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NHKスペシャル 戦後70年 ニッポンの肖像 世界の中で 第1回(全3回 50min)

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戦後日本の外交の舞台裏を新たな証言で振り返る

司会は、NHKゼネラル・エグゼクティブ・プレミアム・ディレクター三津谷寛治さんが唯一尊敬するアナウンサー、三宅民夫さん

ちばてつやさんによる、日本の戦後の家族の移り変わりを描いたアニメも秀逸

 

 

 

 


<おおすじの流れ>

アメリカ議会


アベ:
自らのアクションがアジア諸国民に苦しみを与えた事実から目を背けてはならない



太平洋戦争
アジアの人々を巻き込んで多大な被害をもたらした

 

敗戦後は連合国に占領された


サンフランシスコ講和会議
戦争被害をどう償い、国際社会に復帰するのか 日本の外交はそこから始まった

 

資源が乏しく、貿易など国際社会との関わりが欠かせない日本にとって
外交は国民生活につながる大きな課題だった

(そもそも日本てそんなに資源が乏しいのかな?
 野菜は育つし、風力発電などで電気はまかなえるという計算もある


日本がまず取り組んだのはアジア諸国への賠償
賠償を支払い、経済進出を始めた日本に対する反発も起こり、新たな試練に直面



 

戦後50年 村山談話を発表
「痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします」

相互交流を通じた和解への模索も始まった

当時オランダ大使「新しい信頼関係が生まれてきた」


*******


出発点は「1951 サンフランシスコ講和会議」
主な議題は日本への賠償要求 巨額の賠償は大きな負担だった

ダレスがリードし、各国に日本への賠償を放棄するよう求めた


当時、アジアでは東西冷戦が深刻化

1949 中華人民共和国 成立


1950~ 朝鮮戦争
ダレスが日本に求めたのは「反共の防波堤」の役割




ロバート・バーバー(元米国務省 外交官):
ダレスは日本に対して懲罰的な条約を求めてはいけないと考えていた
日本が力強い経済を持ち、アジアに対する影響力を発揮しながら
活発な民主主義社会となることを願っていた

そうした役割が、共産主義の脅威に直面したアジアに
安定と信頼をもたらすことになると考えていた

アメリカの説得に応じ、連合国の多くは賠償を放棄したが
フィリピンなど、日本に被害を受けた国々は賠償を主張



「我々は、ともに平和に生きるほかはない
 そのためには、我々が許しと友情の手をさしのべる前に
 日本には心からの悔恨と生まれ変わる証拠を示してほしい」



アジア諸国とは個別に協議し、賠償を支払うべきとされた



1952 日本は独立を回復
 

朝鮮戦争の特需に沸いていた日本では、戦後復興に向けて新たな外交が動き出す

(若い女の子が笑顔で爆弾作ってるよ 日本にはクルマしか手段がないのかな
 

吉田茂が目指したのは「貿易立国」

『岸信介の回想』より
賠償問題に関する私の考えとしては、戦争の過誤を償うは勿論のこと
新興諸国家の経済的発展と、生活水準向上の努力を支援することによって
将来相ともに繁栄することを念願とした

その後、アジア諸国との賠償交渉を進めたのは岸信介首相

岸:
これら諸国との相互の理解を深め、もって相たずさえて
繁栄と進歩を通じて、アジアの平和を確立しようとする



岸は、東南アジア最大の人口と豊かな資源をもつインドネシアに注目
スカルノ大統領との交渉にのぞんだ

独立間もないインドネシアは、世界最貧国の1つだった

(ここにも「児童労働」があるね


インドネシアの経済発展をはかるスカルノに、岸は803億円の賠償を払うことで合意

ジャカルタで最高級のホテル インドネシアは、日本の賠償で造られた
ホテルやデパートなど様々な社会資本がつくられ、日本企業がその建設を請け負った

 

次々に訪れる日本のビジネスマン 桐島さんもその一人
スカルノの厚い信頼を得てプロジェクトを進めた

桐島正也 当時 東日貿易 賠償プロジェクト担当:
スカルノさんが、なぜその頃デパートが必要なのか僕には分からなかった
「デパート建設には、今インドネシアに進出していない会社を探してこい」と言われた

ホテルインドネシア、バリ・ビーチホテル、ホテル・オークラ
この3軒は全部大成(建設)さんがやり、これは全部賠償でした
トヨタのランドクルーザーを警察に約1000台納めた

これをきっかけに日本のクルマ製造会社などがインドネシアに進出

(賠償金は、貧しい人々のもとには直接いかないわけね


賠償から商売へ 日本経済を復興させる原動力ともなった
 

1960年代 日本の経済成長は10%を超え、「高度経済成長期」となる

 



岸は南ベトナムとの交渉をまとめるなど、東南アジア諸国との関係を強化



原彬久 政治学者:
経済発展、近代化というものを助けることによって、日本の経済発展につなげる
しかも、現物支給、役務提供によって日本企業が進出する絶好のチャンスを提供
同時にアジア諸国との和解を通じて、日本の国際的地位を高めていく

「オーラルヒストリー」の先駆者である原さんは、生前の岸に外交姿勢を聞いていた

<1982年録音>

岸:
我々の実際の態度によって、アジア諸国を威圧するような日本が軍事力を持たないということも必要
我々の経済外交も、日本が独善的な考え方に立つことがないようにすべき
それから、人間の養成、それに対する日本の貢献に重点を置かなければならない


1960~378人の賠償留学生が来日し人材育成した


ギナンジャールさん:
 

戦時中、私の父は2年間、日本軍に投獄されました
私は父が日本を憎んでいると思っていましたが
父は「あれは過去のことだ 前を向き、未来を見つめるべきだ」と言ったのです


ギナンジャールさんが来日した当時、日本は「東京オリンピック」を間近に控えて建設ラッシュに湧いていた

(今と同じだな


ギナンジャールさん:
日本で私が目にしたのは、産業が急速に発展する姿でした
私は母国を早く発展させなければならないと思い
工学部でテクノロジーを学びました
その頃から私は、「永遠の敵」というのはいないのだと気づき始めました

その後のインドネシアの経済発展につながった

タイなどには「準賠償」を支払った

 

柳澤秀夫解説委員(あら、ヤナギーが解説だ


日本とサンフランシスコでの会議を主導したアメリカの利害が上手くかみ合っていたと言える
日本は1日も早く信頼回復したいと模索していた そのためにも賠償を重い負担にはしたくない
個別に求める国に対しては応じても、「貿易立国」に上手く結びつけて、日本の経済発展にもっていこうとしていた

一方アメリカは、冷戦の時代
日本を自らの陣営に組み入れて、アジアの共産主義に対する砦にしたい思いがあった

戦争被害に対する賠償はもちろんだけれども、実は社会インフラ、具体的には道路や港の建設に向けられていた
外国からの投資をうまく呼び込む環境整備にした

後にアジアがものすごい経済発展した その基礎を作ったという重い意味合いがある



課題は韓国との国交

1951~ 日韓会議
韓国は日本の交戦国ではなかったという理由で「サンフランシスコ講和会議」に正式に招かれなかった
「請求権」を巡って双方の主張が対立

韓国が求めた「請求権」は、戦時中、日本に動員された人々の未払いの賃金や財産等の返還

(過酷で危険な仕事を、酷い条件で大勢、奴隷のように働かせた上、差別していたからね
 

最近公開された「日韓会議」の記録によると、交渉が難航していたことが分かった

日本側:
当然支払うべきものを支払うことは上で決めることだが
考える場合の拠り所として、個人ベースの調査が必要だ

韓国側:
多数の人が動員されたことは事実だが、ディテールは調査困難である(そりゃそうだ

柳谷謙介 当時 外務省北東アジア課:
証拠になる資料も散逸している中で
具体的に個人の請求権を立証して払うのは、ほとんど不可能に近いだろう

チョン・サンジン 当時 韓国外務部外交官:
誰が、いつ、どこでということを明確に証拠で示し
金額を算定して要求するのは、現実的に難しいと双方が実感したと思います

1961 5.16 軍事クーデター


韓国で軍がクーデターを起こし、パクをリーダーとした軍事政権が誕生


パクはチェ・ヨンンテク局長を日本に送った

チェ:
パク議長が
「あの方(岸)に会って協力を仰ぎなさい 首相ではないが政界での影響力は大きい
 韓国に多額の資金を援助してくれる国はないから、韓日会談を妥結させ
 請求権資金を受け取るしか道はない 韓日会談を急ぐべきだ」と言った

朝鮮戦争で荒廃した韓国は、当時、1人当たりの国民所得が日本の1/5に満たず
世界の最貧国に数えられていた

(最貧国のほうが多いのでは? まるで『火垂るの墓』みたいな風景だ


一方、北朝鮮は「経済の5ヵ年計画」に成功し、1人当たりの国民所得は韓国の2倍以上

 

1961.11 北朝鮮に対抗するには、経済再興しかないと考えたパクは来日し、岸と交渉

『岸信介の回想』より
国民が拍手喝采するような条約を作ろうという気持ちなら真の正常化はできない

太平がキムと最終協議
 

経済協力として日本は3億ドルを支払った
これに対して、韓国では学生たちが反発
植民地支配の制裁を曖昧にした屈辱外交だとして、デモが起きた

 

1964 パクはデモを鎮圧


1965.6 日韓基本条約調印 日韓の国交が正常化した

請求権の問題は最終的に解決したとされた

柳谷謙介:
パク政権になって、後れをとっている経済発展で
取り返すために精根尽くすといい始めた国に対して
韓国側の希望にも一定の配慮ができる形で
請求権、経済協力問題解決には、これしかなかったと思います

日本から支払われた資金の多くは、韓国の製鉄所、ダム、社会資本に投入された
その後、韓国は国民総生産を10倍以上上げ、「ハンガンの奇跡」と呼ばれる経済発展を成し遂げた

 




ヤナギー:
長い植民地支配の間にこうむった被害については、韓国側の要求に応えなければならない中で
なかなか答えが見出せない、難しい交渉だったといえる

韓国の国内事情について
朝鮮戦争で休戦協定はできていたが、いつ不測の事態が起きるか分からない状況だった
日本とできるだけ早く合意することによって、資金をテコにして国力を高めて
北との関係を優位にしたいという思惑があった

朝鮮半島情勢は、日本の安全保障にとっても非常に密接なもの 安定していてほしい

もう1つはアメリカ
極東戦略を考えると、日韓は仲良くしていてほしい 関係改善を強く求めていた
国々の思惑がうまく合致していた 結局、国と国との合意を優先させた形だったと思う



1970年代 日本は東南アジアへの経済進出を加速

これに対して、市民の反発がわきおこる

1974 田中首相 東南アジア訪問
 

学生中心の大規模なデモが起きた
インドネシアでは多くの日本車が焼かれ、11人の死者が出て大混乱した



インドネシアの軍の実権を握ったスハルト大統領が外資を積極的に受け入れて経済発展を目指したが
格差が広がり、その矛先は日本にも向けられた

 

(なんだか、ずっと金の話ばかりだな 外交とは金儲けのことなのか?


ハリマン:
私たちにとって大事だったのは、田中首相に対して怒りを抱いていることを示すことでした
スハルト大統領が進めていた政権の上層部だけが富を得るような政策を日本が支持していたからです

1977 福田はアセアン諸国を訪問 「福田ドクトリン」を発表


「福田ドクトリン」を立案した谷野(福田さんが考えたんじゃないんだ

谷野作太郎 当時 外務省南東アジア第三課長:
国と国との関係では、そういう決着をしてきている
でも、個人にはまだそれに異を唱えて、日本に対して複雑な感情が、
とくに若い人たちにずっと出てきているのは、非常に心配ではありました

やはり日本として東南アジアと付き合う上で、足らざるところが恐らくあるのだろう
本当の胸襟を開いた若者たちとの交流
ビジネスは悪いとは言わないが、それだけではいけない

1980年代 経済成長が進むアジア各地で民主化運動が広がる
 



韓国では1987年「民主化宣言」が出され、軍事政権は終わる

戦時中の被害補償を求める声が上がる
 


<従軍慰安婦>
(NHKで慰安婦問題を取り上げるのは珍しい 戦争については毎年、終戦記念日に特番を組むけれども

topics~慰安婦の強制連行の証拠はないと日本が国連に回答 ほか

1991 従軍慰安婦だったと告白した女性が初めて現れた(ようやく・・・


キム・ハクスンさん:
50年間、泣き暮らしてきたんです
もう一度、17歳の私に戻してください


被害者は日本政府に国家補償を求めた

韓国政府も対応を迫られる

コン・ロミョン 元中日韓国大使:
民主国家では、国民の支持がなければ、外交も存立が危ぶまれます
当時、韓国政府がもっとも重要だと考えていたのは、元慰安婦の方々の名誉と尊厳の問題でした
やはりこの問題は被害者や支援団体の話に耳を傾けなければ解決は難しいのです

1992 宮沢 韓国訪問 ノテウと会談
慰安婦問題は、真相究明をすることで合意

日本政府は、関係資料を調査 欧米の記録も取り寄せた
 

 

1993 日本政府は、元慰安婦16人の聞き取り調査を実施


石原信雄 当時調査を指揮した 内閣官房副長官:
中には、明らかにこれはその意に反して慰安婦にされたことを否定しえない人がいることを
何人かの担当官がヒヤリングの心証として言っていた
それを経験した人しか語り得ないような話がありました

最終的には、それしかまとめる道がないと判断されて
総理も了解して、進めたわけですから

1993.8 河野が談話を発表

心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し
心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる(1人1人に言って回ってほしいね

1994 村山内閣成立
 
アジア各国を歴訪

村山:
「日本の国は素晴らしい国だ お蔭でわが国に対するODAやいろいろな援助をもらって
 わが国の開発が進んでいる 今後もよろしくお願いします」という話がもっぱら

ただ「日本は戦争の後始末をしていない 責任を果していない」と
それを総合的に判断して、50年の節目にけじめをつけて
新しい方向を示して、もっとアジアの国から信頼される日本を作らないといけない

1995.8.15 戦後50年にあたり村山は談話を発表

村山:
わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで
国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略により、
多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して、多大の損害と苦痛を与えました
ここに改めて、痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします

当時、個人補償の訴えが続いていた 日本政府は国家間の交渉で解決済みとしてきた
村山は有識者の提言を受け、個人に償い金を支払う構想を打ち出す



「アジア女性基金」

大沼保昭 当時 アジア女性基金 呼びかけ人・理事:
政府は1965年の日韓請求権協定があるから、もはや出せないという
お互いに請求権を放棄しているわけですから、それに基づいての請求はできないが
日本が政策判断として出すことは、政府の高度の政治判断だからできますと
出せないとは言わないでくださいと

政府のお金と、国民のお金を両方入れて、包括的な基金を作って
元慰安婦の方々への償いを先行させようと

(政府のお金って、どのみち国民が働いたお金だ
 基金も合わせると、“国策を誤った人たち”じゃなく、被害をこうむった人々からのお金

 慰安婦のシステムを作ろうと始めに言ったのは誰なんだろう?
 それを推し進めたのは誰なんだろう?
 その人たちは、きっと今でもいい暮らしをしているのだろう


1995 通称「アジア女性基金」発足
国民の募金と政府の資金によって運営し、元慰安婦1人1人に償い金と医療福祉支援金を支給する取り組み





 

当時の1万円て今のいくらぐらいか? お金をもらっても心身の傷は一生癒えることはないが
それに、カミングアウトしたのは氷山の一角だし 戦争には兵士によるレイプがつきもの

韓国女性は「アジア女性基金」に反発


チョン・ジンンソン実行委員 当時 韓国挺身隊問題対策協議会:
日本政府が真相を究明し、過ちを認めたうえで賠償を行うならよいのですが
慰安婦の方々が高齢だからといって、性急に償うという話は受け入れられません
「アジア女性基金」は、慰安婦問題をうやむやにするのではないかと強く感じました

61人(少なすぎる/驚)に支給するが、一時中止を余儀なくされた
他国にも364人に対して償い金等が支払われ「アジア女性基金」は終了


<オランダ>
これをきっかけに新たな関係を築いたのはアムステルダム(オランダ)
第二次世界大戦で日本と戦い大きな被害を受けた

オランダ首相へ送られた、橋本首相からの手紙は、元慰安婦1人1人にも届けられた

「すべての元慰安婦の方々に対し、心からのお詫びと反省の気持ちを抱いていることをお伝えしたいと思います」

マルゲリート・ハーマー 当時 戦争被害者団体 理事:
元慰安婦の女性たちにとって、この手紙はとても重要でした
被害にあった事実が認められたことで、彼女たちの気持ちが楽になり
医療福祉支援金を受け取ることができたのです

オランダでは79人に1人当たり300万円の医療福祉支援金が支払われた

そのうちの1人を訪ねた 取材に応じたのは4人の子どもたち


ヌホフさん 93歳


インドネシアで産まれ、BCQ裁判記録によると、22歳の時に
日本軍に抑留所から連れ出され、慰安所で働かされた



ヌホフさんは今、認知症が進んでいる

子ども:
「母はずっと日本が嫌いでした
 日本人が歩いてくると、わざわざ道の反対側に渡るくらいでした」

「でも、その後、母はこの基金には、一般の人たちのお金も入っていることを知り、心を打たれたのです」

「誠意を感じたのよ」

「それが母にとっては重要なことでした」



同じ頃、日本政府はオランダとの間で信頼回復に向けて「平和友好交流計画」を進めた
狙いは、戦争被害者を日本に招き交流をすすめること

池田 オランダ大使:
戦時中、オランダはインドネシアで日本軍に敗れ、軍人は捕虜となり、民間人は抑留された

(シベリア抑留の話はよく聞くけど、日本も同じだ


戦後、オランダでは国家間で解決済みとしてきたが、補償を求める裁判が続いていた

池田はシュールド会長に話をもちかけた


池田:
最初の反応は「しばらく考えさせてほしい」ということで
内部には「そういうものは受けるな」という強い反対論があったと後で聞きました

しかし、会長自身は
「むしろ日本に行って、日本を見て、日本人と意見を交換して
 自分たちの考えを日本人に聞いてもらったらどうか そのほうが意味があるのでは」と

1996.9 最初の交流が始まった
元捕虜やその家族が訪れたのは「十字架の塔」
日本に連行されたオランダ人捕虜の慰霊施設
亡くなった800人以上のオランダ人の名前が刻まれている

 

戦時中、水巻町には捕虜収容所があった 「福岡捕虜収容所第6分所」
炭鉱で過酷な労働を強いられ、落盤事故等で多くの捕虜が亡くなった
水巻町の人たちが「十字架の塔」を建てて守ってきた

 

黒河英利会長 水巻町十字架の墓標 平和と文化を育む会:
この方たちを忘れてはいけない
日本もあちこちで被害、戦死者も出ていますが、それはそれ
私たちは、私たちでオランダの871名の慰霊碑をちゃんと守っていく


交流に参加したパティナマさんは、
父を日本軍に殺されたショックで長らくトラウマを抱えていたが
半世紀を経て、日本と向き合おうとしていた

滞在中、被爆地・長崎を訪れ、戦争の悲劇を改めて目の当たりにした



パティナマさん:
私は突然気分が悪くなり、涙があふれました
原爆が落ちて破壊しつくされ、なにもかも元通りにはならないのです
そこに居続けるのは、もう無理でした



翌日、私のところに若い女性がやってきました
花束をもって私に近づくと、

「記事を読み、あなたの体験を知りました
 前の世代が何をしたか、知りませんでした 許してください」と言うのです

ああ、これが日本の若い世代なのだ
彼らはなにも関係ない
新しい日本 別の日本だと思いました


「平和友好交流計画」は10年間続いた

ウィム・コック(当時 オランダ首相):
たとえ、どんな事業を行っても、苦しんだ人々にとって決して充分ではありません
しかし、苦しみを和らげ、心の傷を癒す手助けにはなります
国家の指導者にとって、過去を振り返り、将来に向けて、過去から教訓を学ぶことはとても重要です
お互いに新たな1ページを開く道を見つけなければならないのです


「平和友好交流計画」には他にもいろいろな取り組みがある

日本占領時代の蘭印 ビルマータイ鉄道において書かれた日記を公開
元捕虜と民間の抑留者の日記を和訳した資料づくり



韓国とは歴史認識の相互理解を深めるため、日韓の歴史研究者が共同研究を行い、冊子にまとめている



ヤナギー:
当初は、国同士の交渉だった
70、80年代のアジアで経済が発展し、その影で貧富の格差が広がって
政治の民主化を求める声がどんどん大きくなった

90年代 東西冷戦が終結して、国際社会の関心は「人権問題」に向けられ
個人の声を無視できない時代になった

たえず時代は変わって、その要求も変化している
そういう声に我々はどう向き合って、どう答えを見出せばよいのか
これまで以上に難しい状況に、今私たちは立っていると言える

日本の信頼回復の道はまだ半ば
戦後、外交が積み重ねた取り組みの中では、必ず、未来への教訓の手がかりがある

これまでの歩みを真摯に、愚直に見つめ直して、
これからどうすればいいかを地道に考える努力が強く求められていると思う


賠償金が支払われた国と人数の記録





戦争を生むのは、一握りの金の亡者で、あとは全員被害者だ 中でも女性と子どもたち
そして、憎しみは、また憎しみを生み出すだけ

これからの時代を作る若い世代が、その行き先を決めていく
そのためには、1人1人が過去を忘れず、さまざまな角度から見れるように、まず「知る」ことから




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