■『職場・恋人・友人・家族に「わかってもらえない」ときに読む本』(海竜社)
堀田あけみ/著
図書館巡りで見つけた1冊。
著者の堀田さんの紹介文の中に、先日読んだ『大草原のプレーリードッグ』(七賢出版)があってビックリ!
作家さんでもあり、心理学を学んで、大学で講師もされてて、幅広く活躍してるんだな/驚
でも、図書館巡りでパパっと見た感じと、実際読んでみた印象がかなり違ってた
なんてゆうか、堀田さんがバリバリの関西人で、3人のお子さんの“おっかさん”で、
自称「短気」「言葉遣いが悪い」せいか、女子大生相手に講義しているのが滲み出ているせいか、
本書が2004年発行で、すでに9年前ってことが影響してるのか、
それとも、私が好きなスピリチュアル的な考え方とちょっと離れている印象があるせいか、
いわゆるHOW TO 本みたいな軽いノリの文章のせいか(分かりやすさを重視したのかもだけど
カウンセラーみたいな臨床の立場から書かれていないからか?(寄り添い感が感じられないというか・・・
先日、病院に行った際、長い待ち時間に読むにはちょうどよかったが、
ところどころ「んー?」てズレを感じる点もあったから、感想メモにもそれが反映してるかも
【内容抜粋メモ】
●「分かってもらえない」という前に、自分を誤解していないか?
人は先入観や思い込みから、どうしても自由になれない存在。
分かってくれないと感じた時、人は自分が「誤解されている」と思う。
では、その「本当の私」は、どこまで本当なのか?
人は間断なく大量の情報を処理している。
中には正しく処理されない情報もある。
誤解:「わかった」つもりでも、状況や相手の意図を正しく把握できていない場合。
「誤解している」という時、偶発的ではなく、自分に対する特別な意図(往々にして悪意)があると感じる。
人は誤解でなく「理解」を求める存在。情報の中には間違えても死ぬわけじゃないものがある。
誤解される人は、誤解されるようになことをしている
情報処理の多数を占めるのは、「言語」を媒介とした「視覚・聴覚情報」。
情報を敢えて「一時的情報」と「二次的情報」に分類すると、
「一時的情報」とは生存に関わるもの、「二次的情報」は「生理的情報」と「社会的情報」。
「二次的情報」は娯楽を担ってるため、正確さより「面白さ」が優先される。例:噂話には尾ひれがつく。
「誤解している」というのは、故意に歪曲しているというより、「誤った情報」を正しく処理して信じている場合が多い。
「私が考えている私」と「他人から見える私」にあるズレが原因。
ものすごくズレている人には、相手次第で歩み寄りを試みたり、放置したり、関係を断ったりする。
だが、「誤解されやすい人」には、少しのズレも我慢できず、関係を断つことも出来ない
●人は見た目で判断している
「内面が大切だ」とは言え、性格は目に見えない。性格判断にも見えるものを材料にしている。
印象形成には、服装、髪型、言動の総合で、「この人はこういう性格であろう」と決定している。
「こう見て欲しい」という希望があるなら、そう振る舞えばいい。
それでも「ありのままでいたい」というなら、「わかってもらえない」と文句は言わないこと。
文句言いたがりの人は無差別
悪意による誤解は「積極的誤解」と言える。それは無差別であることが多い。
ターゲットは「言い返さない、文句を言いやすい人」だから。「私だけがいじめられている」わけではない。
相手を非難することで、自分のアイデンティティを保っているので、付き合っても何のメリットもないから縁を切るのが得策。
むしろ、そうゆう人は、面と向かって言えない相手にこそ憎悪を抱いている。
悪意に基づく誤解は、誰かに対し、悪い印象を持っているために、その人の言動をすべて悪意で解釈すること。
悪意を形成する以前と以後を考える。「以後」の誤解を避けるには「以前」のほうをまず阻止すること。
つまり誤解されるような行動を避けること。「ありのままで誤解される」か「誤解されないために少し演技する」か。
著者は「美しい誤解」も「どう思われてもいいじゃないか」と思えない。
思春期の偽悪性(わざと悪を装うこと)から脱却できないから?
厄介な「自意識」
「誤解されやすい」と思ってるのは女性に多い。女性のほうが「見られている」とい意識が強いため。
男が言う時はポーズ。女性の母性本能を刺激するためとか。例:「遊び人に見られるけど、違うんだよ」
●「本当の自分を知る」テスト
「性格心理学」「性格検査」
例:
・ロールシャッハ・テスト:シミが何に見えるか答える。題材は10枚のカード。
実施するのに1時間前後かかり、分析にはもっとかかる。治療者が患者の情報を得るのが目的。
・TAT法:絵を見て物語を創作する
・バウムテスト:木の絵を描く(これ心理学のゼミでやったな
いずれも「投影法」と呼ばれる。
「質問紙法」は簡素化するために、ある程度の情報は捨てるという犠牲を払っている。
「心理学なんて当たらない」と言うのは、「私の持ってる私のイメージが正しい」と証明してほしいから。
血液型占い・動物占い・性格占いに興じるのは日本人の特徴。血液型占いは大正時代に古川竹二という心理学者が考え出した。
(著者は「科学的な根拠がない」から信じないと書いているけど、私は統計学問としてなら同じだと思う部分もあるけどな。
何を言っても「当たってる」と思うのは、「分かりやすい」から。
市販されてる占い本をシャッフルして「あなたの性格です」と言うと「当たってる」と言う人が多かったという実験もある。
人は何を言われても思い当たってしまうということ。
「よく当たる本だ」と持ってきた時点で、現実よりも本が教えてくれることのほうが正しいと錯覚している可能性が高い。
●私って二重人格?!
2人以上の「私」を使い分けるのは必要。
「こんな人になりたい」という像も、矛盾した形で複数持っているもの。
文化の共有で誤解は減る「スキーマ」
「私を分かってほしい」と思う相手は、自分が好意を持っている場合。
「慣れ」は様々な現象の複合体。言語的知識、文化的知識、社会的知識の増加。
「スキーマ」
もとは仏語で「図面・図式」の意。何かの枠組みのこと。
例:「目が赤いよ」と言えば白目部分が赤い、「目が青い」といえば黒目部分だと伝わるのは、
目に関する共通のスキーマを互いが持っているから成立する。
人は経験から作られた膨大な数のスキーマを蓄えている。
誤解の中でも情報伝達における誤解は、スキーマのズレから生じていることが多い。
受け手が送り手より優位だと、送り手の未熟な情報を受け止め、正しく解釈してあげられる。
例:子どもが「米からメが出た」と言った時、大人なら「目」ではなく「芽」だと判断できる。
人は情報を自分のスキーマに当てはめて解釈する。
情報理解は、そこに「腑に落ちる」体験があって初めて「わかった」と実感でき、記憶される。
厄介なのは、いったん記憶すると、実際の情報と、自分の推測の区別がつかなくなること。
「腑に落ちない」情報に出会うと、自分で腑に落ちる形に推測して記憶してしまう。
噂の尾ひれはこうしてつけられる。
相手のスキーマを見極めることが、人間関係の肝。
食習慣の否定は人格否定に繋がる。例:「卵には醤油」「いや、マヨネーズでしょ!」w
「他人は他人でいいんじゃない?」という現代の若者でも食習慣の否定には要注意
年齢のギャップがスキーマのズレを生んでいることが多いので配慮が必要。
「常識」なんて存在しない?
常識は、誰にでも通じるもののはずが、実は個人的なもの。その最小単位は「家庭の躾」で受け継がれていく。
躾の目的は?
1.人前で恥をかかない
2.他人に不快感を与えない
3.行動の効率を上げる
常識は人の数ほどある。それとは別に、明文化された社会的ルールもある。例:病院内で携帯電話は使用しない など。
●外見か、内面か?
人は、滲み出たものを見て、相手の性格を判断・推測している。
何に性格が滲み出るかというと、その人の発言や行動であって、それらは外から見えるもの。すなわち「見た目」。
みんな自分の推測に自信を持っている。それで混乱、苛立ちが起きる。
「人は見かけによらない」
外見で判断したつもりになっていると真実を見逃す。
そもそも人は外見と内面はリンクしているというスキーマを保持している。
差別とは、持って生まれた不可抗力の条件によって不利な扱いを受けることであって、
好きで顔や髪の色を変えた人が抗議に用いる言葉ではない。
必要以上に外見を飾らないのは、逆にものすごく外見を気にしているからでは?
例:
Aさんから見た「彼」は人格者。Bさんから見た「彼」は人でなし。
情報の送り手(彼)と受け手(A・B)との相互作用が存在する。
受け手の好み、性格が違う場合(悪口を言わない人、文句たれ)or彼が2人の前で態度を変えている場合もある。
私の中の大人と子ども:「エゴグラム」
世の中の「心理学」と「精神分析」のイメージは重なっている。
堀田さんの持論では、「精神分析」は科学性に欠け、主観的過ぎるという点で学問に入らない。
心理学の父はフロイト、ユングではなく、ヴントというお医者さん。フロイトは異端児だった。
心理学の分野はとても広く、こっちの分野の人は、あっちの分野のことは分からないということがある。
人は複数の側面を状況に応じて使い分けている。
それを理論家したのがアメリカの精神科医バーンの「交流分析」。
バーンは人のココロを3つに分類し、それぞれのココロを「自我」「自我状態」と呼んだ。
それを分かりやすく数値で表したのが「エゴグラム」。
P:Parent 親
A:Adult 大人
C:Child 子ども
これを組み合わせた5つの自我状態
【CP】批判的な親:道徳的な躾に結びつく、誰かを批判、責める、意見を押しつける時に出てくる。
【NP】養育的な親:同情、世話焼き、思いやり、優しさ、過保護、おせっかい。←もっとも人当たりがよく、付き合いやすい自我状態
【A】大人:理性、客観的事実で物事を判断する。
【FC】自由な子ども:本能、遊ぶ、騒ぐ時。
【AC】順応した子ども:諦めたり、建前を口にする。
●5つの自分を上手に使い分ける
どれを前面に出すかではなく、その結果、他者との交流にどう影響を及ぼすかが問題になる。
発信者がターゲットとした自我状態から返信されないと交流がうまくいかない。
離婚した女性に聞くと、夫にP(親人格)を求めていたにも関わらず、
男は結婚するとC(子ども人格)ばかり使って、パートナーに母を求める傾向があることが原因という場合が多い。
「見えるものしか信じるな」というのでなく、「見えないものを洞察する」ことが大事。
可視的・客観的な事実から、どれだけ多くの可能性を推測できるか。
そして、どこまでが事実で、どれが推測かを、きちんと把握していること。
「不細工だからモテないんだ」などの一点突破を目指すかぎり道は遠い。
注意すべきは、その推測の幅の狭さ。推測の中から正しい答えを見つけるには?
●表情や仕草は意外と正直
ウソが上手い人も表情や仕草に表れる。
自発的に謝らない子どもの親の2つのパターン
1.開き直るタイプ
2.親が代わって謝るタイプ
そこから子どもが学ぶのは、「大人は騙せる」「他人の痛みに対して謝罪しなくても許される」ということ。
●真実は人の数だけある
誰も意図的にウソを吐かない。語られたのは三者三様の真実。
「何が真実か」より「何を信じるか」。信じるも、信じないも、決めるのは「私」。
そこに関わるのは、本人の意志。推測というより「信念」。
いったん意志を決定すると、それが事実ではないことを忘れてしまう。
「一時的情報」に関しては、真実が身を守るため。真実を知りたいと思うのは本能。
ウソ
多くのウソは、「保身」が目的。
傷つけてしまうのは副産物であり、主目的ではない。(これは同意するな。弱い犬ほどよく吠える的な
●頼りにならない感覚
人の知覚はあまり精密ではない。例:見間違い、聞き違い。
「錯視」:ミューラー・リヤー、エビングハウス
●ここまで出てるのに、思い出せない
「干渉説」
「せっかく覚えたのに寝ると忘れちゃう」のはほかの精神活動の干渉を受けたから。
でも実際は、睡眠をとった人と、とらなかった人を比べると、とらなかったグループのほうが記憶テストの成績は低い。
「検索失敗説」
忘れたのではなく、思い出せないだけ。
記憶を測る方法は「再生」と「再認」がある。
「再生」:すべて自力で思い出すこと。
「再認」:提示されたものの中に課題があったかどうか判断する。
記憶はカンタンに変化する
「プレグナンツの法則」
1.常態化:馴染みのあるものに類似した方向への変化
意味の有無は、記憶の保持に大きな影響を及ぼす。→自分が知っているものに事実を変えてしまう。
2.強調化:特徴の誇張
「思い出は美化される」など。
3.構造的変化:歪んだ図形の補正
敢えてつじつまの合わない文章を聞かせると、修正されて記憶される。
こうみていくと、「言った、言わないの言い争い」がムダなことだと分かる。
3種類の認知
1.対物認知
2.対人認知(自分に対する理解も含まれる
3.対人間関係認知
「バランス理論」byハイダー、ニューカム
事物Xを媒介にした、Aさん、Bさんのバランスで考えた時、
Xに対する2人の態度が同じ時は、2人の関係は良好。(同じものが好き
良好なら、違うならとして、3者の積がの時、関係は安定、なら不安定となる。
例:
AさんがBさんにプレゼントXをした。
・Bさんが気に入った:で安定
・気に入らなかった:で不安定
さて、どうするか?
解決1.A−B間をにする:Bさんを嫌いになる。
解決2.A−X間をにする:プレゼントを否定する。
解決3.B−X間をにする:これは不可能だが、「今日はBさんの体調が悪かったんだ」「照れているんだ」と解釈すれば安定となる。
ココロは言葉にして伝えよう
心理学は結局「個人の問題」に還るもの。見えないものをデータから推測する以上「絶対」ということはない。
これらの理論は人を集団としてとらえた場合で、1人1人は異なる。
「以心伝心」「言わなくても分かって欲しい」は甘え。
保身のためについたウソは責めずに、許し、許した自分を好きになる。
●離婚原因の第1位は「性格の不一致」
性格が完全に一致するということはあり得ない。
パートナーが自分を誤解していると感じると訴えた時、パートナーの行動を2つに大別すると、
1.「僕には分かっているよ」→優しいけど、相手の言い分に耳は貸さないタイプ
2.「君だって誤解してるよ」→駄々をこねるタイプ
ズレがあっても小さい場合、片方が我慢強い場合は、関係の消滅には至らない。
ズレが許容範囲におさまっていればいい。
「誤解されている」という思いから生じるデメリットと、誤解をいちいち解くことに費やすエネルギーを秤にかけて、
無駄なエネルギーは使わないでおこうと考えるのが得策。
「私」は、常に誤解されている。「私」も、常に誤解している。
根拠のない悪意はない。悪意の素となったことを明らかにする。複数人が同じ誤解をしているようなら考慮する必要があるかも。
例:「怒ってないのに、怒ってると言われる」
→声を小さく、言い方を柔らかくしてみるなど。
相手に言う場合は「もう少し小さな声でも聞こえるよ」「もっと優しく言ってくれないと、怖いよ」
子どもは「観察学習」によって、親のすることを真似て育つ。
自分と他者の関係が1対1なら歩み寄りは可能。
少数派vs多数派の場合は、少数派の意見が認められる可能性は低くなる。
多数派が常に正しいとは限らないが、正しいか否かの問題ではなく、社会が認めるかどうか。
鏡、写真、他人の指摘によって、人はイメージの中の自分と、現実の自分の落差を自覚する。
誤解に気づいた時の対処例
1.自分を変える。
2.誤解を解く。
3.見て見ないふり。
一番建設的なのは1。それは、積極的に「私」を理解しようという動きにもなる。
私が私を理解するには、他人の言い分に耳を貸すことも必要。
もっとも辛いのは、誤解の根源が自分であると理解すること。誤解されるような言動をしたと自分が認めること。
だからと言って、自分が悪いわけではないということ。
何の悪意もなくしたことが、たまたま相手の物差しに合っていなかっただけ。
嫌なところもあるけど、やっぱり私は私が好き。まず「私」を誤解しないこと。
なんだか感想メモも散漫な感じだな
ちなみに、エゴグラムは大体昔からM型になる傾向にあるんだけど、
「時間の経過で変わる」って書いてあったから、もう一度やってみたら、FC(奔放な子ども)だけ低くて、あとはどれも高かったな。
自分が思ってる自分よりも、他人や自分自身にも厳しいってことなのか???
堀田あけみ/著
図書館巡りで見つけた1冊。
著者の堀田さんの紹介文の中に、先日読んだ『大草原のプレーリードッグ』(七賢出版)があってビックリ!
作家さんでもあり、心理学を学んで、大学で講師もされてて、幅広く活躍してるんだな/驚
でも、図書館巡りでパパっと見た感じと、実際読んでみた印象がかなり違ってた
なんてゆうか、堀田さんがバリバリの関西人で、3人のお子さんの“おっかさん”で、
自称「短気」「言葉遣いが悪い」せいか、女子大生相手に講義しているのが滲み出ているせいか、
本書が2004年発行で、すでに9年前ってことが影響してるのか、
それとも、私が好きなスピリチュアル的な考え方とちょっと離れている印象があるせいか、
いわゆるHOW TO 本みたいな軽いノリの文章のせいか(分かりやすさを重視したのかもだけど
カウンセラーみたいな臨床の立場から書かれていないからか?(寄り添い感が感じられないというか・・・
先日、病院に行った際、長い待ち時間に読むにはちょうどよかったが、
ところどころ「んー?」てズレを感じる点もあったから、感想メモにもそれが反映してるかも
【内容抜粋メモ】
●「分かってもらえない」という前に、自分を誤解していないか?
人は先入観や思い込みから、どうしても自由になれない存在。
分かってくれないと感じた時、人は自分が「誤解されている」と思う。
では、その「本当の私」は、どこまで本当なのか?
人は間断なく大量の情報を処理している。
中には正しく処理されない情報もある。
誤解:「わかった」つもりでも、状況や相手の意図を正しく把握できていない場合。
「誤解している」という時、偶発的ではなく、自分に対する特別な意図(往々にして悪意)があると感じる。
人は誤解でなく「理解」を求める存在。情報の中には間違えても死ぬわけじゃないものがある。
誤解される人は、誤解されるようになことをしている
情報処理の多数を占めるのは、「言語」を媒介とした「視覚・聴覚情報」。
情報を敢えて「一時的情報」と「二次的情報」に分類すると、
「一時的情報」とは生存に関わるもの、「二次的情報」は「生理的情報」と「社会的情報」。
「二次的情報」は娯楽を担ってるため、正確さより「面白さ」が優先される。例:噂話には尾ひれがつく。
「誤解している」というのは、故意に歪曲しているというより、「誤った情報」を正しく処理して信じている場合が多い。
「私が考えている私」と「他人から見える私」にあるズレが原因。
ものすごくズレている人には、相手次第で歩み寄りを試みたり、放置したり、関係を断ったりする。
だが、「誤解されやすい人」には、少しのズレも我慢できず、関係を断つことも出来ない
●人は見た目で判断している
「内面が大切だ」とは言え、性格は目に見えない。性格判断にも見えるものを材料にしている。
印象形成には、服装、髪型、言動の総合で、「この人はこういう性格であろう」と決定している。
「こう見て欲しい」という希望があるなら、そう振る舞えばいい。
それでも「ありのままでいたい」というなら、「わかってもらえない」と文句は言わないこと。
文句言いたがりの人は無差別
悪意による誤解は「積極的誤解」と言える。それは無差別であることが多い。
ターゲットは「言い返さない、文句を言いやすい人」だから。「私だけがいじめられている」わけではない。
相手を非難することで、自分のアイデンティティを保っているので、付き合っても何のメリットもないから縁を切るのが得策。
むしろ、そうゆう人は、面と向かって言えない相手にこそ憎悪を抱いている。
悪意に基づく誤解は、誰かに対し、悪い印象を持っているために、その人の言動をすべて悪意で解釈すること。
悪意を形成する以前と以後を考える。「以後」の誤解を避けるには「以前」のほうをまず阻止すること。
つまり誤解されるような行動を避けること。「ありのままで誤解される」か「誤解されないために少し演技する」か。
著者は「美しい誤解」も「どう思われてもいいじゃないか」と思えない。
思春期の偽悪性(わざと悪を装うこと)から脱却できないから?
厄介な「自意識」
「誤解されやすい」と思ってるのは女性に多い。女性のほうが「見られている」とい意識が強いため。
男が言う時はポーズ。女性の母性本能を刺激するためとか。例:「遊び人に見られるけど、違うんだよ」
●「本当の自分を知る」テスト
「性格心理学」「性格検査」
例:
・ロールシャッハ・テスト:シミが何に見えるか答える。題材は10枚のカード。
実施するのに1時間前後かかり、分析にはもっとかかる。治療者が患者の情報を得るのが目的。
・TAT法:絵を見て物語を創作する
・バウムテスト:木の絵を描く(これ心理学のゼミでやったな
いずれも「投影法」と呼ばれる。
「質問紙法」は簡素化するために、ある程度の情報は捨てるという犠牲を払っている。
「心理学なんて当たらない」と言うのは、「私の持ってる私のイメージが正しい」と証明してほしいから。
血液型占い・動物占い・性格占いに興じるのは日本人の特徴。血液型占いは大正時代に古川竹二という心理学者が考え出した。
(著者は「科学的な根拠がない」から信じないと書いているけど、私は統計学問としてなら同じだと思う部分もあるけどな。
何を言っても「当たってる」と思うのは、「分かりやすい」から。
市販されてる占い本をシャッフルして「あなたの性格です」と言うと「当たってる」と言う人が多かったという実験もある。
人は何を言われても思い当たってしまうということ。
「よく当たる本だ」と持ってきた時点で、現実よりも本が教えてくれることのほうが正しいと錯覚している可能性が高い。
●私って二重人格?!
2人以上の「私」を使い分けるのは必要。
「こんな人になりたい」という像も、矛盾した形で複数持っているもの。
文化の共有で誤解は減る「スキーマ」
「私を分かってほしい」と思う相手は、自分が好意を持っている場合。
「慣れ」は様々な現象の複合体。言語的知識、文化的知識、社会的知識の増加。
「スキーマ」
もとは仏語で「図面・図式」の意。何かの枠組みのこと。
例:「目が赤いよ」と言えば白目部分が赤い、「目が青い」といえば黒目部分だと伝わるのは、
目に関する共通のスキーマを互いが持っているから成立する。
人は経験から作られた膨大な数のスキーマを蓄えている。
誤解の中でも情報伝達における誤解は、スキーマのズレから生じていることが多い。
受け手が送り手より優位だと、送り手の未熟な情報を受け止め、正しく解釈してあげられる。
例:子どもが「米からメが出た」と言った時、大人なら「目」ではなく「芽」だと判断できる。
人は情報を自分のスキーマに当てはめて解釈する。
情報理解は、そこに「腑に落ちる」体験があって初めて「わかった」と実感でき、記憶される。
厄介なのは、いったん記憶すると、実際の情報と、自分の推測の区別がつかなくなること。
「腑に落ちない」情報に出会うと、自分で腑に落ちる形に推測して記憶してしまう。
噂の尾ひれはこうしてつけられる。
相手のスキーマを見極めることが、人間関係の肝。
食習慣の否定は人格否定に繋がる。例:「卵には醤油」「いや、マヨネーズでしょ!」w
「他人は他人でいいんじゃない?」という現代の若者でも食習慣の否定には要注意
年齢のギャップがスキーマのズレを生んでいることが多いので配慮が必要。
「常識」なんて存在しない?
常識は、誰にでも通じるもののはずが、実は個人的なもの。その最小単位は「家庭の躾」で受け継がれていく。
躾の目的は?
1.人前で恥をかかない
2.他人に不快感を与えない
3.行動の効率を上げる
常識は人の数ほどある。それとは別に、明文化された社会的ルールもある。例:病院内で携帯電話は使用しない など。
●外見か、内面か?
人は、滲み出たものを見て、相手の性格を判断・推測している。
何に性格が滲み出るかというと、その人の発言や行動であって、それらは外から見えるもの。すなわち「見た目」。
みんな自分の推測に自信を持っている。それで混乱、苛立ちが起きる。
「人は見かけによらない」
外見で判断したつもりになっていると真実を見逃す。
そもそも人は外見と内面はリンクしているというスキーマを保持している。
差別とは、持って生まれた不可抗力の条件によって不利な扱いを受けることであって、
好きで顔や髪の色を変えた人が抗議に用いる言葉ではない。
必要以上に外見を飾らないのは、逆にものすごく外見を気にしているからでは?
例:
Aさんから見た「彼」は人格者。Bさんから見た「彼」は人でなし。
情報の送り手(彼)と受け手(A・B)との相互作用が存在する。
受け手の好み、性格が違う場合(悪口を言わない人、文句たれ)or彼が2人の前で態度を変えている場合もある。
私の中の大人と子ども:「エゴグラム」
世の中の「心理学」と「精神分析」のイメージは重なっている。
堀田さんの持論では、「精神分析」は科学性に欠け、主観的過ぎるという点で学問に入らない。
心理学の父はフロイト、ユングではなく、ヴントというお医者さん。フロイトは異端児だった。
心理学の分野はとても広く、こっちの分野の人は、あっちの分野のことは分からないということがある。
人は複数の側面を状況に応じて使い分けている。
それを理論家したのがアメリカの精神科医バーンの「交流分析」。
バーンは人のココロを3つに分類し、それぞれのココロを「自我」「自我状態」と呼んだ。
それを分かりやすく数値で表したのが「エゴグラム」。
P:Parent 親
A:Adult 大人
C:Child 子ども
これを組み合わせた5つの自我状態
【CP】批判的な親:道徳的な躾に結びつく、誰かを批判、責める、意見を押しつける時に出てくる。
【NP】養育的な親:同情、世話焼き、思いやり、優しさ、過保護、おせっかい。←もっとも人当たりがよく、付き合いやすい自我状態
【A】大人:理性、客観的事実で物事を判断する。
【FC】自由な子ども:本能、遊ぶ、騒ぐ時。
【AC】順応した子ども:諦めたり、建前を口にする。
●5つの自分を上手に使い分ける
どれを前面に出すかではなく、その結果、他者との交流にどう影響を及ぼすかが問題になる。
発信者がターゲットとした自我状態から返信されないと交流がうまくいかない。
離婚した女性に聞くと、夫にP(親人格)を求めていたにも関わらず、
男は結婚するとC(子ども人格)ばかり使って、パートナーに母を求める傾向があることが原因という場合が多い。
「見えるものしか信じるな」というのでなく、「見えないものを洞察する」ことが大事。
可視的・客観的な事実から、どれだけ多くの可能性を推測できるか。
そして、どこまでが事実で、どれが推測かを、きちんと把握していること。
「不細工だからモテないんだ」などの一点突破を目指すかぎり道は遠い。
注意すべきは、その推測の幅の狭さ。推測の中から正しい答えを見つけるには?
●表情や仕草は意外と正直
ウソが上手い人も表情や仕草に表れる。
自発的に謝らない子どもの親の2つのパターン
1.開き直るタイプ
2.親が代わって謝るタイプ
そこから子どもが学ぶのは、「大人は騙せる」「他人の痛みに対して謝罪しなくても許される」ということ。
●真実は人の数だけある
誰も意図的にウソを吐かない。語られたのは三者三様の真実。
「何が真実か」より「何を信じるか」。信じるも、信じないも、決めるのは「私」。
そこに関わるのは、本人の意志。推測というより「信念」。
いったん意志を決定すると、それが事実ではないことを忘れてしまう。
「一時的情報」に関しては、真実が身を守るため。真実を知りたいと思うのは本能。
ウソ
多くのウソは、「保身」が目的。
傷つけてしまうのは副産物であり、主目的ではない。(これは同意するな。弱い犬ほどよく吠える的な
●頼りにならない感覚
人の知覚はあまり精密ではない。例:見間違い、聞き違い。
「錯視」:ミューラー・リヤー、エビングハウス
●ここまで出てるのに、思い出せない
「干渉説」
「せっかく覚えたのに寝ると忘れちゃう」のはほかの精神活動の干渉を受けたから。
でも実際は、睡眠をとった人と、とらなかった人を比べると、とらなかったグループのほうが記憶テストの成績は低い。
「検索失敗説」
忘れたのではなく、思い出せないだけ。
記憶を測る方法は「再生」と「再認」がある。
「再生」:すべて自力で思い出すこと。
「再認」:提示されたものの中に課題があったかどうか判断する。
記憶はカンタンに変化する
「プレグナンツの法則」
1.常態化:馴染みのあるものに類似した方向への変化
意味の有無は、記憶の保持に大きな影響を及ぼす。→自分が知っているものに事実を変えてしまう。
2.強調化:特徴の誇張
「思い出は美化される」など。
3.構造的変化:歪んだ図形の補正
敢えてつじつまの合わない文章を聞かせると、修正されて記憶される。
こうみていくと、「言った、言わないの言い争い」がムダなことだと分かる。
3種類の認知
1.対物認知
2.対人認知(自分に対する理解も含まれる
3.対人間関係認知
「バランス理論」byハイダー、ニューカム
事物Xを媒介にした、Aさん、Bさんのバランスで考えた時、
Xに対する2人の態度が同じ時は、2人の関係は良好。(同じものが好き
良好なら、違うならとして、3者の積がの時、関係は安定、なら不安定となる。
例:
AさんがBさんにプレゼントXをした。
・Bさんが気に入った:で安定
・気に入らなかった:で不安定
さて、どうするか?
解決1.A−B間をにする:Bさんを嫌いになる。
解決2.A−X間をにする:プレゼントを否定する。
解決3.B−X間をにする:これは不可能だが、「今日はBさんの体調が悪かったんだ」「照れているんだ」と解釈すれば安定となる。
ココロは言葉にして伝えよう
心理学は結局「個人の問題」に還るもの。見えないものをデータから推測する以上「絶対」ということはない。
これらの理論は人を集団としてとらえた場合で、1人1人は異なる。
「以心伝心」「言わなくても分かって欲しい」は甘え。
保身のためについたウソは責めずに、許し、許した自分を好きになる。
●離婚原因の第1位は「性格の不一致」
性格が完全に一致するということはあり得ない。
パートナーが自分を誤解していると感じると訴えた時、パートナーの行動を2つに大別すると、
1.「僕には分かっているよ」→優しいけど、相手の言い分に耳は貸さないタイプ
2.「君だって誤解してるよ」→駄々をこねるタイプ
ズレがあっても小さい場合、片方が我慢強い場合は、関係の消滅には至らない。
ズレが許容範囲におさまっていればいい。
「誤解されている」という思いから生じるデメリットと、誤解をいちいち解くことに費やすエネルギーを秤にかけて、
無駄なエネルギーは使わないでおこうと考えるのが得策。
「私」は、常に誤解されている。「私」も、常に誤解している。
根拠のない悪意はない。悪意の素となったことを明らかにする。複数人が同じ誤解をしているようなら考慮する必要があるかも。
例:「怒ってないのに、怒ってると言われる」
→声を小さく、言い方を柔らかくしてみるなど。
相手に言う場合は「もう少し小さな声でも聞こえるよ」「もっと優しく言ってくれないと、怖いよ」
子どもは「観察学習」によって、親のすることを真似て育つ。
自分と他者の関係が1対1なら歩み寄りは可能。
少数派vs多数派の場合は、少数派の意見が認められる可能性は低くなる。
多数派が常に正しいとは限らないが、正しいか否かの問題ではなく、社会が認めるかどうか。
鏡、写真、他人の指摘によって、人はイメージの中の自分と、現実の自分の落差を自覚する。
誤解に気づいた時の対処例
1.自分を変える。
2.誤解を解く。
3.見て見ないふり。
一番建設的なのは1。それは、積極的に「私」を理解しようという動きにもなる。
私が私を理解するには、他人の言い分に耳を貸すことも必要。
もっとも辛いのは、誤解の根源が自分であると理解すること。誤解されるような言動をしたと自分が認めること。
だからと言って、自分が悪いわけではないということ。
何の悪意もなくしたことが、たまたま相手の物差しに合っていなかっただけ。
嫌なところもあるけど、やっぱり私は私が好き。まず「私」を誤解しないこと。
なんだか感想メモも散漫な感じだな
ちなみに、エゴグラムは大体昔からM型になる傾向にあるんだけど、
「時間の経過で変わる」って書いてあったから、もう一度やってみたら、FC(奔放な子ども)だけ低くて、あとはどれも高かったな。
自分が思ってる自分よりも、他人や自分自身にも厳しいってことなのか???