図書館で借りたCDシリーズ。
▼time goes on/真心ブラザーズ
「1995年発売された1枚目のミニ・アルバム」(ウィキ参照
♪サマーヌード をCDで聴くのも、なんだか新鮮。基本的にはライヴのMB's ver.と同じだけど。
▼The Swinging Star/DREAMS COME TRUE
♪決戦は金曜日 が聴きたかったv いつ聴いてもテンション上がる
まだ聴いてなかったユーミンシリーズ。ほんと、知らない曲がたくさんあって、新鮮/驚
▼紅雀/松任谷由実
▼時のないホテル/松任谷由実
タイトル曲はたしかオリラブの田島さんのカバーで聴いた。♪Hotel California/Eagles の世界だな。
▼水の中のASIAへ/松任谷由実
▼PEARL PIERCE/松任谷由実
▼Queen(戦慄の王女)/Queen
なぜか肝心のファーストオリジナルアルバムを借りてなかったことに気づいた
【河合美穂さんによるライナーノーツ抜粋メモ】
始めはどこにでもあるアマチュアバンドだった。
当時ブライアンが大学院生として在籍していたインペリアル・カレッジの講堂をタダで借りて、
リハーサルをしたり、友人たちを集めてギグの真似事をしたりして喜んでいた。
バンド名すら決めていなかったが、ある日フレディが「クイーン」という名を思いついた。
「とても堂々としていて風格もあるし、それでいてシンプルで覚えやすい。
いろんな風に解釈できるし、世界的にも通用する名前だしね」と自分の発案に大満足だったが、ロジャーは首を傾げた
「クイーン」には「男性同性愛者の女役」という英俗語の意味があったからだ。
多少“ファンキー”な性格のロジャーがそうだったのだから、清廉潔白、生真面目が服を着てハンドメイド・ギターを弾いているようなブライアンに至っては露骨に反対の意を唱えた。
だが、他にこれといった名前も思いつかないまま、活動を続け、ついにはブライアンすら慣れてしまって
「結構良い名前かもしれない」などと思い始めた。
本格的に音楽活動を始めるには足りないものがもう1つ残っていた。ベース・プレイヤーである。
それまでは、その場限りのベーシストを雇ってしのいできた。
3人のクイーンは、自分たちの音楽的ポリシーに合致しなければ一緒にはやれないと思っていた。
フレディが後にいたずらっぽく「古き良きハリウッドの夢の復活」と笑ったが〜を共に築いていくことのできる才能と出会えたのは1971年。
7人目のオーディショナーだったのがディーコンだったというのは今や伝説的である。
友人の紹介で、デ・レーン・リー・レコーディング・スタジオの新しい音響機材をテストし、
同時にスタジオを若い顧客、エンジニアたちにアピールするためのスタジオ・デモをする仕事にありついた。
実際はノーギャラだが、スタジオの機材を無制限に、タダで使えるという報酬を得て、
彼らは嬉々としてデモテープ作りに没頭したことは想像に難くない。
ある日、ロジャーはかつて「スマイル」時代にプロデュースしてくれたジョン・アンソニーのつてで、
トライデント・スタジオのエンジニア、ロイ・トーマス・ベイカーに電話し、彼がスタジオにやって来た時、
クイーンは♪炎のロックン・ロール を演奏していた。その瞬間は、彼は気に入り、即刻トライデント社に紹介。
トライデントは、後にとある理由からファンには悪名高い存在となるアメリカ人マネージャー、ジャック・ネルソンを奔走させる。
クイーンは英EMIと契約を交わすが、「戦慄の王女」は、最初のテイクがレコーディングされてから約1年半後の1973年に発売された。
当時のクイーンは、20代前半、長髪にメイクもなまめかしく、ドレッシーなヒラヒラ衣装をひるがえすエキセントリックな美形バンドだった。
フレディは、Tシャツにジーンズなどという「小汚い」格好でステージに上がることを断固として拒否した。
だが、音楽以外のイメージがクイーンを完全に誤解させてしまった。
当時好意的だった数少ないレビューですら、「沈滞しつつあるグラムロックの救世主」として褒めてくれた。
嫌悪派に至っては、まさにボロクソという表現が適切である。
評論家のコメントを初めはひどく気に病んでいたが、ギグに足を運んでくれるファンの熱心な声援に支えられ、次第に持ち前の自信を取り戻す。
最初に正当に注目されたのは、ブライアンの有名なハンドメイド・ギターである。
エンジニアの父とともに63〜64年にかけて製作した「レッド・スペシャル」と呼ばれるこのギターは、
30年経った今も現役で、ソロステージでも拝むことができる。
その後、『クイーン?』のヒットに引っ張られてデビューアルバムもじわじわと売れ始めることになる。
彼らは当時契約したばかりのパブリシティマン、トニー・ブレインズビーのオフィスにいきなりポラロイド写真を持ち込み、
「プロモーションには、この写真を使って欲しい」と要求した。
デビュー前の新人がやるにしては随分と小生意気な所作だったかもしれないが、
クイーンは自分たちのヴィジュアルなイメージを初めからキチンと持っていた。
コメント:“Nobody Played Synthesizer”
▼Live Killers/Queen(2枚組)
アコースティックな♪'39 をメンバ全員が前に出て演奏する前に、ブライアンがメンバ紹介で、
フレディのことを「マラカス担当(だっけ?)あと、たまに歌ってます」などとゆってるのが可笑しい。
▼AT THE BEEB(女王凱旋! 戦慄のライヴ・クイーン)
【ライナーノーツ抜粋メモ by東郷かおる子】
東郷さんが初めてクイーンのライヴを観たのは、まさにモット・ザ・フーブルのサポートで回ったアメリカツアー!
それ以前から気になっていたため、いきなりインタビューを申し込んで実現したのも運命的。
その後「ミュージック・ライフ」が、日本市場においてクイーンを大プッシュした。
このアルバムは、1973年のBBC放送でのスタジオライヴ。
[クイーン結成まで]
母体は「スマイル」。歯科の学生だったロジャー(!)、天文学を学んでいたブライアン(!)が中心となって1968年に結成。
ヴォーカルはティム・スタッフェルで、シングルを1枚出して解散。
その後、ロンドンのアンティーク・マーケットでフレディとロジャーが店を出していた関係から再度バンドを結成。
直後にベーシストとしてチェルシー大学の学生ジョンが参加し、1971年に出発。
当時は、大人気だったツェッペリンのようにヴォーカルとギターのコンビネーションを軸にしたサウンドを目指していたという。
1974年に初来日。新人としては当時異例の武道館でのライヴを大成功させた。
♪ボヘミアン・ラプソディ の大ヒットによって、日本、世界へとスターダムを昇っていった。
一時、メンバのソロ活動が目立ち、解散説も囁かれた1985年の「ライヴ・エイド」への参加で、再びバンド活動を再開。
デビュー以来17年間、常に華麗な夢をファンに与え続けて来たクイーンに終わりはない。
これを書いた東郷さんが、その後のフレディの死をどう受け止めたか想像すると、少し悲しくなった。
▼Coney Island Baby+6/LOU REED
タイトル曲はもちろんのこと、ライヴ盤の♪Nowhere at All は何度聴いても脳の血が騒ぐ1曲。
【ライナーノーツ抜粋メモ】
リードは、確かにパンクスたちに多大な影響を与えたオリジネーターなのだが、
実はニューヨークで生まれ育った一人のシンガー・ソングライターでもある。
それを強く感じさせてくれるのが本作なのだ。
どの曲からも感じられるのは、骨の髄までの都市生活者であるルーの持つ、醒めた眼差しである。
曲の大半は明るい雰囲気をもっているが、そうしたあちこちに、
共同体を離れ、一人で生きていかざるを得ない都会人の持つ根源的な寂しさのようなものが貼りついている。
75年には、ライヴ『ロックン・ロール・アニマル』に未収録の同日の音源を集めて『Lou Ren Live』がリリースされるが、
これはルーが発表を拒んだにも関わらず、RCAレコーズの強引な要請で世に出てしまい、ルーは不信感を抱く(大好きなライヴアルバムの1つだけどな
▼Music from Big Pink/The Band
ザ・バンドの音楽は、まさにこのピンク色の小屋から始まった。
なぜか、何年も前からずぅっと貸出中だったから、紛失でもしたんだろうと諦めてたんだけど、
「閉架」となってるから、データベースでも間違っていたのか???
▼time goes on/真心ブラザーズ
「1995年発売された1枚目のミニ・アルバム」(ウィキ参照
♪サマーヌード をCDで聴くのも、なんだか新鮮。基本的にはライヴのMB's ver.と同じだけど。
▼The Swinging Star/DREAMS COME TRUE
♪決戦は金曜日 が聴きたかったv いつ聴いてもテンション上がる
まだ聴いてなかったユーミンシリーズ。ほんと、知らない曲がたくさんあって、新鮮/驚
▼紅雀/松任谷由実
▼時のないホテル/松任谷由実
タイトル曲はたしかオリラブの田島さんのカバーで聴いた。♪Hotel California/Eagles の世界だな。
▼水の中のASIAへ/松任谷由実
▼PEARL PIERCE/松任谷由実
▼Queen(戦慄の王女)/Queen
なぜか肝心のファーストオリジナルアルバムを借りてなかったことに気づいた
【河合美穂さんによるライナーノーツ抜粋メモ】
始めはどこにでもあるアマチュアバンドだった。
当時ブライアンが大学院生として在籍していたインペリアル・カレッジの講堂をタダで借りて、
リハーサルをしたり、友人たちを集めてギグの真似事をしたりして喜んでいた。
バンド名すら決めていなかったが、ある日フレディが「クイーン」という名を思いついた。
「とても堂々としていて風格もあるし、それでいてシンプルで覚えやすい。
いろんな風に解釈できるし、世界的にも通用する名前だしね」と自分の発案に大満足だったが、ロジャーは首を傾げた
「クイーン」には「男性同性愛者の女役」という英俗語の意味があったからだ。
多少“ファンキー”な性格のロジャーがそうだったのだから、清廉潔白、生真面目が服を着てハンドメイド・ギターを弾いているようなブライアンに至っては露骨に反対の意を唱えた。
だが、他にこれといった名前も思いつかないまま、活動を続け、ついにはブライアンすら慣れてしまって
「結構良い名前かもしれない」などと思い始めた。
本格的に音楽活動を始めるには足りないものがもう1つ残っていた。ベース・プレイヤーである。
それまでは、その場限りのベーシストを雇ってしのいできた。
3人のクイーンは、自分たちの音楽的ポリシーに合致しなければ一緒にはやれないと思っていた。
フレディが後にいたずらっぽく「古き良きハリウッドの夢の復活」と笑ったが〜を共に築いていくことのできる才能と出会えたのは1971年。
7人目のオーディショナーだったのがディーコンだったというのは今や伝説的である。
友人の紹介で、デ・レーン・リー・レコーディング・スタジオの新しい音響機材をテストし、
同時にスタジオを若い顧客、エンジニアたちにアピールするためのスタジオ・デモをする仕事にありついた。
実際はノーギャラだが、スタジオの機材を無制限に、タダで使えるという報酬を得て、
彼らは嬉々としてデモテープ作りに没頭したことは想像に難くない。
ある日、ロジャーはかつて「スマイル」時代にプロデュースしてくれたジョン・アンソニーのつてで、
トライデント・スタジオのエンジニア、ロイ・トーマス・ベイカーに電話し、彼がスタジオにやって来た時、
クイーンは♪炎のロックン・ロール を演奏していた。その瞬間は、彼は気に入り、即刻トライデント社に紹介。
トライデントは、後にとある理由からファンには悪名高い存在となるアメリカ人マネージャー、ジャック・ネルソンを奔走させる。
クイーンは英EMIと契約を交わすが、「戦慄の王女」は、最初のテイクがレコーディングされてから約1年半後の1973年に発売された。
当時のクイーンは、20代前半、長髪にメイクもなまめかしく、ドレッシーなヒラヒラ衣装をひるがえすエキセントリックな美形バンドだった。
フレディは、Tシャツにジーンズなどという「小汚い」格好でステージに上がることを断固として拒否した。
だが、音楽以外のイメージがクイーンを完全に誤解させてしまった。
当時好意的だった数少ないレビューですら、「沈滞しつつあるグラムロックの救世主」として褒めてくれた。
嫌悪派に至っては、まさにボロクソという表現が適切である。
評論家のコメントを初めはひどく気に病んでいたが、ギグに足を運んでくれるファンの熱心な声援に支えられ、次第に持ち前の自信を取り戻す。
最初に正当に注目されたのは、ブライアンの有名なハンドメイド・ギターである。
エンジニアの父とともに63〜64年にかけて製作した「レッド・スペシャル」と呼ばれるこのギターは、
30年経った今も現役で、ソロステージでも拝むことができる。
その後、『クイーン?』のヒットに引っ張られてデビューアルバムもじわじわと売れ始めることになる。
彼らは当時契約したばかりのパブリシティマン、トニー・ブレインズビーのオフィスにいきなりポラロイド写真を持ち込み、
「プロモーションには、この写真を使って欲しい」と要求した。
デビュー前の新人がやるにしては随分と小生意気な所作だったかもしれないが、
クイーンは自分たちのヴィジュアルなイメージを初めからキチンと持っていた。
コメント:“Nobody Played Synthesizer”
▼Live Killers/Queen(2枚組)
アコースティックな♪'39 をメンバ全員が前に出て演奏する前に、ブライアンがメンバ紹介で、
フレディのことを「マラカス担当(だっけ?)あと、たまに歌ってます」などとゆってるのが可笑しい。
▼AT THE BEEB(女王凱旋! 戦慄のライヴ・クイーン)
【ライナーノーツ抜粋メモ by東郷かおる子】
東郷さんが初めてクイーンのライヴを観たのは、まさにモット・ザ・フーブルのサポートで回ったアメリカツアー!
それ以前から気になっていたため、いきなりインタビューを申し込んで実現したのも運命的。
その後「ミュージック・ライフ」が、日本市場においてクイーンを大プッシュした。
このアルバムは、1973年のBBC放送でのスタジオライヴ。
[クイーン結成まで]
母体は「スマイル」。歯科の学生だったロジャー(!)、天文学を学んでいたブライアン(!)が中心となって1968年に結成。
ヴォーカルはティム・スタッフェルで、シングルを1枚出して解散。
その後、ロンドンのアンティーク・マーケットでフレディとロジャーが店を出していた関係から再度バンドを結成。
直後にベーシストとしてチェルシー大学の学生ジョンが参加し、1971年に出発。
当時は、大人気だったツェッペリンのようにヴォーカルとギターのコンビネーションを軸にしたサウンドを目指していたという。
1974年に初来日。新人としては当時異例の武道館でのライヴを大成功させた。
♪ボヘミアン・ラプソディ の大ヒットによって、日本、世界へとスターダムを昇っていった。
一時、メンバのソロ活動が目立ち、解散説も囁かれた1985年の「ライヴ・エイド」への参加で、再びバンド活動を再開。
デビュー以来17年間、常に華麗な夢をファンに与え続けて来たクイーンに終わりはない。
これを書いた東郷さんが、その後のフレディの死をどう受け止めたか想像すると、少し悲しくなった。
▼Coney Island Baby+6/LOU REED
タイトル曲はもちろんのこと、ライヴ盤の♪Nowhere at All は何度聴いても脳の血が騒ぐ1曲。
【ライナーノーツ抜粋メモ】
リードは、確かにパンクスたちに多大な影響を与えたオリジネーターなのだが、
実はニューヨークで生まれ育った一人のシンガー・ソングライターでもある。
それを強く感じさせてくれるのが本作なのだ。
どの曲からも感じられるのは、骨の髄までの都市生活者であるルーの持つ、醒めた眼差しである。
曲の大半は明るい雰囲気をもっているが、そうしたあちこちに、
共同体を離れ、一人で生きていかざるを得ない都会人の持つ根源的な寂しさのようなものが貼りついている。
75年には、ライヴ『ロックン・ロール・アニマル』に未収録の同日の音源を集めて『Lou Ren Live』がリリースされるが、
これはルーが発表を拒んだにも関わらず、RCAレコーズの強引な要請で世に出てしまい、ルーは不信感を抱く(大好きなライヴアルバムの1つだけどな
▼Music from Big Pink/The Band
ザ・バンドの音楽は、まさにこのピンク色の小屋から始まった。
なぜか、何年も前からずぅっと貸出中だったから、紛失でもしたんだろうと諦めてたんだけど、
「閉架」となってるから、データベースでも間違っていたのか???