人光線で町が全滅」という噂を聞き、原爆投下の4日後に駆けつけた
位里:
臭いの臭くないの あれは人がたくさん死んだのが腐ったり、焼けたりして
そこへウジがわく 大変なうわぁ~ってハエになるんだ
原爆で父と親族を失った位里
茫然自失の中、俊とともに怪我人の手当てに奔走した
この時、2人は後に絵にするとは思いもしていなかった
岡村さん:
戦争が終わって、最初の頃は新しい平和な時代が来た
自分たちは解放されたんだという思いが2人の中にあったと思う
原爆投下後3年目の夏に2人は初めて、描かなければいけないという気持ちが出てくる
その背景には、人々の間に一切原爆の話があがってこないからだった
厳しい検閲があって、新聞・雑誌が一切報道していなかった
(今も検閲がまったくないと言い切れるだろうか
米ソの対立が激化
戦争・紛争の火種が世界各地でくすぶりだした
核実験も本格的に始まった
アメリカの核実験(1946~)(~になってるのは、それからずーーーーーっとやってるってことだ
岡村さん:
「原爆の図」は1945年8月の出来事だけれども、
もうすぐ自分たちのところにやって来る未来でもあるんじゃないか
という意識が2人の間で高まったのではないか
原爆投下から3年後の夏 丸木夫妻は「原爆の図」に取りかかるが
当日の爆心地のことを何も知らないことに気づいた
手がかりとなったのは母・スマさん(ステキな黒ネコさんがいるよ
爆心地から2.5kmにいたスマさんは、その時の光景を絵にした
それは全身に大火傷を負った幽霊のような女性の姿
2人はその地獄絵のような風景を想像し、「原爆の図」にしていった
1950年 「原爆の図」が発表されると、全国で展覧会が開かれ
多くの日本人が原爆の惨状を初めて知った
(これだけマスコミが発達していても、検閲がかかっただけで、当の日本人ですら知らなかったって・・・
しかし、観た人の中から思いがけない声が出た
俊:
「オレは被爆者だあ!」っていう人がいて
「原爆はこんなことじゃない! もっと酷い様子だった
自分の娘は体中黒焦げになったから、焼け過ぎた魚のようになっていた
手足の指先がポロポロと落ちてた そういう絵がないじゃないかあ!」ていうのね
「作者はどこにおる?!」ていうから「私です」ってゆったら
「私の娘のようなのを描いて欲しい!」て言ったの
被爆者の切なる声が夫妻の心に響いた
大きな画面には、無数の傷ついた人々の姿が、より丁寧に描かれていった
岡村さん:
目で見たものをそのまま描くのではない
背景は一切省略して余白のまま 人間の群像のみ
敢えて中心点を作らず、隅から隅、画面の外にも広がっていくように視点を広げる描き方をしている
これは、これまでの絵画のセオリーから外れるもの
丸木夫妻が原爆を描く時、同時多発的に無数の命が傷つけ、奪われていった
それを絵画として表現するために、どうしても必要な手段だったと思う
土方さん:
香月さんは、個人の記憶を元に描いている
丸木位里・俊夫妻は集団の記憶を描いている
そのためには語りの構図が必要になる
その時、日本の伝統的な表現法がすごく役に立つ
「異時同図」(絵巻物などの描き方)
異なる時間、事柄などを1つの画面の中に構成する
これは西洋的な技法では描き得ない表現
伊藤アナ:
8月6日のことを伝える時、一番難しいのは
1人1人の命の数を表現することだと毎年思う
それを丸木夫妻は、それぞれの得意分野をもって
1人1人の命の結末を見事に表現している
小栗さん:
ニュースフィルムにしても、絵画としても、図像としてありのままを見せるわけにはいかないものだと思う
しかし、人類はそれを体験したわけですから、それを見えるものとしてどう再構成するか、というのが作家の仕事
●川田喜久治
伝説の写真集「地図」
川田:
この本を作るのに長くかかったものですから、何度も観たことないんですよ
作り終わって、ああ、やっとできたと思って、あと振り返って見ない
高度経済成長期の1965年
当時20代の川田が原爆ドームでフシギなシミと遭遇したことから生まれた
シミは、あの日原爆ドームの中で一瞬で消えた人々の存在を暗示している
肉弾となって果てた兵士の銅像、放射能がもたらしたケロイドの肌、
町工場の鉄くず、勲章を誇らしげにかざす老人、
菊の紋章と、瓶の栓
シミは想像を絶する破壊の世界と、戦後の今がつながっていることを語っている
71年目の終戦の日
川田はこの日もカメラを手に歩いていた 今年83歳
(シミがとにかく好きなのね
スタッフ:今日は終戦日ですが、追悼式はご覧になりましたか?
川田:ちょっと見ましたね
1945年の敗戦の日、川田は12歳だった
戦時中は、米軍機が飛来すると「肝試し」と称して、橋の上を走る少年だった
川田:
写真集をこうしてもう1回観直していくと
僕はものすごい夢中になってシミを撮ってたみたいですね(今も同じでは?
ほんとに困ったもんだなw 笑いたくなるくらいシミばっかり撮ってたんですね、コレ
川田の一文より:
雨が降り続く初夏の夕暮れ
孤立しているような原爆ドームに私は一人で忍び込んでいた
暗く湿った地下天井の裂け目から目が離れなくなってしまった
川田がシミと遭遇したのは、原爆から12年後
川田:
これは今までにない、ある種の死を見るような そういう感じ方で寒気がした
沈黙して祈りをこめたまま撮影を終えたといっても過言じゃない
緊張のしっぱなしで、早くこの場を逃れようとしていた
2016年 原爆ドーム内部
(今は、内部は許可がないと入れないの? 崩れるかもしれないから?
あら、ここにもステキな黒いにゃんこがいる
壁にはさまざまなシミが今も浮かんでいる
(昼間のせいか、モノクロの写真集のような怖さは感じられないな
「もはや戦後ではない」と言われた50年前 24歳の写真家は一人黙々とシミを撮った
川田:
写真って一番深い記憶というものに関連してる
その記憶を忘れてしまうってことは、未来を忘れ、何も感じないということ
未来を忘れないための88枚の写真 それを「地図」と名づけた
2016年夏 川田は半世紀ぶりに広島を訪れた
原爆の後、激しく降った黒い雨の痕跡をカメラにおさめた
伊藤アナ:ストイックというか、覚悟に満ちていますね
小栗さん:
僕らはこう人と話をして、言葉で生きてると思うけれど
実のところは、事物と一緒に生きている
食べること、衣服もそうだし 我々はモノと暮らしている
そのモノとの出会い方が、みんな違うわけですよね
モノと一緒という強い主張がここにある
(時間的に順を追って観ていくと、最後は私たちに近い時代の川田さんの作品で終わるため
伊藤アナ:観る側にとっても蓄積しますよね なんか想いがあふれます
(やっぱり女性は感情、男性は論理的な視点でものを見ていることが分かるコメント
新さんのコメントがこれまでほとんどなかったが、「どうでしたか?」と聞かれて
新さん:
本当に沈黙させられますね でもけして静寂ではないな それは黒からも感じた
すべてを覆い尽くしてしまう、何もない無のような黒でありながらも
そこにはたくさんの色も見えてきて、いろんな声、叫びが聞こえてくるなと感じました
土方さん:
とにかく、今、戦争、核の問題が常態化している
朝、テレビをつけると、また戦争、紛争、核
我々も感覚がマヒしているのかもしれない
改めて、黒と沈黙の時間をもって一級の芸術作品に高めたシリーズ群を観ていただくということも
貴重な体験になるのではと思う
小栗さん:
過去って順番でつながってるわけじゃない
歴史というと、私たちはすぐに何年にこれがあってって、
そこからいかに遠ざかったかというような考え方をもってしまうが
この作家たちが向き合った時間がそれぞれ違うように
過去は順不同で、いくらでもニョキっと顔を出したり、入れ替わったりする
この感覚をしっかり掴まないと、いつどうやって恐ろしいことが始まっているのかっていうことにも鈍くなってしまう
過去は動いているっていう意識さえもっていれば、
もうちょっと現在の捉え方について警戒し、ものを考えることもできるんじゃないかとも思う
その他の2人の画家を知れたことも貴重
『ふたりの画家 丸木位里・丸木俊の世界』(晶文社)
『ふたりの画家 丸木位里・丸木俊の世界 本橋成一写真展』@丸木美術館
本橋成一さんについては※「作家別」参照
平塚市美術館に、戦後を代表する3つのシリーズが初めて一堂に会した
黒い油絵、モノクロ写真、黒い屏風画、どれも1945年敗戦の果てに生まれた
館長代理・土方さん:
発表当時から衝撃的で半ば伝説化している作品群
現在の視点で改めて見直すことで、戦争という時代の大きな悲劇を考えることに通じるのではと考えている
香月泰男:
兵士として体験した戦争と抑留の記憶を「シベリアシリーズ」として描き続けた 57点の多くは黒が基調
丸木位里・俊夫妻:
原子爆弾を描いた画家 「原爆の図」と呼ばれる15点のシリーズには悲しみが満ちている
川田喜久治:
原爆ドームに現れたシミを撮り、現代日本を映し出した写真家
展覧会を訪れた80代女性:
ゲームの中の戦争じゃないってことをみんなに感じて欲しい
20代美大生:
ほんとかなっていろいろと考えちゃう リアルのようで、リアルじゃない
30代・3児の母:
実際に戦争になった時、子どもたちが関わっていかなければならないのかなっていうのが気になる
小学生の男子:
死んだ人たちがあの世に行く時の絵かなっと思った(涙
死の意味、戦の果てに何を見たか、黒い作品に耳をすます
土方さん:
4人の共通点はない 作品は黒が共通する そして、それぞれ「沈黙の時間」がある
香月は抑留以降、丸木は原爆を絵にするまで、川田はシミを見てから
観る方に相乗して違った見方が出るかもしれない
小栗康平さん(映画監督):
意図して企画しないかぎり3つの作者が一堂に会することはまずない
つないでいるのは1945年という1点ですからフシギな組み合わせ
●香月の「シベリアシリーズ」57点
黒の表現が圧倒的な中で異彩を放つのは「埋葬」
1人の男が過酷な抑留生活で死んだ戦友を弔う光景
日本に戻った翌年1948年、最初に描いた
香月インタビュー:
死んだ戦友のために明るい雰囲気に描いてやろうと思って
それは可哀相だと思う気持ちもあるし、これで日本に帰れるのかという羨望の気持ちもあった
弔う者が死者を羨むほど厳しい抑留生活
この絵の男の顔は描けなかったという
この後、シベリヤを10年近く封印する
満州に出征したのは32歳の時
戦地で2年、敗戦後は捕虜となり、2年間強制労働を強いられた
氷点下30度を下回るシベリヤの冬 寒さと飢えで収容所の仲間
250人のうち30人余りが半年後に亡くなった
なんとか帰国し、故郷で高校教師をしながら再び筆をとる
シベリヤを封印し、身近な草花を描くことに熱中した
(なんて素晴らしい自然が残っているんだ/驚
台所には香月が願う色鮮やかな宇宙が出現
しかし、次第にアトリエにこもり、シベリアの夢をよく見るようになる
(自然に心を癒されて、やっと表現できる準備が出来たのかも
板倉さん:
心の葛藤というか、泣きながら描いていることもあった
先生は、シベリアのことを話すのが嫌いでした しまいこんでいた
婦美子さん:
ときどきポツポツと木の根を食べたとかは話した
ものすごく辛かったんでしょうね
この頃の絵んお人物の多くは影か後姿
「もはや戦後ではない」と言われた1950年代半ば
ハトの足をつかんだ青年の姿を描いた
香月の一文:
戦争という膨大な犠牲の代償として唯一与えられたものは
戦争への憎悪による平和への願望だったはずなのに
日本人は今、それを忘却しようとしている
私も耽美的な仕事ばかりしているわけにはいかない
鳩が飛ぶ時ではない
中東、朝鮮半島などでは戦争がまた起きていた
画家として自分ができることはなにか シベリアと向き合う覚悟をする
それは自分の顔を探すことから始まる
亡くなった戦友たちの顔 個性が削ぎ落とされていく 香月自身の顔 そして黒
抑留中、絵の具代わりの煤を手がかりに、シベリアの色を木炭に見つけた
封印して10年後、描き始めた
『私のシベリヤ』より
シベリヤのことなんか思い出したくはない
しかし、白い画布を前に絵の具をねっていると
そこにシベリヤが浮かび上がってくる
絵にしようと思って、絵にするのではない
絵はすでにそこにある
香月に戦友の弔いの記憶が甦る 生ける者も、死ぬ者も包み込む悟りの境地
『私のシベリヤ』より
シベリヤを描きながら、私はもう一度シベリヤを体験している
私にとってシベリヤは、一体何であったのか
私に襲いかかり、私を飲み込み、私を押し流していったシベリヤを
今度は私が画布の中に飛び込み、ねじ伏せることによって、それをとらえようとする
シベリアを描くことは香月にとって果てしない格闘だった
土方さん:
特徴は、この黒と顔 おそらく香月さんは復員直後「埋葬」を描いた
とにかく早く絵が描きたい一念だったと思うが、自身は描いた後、納得できなかった
あまりに強烈な4年間が表現できていない
「涅槃」のほうはまったく違う 記憶、イメージを抽象させる時間があった
(伊藤アナ泣いてる?
小栗:
生き延びた香月が屍を描けるか、その問いはとても深くて大きいと思う
人物を描く時に、希望的な抽象化をもっていることと
とにかく遠くへ置いて、風景の一点にしている 近寄る強さを持てないから
結果として面白い風景画が誕生したところが香月の面白さだなと思う
どんな絵画でも、永遠性、持続性があると思うが、香月の場合「祈り」にも置き換えられる画業だったのではないか
『雨』(1968)
●丸木位里・俊夫妻
第1作目「幽霊」は、原爆投下直後の人々の姿
丸木夫妻は絶望を絵にすることに敢えて挑んだ
原爆投下から3年後に始まり、30年余りにわたって描かれた「原爆の図」
水墨の滲みが人々の苦しみをより際立てている
位里は日本画家、俊は洋画家
人物は俊が描き、構図や水墨の表現は位里が受け持った
俊:
「お前のはリアルに出過ぎる 生々し過ぎる」って、墨かけるんですよデ~って
あら、消えちゃったあと思ってね 困ったなあと思ってると
墨色っていうのがあって、その色の強弱が私は分からなかった、はじめ
真っ黒けになった それがずーっと乾いてくると ちょうどいい按配なんですね
1945年8月6日 広島で原子爆弾が炸裂し、無数の命が一瞬で奪われた
広島は位里の故郷だった
「殺人光線で町が全滅」という噂を聞き、原爆投下の4日後に駆けつけた
位里:
臭いの臭くないの あれは人がたくさん死んだのが腐ったり、焼けたりして
そこへウジがわく 大変なうわぁ~ってハエになるんだ
原爆で父と親族を失った位里
茫然自失の中、俊とともに怪我人の手当てに奔走した
この時、2人は後に絵にするとは思いもしていなかった
岡村さん:
戦争が終わって、最初の頃は新しい平和な時代が来た
自分たちは解放されたんだという思いが2人の中にあったと思う
原爆投下後3年目の夏に2人は初めて、描かなければいけないという気持ちが出てくる
その背景には、人々の間に一切原爆の話があがってこないからだった
厳しい検閲があって、新聞・雑誌が一切報道していなかった
(今も検閲がまったくないと言い切れるだろうか
米ソの対立が激化
戦争・紛争の火種が世界各地でくすぶりだした
核実験も本格的に始まった
アメリカの核実験(1946~)(~になってるのは、それからずーーーーーっとやってるってことだ
岡村さん:
「原爆の図」は1945年8月の出来事だけれども、
もうすぐ自分たちのところにやって来る未来でもあるんじゃないか
という意識が2人の間で高まったのではないか
原爆投下から3年後の夏 丸木夫妻は「原爆の図」に取りかかるが
当日の爆心地のことを何も知らないことに気づいた
手がかりとなったのは母・スマさん(ステキな黒ネコさんがいるよ
爆心地から2.5kmにいたスマさんは、その時の光景を絵にした
それは全身に大火傷を負った幽霊のような女性の姿
2人はその地獄絵のような風景を想像し、「原爆の図」にしていった
1950年 「原爆の図」が発表されると、全国で展覧会が開かれ
多くの日本人が原爆の惨状を初めて知った
(これだけマスコミが発達していても、検閲がかかっただけで、当の日本人ですら知らなかったって・・・
しかし、観た人の中から思いがけない声が出た
俊:
「オレは被爆者だあ!」っていう人がいて
「原爆はこんなことじゃない! もっと酷い様子だった
自分の娘は体中黒焦げになったから、焼け過ぎた魚のようになっていた
手足の指先がポロポロと落ちてた そういう絵がないじゃないかあ!」ていうのね
「作者はどこにおる?!」ていうから「私です」ってゆったら
「私の娘のようなのを描いて欲しい!」て言ったの
被爆者の切なる声が夫妻の心に響いた
大きな画面には、無数の傷ついた人々の姿が、より丁寧に描かれていった
岡村さん:
目で見たものをそのまま描くのではない
背景は一切省略して余白のまま 人間の群像のみ
敢えて中心点を作らず、隅から隅、画面の外にも広がっていくように視点を広げる描き方をしている
これは、これまでの絵画のセオリーから外れるもの
丸木夫妻が原爆を描く時、同時多発的に無数の命が傷つけ、奪われていった
それを絵画として表現するために、どうしても必要な手段だったと思う
土方さん:
香月さんは、個人の記憶を元に描いている
丸木位里・俊夫妻は集団の記憶を描いている
そのためには語りの構図が必要になる
その時、日本の伝統的な表現法がすごく役に立つ
「異時同図」(絵巻物などの描き方)
異なる時間、事柄などを1つの画面の中に構成する
これは西洋的な技法では描き得ない表現
伊藤アナ:
8月6日のことを伝える時、一番難しいのは
1人1人の命の数を表現することだと毎年思う
それを丸木夫妻は、それぞれの得意分野をもって
1人1人の命の結末を見事に表現している
小栗さん:
ニュースフィルムにしても、絵画としても、図像としてありのままを見せるわけにはいかないものだと思う
しかし、人類はそれを体験したわけですから、それを見えるものとしてどう再構成するか、というのが作家の仕事
●川田喜久治
伝説の写真集「地図」
川田:
この本を作るのに長くかかったものですから、何度も観たことないんですよ
作り終わって、ああ、やっとできたと思って、あと振り返って見ない
高度経済成長期の1965年
当時20代の川田が原爆ドームでフシギなシミと遭遇したことから生まれた
シミは、あの日原爆ドームの中で一瞬で消えた人々の存在を暗示している
肉弾となって果てた兵士の銅像、放射能がもたらしたケロイドの肌、
町工場の鉄くず、勲章を誇らしげにかざす老人、
菊の紋章と、瓶の栓
シミは想像を絶する破壊の世界と、戦後の今がつながっていることを語っている
71年目の終戦の日
川田はこの日もカメラを手に歩いていた 今年83歳
(シミがとにかく好きなのね
スタッフ:今日は終戦日ですが、追悼式はご覧になりましたか?
川田:ちょっと見ましたね
1945年の敗戦の日、川田は12歳だった
戦時中は、米軍機が飛来すると「肝試し」と称して、橋の上を走る少年だった
川田:
写真集をこうしてもう1回観直していくと
僕はものすごい夢中になってシミを撮ってたみたいですね(今も同じでは?
ほんとに困ったもんだなw 笑いたくなるくらいシミばっかり撮ってたんですね、コレ
川田の一文より:
雨が降り続く初夏の夕暮れ
孤立しているような原爆ドームに私は一人で忍び込んでいた
暗く湿った地下天井の裂け目から目が離れなくなってしまった
川田がシミと遭遇したのは、原爆から12年後
川田:
これは今までにない、ある種の死を見るような そういう感じ方で寒気がした
沈黙して祈りをこめたまま撮影を終えたといっても過言じゃない
緊張のしっぱなしで、早くこの場を逃れようとしていた
2016年 原爆ドーム内部
(今は、内部は許可がないと入れないの? 崩れるかもしれないから?
あら、ここにもステキな黒いにゃんこがいる
壁にはさまざまなシミが今も浮かんでいる
(昼間のせいか、モノクロの写真集のような怖さは感じられないな
「もはや戦後ではない」と言われた50年前 24歳の写真家は一人黙々とシミを撮った
川田:
写真って一番深い記憶というものに関連してる
その記憶を忘れてしまうってことは、未来を忘れ、何も感じないということ
未来を忘れないための88枚の写真 それを「地図」と名づけた
2016年夏 川田は半世紀ぶりに広島を訪れた
原爆の後、激しく降った黒い雨の痕跡をカメラにおさめた
伊藤アナ:ストイックというか、覚悟に満ちていますね
小栗さん:
僕らはこう人と話をして、言葉で生きてると思うけれど
実のところは、事物と一緒に生きている
食べること、衣服もそうだし 我々はモノと暮らしている
そのモノとの出会い方が、みんな違うわけですよね
モノと一緒という強い主張がここにある
(時間的に順を追って観ていくと、最後は私たちに近い時代の川田さんの作品で終わるため
伊藤アナ:観る側にとっても蓄積しますよね なんか想いがあふれます
(やっぱり女性は感情、男性は論理的な視点でものを見ていることが分かるコメント
新さんのコメントがこれまでほとんどなかったが、「どうでしたか?」と聞かれて
新さん:
本当に沈黙させられますね でもけして静寂ではないな それは黒からも感じた
すべてを覆い尽くしてしまう、何もない無のような黒でありながらも
そこにはたくさんの色も見えてきて、いろんな声、叫びが聞こえてくるなと感じました
土方さん:
とにかく、今、戦争、核の問題が常態化している
朝、テレビをつけると、また戦争、紛争、核
我々も感覚がマヒしているのかもしれない
改めて、黒と沈黙の時間をもって一級の芸術作品に高めたシリーズ群を観ていただくということも
貴重な体験になるのではと思う
小栗さん:
過去って順番でつながってるわけじゃない
歴史というと、私たちはすぐに何年にこれがあってって、
そこからいかに遠ざかったかというような考え方をもってしまうが
この作家たちが向き合った時間がそれぞれ違うように
過去は順不同で、いくらでもニョキっと顔を出したり、入れ替わったりする
この感覚をしっかり掴まないと、いつどうやって恐ろしいことが始まっているのかっていうことにも鈍くなってしまう
過去は動いているっていう意識さえもっていれば、
もうちょっと現在の捉え方について警戒し、ものを考えることもできるんじゃないかとも思う