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「上杉謙信の折れない心 〜義の武将 知られざる苦闘〜」@歴史秘話ヒストリア

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「上杉謙信の折れない心 〜義の武将 知られざる苦闘〜」



【70戦2敗。この強さのワケ】

当時、「仁義礼智信」を重んじる儒教の教えは武士道に大きく影響した。
上杉は、宿敵の武田軍にも「塩を送る」という、「義の人」という評判だった。


わんぱく坊主だった少年時代。「林泉寺」で厳しい修行を受けて生まれ変わる。
父・為景の葬儀の最中に攻め入る敵軍に憤りを覚えた。
家督を継いだ兄・晴景は病弱なため、謙信が戦の指揮をとり、
「私利私欲で矢は取らぬ。道理のためにのみ戦をする」と宣言。



【上杉軍8千人のワケ】

現代の軍備の視点から見ても、非常に「機動性」にすぐれた部隊編成といえる。
兵が多いと部隊の動きが遅くなり、少ないと攻撃力が落ちる。

素早く動いて、敵を粉砕したら深追いはしない。
一撃して離脱するのは、負けるリスクをとらないということ。
謙信は自ら最前線に出ることで、刻々と変わる戦況を見極めて命令を下していた。

「入れ代わり戦法」
部隊長がヤラれたら、他の部隊長を素早くもぐりこませる。



【謙信は生涯、独身だった】

敵将の娘・伊勢姫に心奪われたことがあったが、信仰をとった。



【織田との親密な友好関係が突如壊れたワケとは?】
 
織田から親交の証として贈られたという「国宝 上杉本洛中洛外図屏風」。
きっかけは、織田が謙信に「鷹狩りのためのタカを譲ってくれ」と書状を送ったこと。
立場も歳も上の謙信だったが、快くタカを送った。

「遠交近攻」
遠くの相手と交わって、近くを攻める。つまり、お互い武田軍を敵とすることで意気投合していたと思われる。

織田は、決定的な服従を表すために、「息子を養子にしてくれ」と頼む。
しかし、織田が足利義昭を京都から追放したことが謙信の逆鱗に触れる。
信長は、自分より強い相手には下手に出るが、勝算があれば仕掛ける。

謙信は一気に攻め、七尾城を落とす。撤退する織田軍に追撃戦を開始。
雨で鉄砲が使えない上に、川の増水に溺れる者が多数出た。

しかし、謙信はあっけなく亡くなる。49歳。
少年時代に修行した林泉寺に埋葬された。
その亡骸は鎧をまとい、太刀を帯びていると伝えられる。
山門には、謙信が書いたとされる「第一義」の文字が残る。



信玄は「自分が死んだら、謙信を頼れ」と言い、
北条氏康は「ただ一人、謙信のみが骨になっても義理を通してくれる人だ」と言ったという。

 

山形県長井市には、謙信愛用の観音経が残されている。
これをお守りとして、つねにサラシの中に入れて戦に持って行っていた。


泥足毘沙門天像@山形県米沢市の法音寺



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