■学習漫画 世界の伝記3『ナイチンゲール』(集英社)
監修:有田幸子 漫画:よしかわ進
名前は有名で知っているのに、実際どういう人なのか知らない偉人さんシリーズ。
『マザー・テレサ』同様、傷ついた人、病気の人に奉仕し、近代看護の基礎をつくった女性、ナイチンゲール。
【内容抜粋メモ】
1820年。イギリス貴族・ナイチンゲール夫妻がイタリア旅行中に生まれた次女・フローレンス(花の都の意)。
ナイチンゲール家は地主で裕福、城のほかにも別荘が複数あった。
ナイチンゲールの家は、今は小学校として使われている。
フローは子どもの頃から動物が大好きで、病気の馬や、農夫の牧羊犬を看護して治したという。
百日咳にかかったことで病気に関心をもった。
家庭教師・クリスティから、人間は世の中の役に立たなければならないなど生き方を考えさせられた。
クリスティは結婚を期に教師を辞めてフロー姉妹と別れ、わずか2年後出産のために亡くなった。
フローは人の命のはかなさを初めて知る。
フローが大好きな父は、ハンプシャー州知事となり、困っている人々を助ける様子をみて育つ。
16歳。最高の社交界デビューをするが、「華やかな世界は性格に合わない」と日記に記す。
ある夜、「我に仕えよ」という神のお告げを聞いたと日記に書いている
詩人で後に政治・慈善事業でも活躍するリチャード・モンクトン・ミルネスと知り合い、
プロポーズされるが、看護婦になるという夢を抱いて断る。
ミルネスは、生涯の友人としてフローの仕事に協力した。
25歳。「看護婦になりたい」と家族を説得。
当時の病院は設備も粗悪で、看護婦は、教会の尼か、教育を受けていない者の仕事だったため、家族に反対される。
アメリカの博愛主義者・ハウ博士夫妻がナイチンゲール家に数週間滞在する。
彼の励ましを受けて勇気づけられ、家族の寝静まった夜に猛勉強して倒れる。
1847年。フローは友人のブレスブリッジ夫妻に休養を勧められてローマに行き、
イギリス陸軍大臣のシドニー・ハーバート卿に会う。
フローの熱意を聞いたシドニーは、貧しい子どもたちのお世話をしてほしいと頼む。
1851年。シドニーの勧めで、フローはドイツのカイゼルスベルト病院で看護を学ぶ。
看護婦養成所で看護法を2週間勉強し、再び訪れて3ヶ月勉強した。
33歳。ロンドンに設立された慈善病院の総婦長になる。
1853年。クリミア戦争勃発。
1854年。英軍はロシア軍を破ったが、当時負傷兵を手当てする軍医や看護婦の準備がほとんどなく、
大勢が死んでいることを知った国民は、スクタリに医師・看護婦を送ろうという声が高まる。
フローは志願の手紙をシドニーに出し、ほぼ同時期にシドニーもまたフローにお願いしたいと手紙を書く。
スクタリの野戦病院に行く看護婦を募り、それを新聞で読んだ国民から兵士への見舞い品が届き、
看護を習う女性が急に増える。
38名の看護婦がスクタリの野戦病院に到着。そこは路上に負傷兵が置き去りにされた想像を絶する悲惨さだった。
スクタリに向かう船にも医者がいないため、船内で亡くなる人が多く、死者は海に投げ捨てられていた/驚
ナイチンゲールは、私財を使って薬品・食糧・衣料などを補充し、患者の家族に手紙も書いた。
物置を病室として利用したいという希望も、軍の規則を変えるには何人もの上官の同意を得なければ進まなかったため、
自分のお金で改装しベッドを増やした。また、病院の医療品が足りないことを新聞を通して世に訴えた。
当時の男性軍医らは、ナイチンゲールをシドニーの密告者ではないかと快く思わなかったという。
あまりに過酷さに辞めて帰国する看護婦も続出し、残ったのは16人。
ほかの看護婦が寝た後も病室を毎日欠かさず見回った。
兵士の中には彼女の影に口づけをする者もいたという。
当時は、負傷兵は戦えないという理由で減給、病気で入院すると、負傷兵以下に減給されていた。
それまでは10人中4人が亡くなっていた病院で、ナイチンゲールが来てから100人に2人の割合となる。/驚
クリミアの戦場には4つの病院があり、ナイチンゲールは毎日かけもちで働いた。
「23時間も立ちっぱなしで病人の世話をすることがあった」と日記に書いている。
ときには戦場の兵士も訪問した。
クリミア熱という伝染病が流行り、兵士がばたばたと倒れた。
看病していたナイチンゲールも熱病にかかり生死をさまようが、兵士の祈りが通じたのか奇跡的に回復する。
「傷ついた兵士を残して今イギリスに帰るわけにはいかない」という彼女の言葉が新聞に取り上げられ、ますます世間に知られることとなる。
ヴィクトリア女王からねぎらいの手紙とともに、メダルを授与される
シドニーを中心に、「ナイチンゲールに看護婦学校」をプレゼントしようと“ナイチンゲール基金”がはじまり、
各地で演説会、音楽会が開かれ、多額が集まる。
1855年。トルコで講和条約が締結されて終戦。
ナイチンゲールは、戦後も最後の兵士が国に帰るのを見届け、戦士した兵士の墓を見舞ってから帰国。
歓迎式典を断り、名前をスミスと変えて、ひとり実家に戻った。
長い間の苦労がたたって自宅で寝込むことが多くなったが、その間にたくさんの著書を残した。
『イギリス陸軍の健康・能率・および病院行政に関する覚書』
『看護法覚書』は発売後すぐ15,000部も売れ、仏、イタリア語などに訳された。
1860年。「ナイチンゲール看護婦学校」が設立。
1861年。15人の第1回卒業生は世界中の病院でひっぱりだことなる。
日本でも、京都にある同志社看護婦学校に卒業生のローラー・イー・リチャーズを講師として招いている。
日本で最初の女子留学生・津田梅子は、晩年のナイチンゲールと会話したとある。
1890年。日本赤十字社でもナイチンゲール看護婦学校の規則や教育内容を取り入れ、当時最高の3年教育を開始。
1859年。イタリアの統一戦争が起きた時、スイスのアンリー・デュナンがナイチンゲールの影響から
「敵味方の差別なく、傷ついた兵士を助けよう」と「国際赤十字運動」をおこす。
12カ国からスタートし、今では100以上の国が条約に加盟。
父母、姉を次々に亡くし、1910年、ナイチンゲール死去。
本人の希望で墓碑には頭文字のF・Nと生年月日・死亡年月日のみが刻まれた。
【有田幸子さん解説抜粋メモ】
当時のイギリスは、貧富の差が激しく、公衆衛生は大変悪く、伝染病などで苦しむ人たちが大勢いた。
一部の貴族・富裕層は家で治療を受けたが、市民は汚い病院に入院していた。
その状況を改善しようとしていた父親にナイチンゲールは影響を受けたと思われる。
ナイチンゲールはスクタリ病院で1500人の患者を看護し、その地獄のような状況から
「戦争は人間にとって、この上もない災難だ」と思ったという。
そして赴任して半年で、死亡率が40%から2%に減った。
「ナイチンゲール記章」が制定。全世界で優れた業績のあった看護婦に贈られる。1920年に第1回授与式が開催。
本書の2002年発行時点での日本の「看護婦への道のり」も表にある。
高校卒業後→看護婦学校か養成所で3年勉強→国家試験に合格したら看護婦になれる。
中学校卒業の場合はもう少し段階がある。
監修:有田幸子 漫画:よしかわ進
名前は有名で知っているのに、実際どういう人なのか知らない偉人さんシリーズ。
『マザー・テレサ』同様、傷ついた人、病気の人に奉仕し、近代看護の基礎をつくった女性、ナイチンゲール。
【内容抜粋メモ】
1820年。イギリス貴族・ナイチンゲール夫妻がイタリア旅行中に生まれた次女・フローレンス(花の都の意)。
ナイチンゲール家は地主で裕福、城のほかにも別荘が複数あった。
ナイチンゲールの家は、今は小学校として使われている。
フローは子どもの頃から動物が大好きで、病気の馬や、農夫の牧羊犬を看護して治したという。
百日咳にかかったことで病気に関心をもった。
家庭教師・クリスティから、人間は世の中の役に立たなければならないなど生き方を考えさせられた。
クリスティは結婚を期に教師を辞めてフロー姉妹と別れ、わずか2年後出産のために亡くなった。
フローは人の命のはかなさを初めて知る。
フローが大好きな父は、ハンプシャー州知事となり、困っている人々を助ける様子をみて育つ。
16歳。最高の社交界デビューをするが、「華やかな世界は性格に合わない」と日記に記す。
ある夜、「我に仕えよ」という神のお告げを聞いたと日記に書いている
詩人で後に政治・慈善事業でも活躍するリチャード・モンクトン・ミルネスと知り合い、
プロポーズされるが、看護婦になるという夢を抱いて断る。
ミルネスは、生涯の友人としてフローの仕事に協力した。
25歳。「看護婦になりたい」と家族を説得。
当時の病院は設備も粗悪で、看護婦は、教会の尼か、教育を受けていない者の仕事だったため、家族に反対される。
アメリカの博愛主義者・ハウ博士夫妻がナイチンゲール家に数週間滞在する。
彼の励ましを受けて勇気づけられ、家族の寝静まった夜に猛勉強して倒れる。
1847年。フローは友人のブレスブリッジ夫妻に休養を勧められてローマに行き、
イギリス陸軍大臣のシドニー・ハーバート卿に会う。
フローの熱意を聞いたシドニーは、貧しい子どもたちのお世話をしてほしいと頼む。
1851年。シドニーの勧めで、フローはドイツのカイゼルスベルト病院で看護を学ぶ。
看護婦養成所で看護法を2週間勉強し、再び訪れて3ヶ月勉強した。
33歳。ロンドンに設立された慈善病院の総婦長になる。
1853年。クリミア戦争勃発。
1854年。英軍はロシア軍を破ったが、当時負傷兵を手当てする軍医や看護婦の準備がほとんどなく、
大勢が死んでいることを知った国民は、スクタリに医師・看護婦を送ろうという声が高まる。
フローは志願の手紙をシドニーに出し、ほぼ同時期にシドニーもまたフローにお願いしたいと手紙を書く。
スクタリの野戦病院に行く看護婦を募り、それを新聞で読んだ国民から兵士への見舞い品が届き、
看護を習う女性が急に増える。
38名の看護婦がスクタリの野戦病院に到着。そこは路上に負傷兵が置き去りにされた想像を絶する悲惨さだった。
スクタリに向かう船にも医者がいないため、船内で亡くなる人が多く、死者は海に投げ捨てられていた/驚
ナイチンゲールは、私財を使って薬品・食糧・衣料などを補充し、患者の家族に手紙も書いた。
物置を病室として利用したいという希望も、軍の規則を変えるには何人もの上官の同意を得なければ進まなかったため、
自分のお金で改装しベッドを増やした。また、病院の医療品が足りないことを新聞を通して世に訴えた。
当時の男性軍医らは、ナイチンゲールをシドニーの密告者ではないかと快く思わなかったという。
あまりに過酷さに辞めて帰国する看護婦も続出し、残ったのは16人。
ほかの看護婦が寝た後も病室を毎日欠かさず見回った。
兵士の中には彼女の影に口づけをする者もいたという。
当時は、負傷兵は戦えないという理由で減給、病気で入院すると、負傷兵以下に減給されていた。
それまでは10人中4人が亡くなっていた病院で、ナイチンゲールが来てから100人に2人の割合となる。/驚
クリミアの戦場には4つの病院があり、ナイチンゲールは毎日かけもちで働いた。
「23時間も立ちっぱなしで病人の世話をすることがあった」と日記に書いている。
ときには戦場の兵士も訪問した。
クリミア熱という伝染病が流行り、兵士がばたばたと倒れた。
看病していたナイチンゲールも熱病にかかり生死をさまようが、兵士の祈りが通じたのか奇跡的に回復する。
「傷ついた兵士を残して今イギリスに帰るわけにはいかない」という彼女の言葉が新聞に取り上げられ、ますます世間に知られることとなる。
ヴィクトリア女王からねぎらいの手紙とともに、メダルを授与される
シドニーを中心に、「ナイチンゲールに看護婦学校」をプレゼントしようと“ナイチンゲール基金”がはじまり、
各地で演説会、音楽会が開かれ、多額が集まる。
1855年。トルコで講和条約が締結されて終戦。
ナイチンゲールは、戦後も最後の兵士が国に帰るのを見届け、戦士した兵士の墓を見舞ってから帰国。
歓迎式典を断り、名前をスミスと変えて、ひとり実家に戻った。
長い間の苦労がたたって自宅で寝込むことが多くなったが、その間にたくさんの著書を残した。
『イギリス陸軍の健康・能率・および病院行政に関する覚書』
『看護法覚書』は発売後すぐ15,000部も売れ、仏、イタリア語などに訳された。
1860年。「ナイチンゲール看護婦学校」が設立。
1861年。15人の第1回卒業生は世界中の病院でひっぱりだことなる。
日本でも、京都にある同志社看護婦学校に卒業生のローラー・イー・リチャーズを講師として招いている。
日本で最初の女子留学生・津田梅子は、晩年のナイチンゲールと会話したとある。
1890年。日本赤十字社でもナイチンゲール看護婦学校の規則や教育内容を取り入れ、当時最高の3年教育を開始。
1859年。イタリアの統一戦争が起きた時、スイスのアンリー・デュナンがナイチンゲールの影響から
「敵味方の差別なく、傷ついた兵士を助けよう」と「国際赤十字運動」をおこす。
12カ国からスタートし、今では100以上の国が条約に加盟。
父母、姉を次々に亡くし、1910年、ナイチンゲール死去。
本人の希望で墓碑には頭文字のF・Nと生年月日・死亡年月日のみが刻まれた。
【有田幸子さん解説抜粋メモ】
当時のイギリスは、貧富の差が激しく、公衆衛生は大変悪く、伝染病などで苦しむ人たちが大勢いた。
一部の貴族・富裕層は家で治療を受けたが、市民は汚い病院に入院していた。
その状況を改善しようとしていた父親にナイチンゲールは影響を受けたと思われる。
ナイチンゲールはスクタリ病院で1500人の患者を看護し、その地獄のような状況から
「戦争は人間にとって、この上もない災難だ」と思ったという。
そして赴任して半年で、死亡率が40%から2%に減った。
「ナイチンゲール記章」が制定。全世界で優れた業績のあった看護婦に贈られる。1920年に第1回授与式が開催。
本書の2002年発行時点での日本の「看護婦への道のり」も表にある。
高校卒業後→看護婦学校か養成所で3年勉強→国家試験に合格したら看護婦になれる。
中学校卒業の場合はもう少し段階がある。