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フランスコミック版『失われた時を求めて 第1巻 コンブレー』(白夜書房)

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フランスコミック版『失われた時を求めて 第1巻 コンブレー スワン家のほうへ(第1部)』(白夜書房)
マルセル・プルースト/作 ステファヌ・ウエ/翻案・画 中条省平/翻訳・解説


「長いこと、私は早寝だった。
 ・・・そして真夜中に目覚めると、自分がどこにいるか知れず、初めは自分が誰かも分からなかった・・・」


マルセル・プルースト(ウィキ参照
9歳の時、喘息の発作を起こし、以後、病弱なため、学業は不安定だったが、社交界の様々なサロンに出入りする。
1908年頃からパリのオスマン通りの部屋に閉じこもり、本書の執筆に没頭する。
1919年『花咲く乙女たちのかげに』でゴンクール賞を受賞。
だが、全巻の刊行を見ぬうち、1922年に肺炎で死去。享年51歳。

図書館巡りで見つけた1冊。
『フロム・ヘル』(一番下にリンクあり)と同様な病的な香りを察知して、裏表紙にある本文抜粋の一文(上記)にも惹かれた。
それが20世紀最高の大作だったとは思いもよらず。こうゆう出会いがあるから図書館巡りは楽しい。

ブルジョアという、ある種特殊で閉鎖的な環境から、人間の性を子細に捉えて、病的なまでに突き詰めている。
熱心に勧めている訳者さんには悪いが、原書を読む時間と体力は残念ながらないだろうと思われる/謝
嗚呼、無限に時間と体力があったなら、世界中を旅して、世界中の映画を観て、世界中の本を読んで、世界中の音楽が聴いてみたいんだ。



▼おおまかなあらすじ(登場人物が多くて、関係が複雑だから間違ってたらゴメンナサイ

眠れない「私」は幼少期の記憶をたぐり寄せる。
病弱な少年で、父母、叔母らとともに大叔母の屋敷に住んでいる。


毎晩ママのキスだけを待ち侘びているが、お客が来るとベッドに来ない夜もある。
屋敷に来るほとんど唯一の客は、上流社交界の人気者スワン氏だった。

私たちの社会的人格は、他人の思考で作られる。
目の前にいる人物の身体的外見に、私たちはその人物に対する観念をすべて詰め込むのだ・・・

私たちの過去を思い出そうとするのは、無駄な努力だ。知性の努力はすべて空しい。
過去は知性の届く領域の外にあって、思いもかけない物に隠されている。
死ぬまでにこの物と出会えるか、出会えないかは、偶然に任されている。

 
後年、「私」は母親を訪ね、マドレーヌをお茶に浸して口に入れた瞬間に、よりハッキリした過去の記憶をたぐり寄せる。


コンブレーの屋敷では、レオニー叔母が憂鬱と衰弱と病気などの入り混じった不安定な状態でベッドにひきこもり、
通りを行き来する人々の観察と、それに関する詳しい話を、女中フワンソワーズ、
または、贔屓のウラリーから聞くのを唯一の楽しみにしていた。


フワンソワーズ。とても献身的な女中だが、他人には意地悪をしていた。
身重な女中がアスパラガスのニオイで喘息を起こすのを知っていながら、ずっと皮むきをさせて、ついに追い出してしまう。


ウラリー。足が不自由な未婚の老婆。叔母のような病人を見舞い、教会での話などを聞かせている。


祖母は、コンブレーの鐘楼こそが自分にとってこの世でもっとも価値のあるものだと思っていた。


ルグランダン。コンブレーに別荘を持つ上流気取り(スノビズム)な技師。


後にスワン夫人となる高級娼婦オデット。ジルベルトの母。
「芸術家は大好きだわ。女性を理解できるのは芸術家と・・・貴方みたいなエリートだけね」

彼女は父のつまらない言葉を例に出して、工芸品の宝石のような、何か「とても気分の良いもの」に変えてしまった。
後になって思ったのは、こうした加工こそ、この種の女たちの果たす役割の感動的な一面だということだった。
彼女たちは、暇ではあるが勤勉で、自分の寛大さ、才能、美しい感情を自在に操る夢を注ぎこんで、
男たちの無骨で荒削りな生活を、貴重かつ細やかな象嵌で豊かにするのだ。

●訳注
「ココット」は「高級娼婦」と訳されるが、大金を積めば体を売るというわけではない。
もっぱら裕福な男の社交的な相手をつとめ、気に入れば肉体関係も許すが、教養の高い女性も多い。
その意味で、日本の一流の芸者に通じるものがある。

叔父とオデットの話を両親に話したために、2人は激しく言い争い、二度と会わないまま、随分経って叔父は死んだ。


 
「私」は、身重の女中が、礼拝堂に描かれた美徳と悪徳の象徴画に似ていることに気づくw

「慈愛」という名の頑健な主婦も、自分が美徳の化身だとは思っていないらしい。
「嫉妬」は、舌の腫瘍による声門か口蓋垂の圧迫を図解しているかのようだ・・・

後に私は、まさに聖人というべき活動的な慈愛の化身たちと出会う機会があったが、
そうした人々はたいて快活で、積極的で、無頓着で、忙しい外科医のようにぶっきらぼうで、
その顔は人間の苦しみを前にして、いかなる憐れみも同情も浮かべず、苦しみとぶつかることを少しも恐れず、
優しさもなく、好感もそそらず、だが真の善意がもつ崇高さを湛えている顔だった。


・・・幸福と不幸、そのもっとも激烈なものは人生ではゆっくりと生まれるので、それに気づくことができず、
読書がなければ永遠に知り得なかっただろう。

コンブレーの庭のマロニエの木陰で過ごした晴れた日曜の午後よ、
私はお前たちから、私の個人生活の凡庸な出来事を丹念に消し去り、
清流に現れる国で起こる奇妙な冒険と憧れの生活にそれを置き換えていた


ある日、駐屯部隊が野外演習のため、コンブレーを通っていった。
フワンソワーズ「可哀相な若いヒトたちだよ。牧場の草みたいになぎ倒されるんだ。そう思っただけで胸が痛くなる」
庭師「戦争が始まると、鉄道をみんな止めちまうだろ」
フワンソワーズ「そうよ、逃げられないようにね!」
庭師「まったく! 悪賢い奴らだ・・・」
この庭師の考えでは、戦争とは国家が人民に仕掛けたがる一種の悪ふざけだった・・・(納得



ブロック。「私」の学友のユダヤ人。ベルゴット等を教えてくれて、多大な影響を受けるが、
その言動がエキセントリックに見えた家族には嫌われ、その後門前払いされてしまう。

父「お前の友だちは完全な馬鹿者だよ。どんな天気か言うこともできないなんて!
  天気ほど気になるものはないのに! あいつは阿呆だ」



スワンは、重要な問題に対する判断を含むような表現を用いる時、独特の皮肉な抑揚をつけて
表現を他と切り離し、それに責任を負いたくないように見えた。
だが、この種の享楽にこそ、スワンは人生を費やしているのではないか。完全に矛盾している、と私は思った。

他のどんな人生のために、物事についての自分の考えを真面目に打ち明ける機会を保留しているのか?
いつになったらカッコ付きでない判断を表現し、陰で馬鹿げていると断言するようなお楽しみに耽るのをやめるのか?(ドキッ


コンブレーの周辺を散歩するには、美しい平野の眺めがある「メゼグリーズのほう」(スワン家のほう)と、
延々とヴィヴォーヌ川沿いの続く「ゲルマントのほう」があった。

ヴィヴォーヌの流れは水草にふさがれ・・・睡蓮は永遠に行ったり来たりを繰り返し・・・
それはある種の神経症患者を思わせたが、祖父によればレオニー叔母もそういった患者の仲間だった。



「私」は、メゼグリーズのほうに散歩していた途中で、ジルベルト(スワンの娘)と出会う。

人を愛することで未知の生活に入り、その人が生活を共にしてくれると信じることは、
愛が生まれるために必要なすべての中で、愛がもっとも大事に思うことだ。
だから、女たちは軍人や消防士を愛する。彼らの胸甲の下にある、普通とは異なった、
冒険好きの、やさしい心に口づけできると信じるのだ。



ヴァントゥイユ氏。コンブレーの近くに住む音楽家。娘を溺愛している。娘がゲイだと知りつつ、知らないふりをしている。

社交界には、自分の道徳的偏見はすべて解体したくせに、他人が汚名を負わされると、
そこに自分の善意を発揮するキッカケだけを見る人間がいる。
その善意は、受け取る人間にとって実に有り難いものだと分かっているので、
善意を発揮する人間の自尊心はますますくすぐられるという仕組みだ。


レオニー叔母が亡くなる。
ヴァントゥイユ氏も亡くなり、「私」は庭からヴァントゥイユ嬢が女性との密会の際、父の写真をわざと机に置くのを見る。


たぶんこの肖像写真は、2人がいつも行う冒涜の儀式に使われているのだ。

ヴァントゥイユ嬢のようなサディストは、あまりに純粋な感傷家で、生まれつき真面目なので、
官能の喜びさえ悪いものに見え、それは悪人にしか許されないと思うのだ。
それで、自身に負けて、快楽に身を委ねる時は、悪人のフリをしようと努め、共犯者にも悪人のフリをさせる。
そうして臆病でやさしい魂から逃げだし、一瞬、人でなしの快楽の世界にとびこんだという錯覚を得るのである。


ゲルマントのほうには、名門貴族で、社交界の頂点に立つ女性、ゲルマント公爵夫人がいる城館があった。
「私」は、どうしてもゲルマント公爵夫人が見たくて、幻想をふくらませていると、彼女の病気を治した医師の娘の結婚式に出るという。


期待とのあまりの差に一瞬麻痺した「私」だったが、夢中になって読んだ歴史の本の人物の子孫であることに感動する。

するとたちまち彼女を愛していた。私たちが一人の女を愛するようになるには、
時には相手から軽蔑的に見られるだけで十分なことがある。
だから、ゲルマント夫人がそうしたように、時には好意的に見られるだけでも十分なのだ。


「私」は作家を目指しつつ、何か感じながらも表現できない自分に、文学の素質がないと思って落胆する。

私の意志の力が十分でないため、その現実を発見するに至らなかったのだ。


ところが、ゲルマントからの帰りの馬車から沈む夕陽とともに見え隠れするマンタンヴィルの2つの鐘楼と、
ヴューヴィックの鐘楼を観て、「私」は憑かれたように文章を書いた。


私はひどく幸福になり、あの鐘楼と、鐘楼が背後に隠しているもののことを、その文章が完全に忘れさせてくれたと感じた。
そのため、まるで私自身が雌鶏になって、たった今、卵を生み落としたような気分になり、大声で歌を歌い始めた。


この2つのほうと結びついているのは、「私」の記憶。

・・・それらは、私の心の高揚によって運ばれ、連続する多くの歳月を越えてきた。
一方、その周りの道は消え、その道を歩いた人々は死に、そこを歩いた人々の思い出も死んだ。





【ステファヌ・ウエまえがき抜粋メモ】
画家のモネと、プルーストという2人のフランス人芸術家は、非常に強く日本と結びついているように思われます。
イリエ・コンブレーのレオニー叔母さん邸には、遠い日本からやって来て、
感動の中でひととき物思いに耽る観光客が一年中おり、毎年数百人にも及ぶのです。
千年を超えて続いてきた日本人の文化、つまり、忍耐強く待つ能力と、物事に感嘆する繊細な技術が、プルースト愛好に大いに関係しています。
いかなる国の翻訳にもまして、本書、すなわち日本語版の刊行に私は感激しました。


【中条省平さんによる解説抜粋メモ】
プルーストは執筆に没頭するため、外界の雑音を遮断するのに、部屋の壁をコルク張りにしたのも有名なエピソード。
出版に際しては、最初はうまくいかず
「ある男が眠りにつく前に、ベッドでどんな風に寝返りを打ったかを描くのに、なぜ30ページも必要なのか理解できない」とまで言われた

プルーストが生前、刊行を見届けたのは第4篇『ソドムとゴモラ』まで。残りの3篇は遺稿を整理して刊行された。
『失われた時を求めて』は怪物的な作品で、日本語の翻訳では分厚い文庫本で13冊になる異様に巨大な小説です。(鈴木道彦訳、集英社文庫版)

そこにはスノッブが集う、19C末〜20世紀初めの「ベル・エポック(美しい時代)」の文化の粋が流れ込んでいる。
「私」は、人間の多様な本質を発見し、同性愛者の世界を知り(プルーストもゲイだった)、芸術とは何かという問いを究めていきます。
中でも本書のマドレーヌと1杯のお茶から、少年時代の思い出が一挙に出現するという「記憶」の神秘的な働きは最大のテーマです。

「小説」というジャンルそのものが本書とともに新しい時代に入ったことが分かる。
小説では、プルーストの同性愛は隠され、性が偽装されたりしている。
自伝として読み解くことも不可能ではないが、あくまで個人の経験から発して、人間の普遍的な真実に達した作品と見るべきだろう。



▼全巻の構成
第一篇 『スワン家の方へ』 (1913年):この後、「スワンの恋」「土地の名・名」で完結する。
第二篇 『花咲く乙女たちのかげに』 (1919年)
第三篇 『ゲルマントのほう』 (1921年-1922年)
第四篇 『ソドムとゴモラ』 (1922年-1923年):「ソドム」は男の同性愛、「ゴモラ」はレズビアンの世界を意味する。
第五篇 『囚われの女』 (1925年)
第六篇 『逃げ去る女』 (1927年)
第七篇 『見出された時』 (1927年):シャルリュス男爵がマゾヒズムの快楽に耽っているところを目撃する。


このように「記憶」の中で人間的真実が結晶するという最大のテーマ、人間という不可思議な存在に対する飽くなき興味、
異性愛、同性愛、サドマゾ的な快楽の謎、生きることへの深い喜び、死の悲しみ・・・
ここには、人生のすべてがあるといっても過言ではないかもしれません。


▼コミック版の意味
私の周りのそうとう熱心な読書家ですら、本書の通読に挫折した人が多い。
その大半は「スワン家の方へ」、しかも数十ページで諦め、もう一生読まないと誓ったという人もいる
しかし、それではあまりにもったいない ここには人間が到達した芸術的真実のひとつの極限があるからです。

プルースト研究の最高峰、鈴木道彦氏は、個人全訳という偉業を成し遂げただけでなく圧縮版も作られたが、
多くの人には、これでもまだ長く、複雑だというのが正直な感想らしい。
その理由は、プルーストの気が遠くなるような緻密な文体、あの息の長い、長すぎて窒息しそうな文体にある。

しかし、本書では、原文を書き直すのではなく、煩瑣な枝葉をとって、スッキリと編集してある。
絵の支えがあるために、人物や舞台、出来事のイメージが立ち上がり、
全体で72ページなら誰もが読み通せて、構造を把握できることでしょう。

日本には、個性の異なる素晴らしい個人全訳が2種類もあります。
鈴木道彦氏の全13冊と、井上究一郎氏のちくま文庫版全10冊です。
なお、本書の翻訳にあたって、始終抱いていたのは、“映画の字幕を訳すように”という気持ちでした。
本書をキッカケに多くの人が『失われた時を求めて』という宝の森に参入してくださることを祈ってやみません。







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