■ドキュランドへ ようこそ!!「喜劇王対決 チャップリン vs キートン」
【ブログ内関連記事】
『バスター・キートン自伝 わが素晴らしきドタバタ喜劇の世界』(1960)(筑摩書房)
『バスター・キートン』(リブロポート)
私はバスターが大好きで、チャーリーの作品はそれほど観ていない
この映画黎明期のサイレンスからトーキーに移行する時代を生きた
2人の偉大なコメディアンの特集は嬉しいかぎり
バスターの自伝で読んだことも多いけれども、貴重な映像がいっぱい!
2人の映画に出てくる女優は、なんだか今の美人とは違うんだよね
私の中で、チャーリーはプライベートでもロリータ好みだという印象が強い
チャーリーの伝記的映画も観たな
これも永久保存版の番組だった
【内容抜粋メモ】
制作 MK2TV フランス(2015)
観客席で子どもたちが映像を見ている構成
今も変わらず2人の演技に笑えるのは、サイレントのドタバタ喜劇だからだ
1920年代 サイレント時代の黄金期、2人は喜劇王の座を競い合っていた
もともと旅回りの舞台芸人だった2人は、
発明されて間もない映画に出会い独自の喜劇を作り出した
2人のスタイルがまるで違うため、どちらが面白いか論争になるほど
2人の共演は『ライムライト』(1952)の1度きり
チャーリーは第一線で活躍していたが、当時バスターはハリウッドの表舞台から遠ざかっていた
この直後に男が入ってきて「白塗りの君らを見るなんて昔みたいだな」と早速言われるw
1889 ロンドンの貧民街でCが誕生
両親はミュージックホールの役者だが、父はアルコール依存症、母は心の病で生活はどん底
兄シドニーと孤児院暮らしも経験
2人はなんとか自立しようとさまざまな劇場を渡り歩いた
1895 カンザス州でKが誕生
Kの両親もヴォードヴィリアン Kはよちよち歩きの頃から荒っぽい芸を披露していた
<映画産業の発展>
2人が初舞台に立った頃、映画の技術が発展(なぜ裸体の男が歩いてる???
まだ写真の延長線上のパラパラマンガのようだったが、
間もなく娯楽の1ジャンルとして確立
天才映画プロデューサー マック・セネット
1日1本の割合で短篇喜劇を量産 すべて撮影現場で即興で演じさせていた
1913
セネットがイギリスから巡業で来ていたパントマイムの若手スター、チャーリーを雇う
1914
子どものレースに面白いいでたちでかき回させる役
山高帽、ステッキ、だぶだぶのズボン、窮屈な上着のキャラクターはこうして生まれた
1コインで観られる庶民的な映画館『ニッケルオデオン』で当たる(1コインていいなあ!
1915
セネットのもとを去り、自らメガホンをとるC
ケヴィン:
アメリカではすでに、ギャグのセンスさえあれば映画に出演できる土壌が出来上がっていた
現場を仕切っていたのは、監督ではなくコメディアン自身だった
多くのコメディアンがしのぎを削っていた
1917
Cに対抗できるコメディアンはファッティ・アーバックルただ一人
ファッティは若きKを映画界に引き入れた
K(BBCラジオ 1961):
全米を巡業しながら、映画館に通いつめた 役者の芸当を見てたんだ
ある時、アーバックルが私を撮影所に誘ってくれた
(仕事を頼まれて帽子をかぶったB 帽子が取れなくなっちゃったw
撮影所は宝の山だった
私はまずカメラマンと仲良くなり、編集室でカメラを分解した
これほど楽しい世界はなかった
ケヴィン:
1つ言えるのは、Cがいなければ、あれほど多くの喜劇映画は作られなかっただろうということ
ドタバタ喜劇が商売になると証明したのはCだった
当時は今よりずっと厳格な社会でしたから、Cが警官のお尻を蹴ったりするような
アナーキーな行動を観て、これほど痛快なことはないと大喜びしたのです
興業主は以前は見向きもしなかったコメディアンまで起用した
セルジュ・ブロンベルグ(映画監督):
Cは第一次世界大戦中に国際的スターになった
彼の映画は主に連合国で配給され、前線にいる兵士たちを笑わせつづけた
Kは1917年に端役でスクリーンデビューした
1919年に有名になり、1920年に独立
Cと並ぶ偉大な喜劇人に成長した
第一次世界大戦後には配給網が整備され、Kの作品は世界中で上映された
1919
Cは配給会社を創設
人気女優のメアリー・ピックフォード、アクションスターのダグラス・フェアバンクス、
映画監督のD.W.グリフィスとともに独自の映画をつくった
Kも義理の兄の出資でCの古いスタジオを買い上げ、自分の撮影所を設立
条件は短編映画を毎月公開すること
ケヴィン:
Kはエアバックルと別れ、自ら映画製作を始める
初作はうまくいかず、2作目は『文化生活一週間』(1920)
これは『市民ケーン』に匹敵する名作です
あれを上回る映画はありません
(他にも面白くて、芸術的な作品はたくさんあると思うけど この頃からハンサム!
『文化生活一週間』(1920)
変テコな形の新築の家をお客に案内してると、早速屋根から大量の雨漏り
傘をさして部屋を通り、外に出ると、家が風で回転してる!
止めようとするBと、部屋の中で振り回されるお客
何度もドアから中に入ろうとするけど、そのたびにぶつかって転ぶ
なんとか滑り込むが、部屋の中で自分が回転して、また外に放り出されてしまう
ジョス・ウーベン(俳優):
Cの体は3つの食い違いを抱えている
まず、体の上下の食い違い 上は固く、下は赤ん坊のように開いている
いつでも逃げられるように骨盤は傾いている
2つ目は、放浪者でありながら、英国紳士のマナーを身につけていること
彼の振る舞いは、たとえパイをぶつけられても素晴らしく洗練されています
3つ目は体を常に横に動かしていること
前進する時も体を左右に揺すりながら歩く
世の中の状況や掟とどこまでも食い違う ちぐはぐに動き続けるのが笑いを誘う
しかし、Kはまったく違う いつも無表情 パッと見は面白くない
その何事にも動じないところが魅力
家の外壁がたおれてきても気づかない有名な1シーン
動じないのは彼が物事の中心にいるということ
Kの周りはほとんど大惨事だが、倒れてもすぐに立ち上がる
Kに社会的メッセージはなく、ただそこにいるだけ 哲学で言う「実存」
(身体能力がずば抜けてるんだよね
とんでもないアクションを生身の体でやってるからスゴイよなあ!
マチュー・ブヴィエ(ビジュアル・アーティスト):
Kの体はまるでロケットのよう ものすごいスピードで発射される
曲芸師で、本物の命知らずです
役者人生の間に体中のあらゆる骨を折ったそうです
Kはどんなアクシデントにも痛そうな顔を見せない
『キートンの警官騒動』(1922)
蒸気船や列車など、当時のドタバタ喜劇では前代未聞のスケールでした
アデール・ヴァン・リース(映画研究者):
Kの映画は結末が予想できません
(そこが好きだな スラップスティックらしくて
そこはかとない儚さ、美しさ、純粋さがあるアート
Cの映画には物語があります 役柄はしばしば象徴的だったりして、最後に答えがある
(Cはメッセージがストレートで社会風刺が強い
(落ちた硬貨を拾おうとすると、大柄のウエイターが踏んだりして取れない
ジョス・ウーベン(俳優):
Cの映画には鋭い批評が隠されている
社会の不平等をさらけ出そうとする風刺の精神
Kはいつも機械、組織、抑圧などと格闘しているがそれは踊っているように見える
彼は政治的メッセージを伝えようとはしていなかった
なんか可愛い恐竜出てきた!
Kが動くと、観ているこちら側も動かされる
私たちは人の身ぶりを見ると、脳内でミラーニューロンという神経細胞が活性化します
誰かの動きを見ると、脳が再現しようとして、電気信号として記録される
映画館を出た後、Kのように飛び跳ねたいと感じる
セルジュ・ブロンベルグ(映画監督):
CとKは自社スタジオを構え、完全に独立した状態で1920年代をスタートさせた
契約による縛りもなく、資金も好きなだけ使えたため、ユニークな作品がたくさん生まれた
ハロルド・ロイドがすぐ後ろに迫っていたとはいえ、基本的には2人が頂点に立っていた
・ハロルド・ロイド作品集vol.9『ロイドの足が第一』(1930)
・ハロルド・ロイド作品集vol.1『命知らずの喜劇王』(1989)
・『ロイドの牛乳屋』(1936)
1921年以降、Cは長編映画に移行する
初めての長編映画『キッド』は、笑いあり、涙ありのCらしい作品
・チャップリン作品集Vol.1『キッド/のらくら』(1921)
1923 Kも長編映画に参入『滑稽恋愛三代記』
独特のスタイルでKの人気は急上昇した
・『キートンの恋愛三代記』(1923)
2人の友好関係はこの頃から本格化していった
ケヴィン:
Kを賞賛したいがために、Cを過小評価する人がいます
Cの演出が稚拙だと揶揄するのです
私はCの映画をラッシュフィルムから編集したことがある
映画のプロとして断言するが、彼は誰より多くのシーンを撮影していた
それぞれで何十テイクも撮影を重ねた
面白くなるまで延々と撮影を続けた
求める水準がとても高かったので、50、60テイクと撮り続けた
それらをつぶさに見ると、改善点がよく分かる
出来が良くても、惜しげもなく捨てていることが分かる
K:
今じゃ考えられないだろうが、脚本が要るなんて思いもしなかった
一応3人とも脚本チームを抱えてはいたが、出だしが浮かんだら、結末を考えて終わりさ
中身は現場でどうにでもなると思ってたからね
始まりと終わりさえ良ければそれでいいんだ
『キートンのハイ・サイン』(1921)
マチュー:
異なるメカニズムを融合させる才能でKに敵う者はいない
有名な射的場のギャグでは、射的が上手いことを見せなければならない
本当は話にならないほど下手なのに
男が戻るまでにクレイジーなメカニズムを発案する
(K映画には動物が出てくるから好き 動物からとても好かれたんだよね
Kが撃つと、ヒモでつながれた肉につられて犬が食いついて鐘が鳴る仕組みを作るww
それを見て、拍手する男 調子に乗って、いろんなポーズで撃ってみせていると
犬のそばに猫が来て、犬が興奮してカンカン鳴らすため、
それに合わせてKはどんどん撃たなくてはならない
とうとう犬のヒモが外れる
2人は19Cの壮大な歴史絵巻に取り組む
Cの『黄金狂時代』(1925)、Kの『大列車強盗』(1926)
・『黄金狂時代』(1925)
一番の違いはリアリズムへのアプローチ
Cは実際、人々がどう行動したかにこだわる
彼は全編をほぼロケで撮影後、ほとんどをボツにして1からスタジオで撮り直した
・『キートンの大列車強盗』(1927)
Kは衣装、乗り物まで忠実に再現することに関心を持った
撮影はロケ 最後の戦闘シーンでは膨大な費用が使われた
列車が橋の上で突然くずれる
このシーンはサイレント史上、もっともお金のかかった撮影と言われる
アメリカの深い傷となった「南北戦争」の悲惨な状況に
Kのブラックユーモアがうまくハマった
サーベルの刀部分が抜けたり、大砲の隊員に説明しながら、
柄で味方を倒しちゃったり、その間に敵は銃を撃とうとモタモタしていたら
Kの抜けた刀部分が背中に刺さって死んでしまう
ケヴィン:
ショックでした コメディで死に関するジョークなど見たことがなかったからです
賛否両論あったが、当時は今より冷ややかだったと思います
彼らのほうが南北戦争を身近に感じていたはずだから
アメリカでは、すべてが金で動いています 映画産業も例外ではない
この頃、大手のスタジオが映画製作や配給のプロセス全体を管理するようになり
コメディアンの自由が失われていった
1928 Cは『サーカス』をヒットさせ、Kは名作と名高い『キートンの蒸気船』で対抗
この頃、Kは1年に2本のペースで長編映画を公開していた
・『キートンの蒸気船』(1928)
台風で木につかまると、根ごと抜けて吹き飛ばされるww
<トーキーのはじまり>
同じ頃、ブロードウェイの人気歌手アル・ジョルソンが映画『ジャズシンガー』で大成功をおさめた
ケヴィン:
歌やセリフが音で表現されると、観客はサイレントコメディから離れていった
Cにとっては大問題だった あの放浪者が口をきいたらすべてが台無しだからです
(Kもガラガラ声で映画向きじゃないと思っていたしね
『街の灯』は時代の流れに逆らうサイレント映画だった
これで失敗したら、地位、名声、会社も失うかもしれない
Cはすべてを手放す覚悟で制作した
・『街の灯』(1931)
Kはすでに自社スタジオを売却 多くのスターを抱えるMGMと契約していた(ミュージカルのw
雇われ俳優となったKは、資金、撮影チーム、制作期間など、作品作りにさまざまな制約を受けるようになった
1928 『カメラマン』はKの最後のヒット作となる
・心の中のベストフィルム~『キートンのカメラマン』
・『THE CAMERAMAN』(1928)
映画は大成功したにも関わらず、待遇は改善されないまま
気の乗らない作品を次々と押しつけられ、Kは目に見えて衰えていった
(アーティストから自由を奪ったらダメだよ
以前からお酒に溺れていて、結婚生活も破綻
離婚して財産、家、それまで制作した映画の権利すべてを失った
KはMGMから解雇され、療養生活に入る
(おや、ローレル&ハーディと写ってる
・Classic Film Collection『ローレル&ハーディ LIBERTY』(1929)
・『ローレル&ハーディ傑作短編セレクション』
・『ローレル&ハーディの天国二人道中』(1939)
その後、なんとか業界に復帰したものの、
他のコメディアンのためにギャグを提供したり(マルクスbros.にもたしか・・・?
短篇作品に出演する程度だった
(この芸術性と美しさで、写真モデルになればよかった?
1931 『街の灯』は大ヒットしたが、Cは人の好みが急激に変わっているのを感じていた
セルジュ:
C、Kのスタイルはカオスそのものだった
2人が必死に世の中の常識に抵抗する姿は人々の共感を呼んだ
しかし、時代が変わり、素早く、たくさんの映画を作ることを求められるようになると
カオスの入り込む余地がなくなった
業界が成長し、あらゆることに秩序が与えられると
既存の体制に疑問を投げかけるような混沌とした作り方は時代遅れになった
トーキーの出現で、荒唐無稽なサイレント映画は死に絶えた
個人の会社で映画製作を続けるCは、大手の会社にとってやっかいな存在となった
1936 『モダンタイムス』を公開
セリフなし、音楽と効果音のみで、資本主義を批判する内容だった
・『モダン・タイムス』(1936)
一般客にはヒットしたが、共産主義を警戒するアメリカの右派勢力からバッシングを受けた
次に槍玉にあげたのは、Cと同じチョビヒゲの独裁者
(たしか誕生日が近いんだよね
Cが1889年4月16日 - 1977年12月25日
Hが1889年4月20日 - 1945年4月30日
・チャップリン作品集Vol.7『独裁者』(1940)
破壊と殺戮の第二次世界大戦が終わると、ドタバタ映画は求められなくなった
(こういう時こそ笑いが必要なのに
Cは、放浪者を封印 新たなキャラクターをつくる
1947 『殺人狂時代』
モデルは裕福な未亡人を狙った実在の連続強盗殺人犯
保守的なアメリカ人にとって許しがたい話だった
Cはマッカーシー上院議員の指揮する「下院非米活動委員会」の監視下に置かれた
1952 『ライムライト』
・『ライムライト』(1952)
(ピアノを弾こうとすると、楽譜がどんどん滑り落ちるw
ピアノとヴァイオリンで音を合わせようとするが全然合わなくて、どんどん弦が切れていく
自らのルーツであるミュージックホールの撮影にKの協力を求めた
映画が誕生して半世紀あまり 人々は映画の歴史を振り返るようになっていた
新しい世代の映画マニアは、2人の映画を掘り起こして、論争を始めた
Kファンは、『ライムライト』で、Cが意図的にライバルの演技をお蔵入りさせたのではと言いがかりをつけた
ケヴィン:
CがKに嫌がらせするなんてまったくバカげている
なぜなら、これはCの映画だから CはむしろKに触発されていた
(Cは自分で弾いて感動して泣き、つられてKも泣き崩れる
急にテンポよく演奏が始まり、Kはピアノの椅子から外れても弾き続けるww
客席に落ちても弾き続けるC 男たちにステージに持ち上げられ運ばれていく
セルジュ:
2人が反目していたというのは、評論家やファンが勝手に生み出した話です
2人はそれぞれ唯一無二の存在ですから、互いにどうこうする必要はなかった
CがKに共演を頼んだのは、舞台で自分と渡りあえるのはKだけだったから
「最高の夜でした 名残惜しいがこのザマです(I'm stucked)」
実際、Kは世間で言うほど落ちぶれてはいなかった
小さな役を演じたり、CMやTV(!)に出たりして、裕福な生活を取り戻していた
カリフォルニアで3人目の妻と穏やかな日々を過ごしていた
(鳥を撃ち、洞穴から出ると、中にいた男たちが逃げ出てくる
『ライムライト』完成後、Cは当局によりアメリカを追われた
母国イギリスを経て、スイスに落ち着き、家族に囲まれながら
昔の作品に音楽をつけて、再公開することに時間を捧げた
(娘・ジェラルディン・チャップリンが写ってる てか、どんだけ大家族!
1957 Cは『ニューヨークの王様』で主演
1967 初のカラー作品『伯爵夫人』を監督したが思わしい反響を得られず
再び隠遁生活に入り、そのまま引退
(主演はマーロン・ブランド、ソフィア・ローレンてスゴイな
ケヴィン:
1960年代、イギリスでは放浪者は身近な存在とは言えなくなっていた(寅さんと同じか
その後、サッチャー政権で再びホームレスが街に溢れます 数万人はいた
それまで若者は、貧困も放浪者も知らなかったが、Cの映画を面白いと感じた
Cに関する本が約4000冊も書かれ、今も研究されている ナポレオンと同じ規模
Bがギター弾いて、ダミ声で歌ってる!
Kは1966年2月に死去
Cは1977年XMASの夜に亡くなった
次は、マルクス・ブラザースも特集してくれないかな
【ブログ内関連記事】
・『classic film collection Buster Keaton's SHERLOCK Jr. キートンの探偵学入門』(1924)
・『ローマで起こった奇妙な出来事』(1966)
・『バスター・キートン傑作短編セレクション』
・『キートンのエキストラ』(1930)
・『荒武者キートン』(1923)
・『キートンの結婚狂』(1929)
(同上リンク
・『キートンの月ロケット』(1945)
・『BUSTER KEATON COLLEGE』(1927)
・『笑うシネマ FUNNY CINEMA』(エンター・ブレイン)
・スーパー・ギャグ・コレクション『It's 笑 Time(上級編・上巻)』
・『給料日』(1922)
・『チャーリー』(1993)
【ブログ内関連記事】
『バスター・キートン自伝 わが素晴らしきドタバタ喜劇の世界』(1960)(筑摩書房)
『バスター・キートン』(リブロポート)
私はバスターが大好きで、チャーリーの作品はそれほど観ていない
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2人の偉大なコメディアンの特集は嬉しいかぎり
バスターの自伝で読んだことも多いけれども、貴重な映像がいっぱい!
2人の映画に出てくる女優は、なんだか今の美人とは違うんだよね
私の中で、チャーリーはプライベートでもロリータ好みだという印象が強い
チャーリーの伝記的映画も観たな
これも永久保存版の番組だった
【内容抜粋メモ】
制作 MK2TV フランス(2015)
観客席で子どもたちが映像を見ている構成
今も変わらず2人の演技に笑えるのは、サイレントのドタバタ喜劇だからだ
1920年代 サイレント時代の黄金期、2人は喜劇王の座を競い合っていた
もともと旅回りの舞台芸人だった2人は、
発明されて間もない映画に出会い独自の喜劇を作り出した
2人のスタイルがまるで違うため、どちらが面白いか論争になるほど
2人の共演は『ライムライト』(1952)の1度きり
チャーリーは第一線で活躍していたが、当時バスターはハリウッドの表舞台から遠ざかっていた
この直後に男が入ってきて「白塗りの君らを見るなんて昔みたいだな」と早速言われるw
1889 ロンドンの貧民街でCが誕生
両親はミュージックホールの役者だが、父はアルコール依存症、母は心の病で生活はどん底
兄シドニーと孤児院暮らしも経験
2人はなんとか自立しようとさまざまな劇場を渡り歩いた
1895 カンザス州でKが誕生
Kの両親もヴォードヴィリアン Kはよちよち歩きの頃から荒っぽい芸を披露していた
<映画産業の発展>
2人が初舞台に立った頃、映画の技術が発展(なぜ裸体の男が歩いてる???
まだ写真の延長線上のパラパラマンガのようだったが、
間もなく娯楽の1ジャンルとして確立
天才映画プロデューサー マック・セネット
1日1本の割合で短篇喜劇を量産 すべて撮影現場で即興で演じさせていた
1913
セネットがイギリスから巡業で来ていたパントマイムの若手スター、チャーリーを雇う
1914
子どものレースに面白いいでたちでかき回させる役
山高帽、ステッキ、だぶだぶのズボン、窮屈な上着のキャラクターはこうして生まれた
1コインで観られる庶民的な映画館『ニッケルオデオン』で当たる(1コインていいなあ!
1915
セネットのもとを去り、自らメガホンをとるC
ケヴィン:
アメリカではすでに、ギャグのセンスさえあれば映画に出演できる土壌が出来上がっていた
現場を仕切っていたのは、監督ではなくコメディアン自身だった
多くのコメディアンがしのぎを削っていた
1917
Cに対抗できるコメディアンはファッティ・アーバックルただ一人
ファッティは若きKを映画界に引き入れた
K(BBCラジオ 1961):
全米を巡業しながら、映画館に通いつめた 役者の芸当を見てたんだ
ある時、アーバックルが私を撮影所に誘ってくれた
(仕事を頼まれて帽子をかぶったB 帽子が取れなくなっちゃったw
撮影所は宝の山だった
私はまずカメラマンと仲良くなり、編集室でカメラを分解した
これほど楽しい世界はなかった
ケヴィン:
1つ言えるのは、Cがいなければ、あれほど多くの喜劇映画は作られなかっただろうということ
ドタバタ喜劇が商売になると証明したのはCだった
当時は今よりずっと厳格な社会でしたから、Cが警官のお尻を蹴ったりするような
アナーキーな行動を観て、これほど痛快なことはないと大喜びしたのです
興業主は以前は見向きもしなかったコメディアンまで起用した
セルジュ・ブロンベルグ(映画監督):
Cは第一次世界大戦中に国際的スターになった
彼の映画は主に連合国で配給され、前線にいる兵士たちを笑わせつづけた
Kは1917年に端役でスクリーンデビューした
1919年に有名になり、1920年に独立
Cと並ぶ偉大な喜劇人に成長した
第一次世界大戦後には配給網が整備され、Kの作品は世界中で上映された
1919
Cは配給会社を創設
人気女優のメアリー・ピックフォード、アクションスターのダグラス・フェアバンクス、
映画監督のD.W.グリフィスとともに独自の映画をつくった
Kも義理の兄の出資でCの古いスタジオを買い上げ、自分の撮影所を設立
条件は短編映画を毎月公開すること
ケヴィン:
Kはエアバックルと別れ、自ら映画製作を始める
初作はうまくいかず、2作目は『文化生活一週間』(1920)
これは『市民ケーン』に匹敵する名作です
あれを上回る映画はありません
(他にも面白くて、芸術的な作品はたくさんあると思うけど この頃からハンサム!
『文化生活一週間』(1920)
変テコな形の新築の家をお客に案内してると、早速屋根から大量の雨漏り
傘をさして部屋を通り、外に出ると、家が風で回転してる!
止めようとするBと、部屋の中で振り回されるお客
何度もドアから中に入ろうとするけど、そのたびにぶつかって転ぶ
なんとか滑り込むが、部屋の中で自分が回転して、また外に放り出されてしまう
ジョス・ウーベン(俳優):
Cの体は3つの食い違いを抱えている
まず、体の上下の食い違い 上は固く、下は赤ん坊のように開いている
いつでも逃げられるように骨盤は傾いている
2つ目は、放浪者でありながら、英国紳士のマナーを身につけていること
彼の振る舞いは、たとえパイをぶつけられても素晴らしく洗練されています
3つ目は体を常に横に動かしていること
前進する時も体を左右に揺すりながら歩く
世の中の状況や掟とどこまでも食い違う ちぐはぐに動き続けるのが笑いを誘う
しかし、Kはまったく違う いつも無表情 パッと見は面白くない
その何事にも動じないところが魅力
家の外壁がたおれてきても気づかない有名な1シーン
動じないのは彼が物事の中心にいるということ
Kの周りはほとんど大惨事だが、倒れてもすぐに立ち上がる
Kに社会的メッセージはなく、ただそこにいるだけ 哲学で言う「実存」
(身体能力がずば抜けてるんだよね
とんでもないアクションを生身の体でやってるからスゴイよなあ!
マチュー・ブヴィエ(ビジュアル・アーティスト):
Kの体はまるでロケットのよう ものすごいスピードで発射される
曲芸師で、本物の命知らずです
役者人生の間に体中のあらゆる骨を折ったそうです
Kはどんなアクシデントにも痛そうな顔を見せない
『キートンの警官騒動』(1922)
蒸気船や列車など、当時のドタバタ喜劇では前代未聞のスケールでした
アデール・ヴァン・リース(映画研究者):
Kの映画は結末が予想できません
(そこが好きだな スラップスティックらしくて
そこはかとない儚さ、美しさ、純粋さがあるアート
Cの映画には物語があります 役柄はしばしば象徴的だったりして、最後に答えがある
(Cはメッセージがストレートで社会風刺が強い
(落ちた硬貨を拾おうとすると、大柄のウエイターが踏んだりして取れない
ジョス・ウーベン(俳優):
Cの映画には鋭い批評が隠されている
社会の不平等をさらけ出そうとする風刺の精神
Kはいつも機械、組織、抑圧などと格闘しているがそれは踊っているように見える
彼は政治的メッセージを伝えようとはしていなかった
なんか可愛い恐竜出てきた!
Kが動くと、観ているこちら側も動かされる
私たちは人の身ぶりを見ると、脳内でミラーニューロンという神経細胞が活性化します
誰かの動きを見ると、脳が再現しようとして、電気信号として記録される
映画館を出た後、Kのように飛び跳ねたいと感じる
セルジュ・ブロンベルグ(映画監督):
CとKは自社スタジオを構え、完全に独立した状態で1920年代をスタートさせた
契約による縛りもなく、資金も好きなだけ使えたため、ユニークな作品がたくさん生まれた
ハロルド・ロイドがすぐ後ろに迫っていたとはいえ、基本的には2人が頂点に立っていた
・ハロルド・ロイド作品集vol.9『ロイドの足が第一』(1930)
・ハロルド・ロイド作品集vol.1『命知らずの喜劇王』(1989)
・『ロイドの牛乳屋』(1936)
1921年以降、Cは長編映画に移行する
初めての長編映画『キッド』は、笑いあり、涙ありのCらしい作品
・チャップリン作品集Vol.1『キッド/のらくら』(1921)
1923 Kも長編映画に参入『滑稽恋愛三代記』
独特のスタイルでKの人気は急上昇した
・『キートンの恋愛三代記』(1923)
2人の友好関係はこの頃から本格化していった
ケヴィン:
Kを賞賛したいがために、Cを過小評価する人がいます
Cの演出が稚拙だと揶揄するのです
私はCの映画をラッシュフィルムから編集したことがある
映画のプロとして断言するが、彼は誰より多くのシーンを撮影していた
それぞれで何十テイクも撮影を重ねた
面白くなるまで延々と撮影を続けた
求める水準がとても高かったので、50、60テイクと撮り続けた
それらをつぶさに見ると、改善点がよく分かる
出来が良くても、惜しげもなく捨てていることが分かる
K:
今じゃ考えられないだろうが、脚本が要るなんて思いもしなかった
一応3人とも脚本チームを抱えてはいたが、出だしが浮かんだら、結末を考えて終わりさ
中身は現場でどうにでもなると思ってたからね
始まりと終わりさえ良ければそれでいいんだ
『キートンのハイ・サイン』(1921)
マチュー:
異なるメカニズムを融合させる才能でKに敵う者はいない
有名な射的場のギャグでは、射的が上手いことを見せなければならない
本当は話にならないほど下手なのに
男が戻るまでにクレイジーなメカニズムを発案する
(K映画には動物が出てくるから好き 動物からとても好かれたんだよね
Kが撃つと、ヒモでつながれた肉につられて犬が食いついて鐘が鳴る仕組みを作るww
それを見て、拍手する男 調子に乗って、いろんなポーズで撃ってみせていると
犬のそばに猫が来て、犬が興奮してカンカン鳴らすため、
それに合わせてKはどんどん撃たなくてはならない
とうとう犬のヒモが外れる
2人は19Cの壮大な歴史絵巻に取り組む
Cの『黄金狂時代』(1925)、Kの『大列車強盗』(1926)
・『黄金狂時代』(1925)
一番の違いはリアリズムへのアプローチ
Cは実際、人々がどう行動したかにこだわる
彼は全編をほぼロケで撮影後、ほとんどをボツにして1からスタジオで撮り直した
・『キートンの大列車強盗』(1927)
Kは衣装、乗り物まで忠実に再現することに関心を持った
撮影はロケ 最後の戦闘シーンでは膨大な費用が使われた
列車が橋の上で突然くずれる
このシーンはサイレント史上、もっともお金のかかった撮影と言われる
アメリカの深い傷となった「南北戦争」の悲惨な状況に
Kのブラックユーモアがうまくハマった
サーベルの刀部分が抜けたり、大砲の隊員に説明しながら、
柄で味方を倒しちゃったり、その間に敵は銃を撃とうとモタモタしていたら
Kの抜けた刀部分が背中に刺さって死んでしまう
ケヴィン:
ショックでした コメディで死に関するジョークなど見たことがなかったからです
賛否両論あったが、当時は今より冷ややかだったと思います
彼らのほうが南北戦争を身近に感じていたはずだから
アメリカでは、すべてが金で動いています 映画産業も例外ではない
この頃、大手のスタジオが映画製作や配給のプロセス全体を管理するようになり
コメディアンの自由が失われていった
1928 Cは『サーカス』をヒットさせ、Kは名作と名高い『キートンの蒸気船』で対抗
この頃、Kは1年に2本のペースで長編映画を公開していた
・『キートンの蒸気船』(1928)
台風で木につかまると、根ごと抜けて吹き飛ばされるww
<トーキーのはじまり>
同じ頃、ブロードウェイの人気歌手アル・ジョルソンが映画『ジャズシンガー』で大成功をおさめた
ケヴィン:
歌やセリフが音で表現されると、観客はサイレントコメディから離れていった
Cにとっては大問題だった あの放浪者が口をきいたらすべてが台無しだからです
(Kもガラガラ声で映画向きじゃないと思っていたしね
『街の灯』は時代の流れに逆らうサイレント映画だった
これで失敗したら、地位、名声、会社も失うかもしれない
Cはすべてを手放す覚悟で制作した
・『街の灯』(1931)
Kはすでに自社スタジオを売却 多くのスターを抱えるMGMと契約していた(ミュージカルのw
雇われ俳優となったKは、資金、撮影チーム、制作期間など、作品作りにさまざまな制約を受けるようになった
1928 『カメラマン』はKの最後のヒット作となる
・心の中のベストフィルム~『キートンのカメラマン』
・『THE CAMERAMAN』(1928)
映画は大成功したにも関わらず、待遇は改善されないまま
気の乗らない作品を次々と押しつけられ、Kは目に見えて衰えていった
(アーティストから自由を奪ったらダメだよ
以前からお酒に溺れていて、結婚生活も破綻
離婚して財産、家、それまで制作した映画の権利すべてを失った
KはMGMから解雇され、療養生活に入る
(おや、ローレル&ハーディと写ってる
・Classic Film Collection『ローレル&ハーディ LIBERTY』(1929)
・『ローレル&ハーディ傑作短編セレクション』
・『ローレル&ハーディの天国二人道中』(1939)
その後、なんとか業界に復帰したものの、
他のコメディアンのためにギャグを提供したり(マルクスbros.にもたしか・・・?
短篇作品に出演する程度だった
(この芸術性と美しさで、写真モデルになればよかった?
1931 『街の灯』は大ヒットしたが、Cは人の好みが急激に変わっているのを感じていた
セルジュ:
C、Kのスタイルはカオスそのものだった
2人が必死に世の中の常識に抵抗する姿は人々の共感を呼んだ
しかし、時代が変わり、素早く、たくさんの映画を作ることを求められるようになると
カオスの入り込む余地がなくなった
業界が成長し、あらゆることに秩序が与えられると
既存の体制に疑問を投げかけるような混沌とした作り方は時代遅れになった
トーキーの出現で、荒唐無稽なサイレント映画は死に絶えた
個人の会社で映画製作を続けるCは、大手の会社にとってやっかいな存在となった
1936 『モダンタイムス』を公開
セリフなし、音楽と効果音のみで、資本主義を批判する内容だった
・『モダン・タイムス』(1936)
一般客にはヒットしたが、共産主義を警戒するアメリカの右派勢力からバッシングを受けた
次に槍玉にあげたのは、Cと同じチョビヒゲの独裁者
(たしか誕生日が近いんだよね
Cが1889年4月16日 - 1977年12月25日
Hが1889年4月20日 - 1945年4月30日
・チャップリン作品集Vol.7『独裁者』(1940)
破壊と殺戮の第二次世界大戦が終わると、ドタバタ映画は求められなくなった
(こういう時こそ笑いが必要なのに
Cは、放浪者を封印 新たなキャラクターをつくる
1947 『殺人狂時代』
モデルは裕福な未亡人を狙った実在の連続強盗殺人犯
保守的なアメリカ人にとって許しがたい話だった
Cはマッカーシー上院議員の指揮する「下院非米活動委員会」の監視下に置かれた
1952 『ライムライト』
・『ライムライト』(1952)
(ピアノを弾こうとすると、楽譜がどんどん滑り落ちるw
ピアノとヴァイオリンで音を合わせようとするが全然合わなくて、どんどん弦が切れていく
自らのルーツであるミュージックホールの撮影にKの協力を求めた
映画が誕生して半世紀あまり 人々は映画の歴史を振り返るようになっていた
新しい世代の映画マニアは、2人の映画を掘り起こして、論争を始めた
Kファンは、『ライムライト』で、Cが意図的にライバルの演技をお蔵入りさせたのではと言いがかりをつけた
ケヴィン:
CがKに嫌がらせするなんてまったくバカげている
なぜなら、これはCの映画だから CはむしろKに触発されていた
(Cは自分で弾いて感動して泣き、つられてKも泣き崩れる
急にテンポよく演奏が始まり、Kはピアノの椅子から外れても弾き続けるww
客席に落ちても弾き続けるC 男たちにステージに持ち上げられ運ばれていく
セルジュ:
2人が反目していたというのは、評論家やファンが勝手に生み出した話です
2人はそれぞれ唯一無二の存在ですから、互いにどうこうする必要はなかった
CがKに共演を頼んだのは、舞台で自分と渡りあえるのはKだけだったから
「最高の夜でした 名残惜しいがこのザマです(I'm stucked)」
実際、Kは世間で言うほど落ちぶれてはいなかった
小さな役を演じたり、CMやTV(!)に出たりして、裕福な生活を取り戻していた
カリフォルニアで3人目の妻と穏やかな日々を過ごしていた
(鳥を撃ち、洞穴から出ると、中にいた男たちが逃げ出てくる
『ライムライト』完成後、Cは当局によりアメリカを追われた
母国イギリスを経て、スイスに落ち着き、家族に囲まれながら
昔の作品に音楽をつけて、再公開することに時間を捧げた
(娘・ジェラルディン・チャップリンが写ってる てか、どんだけ大家族!
1957 Cは『ニューヨークの王様』で主演
1967 初のカラー作品『伯爵夫人』を監督したが思わしい反響を得られず
再び隠遁生活に入り、そのまま引退
(主演はマーロン・ブランド、ソフィア・ローレンてスゴイな
ケヴィン:
1960年代、イギリスでは放浪者は身近な存在とは言えなくなっていた(寅さんと同じか
その後、サッチャー政権で再びホームレスが街に溢れます 数万人はいた
それまで若者は、貧困も放浪者も知らなかったが、Cの映画を面白いと感じた
Cに関する本が約4000冊も書かれ、今も研究されている ナポレオンと同じ規模
Bがギター弾いて、ダミ声で歌ってる!
Kは1966年2月に死去
Cは1977年XMASの夜に亡くなった
次は、マルクス・ブラザースも特集してくれないかな
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・『classic film collection Buster Keaton's SHERLOCK Jr. キートンの探偵学入門』(1924)
・『ローマで起こった奇妙な出来事』(1966)
・『バスター・キートン傑作短編セレクション』
・『キートンのエキストラ』(1930)
・『荒武者キートン』(1923)
・『キートンの結婚狂』(1929)
(同上リンク
・『キートンの月ロケット』(1945)
・『BUSTER KEATON COLLEGE』(1927)
・『笑うシネマ FUNNY CINEMA』(エンター・ブレイン)
・スーパー・ギャグ・コレクション『It's 笑 Time(上級編・上巻)』
・『給料日』(1922)
・『チャーリー』(1993)